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第二十六話 Sinister Rain



 言い知れぬ不安が、胸中を支配していた。

 それは、論理と呼ぶにはあまりに曖昧な、しかし、直感と呼ぶには明確すぎる、奇妙な感覚だった。
 まるで、脳の奥底に潜んでいた、“より聡明な、もう一人の自我”が、自分には到底気付けなかった“何がしかの事象”に気付き、警報を発し続けているような、もどかしさにも似た焦燥(しょうそう)
 理性が必死で冷却を試みるも、抵抗むなしく、無意識の(はや)りは加速する。

 薔薇十字団第一級処刑者(エグゼキューショナー)、“兇闇(ベースヴィリッヒ・ドゥンケル)”と呼ばれる彼は、静かに唇を噛み締めた。

 これほどまでに短い期間に、これほどまでに不愉快な感情を、これほどまでに多く、連続的に味わう事になるとは、全く予測の範疇(はんちゅう)外だった。
 (ゆい)が行方不明になったと聞いた時。(ひじり)が自室から姿を消したと気付いた時。ヘイトの莫大かつ濃密な気配を間近で感じた時。そして、ヘイトに聖が――。
 二度と見たくない光景を想起しかけて、彼は陰鬱(いんうつ)な記憶を頭から引き剥がした。
 ()(かく)、そういった忌々しい瞬間に感じたものと同様の、押し潰されそうな不安が、今も彼の胸中に渦巻いていた。

「軽い不安障害の一種かもしれんな……抗鬱剤でも貰うべきか」

 何とは無しに開いた(てのひら)へ視線を落とし、誰にとも無しに呟いて、所詮無さげに嘆息を漏らす。
 無理もなかった。若干十五歳の少年からしてみれば、この一年間は、まさに青息吐息の生活だった。いくら幼少の頃から専門技術を叩きこまれて育ったからと言って、()くまで子供はただの子供なのだ。

 ドイツ連邦共和国、薔薇十字団本部――まさにこの場所で、兇闇(まがつやみ)は生を()けた。
 薔薇十字団の構成員同士が結婚、出産することは(まれ)とは言えず、その子供の運命が組織に預けられることもまた、珍しくはない。亜存在掃討組織である薔薇十字団は、設立当初、表向きには魔術結社の形を取っていたと言うが、一部にカルト染みた因習が残っている事実はそれに起因しているのだろうか。
 そうして預けられた子供たちは正規の国籍を持たず、(しか)るべき教育を受けたのち、偽装された多くの名前と国籍を多重共有する“偏在するエージェント”となることが殆どだった。

 そういった、取るに足らないケースのうち一人が、処刑者“兇闇”である。
 同年代の子供達がサッカー・ブンデスリーガに夢中になっている頃、名前すら持たないその子供は、銃弾をうまく標的(ゴール)に入れるのに夢中だった。
 彼らがビールの味を少しずつ好きになり始めた頃には、自分の血の味を克明に思い出せるようになっていた。

 ……本来、彼らとて、ちゃんと名前を持っているものなのだが、彼の場合は“両親ともにうっかり命名し忘れてた”という、胸が(つか)えるほど悲愴で余儀も無い理由があったということも、念のため付記しておく。

 現在の薔薇十字団は、国営組織という位置にありながら、その内容は民間軍事会社(PMSCs)に近い。
 特に兇闇や聖の所属している“処刑者”は、亜存在という脅威に対する戦闘、もしくは戦闘を含む任務を専門に行う特殊作戦部隊(SOF)であり、正規軍とは全く扱いの異なる武装集団である。
 その構成員は特に優秀な退役軍人や、様々な理由からスカウトされた人物が大半を占めており、本部のあるドイツの他にも、亜存在の脅威を知る各主要国家と契約することで、高水準の年俸と生活レベルが保証される――が、福利厚生は充実しているとは言えず、人員不足も相俟(あいま)って、作戦行動中に充分な救助を受けられる態勢が整うことは、非常に稀な事例となっている。

