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第二十五話 Nameless Shadow



 歪みくねった影に追われる、少年と少女。
 その影を追う、人ならぬ女性。

 まるで公園で無邪気に遊ぶ子供たちを眺める親のように、その悪趣味な鬼ごっこを瞻視(せんし)する者たちがあった。
 そう――複数、である。
 総計二つの人影は、遺跡の壁に(もた)れかかり、眼前を横切る子供たちの姿を見守っていた。

 物陰になるような場所にいるとか、巧妙に彼らの死角を取っているとか、そういう訳ではない。
 まるで、彼らがそこに立っているのが、至当の自然現象であるかのような、錯覚ですらない奇妙な認識。
 誰も気に留めはしない。その必然性を例えるなら、『二日続けて同じ樹を見たときに、昨日見た時より、葉が一枚多かった』ことに気付く人間が、どれほど居るだろうかと言う問いに似ている。
 黒服を(まと)った二人の姿は、この時間、この場所に存在しているには、あまりにも不自然極まりないものでありながら、あまりにも自然に、風景に埋没(まいぼつ)していた。

 影の片方は、老人であった。
 まるで実体までもが影の一部であるかのような漆黒を身に纏い、(たか)のように鋭い眼を、病的に伸びた白髪の向こうに覗かせていた。
 もう片方は、年若い女性であった。
 長い黒髪を微かに(なび)かせ、にこにこと無邪気な笑みを浮かべながら、楽しげに身体を揺らしていた。揺れる髪の隙間から、真っ白な包帯がちらちらと見える。彼女の両眼は、それによって完全に隠されていた。

 黒という色は、全ての色が抜け落ちた虚無の色であり、全ての色を混合した混沌の色でもある。
 見る者に威圧感を与えるため、武装組織の衣装には黒を基調にしたものも多い。老人の威圧的な黒服は、それが狙いと言うのも大きいのだろう。色彩心理学などで語られるような、精神性の差異もあるのだろうが、それは彼にとって細事と言って相違ない。
 だが、女の纏う黒いセーラー服は、何ら変わった意味を持たない、純粋なファッションであるかのように、その風貌と整合していた。少なくとも、威圧感の欠片すらも、そこには無い。

 それらは、存在するはずのない者たちだった。
 誰にも観測されることなく、存在している事を証明できない(はず)の存在だった。
 しかし今、お互いがお互いを観測することによって、彼らは紛れも無く、ここに存在していた。

「――面白いネェ、すごくすごく面白い。なんて雑然とした状態、なんて整然とした状況、これほどまでの相反する情報の共存、なんて面白いんだろーネェ」

 女は独特の語調でそう言って、殊更(ことさら)、無邪気に笑った。楽しくて仕方がない。体をどれだけ押さえても、その奥底から溢れ出す笑いを止められない。そんな子供じみた、純粋な笑い方だ。

「世間話かね。無意味かつ無価値――いかにも、貴様らしいなあ、“真名棄(まなず)て”の」

 応じる老人は、微笑の一つも零さない。答える意味も義理も無いものを、気紛(きまぐ)れに答えてやっているような、淡泊で無感動な調子で、連ねるように言葉を紡ぎ出す。

「だが(たし)かに、千態万状にして紛然雑駁(ざっぱく)。“状況”は理路整然として()るが、この“状態”はどうだ? 杜撰(ずさん)と言うのも生(ぬる)い、粗末に極まる」
「んんんー……」

 頬に手を当て、逡巡(しゅんじゅん)する。その動作は、まるで教え子が答えを間違えた時の小学教諭のようで、どこか白々しく、作為的だ。

「そーじゃないんだよなあー。本当の焦点は、この見えて(さわ)れる現実じゃナイ、ずーっと未来にあるんだモン」
「では、貴様にはそれが解ると言うのかね? 情報領域との結合を果たした我が身にすら解らぬ、完全な未来視を」
「これはネェ、神様の意思なんだヨ。だから全ては神の(てのひら)へ帰結する。偶然も必然も全部同じモノ、神の代行者は、自分ですら気付かないままにそれを行うのサ」
「神――か、如何様(いかよう)な意味にでも取れる言葉だな。畢竟(ひっきょう)、妄言に過ぎぬ」

 淡々と吐き捨てられる老人の言葉に、女は一瞬きょとんとして、包帯越しに彼を見返し、唐突に乾いた笑いをあげ始めた。
 老人は無言のまま眉を(ひそ)めて、理解し(がた)いものを見るような目を隠しもせず、深く息を()く。

「あはははッ、()()しいナァ、自分もそれを求めているのに、自分もその神様になろうとしているのに、ひた隠しにしてサ! 親を驚かせようとして過程を隠す、可愛い子供みたいじゃないか!」

