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第三十三話 Master Of My Destiny



 (ひじり)の視界は赤黒く、霞み、滲んでいた。

 波長の短い光は、大気中の微粒子によって吸収・散乱してしまうため、より直進性の高い光に比べると、自然光に占める割合は必然的に少なくなる。
 自分周辺の“時間の進行”を早めることによって、それまで視覚を形作っていた可視光は波長の長い赤外線になり、波長が短く散乱しやすい紫外線が、可視光に代わる。視界の霞みは、その散乱が原因だろう。
 世界がこんなにも赤いのは、これ以上波長の短い光は、もう殆ど存在しないからだ。
 世界がこんなにも暗いのは、これまで認識していた光のうち殆どが視認できなくなったからだ。

 これは決して、聖自身による影響――精神、思考、願望――そういったものの反映ではない。
 ただの、取るに足りない一つの物理現象に過ぎないのだ。

 誰にともなく証左(しょうさ)を立てるように、心に(くさび)を立てるように、暗い視界を割って貫く、一筋の白糸(しらいと)
 遥か天空に伸びるそれは針よりも細く、しかし膨大なエネルギーの奔流(ほんりゅう)は巨大な光柱(こうちゅう)となって、その姿を覆い隠した。
 割れ響く轟音、激震。
 アブソルート・ヴァイス――この不完全な技によって“消滅”したのは、せいぜい原子一つ分の幅しかない、ごく僅かな空間に過ぎない。
 それでも、“時空間そのもの”を消し飛ばし、エネルギーに変換した際の衝撃は、人間という小さな存在が観測するには、あまりに膨大なものだった。
 木々を()ぎ、雲を散らしながら周囲一帯の空気が吹き飛び、その一部は原子核と電子の結合すら絶たれ、プラズマ化して(ほとばし)る。
 ()いで、生じた真空を再び埋めるために、猛烈な逆風が渦を巻いて吹き荒れた。膨大な気圧の壁は粉塵(ふんじん)を巻き上げて、真空の中心地へと殺到する。薙ぎ倒された木々が、逆向きに()じ曲げられ、()し折れる。

 これほどまでの熱量を“核”に向けて照射されても、あの複合体は、一撃では倒せなかっただろう。
 威力の問題ではない。重合した核を持つあれは、絶対に“一撃”では倒せない。
 だが、消えていた。
 残滓(ざんし)の一つすら無く、まるで小さな影が膨大な光の(かたまり)に掻き消されたかのように、黒き獣は、この世のあらゆる観測可能な領域から姿を消していた。

 そう。消滅せざるを得ない。自壊せざるを得ないはずなのだ。
 何せ――“核の存在していた時空間そのものを、エネルギーに換えられてしまった”のだから。

 今の爆発的なエネルギー放射は、その“時空間”を消滅させたがために生じた、不必要な熱量を“()てた”だけに過ぎない。
 こんな芸当が可能だと、知識から導き出したわけではなかった――と、思う。聖自身、よく理解してはいない。事実として確認できることは、“何故(なぜ)か”それが可能だと確信していたこと、そして、実際にそれが可能だったということだけだ。

 荒れ狂う電磁波や、粉塵を(はら)んだ気圧の刃から身を守っていたシールドを解除して、地面に背を預けたまま、聖は(まぶた)を閉じ、(うつ)口角(こうかく)を上げた。
 天高く掲げていた手の力が抜けて、手の甲が地面を打った。握りしめていたアビスゲートが、(ほど)かれた指の間から投げ出される。