 亜存在の掃討を正規軍が担当しない理由は、大きく分けて二つある。

 一つ。
 そもそも、亜存在には普通の戦闘技術は通用しない。ここまで勝手の違う相手だと、いっそ個別の専門集団を組織してしまった方が、兵を効果的に動かすことができる。……少々、コストは余計にかかるが。
 そしてもう一つ。
 亜存在事件に関わる情報はほぼ全てが軍事機密であり、一般市民どころか、下士官、いや、殆どの士官でさえ、普通は閲覧資格を有することはできない。
 万一、数人が口を滑らせても“幻覚”か“妄想”で片付くであろう内容だが、そんな噂も数と証拠が集まれば、大きな混乱を招く危険性が非常に高いからである。
 そういった社会不安の増大が治安悪化を招き、内乱や侵略戦争の銃爪(ひきがね)となることだって、決して少なくは無いのだ。多くの機密は、それを危惧してのことだった。

 そんなわけで、設立から六百年ほど経過した今、薔薇十字団は、アルファズル・インダストリーという小さな軍需産業会社を隠れ(みの)として、秘密裏に活動しているのだった。

「……せ、せんぱい」

 そんな極秘武装組織のエージェントが、控えめに開いたドアの隙間から、恥ずかしそうに――兇闇以外には、普段と何ら変わりなく見えるだろうが――ひょこりと顔を出した。

「に、似合います、かね」

 軽金属繊維と衝撃吸収繊維を織り込んだ特製のロングコートに、《CRC》と刻印された紋章付きのベルトを巻いて、聖は微かな紅潮を浮かべた。コートの下はいつもの制服姿だが、その下に着ているはずの防弾装甲服のおかげか、胸だけはいつもより少し大きく見える。

「違和感は無いが……もう少し、背筋を伸ばした方がいいな」
「あ、は、はいっ……」
「それだと反り過ぎだ、もっとリラックスしろ」
「はい、せんぱい……」

 最適な姿勢を模索し、真剣な表情をして背骨をくねらせる聖の姿は、少し滑稽(こっけい)で微笑ましかった。個人的な好みに当てはめるなら、可愛い、と言い換えてもいい。
 しかし、今はそれを悠長に眺めている暇などない。姿勢を正すのに必死になっている彼女の頭にぽんと手を置き、動きを止める。

「問題はない。その服の目的は一般民間人への擬装だ、それなら完璧に達成している」
「そ、そうですか……な、なんか不規則に頭振ってたら気持ち悪くなってきました……」
「ああ、今度からそう思ったら一旦止めろ」
「そうします……」

 兇闇は苦笑しながら、コートのポケットから小さなキャンディを取り出し、丁寧に包装を破ってから「ほら」と一言、聖の鼻先に差し出した。当の聖は不思議そうにそれを眺めていたが、然程(さほど)躊躇(ちゅうちょ)も思案もなく、それを唇で受け取る。彼女が甘いものを食べた時に決まってする、目元をほんの少し緩めた幸福そうな表情。これも多分、兇闇でなければ気付けないだろう。
 寝ぼけた小動物に餌付けしているような気分になったところで、兇闇も、壁に立てかけておいた自分の荷物を肩に引っ掛けた。

 それは一見、ごく一般的なギターケースのように見える。無論、ただの擬装である。
 その気になれば、中に隠されているベルギー製個人防衛火器(PDW)、FN P90を一秒以内に手にとって、五〇発の専用弾薬をフルオートで連射することができるだろう。同様に隠してある剣を取り出すのにも、それほど時間はかからないはずだ。
 コートの内側にも、SIG SAUER(シグ・ザウエル) P250というドイツ製ハンドガンが忍ばせてある。亜存在はもとより、その他の大抵の脅威に出逢っても制圧しきれる武装だ。
 余談だが、このハンドガンを数年前の任務で(かくり)に貸したら、およそ考えつく限りの良質なカスタマイズを施されて帰ってきた。彼女が使いやすいように改造した後、兇闇に合うように調整しなおしたらしい。有難かったが、当時はあの無口な少女にちょっとばかり畏怖(いふ)を抱いたものだ。

「聖、少々他人行儀だが、先輩として言っておこう」

 改めてそう切り出すと、聖は飴玉をころころと口で転がしながら首を傾げた。軽く握った左手を胸のあたりに置くのは彼女の癖だ。頭上にクエスチョンマークが幻視できそうな表情で、彼女は続く言葉を促す。

