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第二十四話 Hellhounds On My Trail



「ふぅん! 遊戯、もはや貴様の場を守るモンスターはいない! ゆけ青眼の白龍(ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴン)、滅びの爆裂疾風弾(バーストストリーム)!」
「甘いぞ海馬ァ! この罠はお前の攻撃宣言をスイッチに発動するカード!」
「くっ……ミラーフォースか! ふぅん、俺はカードを二枚伏せてターンエンドだ……!」

 窓の外に目を()れば、うっすらと空も白み始めた頃。室内とは言え、真冬の早暁(そうぎょう)は相も変わらず肌寒い。
 そろそろ小鳥の(さえず)りでも聞こえてくる頃なのだろうが、広々としたリビングには、そんな風情を根こそぎ掻き消すハイテンションな掛け合いが延々と響いている。

 (ゆい)が起きてきた頃には、既にこの珍奇な遣り取りが始まっていたので、何故こんな事になっているのかは、()して知ることも叶わなかった。
 テーブルについてカードゲームに興じる二人のうち、薄桃色の髪と猫のような三角耳を持つ少女、デューが海馬の役で、薄紫色の髪と細長い双角を持つ青年、クロスが遊戯の役らしい、という事くらいは解ったのだが、それ以外の情報は皆無である。

 とりあえずルールもよく解らないままに観戦しながら、かつて“人間”だった頃から読みかけだった娯楽小説を眺めているが、どちらかというと、やはり彼らの決闘(デュエル)の方が気になる。

「俺のターン、ドロー! フッ……いいカードだぜ! 手札からッ、魔法カード“死者蘇生”を」
「リバースカードオープン“マインドクラッシュ”、スタンバイフェイズでの優先権移動を確認してなかったので巻き戻して発動、死者蘇生を指定します。手札にあったら捨ててください」
「おいやめろ海馬そういういきなり冷静かつ鬼畜な戦法はやめろおい」

 急に真顔になって、慣れた手付きで手札をパチパチとシャッフルし始めるデューと、何をされたのかはよくわからないが、途端に慌てた様子を見せるクロス。
 こういった光景は、二人と一緒にいるとよく見られる。駆け引きという点では、だいたいデューの方が上手なのだろう。
 どちらも揃って、楽しそうではあるのだが。

「くっ……僕の負けか、じゃあまたデッキを交換して最終戦だ」
「ふふん、一対一だしね、望むところよ」
「よォし、お互いのデッキをカット・アンド・シャッフル! そして五枚ドロー!」
「あっ初手エクゾ揃った」
「始まる前に負けた! なにその圧倒的運命力!?」

 何やら今度はデューがおよそ六十六万分の一とか言われる確率を事も無げに引き当ててしまったようで、そんな奇跡を目の当たりにしたクロスは、よほど信じ(がた)いことなのだろう、揃ったカードを幾度も確認していた。

 そんな中に飛び込んできたのは、ドアノブの回る無機質な音と、軽やかな足音。それから遅れて、少女らしい快活な声。

「あはっ、なになに二人ともぉ、また()ってたの?」

 近付く気配に結が振り返る前に、背中へ小さな体重がのしかかった。
 視界の端で長い深緑の髪が揺れると共に、微かに花らしき香りが漂う。結は草花には詳しくないが、彼女の振りまくこの香りはとても好きだった。

 彼女の名は、マヤ。
 髪に飾られた一輪の花と、まるで月のような金色の瞳がチャームポイントでいろいろ惑わす(自称)らしい、亜人の少女である。デューやクロスとはまた違った立場にあるらしく、詳しい間柄は解らないが、リーダーであるヘイトと親密な仲であることは確かなようだ。
 結よりも二回りは小柄な身体は、とても二十歳のものとは思えない。……と言っても、その年齢も自称であるため、どこまでが真実かは解らないのだが。

「ああ……おはよーさん、マヤ。ちょっと本日のお出かけ権を賭けてね」

 さっさと仕度に向かってしまったデューを一瞥(いちべつ)して、クロスは小さな溜息をつきながら穏やかに笑い、カードの束をプラスチックのケースに収納していく。こうしている姿を見ると、彼が“兵器”であるという事実すら、下らない嘘のように思える。
 ――いっそ何もかも嘘なら良かったのになあ、なんて、虚しい考えが脳裏を掠めた。
 わざわざ振り払う必要もなく、一瞬で消えて行くような、馬鹿げた思考。だが、その残滓(ざんし)は、ひどく粘性の高い泥のように、意識に尾を引いた。