 そう言って笑う動作だけは、可愛らしいと言っていい。だが、その内容、容貌、纏う空気――様々な要素が交絡し、彼女の姿を狂的なものに見せていた。
 常人は理解できない、理解してはいけない。彼女を理解すると言うことは、常人でなくなることと同義だ。恐らく、魔道に造詣(ぞうけい)の無い一般的な人間にすら、直感的にそんなイメージを抱かせてしまうであろう存在。
 今では平然と(かたわ)らに立っている黒衣の老人すら、幾星霜(せいそう)か昔であれば、怖気(おぞけ)を震って身を(すく)ませていたかもしれない。
 眼前で少女のように哄笑(わら)う小さな影は、それほどの者なのだ。
 故に、彼は一切の隙を見せず、表情を変えることもなく、呼吸をするように自然に、言葉を返す。

「それこそ妄言だ、“真名棄て”。あまり老人を愚弄するものではない」
「無駄だよ。解ってるもん、私には全て。だから、貴方が今、何を考えて、その言葉選びをしたのかも、解ってるのサ」

 そう言って口角を上げる彼女の表情は、きっと笑顔なのだろう。
 だが、その表情は、ゆったりと巻かれた包帯に阻まれ、光の下に晒されることは無かった。
 男は、その下にあるものを知っている。
 一点の傷もない、白く透き通った肌によって形造られる、一切の邪気が欠落してしまったような美しい笑顔を。
 それでいて、この世の全ての邪悪を、偽りの笑みの形に凝縮したかのような異質な笑顔を。

「――(かんなぎ) 名無子(ななこ)……か。全く、怖ろしい人間とは居るものだな」

 それは、自分の意識を変容させるための言葉ではなく、相手の意識を変容させるための方便でもなく、正真正銘、心の底から出た率直な感想だった。
 その言葉を受け、彼女がどう思ったのか()し量れる人間は、この世に存在しないだろう。名無子は表情を崩さぬまま、黒いセーラー服を微風に乗せ、くるりと柔らかく舞うように、地上に向かう薄暗い通路に立った。

「まァ、ヒジリさえ無事なら、キミの目的を邪魔する気は無いサ。協力する気もないケド」
(ひじり)……あの魔術師の小娘か。虚数領域の事象を“()る”ことができる人間は彼女だけではあるまい。何故あれに(こだわ)る?」
「因果は(めぐ)る。彼女は忘れてしまっていても、私は覚えてる。それで充分……ふふッ」

 そのまま、影の中に溶解するように、名無子は通路の奥へと消えていった。
 そして、観測する者のいなくなった老人の姿もまた、初めから存在していなかったかのように、掻き消えていた。
 観測者を無くした暗い通路は、再び、ただの情報の塊となった。

 そんな一連の()り取りが終わる頃、その通路の真下にあたる位置で――ちょうど、追いかけっこは終わる。

 大木の幹に砕かれた壁から差し込む日光が、石造りの広間を照らす。そんな中に吹き込んだ穏やかな風の中に、黄色い蝶がひらひらと舞い、透き通った闇に喰われて消えた。
 蝶の落ちた水面のように、波紋を残したその闇は、巨大な双頭の竜を思わせる姿に変わりつつあった。
 竜といっても、子供向けの物語に描かれているような(つつ)ましいものではない。獣から変形に変形を重ねた畸形(きけい)、常人が見れば皮膚が(あわ)立つような(おぞ)ましい異形(いぎょう)の姿。
 それと対峙する少年と少女は、(いびつ)にうねる影を()めつけて身構えた。近代兵器の効き目が薄いのは先刻の攻防で証明済みであり、二人の手には共に、短めの刃物が握られている。

「さて、少しは戦いやすくなったけど……ライト、何か策はある?」
「えーと、(1)斬る、(2)避ける、以降繰り返し?」
「うん、まあ、期待はしてなかったよ」

 そんな不毛な対話が繰り広げられる横で、(もた)げられた漆黒の首は、まっすぐに二人を狙って振り下ろされる。
 がんっ、と、重い鋼鉄の扉が閉じたような音と共に、地面が砕けた。激突による衝撃ではなく、まるで中から破裂したかのような、異常な現象。その細かな瓦礫(がれき)の一つ一つも、闇に喰われるようにがりがりと音を立てて消えていく。
 跳躍、そして散開。闇の侵蝕を避けた二人は、追撃から逃れるために疾駆(しっく)する。

「気をつけてライト、触れたら終わりだよっ!」
「なあに、アクションゲームではよくある事だ!」
「いやっ、カメに触れただけで即死するよーな世界と一緒にするのもどうかと思うけど!?」

