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第三十四話 太陽と月に背いて



 暗夜――であった。

 上天高く、寂しげに輝いていた月は、今や陰気な叢雲(むらくも)に阻まれ、孤独の海の底にある。
 追想は溜息に()けて夜気に()み渡り、アスファルトを(こす)る靴音が、その残滓(ざんし)を掻き消した。

 塗りたくられた油絵具のような分厚い雲を見上げるは、黒曜石にも似た、黒く(つや)めいた瞳。
 やや釣り気味の目元や、まだ化粧を知らぬ薄桃の唇は(いとけな)さを残しながらも、物憂(ものう)げな表情はわずかに大人びている。
 外側に跳ねた金髪と、女性用の学生服。
 その少女――リミル・ティセリウスは、故郷から遠く離れた日本の(さび)れた道路に、一人立っていた。

 寂寞(せきばく)とした宵に、追憶の余韻が揺らぐ。かつてあった、出会いの日――そして、未だ克明に思い出せる、数時間前の一幕。
 あの時に見た双頭獣“オルトロス”と、(うつせ)が撃った人間が変質した、黒い魔物。一瞬の事だったが、その僅かな観測結果から持てる推測は、確信に近い。
 あれは……亜存在だ。

 だが、問題はその正体ではない。確かに起きた“現象”そのものだ。
 (すなわ)ち――人間が、亜存在に変貌したと言う事実。
 あの一瞬の出来事から、どういった物理的反応が起きたのかは、リミルの知識量では解らない。いや、見たところで誰にも解らないからこそ、現はあれを躊躇(ちゅうちょ)なく皆に見せたのだろう。
 しかし、“原因”と“結果”――“何をしたから、何が起きたのか”という一点に()いては、迷う余地なく明らかだった。あの男は、撃たれ、亜存在になったのだ。

 ――自分も、ああなる可能性があるのだろうか?

 自分だけでなく、友や肉親も、何か(まか)り間違えば、ああなってしまうのだろうか?

 幼い時より完璧を求め、知識と技術の吸収を止めなかったリミルは、反面、“未知”に対する恐怖や不安を、人一倍強く感じてしまう。そう自覚してはいるが、認識したところで恐怖が治まるわけではない。
 これは、一歩間違えば、(うつ)に飲み込まれやすい性格だ。故に、彼女は理論と理屈で心を固め、行動に感情の介入する余地を無くす。
 しかし――理論や理屈で計れない現象が、実際に目の前で起きてしまった時は、どうしたらいいのだろう。

 理性と本心が食い違い、その軋轢(あつれき)は心を(ひず)ませる。
 ()んだ夜の中に、(こだま)する靴音。一つ、二つ――不自然に思い、立ち止まってからも、三つ。

 直後、背後から急激に接近する気配に、リミルは即座に反応することができなかった。
 近付いてくる足音に向けて、上体を逸らすように振り返る。しかし、遅い。リミルがそれを視認するより前に、影は至近距離にまで肉迫していた。凶暴な番犬が獲物の喉笛を狙うが如く、身体を(しな)らせ襲い来る――薄桃色の閃光。

「イヤーッ!」
「グワーッ!?」

 テンプレート的な声をあげながら、ルナは両腕を広げてリミルの胸に飛び込んだ。その運動エネルギーを全て受け止めた彼女は、危うく転びかけ、慌てて蹈鞴(たたら)を踏む。

「る、ルナ……! なんでこっちに……」
「ふふふーん、隙だらけだよリミルちゃーん」

 莞爾(かんじ)とした笑みを浮かべ、ルナはリミルの身体を抱きしめた。
 彼女に悪気があるのか否かは不明だが、それはリミルが“極めて個人的かつ俗的な敗北感”に(さいな)まれる行為だ。これで十六歳とは全く末恐ろしい。ちくしょう滅びろ。

「ど、どしたのリミルちゃん、なんか唐突に悟りを開ききったような表情になったけど」
「あっ……い、いや、何でもないよ」

 はっとして笑顔を取り繕い、リミルはルナの肩にぽんと手を置く。彼女はそれで納得がいった風ではなかったが、小首を傾げながらも、それ以上を問いはしなかった。
 そんなことより、こちらにも疑問がある。彼女が自宅へと帰る気でいるなら、通る道が違うはずだ。
 なのに何故、この――リミルの家に続く道に彼女がいるのか。そう問い直そうとした時、ルナのさらに向こう側から、三人目の声が響いた。

「ルナ、あんま無闇に人に向かって突進するなよ。反動ダメージで死ぬぞ」

 声のした方を見れば、曖昧に笑いながら、ゆっくりと歩くライトの姿。
 確かに、彼ならこの時間に妹を一人で出歩かせたりはしないだろう。ルナがここにいるのなら、彼も同じ所にいるのは当然の道理だ。