 ぴんと張られた糸の片端が、ふっと手離されたかのように、聖の意識はそこで途絶えた。



「終わった……か?」

 同様に、展開していた輝光壁(シールド)淡青(あお)薄膜(はくまく)を解除しながら、兇闇(まがつやみ)は、伏せていた地面からゆっくりと立ち上がった。

 ぼやけた目で周囲を見渡せば、同じ場所から見るはずの風景は、すっかり変わり果てていた。放射状に(えぐ)れた地面は暴風に(なら)され、倒れた木々には砕けた枝や石片が無数に突き刺さっている。
 まるで、小さな爆弾でも落とされたかのような有様だった。
 今の兇闇が、魔法でここまでの破壊力を出すことは不可能だろう。あのルシフェルでさえ、効果範囲は()(かく)として、この威力を出せるかどうかは怪しいものだ。
 それを、亜人になったばかりの、あの若干十四の少女は――爆心地、シールドに守られて暴風の猛威を逃れた小さな聖域で、力尽きて寝息を立てている彼女は、当然のようにやってのけた。
 破魔剣(はまのつるぎ)、アビスゲート――鐫界器(せんかいき)の力とは、これほどまでに凄まじいものか。彼は小さく身震いをして、改めて嘆息(たんそく)した。

 大量の魔力を消費したであろう聖の状態は気になるが、今の兇闇には、それよりも優先すべき事柄がある。
 彼は周囲に危険が無いことを念入りに確認してから、聖の程近くに倒れているライトの元へと駆け寄った。(かたわ)らにはリミルの姿も見える。最初の衝撃は輝光壁で防いだようだが、背後から吹き戻る風にまでは気が回らなかったのだろう。恐らく石片に体中あちこちが裂かれていたが、どれも(かす)り傷程度のものだ。

「……生きているな」
「あ、ああ……げほっ、何だ、今の魔法……」
「不用意に身体を動かすな。折れているかも知れん」

 素っ気なく言いながら、兇闇は倒れているもう一人、リミルの(そば)に向かい、様子を確認した。
 外傷はライトよりもやや(ひど)いが、見たところ生命に関わるほどではない。瞼を閉じていたので一瞬だけ意識障害を疑ったが、すぐに痛みに顔を(しか)めているだけらしいと(わか)った。呼吸も正常で、目を離せないような状態ではない。
 とは言え、この状態の彼女にあれこれと()くのは酷だろう。念のため注意深く状況を観察しながら、彼はライトに視線を向けた。

「確認が遅れたが、君は理学博士レイ・ローゼンクロイツの助手、ライト・エーベルヴァイン。そっちの彼女は、リミル・ティセリウス……で、間違いないな」
「え、あ、まぁ……間違いない。けど、あんたは結局……?」

 その言葉を遮るように、兇闇は胸ポケットから小さな手帳を出して突き出した。当然、この質問はされるだろうと思い、すぐ取り出せる位置に用意しておいたものだ。開かれた最初のページには、長々しい肩書きの書かれた身分証明書。

「君達には明かしていいと言われている――ドイツ連邦、対亜存在特殊部隊“薔薇(ばら)十字団”所属、第一級処刑者(エクゼキューショナー)兇闇(ベースヴィリッヒ・ドゥンケル)”だ。先程のバケモノの出現を予測し、その掃討と君達二人の保護を依頼された」

 ぽかんと口を開けてそれを眺めるライトに、彼は安堵(あんど)(うなが)すように穏やかな目を向け、手帳を(たた)む。
 惜しむらくは、聖が眠りについた今、その冷淡な睥睨(へいげい)が“穏やかな目”のつもりであることに気付ける人間が、とうとう一人も居なくなった事……だろうか。

「現領域における安全は、暫定(ざんてい)的ながら対象の撃破を(もっ)て確認した。……災難だったな」
「倒、せたのか?」
「ああ……まだ動くな」
「大丈夫だ、受け身は取ったし死ななきゃ治る。それより……」

 ライトは全身の動きを確認するようにゆっくりと立ち上がり、よろよろと数歩進んで、リミルの側に膝をついた。
 無理をして、死ぬまで治らない事態に陥らないかどうかを懸念していたのだが……と、兇闇は溜息を()く。まあ、当人が平気だと判断したのなら平気なのだろう。そこまで責任を負う必要は無い。