「俺達は公的には“存在しない”組織員だ。国の救援はまず期待できず、肉体的、もしくは精神的なダメージによって戦闘継続が困難になった場合の福利厚生もほぼ受けられない。死亡時は事故死という扱いになり、弔慰(ちょうい)金の支給も不安定だ。ヤバいと思ったら、危険な怪我をする前に逃げろ」

 それは、たった一日の訓練も行わず、唐突に実戦に出ることになってしまった彼女に、最低限言っておかなければならない言葉だった。兇闇のように最初から育てられたなら兎も角、この年齢で処刑者として入団し、即座に実戦投入されるなど、普通では考えられない。
 案の定、(なか)ば脅かすような内容に、聖は全く同じ表情のまま硬直し、オーラで不安を表現している。漫画だったらトーンとか使えるから解りやすいんだろうなあ、と、ぼんやり思いながら、心なしか(つや)の消えた髪をさらりと撫でた。

「安心しろ、そうならんように俺がいる。アビスゲートを使えるなら、君のほうが俺より強いくらいだしな」

 意識的に優しく微笑みかけて――聖と同様、あまり表情豊かな方ではないので、少々疲れる――そう言うと、これまた同じ顔をしたまま、ぱっと雰囲気が明るくなった。肌は僅かに紅潮し、瞳は安堵の色を映し、気のせいか髪艶も元に戻っている。
 わかりやすい奴だ、と思いかけて、いや、わかりづらいのだろうな、と思い直す。兇闇自身、彼女の感情を把握できるようになるまで苦労した覚えがあった。

 実際には、そのように危険な事態に陥るようなことは、ほぼ無いと言っていい。

 亜存在の恐怖は、それが何なのか理解できない、という一点に尽きる。何の予備知識も無い状態で邂逅(かいこう)すれば、どうやって視ればいいのか、どうすれば傷つけられるのか、そもそもそれが何なのか、理解できないまま、一瞬で全てが終わる。
 聖の場合は、“そうなってしまった”者に気付くことで、危険を察知することができたと聞いた。その哀れな生贄がいなければ、感知することすら出来ず、悪趣味な暴食者の餌食となっていただろう。
 しかし。()ってさえいれば、殆どの亜存在は、ただ見える通り、形骸(けいがい)ある闇に過ぎない。強く、固く、研ぎ澄まされた意志の(つるぎ)を紫電が如く振るわば、無明(むみょう)の純黒に光の差すように、闇は、さっと透明な大気に溶け崩れて消えてしまう。
 処刑者たちは、それを知っている。躊躇も錯誤もなく、それを実行できる。

 反して、危険な場合とは、一部の上位亜存在――あの日の、結のような――を相手取る場合だ。
 ある程度の知性と自我、そして鮮明なヒトの姿を確立した亜存在については、決して寡少(かしょう)とは言えない量が確認されている。それらは便宜的に刻印体(スティグマ)と呼称され、そうでない漆黒の塊を暗黒体(エニグマ)と呼んで区別するようになった。
 刻印体は、暗黒体と比べて非常に強力な個体である。知性があるため、理知的な動作で翻弄し、作戦を立てて動く。感情があるため、殺意の波を相殺し、ダメージを軽減してしまう。並の人間など一撃で食い潰す攻撃力の高さは言わずもがな、危険性は明白である。
 どの程度の知性が残るのかはまちまちで、結のように完全な人格が残っている例は非常に珍しい。兇闇が今まで見てきたそれといったら、全く意味の通らない言葉を一方的に喋る者、幸せそうに笑い続ける者、逆に泣き喚き続ける者……とにかく惨憺(さんたん)たる有様で、出来る事なら二度と戦いたくはない。
 通常、亜存在に対して効果の薄いはずの近代兵器をわざわざ持ち込むのは、こういった相手にばらまいて精神的動揺を誘い、感情の波を通しやすくする意味がある。

 危険についてはそれ以外に、他の人間や亜人と干戈(かんか)を交えざるを得ない状況下に置かれる場合があるのだが……これは非常に稀なケースであるため、常に考慮に入れる必要は無いだろう。準備だけ、しておけばよい。

 兇闇は片手で聖を促し、虚構で塗り固められたアルファズル本社ビルの廊下を歩いていった。いかにも普通な、ただの産業会社。その外皮の下に隠れた姿を知る者にとっては、随分と不格好なアピールに映る。
 その最奥、非常階段の扉を前に、二人はぴたりと足を止めた。兇闇は(わざ)とらしく一息ついて、扉を見つめたまま、どこか慇懃(いんぎん)な調子で言う。