「それと、そういう戦闘力の差をまざまざと見せつけるような真似は可哀想だからやめてあげようね」
「う、うっさいよ! なんでキミにそんな事気にされなきゃいけないんだよっ!」
「諦めるなリミル、MS(モビルスーツ)の性能の違いが戦力の決定的差でないことを教えてやれ」
「もういいよ畳み掛けるなよ! あと結局その台詞言った後ホントにMSの性能差見せつけられて若干うろたえてるだろシャア!」

 ライトはいつも通り、軽い調子でリミルをからかいながら、ツッコミを華麗に受け流していた。
 当の話題で何故かガンダム扱いされているルナは、二人が何を言っているのかよく解っていないらしく、わかりやすく頭上に「?」(疑問符)を浮かべて、再び首を傾げる。どうやって出してるんだろう、アレ。

 いろいろな感情を()()ぜにして、溜息一つに込めて吐き出す。……胸については言うほど気にしているわけではないが、やっぱり、無いよりはあった方がいいんじゃないかなぁ、とは思う。
 いや、今はそんな事などどうでもよい。リミルは余計な思考を払い、口を開こうとした――が、いつの間にか隣にまで来ていたライトに突然頭を()でられ、思わず面食らって口(ごも)る。

「こんな時間だ、家まで送ってやるよ」

 呆気(あっけ)にとられ、数秒。
 そう言っておきながら、さっさと先に進んでしまう彼らに、慌てて駆け寄り並ぶ。
 有難い提案ではあったが、露骨に安堵するような素振りは見せないように、冷静を装いながら。

「ぼ、ぼくってそんな頼りないかな。不審者の数人ぐらいなら出ても撃退できるよ」
「オバケは撃退できないだろォけどな」
「ぐっ……う、うるさいよ!」

 とまあ、そんな装いも、数秒で決壊した。
 いや、もうここまで把握されているのなら隠す必要もないのだが……だからと言って、正面から堂々と甘えるのも自分らしくないと思う。
 そんな感情の動きも、恐らく見抜いているのだろう。ライトは普段通りの、曇りない笑顔で答える。

「俺も大丈夫だとは思ってるさ。つっても、万一の事があるってルナが心配してたもんでね」
「えー、お兄ちゃんが心配してたから私が言い出したんだよぉ」
「あァ、そうだったかもな」

 どうやら一応、心配されていたらしい。帰路の安全をではなく、あれを目の当たりにしたリミルの心境を、だ。

「……とりあえず、ありがと、二人とも」
「おう、お前にしちゃあ素直じゃねーか」
「ふん、キミは素直じゃないけどねっ」
「そう言うなって」

 安心させようと思っているわけではないだろう。彼はリミルの不安を煽って面白がることはあっても、こういう時に、無責任に安心させてくれはしない。自分すら騙せないような虚言(きょげん)(ろう)しはしない。
 そう、あの光景を見たのなら、そんな言葉は冗談でも言えやしないのだ。
 恐らく、彼ら二人がここに来た理由――わざわざ学校から離れた場所で、合流を遅らせてまで話をしにきた理由は、心配の他にもう一つ。
 ライトは(しば)沈思黙考(ちんしもっこう)する素振りを見せ、程なくして、両の目を伏せたまま口を開く。

「素直ついでに、意見が聞きたいんだけどよ――あの黒い影、お前はどう見る?」

 推測は大当たり。当然、この質問が来ると思っていたリミルは、(あらかじ)め用意していた答えを返した。

「どうもこうも、証拠として足る情報は揃ってる。同一と見ていいだろうね」
「やっぱ、俺だけの思い違いじゃなさそうだな」

 同一、とは、当然あの時、ドイツの山中で見た“オルトロス”と、今日の“影”は同じものであると言う意味だ。
 それまでライトの少し後ろを歩いていたルナが、小走りに前に出て、リミルの顔を覗き込む。その金色の眼差しは、いつもの明るくお気楽な表情とは打って変わって、冷たく理知的な光を湛えていた。

「私の目算だけど、あの時生じた重力場異常による空間歪曲(わいきょく)は、“オルトロス”の周囲に生じていたそれと酷似したパターンを描いてる。それと、あの直後にこっそり走査(スキャン)したけど、特殊なエネルギー放射の残滓が見つかったよ。データベースにあるうちだと、これは最近の時空間力学研究に使われるクロニトン粒子の放射波形にほぼ一致する」
「……そ、そこまで確認してたんだ、ルナ……」
「私もレイの助手だったからねっ、気になるとこは気にしちゃうんだ」