「リミル、そっちは無事か?」
「ん……ぅあ、ライト……っつ!」

 錆びた機械のようなぎこちない所作(しょさ)で、リミルは、恐らく起き上がろうとしたのだろう。
 しかし体幹を(ひね)ろうとしたところで、彼女はびくりと身体を震わせて表情を(ゆが)め、苦しそうな吐息と共に、再び体重を地面に預けた。

 ごく(まれ)に、脊椎(せきつい)骨折した人間が、気付かずに起き上がろうとした瞬間に、折れた背骨がずれ動いて、脊髄(せきずい)神経を損傷してしまう事例がある。
 今の反応を見て、兇闇が最初に危惧(きぐ)したのはそれだった。同時に、リミル自身もその可能性に思い至ったらしく、手足の状態を確認するように小さく動かす。その動きを見る限りでは、どうやら杞憂(きゆう)だったようだ。

「っ痛たたた……腰、打っちゃったみたい。神経は無事っぽいけど、しばらく立てそうにないや」

 そう言って苦笑するリミルの顔を、ライトはもう見ていない。(けん)な視線は、彼女の足、内(もも)に向けられていた。
 さっき動かした時に、その傷が見えたのだろう。他の外傷よりも深く、まだ酸化していない鮮やかな赤色を流す裂傷が。恐らく大腿動脈までは達していない――失礼だが、旅慣れた彼女の脚が、そんなに華奢(きゃしゃ)な方ではなかったおかげだろう――が、これから歩いて帰るには少々響きそうな怪我だ。

「脚、ちょっと深いな。出血が多い」
「あ……それ、ナイフで切っちゃったんだ。衝撃が急だったから、慌てて(かが)んで、それで……」

 彼女が言い終わる前に、ライトは自分の膝に彼女の足を乗せ、自分のポケットからハンカチを取り出して見せた。

「ハンカチ持ってるか? そこまで深刻じゃねーとは思うが、荷物取りに行く前に一旦圧迫止血する。OK?」
「ん、異存は無いよ。恥ずかしいとか言ってる状況じゃないし……あはは、ごめんね、足太くて」
「女の子に対して、恥かかせるよーな事は思いやしねえから安心しろって」

 リミルが渡した飾り気のないハンカチを自分のものと重ねて、出血箇所に(あてが)うライト。創傷(そうしょう)に直接布を当てて上から圧迫することによって止血する、直接圧迫止血法だ。激しい動脈性出血などでない限り、この方法が優先される。
 ただ、感染症の事を考えると、少しでも出血している者が、手袋も無しに止血を行なってはならない。今回くらいは問題無いだろうとライトは判断したのだろうが、読者の皆さんが、もし同じような状況に置かれた時は、血液に触れる際は充分注意することを推奨しよう。

 ……と、自分でもよくわからない不特定多数に向けてアナウンスしたところで、兇闇は、ライトが自分に視線を向けた事に気付いた。
 こちらも無言でそれに応じると、彼は微笑して見せる。負傷の程度も感じさせないほどに。

「ま、こっちは大丈夫だ。あの子の様子見てきてやりなよ。多分魔力切れだろ?」
「そのようだな」

 兇闇は答えて、倒れたままぴくりとも動かない聖を見()った。しかし、視界のフレームに彼女を収めてなお、その細かい状態が頭に入らない。目には入っていても、思考が逸れてしまう。

 ――このライトという人物、多少なりとも“曲者(くせもの)”であると認識しておいた方がよさそうだ。
 彼の挙動の一つ一つは、恐らく、兇闇が聖と親しく、今も気にかけていると察してのことだ。自分たちは大丈夫だと、聖の様子を見に行っても構わないと、その説得力を持たせるために、そう印象付けるために、意図して演出したのではないか?
 それはきっと、善意から来る行動だろう。行為自体は問題ではない。ただ――“そういった方法”を、呼吸するように行える奴は、どちらにしろ普通ではない。