 地面を這うように二人を追う長い首を、鋭い金属の閃きが斬り裂いた。
 しかし、やはり浅い。相手の勢いは殺しきれず、影が(ひる)んだ一瞬のうちにライトは地面を転がって回避する。次いで、再びの跳躍。今まで自分の立っていた場所が、丸く穿(うが)たれた。
 リミルの方をちらと見る。彼女はうまく相手を斬り伏せられたようで、散らされた影は一旦退いて、再び攻撃の態勢を取る。
 強い感情を込める、というだけの事が、これほどまでに難しいとは、今の今まで気付かなかった。ライトは内心で(ほぞ)()む。

 本当に“感情”こそが、この漆黒を退(しりぞ)ける術なのか、実は確信が持てていないというのもある。
 実験はした。それが自分一人にのみ成り立つ法則でないか確かめるため、リミルにも同じ事をするように促した。結果は一度失敗、一度成功。確信するには少々足りない数値だ。
 現実は様々な交絡因子の重なり合いで成り立っている。実際に目の前で起きた現象が、本当に自分の思っていた理由によるものかどうか、ほんの数回の試行で確かめることは不可能に等しい。
 疑念や不安は感情を鈍らせる。そんな無意識を意識によって変容せしめるのは魔術師の領分であり、ライトにそんなスキルは無かった。
 それだけではない。
 通常、戦闘というものは、理性的に戦わなければならない。相手の動きを読み、こちらの最大限可能な動きを計算し、構えを維持しながら相手の構えを崩す。それが戦闘に()ける“普通”で、感情に任せて殴りかかるなど(もっ)ての(ほか)
 しかし、防御や回避を考えていては理性によって“殺意”が鈍り、有効なダメージを与えられなくなってしまう。
 ライトにとって普通の戦闘とは、自分が生き残ることが第一で、そのために戦うものだった。しかしこれは、そんな“普通”ではないことを強いられる戦いなのだ。
 それ故に、これほどまでに“やりにくい”相手は他にいないだろう。ライトはそう結論する。

「ら……ライトっ、前! 何か来る!」

 弾けるようなリミルの叫びにはっとして、ぐっと軸足に力を込め、真横に跳んで影を(かわ)す。迎撃しようと思っていたが、感情に集中しすぎて周辺への注意が疎かになっていた。
 やはり、この戦い方は難しい、と、相変わらず冷静さを捨て切れないままの頭で、ライトは苦笑する。そのまま、勢いを殺さないように転がり、地面を叩いた手首に運動エネルギーを集中させて跳ね起きた。
 当然、その多大な隙を突いてくるだろうと推測された追撃は、結論から言えば来なかった。
 正確に言うならば、恐らく“来ていた”のだろう。しかし、それがライトに到達する事は無かった。それが何に起因するものかは、地面を転がっていたライトには見ることが出来なかったが、明らかな“攻撃”の痕跡が、朧気(おぼろげ)な光の残滓(ざんし)から見て取れた。

 外部からの攻撃。
 それを目の当たりにし、ようやく周りに目を向け始めた二人が、彼女に気付くまでに要した時間は、そう多くなかった。
 小柄な体躯(たいく)に薄桃色の髪、猫のような三角形の耳は、その少女が亜人であることの証憑(しょうひょう)。しかし、黒い瞳の中心に(きら)めく“(あか)い瞳孔”は、如何(いか)に亜人とて、到底自然に存在し得るものではない。
 闇夜に光る猫の目のように、双眸(そうぼう)を紅く(かがや)かせながら、微笑を湛えた彼女は悠然と佇立(ちょりつ)していた。

「――惜しいっ! 惜しいなあ! 思考がアストラル体を介して伝える虚数振動、そこに気付くまでは良かったんだけど……亜存在複合体“オルトロス”、こいつはそれだけじゃー倒せやしないっ」

 どこか(わざ)とらしい動作を交えて、得体の知れぬ少女は、朗々と、韻律(いんりつ)を紡ぐように言葉を並べる。

「まあ……虚数領域の法則も、S.U.N.S.の存在も()らない時代のヒトにしちゃ、充分すぎる健闘かな!」

 闖入(ちんにゅう)者に対する喫驚(きっきょう)に掻き消され、彼女の語る言葉は意味という形骸(けいがい)(とど)めず、二人の脳の中で、ばらばらな文字の(かたまり)へと瓦解(がかい)していく。しかし、わざわざ理解せずとも、直感によって認識できた事がただ一つ。
 あれは――徒者(ただもの)では無い。
 彼女の放った言葉の数々は、その“事実”のみを刻銘に描き出していた。

「ふふッ、安心しなさいお二人さん。私が加わればもー大丈夫よ! 勝率これでおおよそ一.五倍(当社比)!」
「めっちゃ堂々と登場してたのに倍率は意外と謙虚だね」
「純粋に人数分しか増えてなくねえかソレ?」