 そう言いながら、彼女は照れた様子で相好(そうごう)を崩した。
 そんな彼女の姿を見ると、胸に(もや)がかかったように苦しくなる。――理由については、あまり考えたくはない。

「何にせよ、俺らは恐らく想像以上に、事態の核心近い所にいるってこった。あんな化物、ここ数ヶ月だけで二回も遭遇していいモンじゃない。これは、俺らが間違って核心に(まぎ)れ込んじまったってよりは“人為的に紛れさせられた”可能性の方が高い……と、思う」

 推測に過ぎないが、と、彼は付け足した。
 確かに、動かぬ証拠となり得る事項がない以上、それは憶測の域を出ない。現状を見て、彼がそう思っただけに過ぎない……が、“そう考えた方が妥当性が高い”のもまた、確かだ。
 リミルは俯いて、唇を軽く触りながら、眉根を(ひそ)める。

「だとしたら、気をつけても無駄かも知れない……ぼくらが人為的に、何らかの事象に巻き込まれているのなら、それも現の計画のうちだ。きっと……ライト、キミがそう気付くのも、計画のうちだったと見ていい。でなければ彼は、キミに気付かせるだけの情報を与えはしない」
「やっぱり……それだけの男か、あの人は」
「その結論が欲しくて、ぼくに訊いたんでしょ?」
「あァ、八年も前から現の直属だったのはお前だけだからな」

 事も無げにそう語るライトの目を見て、わかった。
 恐らく彼は、現に対して不信や疑念を抱いているわけではない。現を親代わりに育ったリミルの手前、そういった意識を隠しているのかとも思ったが、そうではない。

 それはきっと、単純にして純粋な疑問。目の前に複雑なパズルがあったから解いてみたくなったというだけの、明快な好奇心。
 もちろん、自分たちがそのパズルの一部に組み入れられていることへの不安などもあるだろうが、彼を動かしている最たる原動力は、きっとそんな程度のものだ。
 少しだけ緊張の解けたリミルは、曖昧に笑って、横に伸びた獣の耳をかりかりと掻いた。

「信用は……できると思うよ。あの人がそうするのなら、そうするだけの意味がある。きっとそれが全てのためになる」
「ああ、なんだろうな。お前が言うなら、幾つもその実例があるんだろう。お前も救われたクチだろうし」

 ――そうだ。ここを理解している者は少ないが、現という人間は“本当に”、そういう存在なのだ。
 あれも所詮はただの、一人の人間であるはずなのに、まるで歴史が正しく進むためにやるべきことが()えているかのように、彼の行動は“正しい結末”に直結している。それが何の意味も無いような事であっても、とにかく彼の言う通りにやっていれば、終局的には最良の結果に落ち着くのだ。
 それほどの人間が実在するなんて、恐らく信じがたい事実だろう。リミルだって、実際に八年間も彼を見ていなければ、到底信じられることではない。

 宗教家が神に抱く信仰にも近いその思いを、恐らく()えて肯定(こうてい)しながら、ルナはおずおずと、漏洩(ろうえい)するような台詞を紡ぐ。

「え、と……私達が疑問視してるのはね、現という人自身の目的が何も解らないことなの。彼の最終的な目的が何なのか、いまいち解んないんだもん」

 現自身の――目的。リミルは鸚鵡(おうむ)返しに呟いた。

 飄々(ひょうひょう)と、柔和(にゅうわ)な笑みの仮面をつけて、世界を歩く流離人(さすらいびと)
 (いや)、そんなものではない。あれはもはや、人の形をした、地を歩く計画だとすら言っていい。()るべくして在る、因と果の螺旋。暴風を起こすために、蝶を羽搏(はばた)かせる男。それが彼だ。
 だが……それが一つの計画ならば、何のための計画なのだ? 因果の(まよ)()の果てに、待ち受ける終局とは何なのだ――?

 不思議な事に、こうして問われるまで、リミルはそれに関して考えたこともなかった。ただなんとなく、彼はああやって生き、そして死んでゆくのだと、信じて疑わなかった。
 それは例えるなら、未熟な子供が両親を見るときに、彼らが未だ人生の通過点にいることを、すっかり考えの外に追い()ってしまうことに似ている。父も母も自分と同じ未完成な個体なのだと、どうにも認識できないような、そんな錯覚に。

 はたと立ち止まってしまったリミルを横目に見ながら、ライトは珍しく真剣な面持ちで、台詞を引き継いだ。

「色々と事を起こしているのは確かだが、彼が最終的に何を目指しているのか知ってる奴が誰もいない……ただ闇雲に人助けを繰り返すだけなら、もっと適した場所があるはずだ。技術研究を進めたいなら、それだけやってた方がいい。けどよ、そんなチャチな善意や好奇心じゃ無いだろ、アレは」