 沈思しながら、兇闇は聖の横にしゃがみ込み、穏やかに寝息を立てる彼女を抱き上げて、白い髪を軽く()でた。
 極度の魔力不足による眠りは深く、状態が回復するまで()めることはない。その安眠に、ベッドの寝心地は関わらないだろう。だが、単に心象の問題として、あまり彼女を地面に転がしておきたくはなかった。……それに、こんな時でないと、下手に意識される事なく触れられないというのもある。

 顔に張り付く前髪と一緒に、不必要な思考を振り払う。
 まだ、彼らには()かなければならない事項が残っていたはずだ。保護対象として指定された三人のうち、この場に見えないもう一人の事を。

「……ルナ・エーベルヴァインは、安全な場所にいると思っていいのか?」
「ああ、大丈夫だ。向こうの遺跡ん中に――っと」

 途切れた言葉の先を求めて視軸を辿れば、駆け(きた)る桃色の人影。この状況を見れば誰でもそうだろうが、ひどく慌てた様子をしている。
 噂をすれば、というやつか。彼女が当のルナであることは、事前に写真で教えられていた。

「お兄ちゃんっ、なんかすっごい音したけど大丈夫!? いやもう見た感じ大丈夫じゃなさそうだけど大丈夫ー!?」
「見ての通りだッ、なんとか生きてるぜェ……って、俺よかリミルのが若干キツそーだ。救急セット持ってたよな?」

 そう問われ、より一層慌てた様子のルナは、背中の鞄を下ろしてポケットを開けた。
 焦り震える手で取り出されたのは、防水ポーチに入れられたファーストエイド・キット。少なくとも、薄いハンカチ二枚よりはまともな対処ができる事は確実だ。

「は、はいっ、これでどーにかなればいいけど」
「動脈には達してねェし、充分だ。魔法での治療は帰ってからだな」

 ライトは一旦止血を止めてそれを受け取り、滅菌ガーゼや包帯、消毒液を取り出した。あまり慣れた手付きとは言えないが、知識が無いわけではなさそうだ。専門家ではないのだから、ここにいる誰がやっても同じだろう。

「消毒液、ちょっとしみるぞ」
「さ、さすがにそのへんは放っとけば自分で……ひゃうっ!」

 痛みに表情を歪め、びくんと身体を()()らせるリミル。一瞬、抵抗しようとはしていたが、まだ起き上がれるほど痛みが引いていないようで、小さな(うめ)きを漏らしながらも不服そうに従う。
 一方のルナは、深呼吸をして少し落ち着いたらしく、兇闇の視線に気付くと、ぎこちない笑顔を作って会釈(えしゃく)した。
 事情を知らぬままこの状況を見たら、もっと混乱してもいいものだとは思うが、この見知らぬ者にも敵意は無いと判断したらしい。違和感こそ覚えたが、都合の悪い事ではなかった。兇闇も応じて会釈を返す。

 しかし、何か声をかけるべきだろうか……と思案していると、包帯を手にしたライトが先に口を開いた。

「一人で走ってきた所を見ると、デューさんはもう行っちまったか」

 デュー、という名前に、聞き覚えは無い。保護対象として指定されたのは、この三人のみのはずだ。とすると、兇闇たちの到着以前に、この森で調査をしていた彼らは誰かに会い――名前を知る程度には親しくなっていたということになる。
 かすかに、(いや)な予感がした。