「んーで、クロス君はめでたく本日の家事当番っと!」
「そういうことになるかな……ふー、早速献立考えないと」

 二人の会話は聞こえてはいるものの、結の鼓膜はただの楽器のように音だけを伝え、その内容までは脳へと届かない。
 ぼんやりと眺めている文庫本の文字列は、まるで前衛絵画のように無秩序な模様を、モノクロの額縁に映し出している。

「ふむぅ、昼は僕ら二人しかいないわけだし、適当に有り合わせで……結ちゃん、昼はチャーハンでいい?」
「えっ、あ……うん」

 急に自分の名前を呼ばれて、我に帰った。顕微鏡のピントを合わせた時のように、急激に世界の輪郭がはっきりとし始める。結はふるふると頭を振って、揺らぐ意識を呼び戻した。

「えっと……ねえ、ところでマヤ、ヘイトはどーしたの?」
「いくら起こしても起きないから置いてきたよっ!」
「なにそれ大丈夫なのかいウチのリーダー」
「まーまー、夜遅くまで作業してたんだから寝かせてあげてよぅ」

 マヤは輝かんばかりの笑顔で、クロスの頬を両手でぐにぐにと弄り回した。これが彼女なりの抗議の姿勢なのか、単に戯れているだけなのかは、よく解らない。
 対するクロスは特に意にも介さず、そんな彼女の頭を撫でつつ、一歩後退。こうするだけで、低身長なマヤの両手は、クロスの頬には届かなくなる。そして何事もなかったかのように、彼らは会話の続きを始めた。

「しかし、ドイツまで行って日帰りか……結構遠いけど、ちゃんと夕飯時には帰ってくるんだよ?」
「おうさっ! ドイツのご飯も魅力なんだけどねー、蛇口からはビール、建造物は全てジャガイモ製、地面を見ればそこらじゅうに生えてるソーセージ……」
「凄まじい国だな、なにそこ地獄? それとも地獄?」
「あっ、あとかたつむりめっちゃ多いよ!」
「どうでもよすぎて死ぬかと思った」
「クロスくんってどうでもよすぎると死ぬの!?」

 ……ああ、あの二人はまだ元気にしているのかなあ、なんて、この遣り取りを見て思い出してしまうことが、嬉しくもあり、少し情けなくもあり。



第二幕

『Einherjar』

第三章 Distortion Sleep




「へぇ、そんな前から博士の元にいるんだ……」
「君と似たようなもんだな、まァ結果的にはこれで良かったと思うぜ」
「あはは、ぼくも。こんな広い世界、じっとしてたら到底知り得なかったもん」

 そんな他愛もない雑談を通路に響かせながら、亜人の少年と少女が歩く。
 懐中電灯に照らされた遺跡は、気怠げに曇った靴音を返す。まだ眠っていたい、とでも言うような、低く小さな反響音だ。

 話しているうちに、このライトという少年の素性も、次第に明確になってきていた。
 どうやら彼ら兄妹も、親の元を離れてレイに師事しているらしい。
 リミルのように自ら飛び出したのか、それとも孤児や捨て子にあたるのかは解らないが、それを詮索する意義は薄いだろう。
 ……しかし、現もそうだったが、人間という種は亜人の子を飼いたがる性質でもあるのだろうか?