 並べられた言葉にこくりと頷き、リミルは顔を上げて、再び歩を進める。

「確かに……あの人が今ある道の向こうに何を見据えているのか、ぼくにも見当がつかない……。盲信は危険かもしれない、けどそれ以外にない。彼の筋書きに反するのは、それ以上に危険なんだから」
「ああ、そこは否定できない。しかし、未来視のような正確な予測、集められる兵隊、目深(まぶか)帽子って所まで……まるで北欧の神様だ。それも少し、縁起の悪い」

 金髪のかかった肩が、ぴくりと震えた。それこそまさに、リミルが帰路についた頃、危懼(きく)を覚えるに至った点だからだ。
 別々の所にいながら、ライトも同じ事を考えていたんだという事実が、どういうわけだか、ちょっぴり嬉しくもある。恐らく自分の思考と同調してくれる相手がいたからという理由だろう。今意識するのもおかしな話だ。
 思考を整理するため少し頭を振って、リミルは改めて額に手をあてた。

「うん。偶然の符合、考え過ぎだ、と吐き捨てることは容易(たやす)い。だけど――」

 言葉と共に視線を送れば、兄妹(ふたり)は台詞の続きを述べた。

「ああ――現が“敢えて”それと解るように、符号させているとしたら」
「それは私達にとって、看過できない事実となる――ってコトだね」

 しん、と夜の静寂が辺りを支配した。
 満ちる夜気が、湿気を帯びて肌に(まと)わりつく。白く明滅する街灯が、頼りなげに三人の顔を照らしている。
 やがて、ライトが(ほの)暗い沈黙を破り、ぽつぽつと呟いた。

「……(いや)な感じだ。掌握(しょうあく)されていながら全てが不明瞭で、ひどく不安を煽る」
「うーん、ぼくはあんまり気にする必要ないとは思うんだけどな」
「あァ、そういう直感的な部分については、八年も一緒にいたお前の方が正しいんだと思う」

 そう言うと、ライトは一瞬、迷うような目を見せて、すぐに顔ごと視線を逸らした。
 行為の不自然さに疑問を抱いて、視線の先を追うも、何ら変わった事物はない。(いよいよ)もって(いぶか)しめば、後頭部に微かな感触。
 一瞬遅れて、それが背中から回された彼の(てのひら)だと理解した。

「万に一つという確率が妥当かどうかは解んねェ。けど、もし何かが起きちまったなら、その時は命令に背いてでもしっかり生き延びろよな」

 今までよりも、たぶん優しく、髪を撫でる指。軽い気持ちで彼に撫でられる事は多かったけれど、今のこれは何か違うような気がして――それでも何が違うのかよく解らず、当惑して、彼と、彼の妹を見遣る。
 兄の表情はよく見えず、妹の方は、何か意味ありげな笑顔を返した。

 ――ああ、なるほど。さっきの不自然な視線の移動は、照れ隠しか。
 なんて、そんな可能性に思い至るまでに要した時間は、ごく僅かなものだった。
 この道化者にも、少しは可愛い所があるじゃないか。リミルは何か、動物の可愛らしい仕草を見た時のような、胸の底が(ほころ)ぶような楽しさを意識してしまい、漏れそうになる含み笑いを慌てて(こら)えた。
 彼は真面目にリミルを思ってくれているのだ。それを動物扱いは失礼に過ぎるだろう。しっかりしろ、自分。

 深呼吸をして頭を落ち着けてから、リミルは、互いの肩が交差するように、彼の頭にも手を遣った。さら、と短い髪の感触が、指の隙間をくすぐる。
 大丈夫、もう冷静でいられる。この時も、きっと自然な笑顔ができたはずだ。

「……ま、そん時は一緒に、ね」
「そーだな」

 どちらからともなく、離れる。
 その間に割って入り、ルナは何故か満足気な笑顔をして、両者と手を組んだ。
 どうかしたのかと訪ねても、結局、家に到着するまで答えてもらえなかったけれど。



 ――彼女が後悔するとしたら、きっとこの時だろう。
 こんな約束を、彼と交わしてしまった事。
 この約束を、彼のために破ってしまう事。

 もし、リミルがこの時、自分の進むべき道を変えられていたのなら。
 彼女は、自ら死を選ばずに済んだのかもしれない。



 夜は深く(とばり)を下ろし、黙して澄み渡る。
 空の叢雲はいつしか晴れ、月は宵闇に浮かぶ神の眼のように、子供達の背を見つめていた。



 [To be Continued.]



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