「あ、うん。なんか仲間に呼ばれたとか言ってたけど」
「やっぱな……その仲間に、さっきここで会ったんだよ。ヘイトさんとか言ったっけ」

 そして、この場で出るはずのない――しかし、薄々予測していたはずの名前を聞いて、聖の髪を撫でる手が止まった。

「――何だと?」

 恫喝(どうかつ)するような底冷えのする声に、一同は(おび)えるよりも先に、驚いた()で見返した。
 兇闇の持っている情報には、何処(どこ)にもそんな必然性は無い。彼が――ヘイトが、“たまたま”兇闇たちが居る、この時、この場所に現れる意味など無い。
 ならば偶然? 馬鹿な。一週間前に“向こう側”の日本で会った奴と、“こちら側”のドイツで偶然邂逅(かいこう)する確率がどれほどのものか。普通に考えれば無に等しいはずだ。
 (すで)に確信を持ちながら、兇闇は一つ(せき)払いをして、再び問いかける。今度は、できるだけ穏やかな口調で。

「あー、ヘイト――と言ったな、今。それは黒髪で、赤い瞳の、亜人の青年のことか?」
「え、なんだ、知り合いか?」

 そして当然、返された答えは、確信を否定してはくれなかった。
 兇闇は(うつむ)き、自分の抱えた少女の蟀谷(こめかみ)から生えた、黒い尖角(つの)を指でなぞりながら、苦々しげな表情を作る。

「やはり来ていたか……名無子(ななこ)の言葉と一致するな。もはやこれを偶然と呼ぶことはできん」
「――では、逃れ得ぬ運命とやらを信じてみるかね?」

 そう引き継いだのは、芝居がかった男の声。
 突然、と一言で言うには生(ぬる)いほど唐突な登場にも、その声色自体にも、兇闇には覚えがある。昨夜見た夢よりも明確な、今朝の現実という既視(きし)感。これと(ほとん)ど同じ状況を、彼は今朝、経験したばかりだ。
 吃驚(きっきょう)(あらわ)に振り返る一同に遅れて、兇闇は溜息混じりに顔を上げた。

(うつせ)……いつからそこに?」
「たった今さ。君達が振り返り、私を確認した。その瞬間より、私はここに存在している。少なくとも君達にとっては」

 屈託(くったく)ない笑顔の中に、暗く透き通った紅玉(ルビー)色の双眸(そうぼう)が冷たく(きら)めいて、彼らを映し込む。吹き下ろす風が、黒衣の(すそ)をはためかせた。
 アルファズル本社からここまでは随分離れているはずなのに、彼の靴はほとんど汚れておらず、荷物の一つも無い。
 それは、一目見て判る異常だった。名無子との邂逅の直後、兇闇たちは本社にいる現に状況を報告した。その時には、外にいる様子は無かったはずだ。
 なのに、彼はどうしてここにいる? どんな移動手段を用いれば、この短時間で、こんな遠く離れた場所に、靴も汚さずに立つことができたというのだ? それが偽装だとするなら、何の意義があってそんな偽装を施した?

 向けられている猜疑(さいぎ)の目に、気付いていない(わけ)ではあるまい。どころか、現という人間なら、敢えて“猜疑を向ける余地を残した”と見ていい。
 それを理解しているからこそ、兇闇は注視する。思惑に乗った上で、その向こうを通し見るために。
 現はどこか満足気に微笑(ほほえ)んだまま、仰々(ぎょうぎょう)しく両腕を広げて、朗々(ろうろう)と語る。

「私もこの出会いを偶然と呼ぶ気は無いが、()りとて必然とも呼び(がた)い。豈図(あにはか)らんや、世とは()()りて在るとは――そう言ってもいられまい。(すべから)く斯く在る()し! 畢竟(ひっきょう)、万象(すなわ)ち“蓋然(がいぜん)”に尽きる!」

 相も変わらず、真意の判断が難しい台詞回しだ。(はぐ)らかされているようにすら思えるが、その内容自体には、決して(けむ)に巻くような意図は見えない。
 だからと言って、黙るわけにはいかない。他の誰かが口を開くよりも先に、兇闇は鋭く切り返す。