「“(ドゥンケル)”ならびに“薔薇(ローゼ)”から“(シュヴァルツ)”へ――準備完了。さあ、始まりの鏑矢(かぶらや)を撃つのは指揮官の役目だ」

 一見、宛先知らずの言葉だが、受け取る者はそこに居た。
 大気に揺蕩(たゆた)う曖昧な情報がさっと凝縮するかのように、はためく黒衣が虚空に揺れた。顕微鏡のピントを合わせるように、ぼやけて(ゆが)んだ虚像が急激に現実感を増し、壁に背を預けた黒衣の青年がそこに現れた。
 いや、現れたのではない。彼ははじめから、“存在”こそしていなかったが、そこに居た。何者にも観測されなかった彼は、たった今、ここに“存在”が確定したのだ。唐突に出現した気配に、聖がぎょっとして振り返る。

「よろしい。“(シュヴァルツ)”から総員、作戦開始。目標は第一に生存、第二に成功。君等に祝福あれ」

 不敵に笑う(うつせ)は、ぴんと立てた人差し指で、目深(まぶか)帽子を押し上げた。暗く透き通った紅玉(ルビー)のような瞳が、整えられた白髪の隙間に覗く。
 ()くして、嚆矢(こうし)は放たれた。
 霹靂(へきれき)のように曇天(どんてん)を貫いて、鳴箭(めいせん)の飛んでゆく先は、木立にさ揺らぐあえかな幻影。対になって続く二本の征矢(そや)は、朝露(きら)めく常磐(ときわ)の森へと向かう。

 ドイツの南西部、バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する“黒き森(シュヴァルツバルト)”は、モミの木を中心とした常緑樹が多く並び立つ広大な山地だ。
 多くの河川がここに水源を有し、観光地としても有名な地域である。バーデン・バーデンを中心とした温泉も数多く、森林浴発祥の地としても知られる。少し歩けば、ハイキングを楽しむ観光客にも遭遇できるだろう。時期を外れているとは言え、それ故の安さに釣られてくる旅行者は少なくない。

 聞けば、重力場による空間歪曲(わいきょく)を計測した結果、この森の一部地域に()ける虚数濃度が非常に高い数値を示していると言う。そういった場では、光学的に視認できない亜存在を、視覚野が直接認識する――と、今朝も現が言っていた。
 聖の“深層同調”も似たようなもので、感情の起伏や、持続時間……いわゆる心の振幅や波長が低次元で安定していると、アストラル体の虚数振動が亜存在と共振し、より明確な姿形を脳に投影する。もともと感情に乏しく、怒りや哀しみが長続きしない聖だからこそ持ち得た能力と言えよう。

 確かに、森の景色は美しい。冷たくも澄んだ空気と、柔らかな深緑。露に濡れた草の、肥沃(ひよく)な土の匂い。海を越えてきた観光客を満足させ得る、ある種の感動を(もたら)してくれる。
 だが、そんな能力に裏打ちされた聖の無感動ときたら、恐らく任務以外でここに連れてきても“寒い”としか思わないのだろう。実に明快で、味気ないが、年頃の女性に有りがちな面倒さもない。

「あの……」

 凍りついた日陰の土を踏みながら、そんな事をぼんやり思っていたら、当の本人がおずおずと話しかけてきた。
 何か察されたかと思って振り向けば、どうも違うらしい。聖は(いぶか)るような目付きで、薄く霧烟(きりけぶ)萌葱(もえぎ)色を右顧左眄(うこさべん)、顔には深憂(しんゆう)の色を浮かべている。

「少し、静か……すぎませんか」

 言われてみれば、冴え渡る寂寞(せきばく)は視界いっぱいに広がり、周囲一帯を支配していた。まるで、こうして立っている場所以外の一切合切が、とうに消失してしまっているかのような、漠然とした違和感。兇闇は眉を(ひそ)めて、静寂の中に意識を走らせる。
 風はなかった。葉擦れの音も、鳥の(さえず)りも、動物の足音も、何も聞こえない。森林の中では“無言”は自然な事なれど、これほどまでの“無音”は明らかな不自然だった。二人の白い瞳に、警戒の色が滲む。