 想定外の事態に適応するため、無理矢理クールダウンさせられた二人の脳が、妙に冷静なツッコミを返す。
 そして、然程(さほど)の間もなく、彼らはもっと他に言うべきことがあったと思い至る――が、その頃には既に、確か“オルトロス”と呼ばれていた影が、彼女に向かって二本の首を伸ばしていた。

「わっ、とと」

 地面を砕く連撃を跳舞(ちょうぶ)するように躱し、少女は終わりに小さく()け反ると、背面から翼のような形状をした光の塊が現れた。青白い魔力の光は、きらきらと瞬く羽根のように舞い落ち、削れ散るように大気に攪拌(かくはん)されて消えていく。
 重力子(グラビトン)の代替と制御による空間歪曲――重力魔法である。
 回復魔法と同様に、特殊な適性を持った種族にしか扱えない上級魔法体系であり、その上達は困難を極めると言われている。完全な制御も難しく、よほどの熟練者でない限りは、今のように光翼に似た余剰エネルギーの放散が起こってしまう。
 竜型亜人の一種であるライトも、種族としての適性こそ持っているのだが、地球重力に逆らって物を――()してや、人を飛翔させるほどの力は無い。
 重力子による相互作用は、他の分子間力よりも遥かに小さい分、消費対効果は大きいのだが……その分、はっきりとした効果を得るのは難しい。その難度たるや、『重力魔法で空を飛ぶより、同じように飛ぶ飛行機を作る方が楽だ』という冗談が(まか)り通ってしまう程のものだ。
 ――それを、眼前の少女は、詠唱による集中、意識変性も無しに行ったのだ。
 駭然(がいぜん)とする二人をよそに、彼女は影を見下ろしながら口角を上げる。

「迎撃じゃ散らすだけだよ、結合を絶つならこのタイミングを狙わないとっ!」

 ひらひらと舞うように追撃を回避し、直後の隙を狙って叩きこまれた掌底が、オルトロスの首を一つ弾き飛ばした。
 何十匹もの犬を一斉に挽き潰したような凄絶(せいぜつ)な悲鳴が空気を揺るがし、二人の皮膚が一斉に粟立った。大気の振動が全身から伝わり、怖気となって背筋を穿つ。

 明らかに、今までの攻撃とは反応が違っていた。
 ふわり、と柔らかな風を纏って降下した少女は、瞳の奥に封じられた炎のような紅色をライトに向け、ざらりと全身を舐めるように視線を動かした。
 観察されている。――恐らく、骨格や筋肉量から解る間合いや瞬発力、構えの癖や反応速度に透ける戦闘経験、そしてこの一瞬の観察を観察と見抜けるかどうか、その後の反応を含めて――それを直感的に理解した瞬間、ライトの脳は、目の前の小柄な女性を“おそろしいもの”だと認識していた。
 ただただ目の前に、強大な存在が立っているという事実に対して、本能が警告を発する。震えとなって顕在化するそれを、悟られぬよう握り潰して、ライトは平静を掻き集め、曖昧な笑顔を作る。

「え……えーっと、君は……」

 虚勢に気付いているのかいないのか、少女は体格に似合わない大人びた微笑を返して、それでも声だけは少女らしく快活に答える。

「デューって呼んでよ。キミ達に合わせて日本語だけど、大抵の言葉は喋れるよ。変えよっか?」
「い、いや……大丈夫。俺はライト、あっちにいる子がリミルだ」
「はっ、はいっ、リミルですっ」

 急に自分の名前を呼ばれて、リミルは咄嗟(とっさ)に応じながら、肩をびくりと震わせた。
 デューがそちらを向こうとした、瞬間、低く、底冷えのするような唸り声が、歪む闇の奥底から反響する。怨恨を音として凝縮したような啼聲(ていせい)に、ライトは剣を構え直す。

「ちィッ、やっぱまだ元気だなァ」
「うん。だってアイツ、複合体だもん。一回殺したって一回分しか死なないよ」

 無知な友人の計算違いを訂正するような口調で、デューはそう答えた。
 言葉の意味を測りかねている二人をよそに、彼女は腰のベルトに手をかけて、背後に隠れていた短剣を抜く。光沢すら返さない純黒の刀身は、横からでは殆ど見えなくなってしまうほど薄く、刃物と言うよりは板のような質感をしていた。

「じゃっ、改めまして、ゲリュオンの牛を奪いに行こうか。戦い方は今から教えてあげる。殺しきるまで頑張ってよね!」

 手負いの獣は、畸形じみた輪郭を殊更に歪ませて、脅嚇(きょうかく)の叫びを上げた。
 悲痛な啼哭(ていこく)にも似た、生命を褻涜(せっとく)するかのような咆哮(ほうこう)は、静謐(せいひつ)な冬の大気を攪拌し、闇の中で渦を巻いた。



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