「俺達が今ここに居る事も、あんたがそこに居る事も、蓋然だと?」
(しか)り……なに、一つの見方に過ぎんがね」

 表情を崩す事もなく、鷹揚(おうよう)として答える現。兇闇の眼が、鋭く冷気を帯びる。どうやら彼には、隠し立てする気すら無いらしい。

 ――この場にヘイトが居たという事実は、偶然とは言い難い。彼にとっても、わざわざここに来るだけの理由があったのだ。
 実際に対面するか(いな)かは偶然性が強いとしても、そんな場所に、それだけの理由があるとも知らせず、ここにいる全員を送り込んだのは……眼前に立つ、この男だ。恐らく最初から、ただの調査でも、亜存在退治でも無かったのだろう。

(さて)置き“闇”よ、中途報告にあった“彼女”から得た情報は――」
「心配するな、記録してある。だが今は長話をすべき時じゃあないだろう」
「ふむ……」

 言われて初めて気付いたかのように、現は改めて周囲を見回し、

(もっと)もだ、全員治療を受ける必要があるな」

 と、そう言って歩き始めた。
 会話から得られた情報は充分とは言えないが、これ以上を引き出そうと話を続ければ、状況に対する不自然さから、当然怪しまれる。今はそこまでのリスクを負うべき時ではない。

 恐らく話についていけなかったのだろう、無言のまま様子を見ていた周囲の彼らを見下ろして、現は再び微笑みかける。

「少し心配したぞ、リミル。君なら逃げるに問題は無かろうと思ったのだが、よもや一緒に戦っているとは思わなかった」
「い、いやいや、逃げるにもけっこー死にかけたデスヨ?」
「ライト君も、まさか“一人”でここまでやるとはね。うちのリミルを助けてくれてありがとう」
「あ……いや、俺の方こそ、助けられまし――」

 ライトは答えかけて、途端に顔色を変えた。
 彼の表情に浮かんでいたのは、兇闇が抱いていたような不信から来る疑念ではなく、純粋な喫驚(きっきょう)だった。そんな様子の変化を察して、ルナとリミルが一斉に彼の顔を見る。どこか遠くで踊る風が、ざわりと音を立てた。

「まさか」
善哉(ぜんさい)、善哉」

 それ以上の追求を遮るように、現はライトの頭に手を置いて笑う。穏やかな笑顔を(たた)えた彼の姿に威圧感は無いが、あって(しか)るべきそれが見えない姿は、兇闇にとっては、(かえ)って怖ろしくもある。

「我々は全てを包括(ほうかつ)し、認識する。“彼女”についてもまた同様に、ね」

 もう片手を、ルナの頭に。莞爾(かんじ)として笑みながら、彼は続ける。泰然(たいぜん)に、自若(じじゃく)に。

「そして全てのために――君達には私の元へと来てもらいたい」
「……え?」

 困惑する二人をよそに、現は黒衣を(ひるがえ)し、遺跡に向かって数歩、足を進めた。
 今の言葉が聞こえた瞬間に硬直したリミルは、よーく理解できているのだろう。彼が一体、何を言っているのか。
 何故なら、幼かった彼女もまた、こうやって誘拐され――いや、“スカウト”されたのだから。
 そして、もう幼くない彼女は、もう一つ知っている。この台詞が発された時点で、彼ら二人に、拒否権はないことを。そうせざるを得ない状況が、既に作られてしまっているであろうことを。

一先(ひとま)ずは、レイの所へ向かおう。結果積もるか積もらぬかは兎も角、話はそれからさ」

 ――古来、悪魔とは、その凶悪性を一切見せることなく、甘美な言葉で人を誘い、笑顔の仮面で人を騙すと言う――。

 この時ばかりは、ちっぽけな猜疑心なんて何処かに消えていた。
 兇闇も、リミルも、新たな“後輩”誕生の予感に思わず気の抜けた笑顔を浮かべ、その心中は二人への同情に支配されていた。

 ああ、こんな最大級の嫌な予感すら、現という人物を知らぬ彼らは感じることができないのだ。



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