 違和感は、すぐに見つかった。
 見渡す限りの緑色の中に、ぽつん、と、黒い人影が立っていたからだ。輪郭は明確そのもので、亜存在ではない事は一目で解る。だが、その風貌は、明らかな“異質”そのものだった。
 スカートの長い、純黒のセーラー服。腰まであるような長い黒髪。そして――両眼を隙間なく覆う、白い包帯。
 何も()えるはずがない、その若い女性は、不安定に舞うような動作できょろきょろと周囲を見回して、ぴたりと二人の方を向いた。声も音も立てていないにも関わらず、しっかりと覆われた両眼で、その女性は確実にこちらを“見た”。

 にたり、

 と、笑みの形に歪められた口角を見た瞬間、強烈な異常性に、兇闇はぞっと総毛立った。
 何とも無いような様子で首を傾げる聖を肩に隠して、にこにこと笑いながら近付いてくる女性を、必死の思いで観察した。全身の発する警鐘(けいしょう)は、見るなと言っているのか、見ろと言っているのか、果たして知る事はできない。その警鐘の正体が恐怖なのか好奇心なのか、判別すらつかなかった。
 兇闇は彼女を知らなかったが、よく似た気配を知っていた。
 そう、彼女は現と同じ、底の抜けた虚無――あの独特の、黒く虚ろな気配を持っていた。さも人間が人間であることを拒絶したかのような、もしくは人間でないものが人間のふりをしているかのような、そういった矛盾の気配だ。
 聖はそれに気付いていないのか、肩からひょこりと顔を出して、接近する人影を見つめている。

時代(とき)(けみ)して不動の(いわお)も、(やが)て雨滴の一粒に(まろ)び出される……時は来たれり、因果(さだめ)の雨よ」

 高級な鈴の、澄み渡る音色のような声だった。甲高いがどこか(はかな)く、決して耳障りではない、しかし声というには少々作為的な――あまりに美しく純粋な音を、言葉という(いびつ)鋳型(いがた)に嵌めたかのような、そういう声だ。
 改めて目の前に立たれると、身長はさほど高くない。兇闇の眼前に立ち、無防備にこちらを見上げる顔には、常に(いとけな)い笑顔を浮かべている。が、目の周辺は包帯に覆われてしまっているため、その全容を確認することはできなかった。

「初めまして、薔薇と十字の騎士サン。突然だケド、今はまだ、この先に行っちゃダメ。今はまだ、キミ達はヘイトに勝てない。もう少しダケ、待ってくれないカナ?」
「なっ……」

 どこか独特の甘さを持った発音で、随分と奇矯(ききょう)なことを言う。兇闇は面食らってたじろぎ、数瞬遅れて、戦慄(せんりつ)した。彼女の言葉には、どうあっても一般人では知りえない情報が幾つも含まれていた。
 何と言葉を返すべきか、戸惑った刹那(せつな)。聖が恐る恐る前に出て、聞き取れるぎりぎりのか細い声で、

「あなたは、誰……?」

 と、思ってみれば当然、最初に問うべきであろう疑問を口にした。

「ワタシは、名無子(ななこ)。民俗学者、(かんなぎ) 名無子だヨ。(おぼ)えてるカナ、ヒジリちゃん」

 それは――名無子は、莞爾(かんじ)として笑み、はっきりと聖の名を呼んだ。
 一切の邪気が欠落したような、人間として純粋すぎる笑顔。狂気を一切(はら)まないが故の、狂気。怖気(おぞけ)を震って(あわ)立つ皮膚を振り落とすように、兇闇は咄嗟(とっさ)に身構える。()しも動じずにいた聖も、息を飲んで後退(じさ)った。
 今までには聞いたことの無い名前だった。しかし、眼前のそれが徒者(ただもの)ではない事など聞かずとも解る。
 その一瞬で兇闇は覚悟を決め、神速、コートの内側から拳銃を抜き放ち、名無子と名乗った奇妙な女性の額に向けた。

 ちょうど、とある遺跡の深奥で、世にも(おぞ)ましい畸形(きけい)の獣が脅嚇(きょうかく)の叫びを上げた、その瞬間のことだった。



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