「いや、それは多分アイツらだけだろ……」

 そんな疑問を口に出したら、ライトの苦笑に一蹴された。
 実際、リミルもそう思う。この世の人間が皆あんな感じだったら、世界は一夜で大惨事だ。

「でも、それだとルナちゃんも心細いだろーね……早く行ってあげないと」
「ああ、いや、アイツはああ見えて心も身体も頑丈だからな。大丈夫さ」

 そう言って笑うライトの姿に、リミルは小さな違和感を覚えた。
 ……あんなに仲が良かったのだから、普通は心配するものではないのだろうか?
 彼女には、そこまで信頼できるだけの実力があるようには見えなかった。事実、転んで生き埋めになりかけたばかりなわけで、ライトの信頼がどうしても不自然なものに思えてしまう。
 ……まさか、全て演技や計画の通りだったりして? 考えにくいが、否定も出来ない。

「……どうした?」
「あっ、い、や、別に、なんでも――」

 不意に顔を覗き込まれて、我に返った。
 ……いや。我に返って顔を上げた瞬間に、気付いた。どうやらもう少し、思考する必要がありそうだ。

「なんでも……なくは、ない……かな」

 通路の奥、懐中電灯の照らす先が、黒く揺れていた。
 まるで空間そのものが歪むかのような、不安定な揺らぎ。全ての光を掻き消しているかのような、無機質な漆黒。
 それは、この光学的視覚の中に存在しているはずのない色だった。

「えっと、あれが……異変?」
「ま、まあ異変だろうな。少なくとも尋常じゃねえもん」
「……でも困ったね、ルナちゃんとの合流地点、この先なんでしょ?」
「一応、地図にチェックしておく。遅れるけど、少し回り道して合流しよう」

 そう、予測できる危険は回避すべきだ。何があるか解らないのだから、今は接触すべきではない。
 二人はそれを確認するように視線を合わせて、(きびす)を返した。

 しかし、その直後、リミルは勢いよく手を引かれて、床の……いや、床に接触する直前に身体を受け止められ、ライトの上に倒れこんだ。
 ただ腕を引かれただけで、こうも簡単に倒れてしまった理由は他でもない、リミル自身も全く同時に"それ"の気配を感じ、跳躍していたからだ。

「けほっ……えーっと、ライト?」
「おう、なんだい」

 通路の中心に立ち塞がる、恐らく獣の形状を取った闇の(かたまり)。低い唸り声が聞こえる度に、その輪郭が僅かに揺らぐ。
 それはまるで、ありがちな恐怖の具現。リミルは上体を起こしつつ、その黒犬を指差してわざとらしく微笑んだ。

「向こうから接触しようとしてきた場合は?」
「前言撤回、最短ルートを全速前進……だな!」
「ですよねー!」

 対するライトも爽やかな作り笑顔で応え、何やら場が不釣り合いに和やかな雰囲気に包まれた。

 瞬間、(ほとばし)る雷撃が通路を照らす。電磁気力操作による放電現象、リミルの最も得意とする魔法だ。
 大気を貫く電気エネルギーは、うち殆どが抵抗によって熱へと変わる。急激に膨張した大気が震え、大音量の破裂音が二人の鼓膜を劈いた。

「走るよっ!」

 そんな中で、発した言葉が彼に届いていたかどうかは解らないが、それでも次にやるべきことは解っているはずだ。
 二人は一斉に下層へ向かい、弾かれたように駆け出した。

 ああ、そうだ。よくよく考えれば、取り乱すほどのことはない。(うつせ)が裏で動いているのだから、これくらいのことが起きてくれないと逆に不自然だ。半ば自棄(やけ)になりながら、リミルは疾駆する。
 運が良ければ、先の一撃で黒焦げになってくれているだろう。咄嗟(とっさ)に放ったものとは言え、あれが直撃すれば生きていられるモノは少ない。だが、警戒するに越したことはないのもまた事実。
 逃げながら背後を振り返り確認しようとした、その瞬間。

「飛び込めッ!」

 短い破裂音のようなライトの声が割って入り、リミルは蹴り出そうとする足に体重を込めて真横に跳んだ。
 勢いのまま回転し、受け身をとったリミルの真横を、刹那(せつな)、黒く揺らめく影が掠めた。その体型やサイズから予測していたよりも、ずっと(はや)い。
 ――だが、捉え切れない程ではない。

雷耀閃(リクスト・オスカ)!」

 リミルが(かざ)した(てのひら)の中、弾けるような音を立てて迸る紫電。
 電磁気力の代替によって生じた巨大な電位差が、周囲の大気を絶縁破壊し、分解する。
 放出された電子は高電界の中で加速し、気体原子を次々に電離させ、電離によって生じた陽イオンは更に新たな電子を叩き出していく。衝突電離の連鎖、アヴァランシェ・ブレイクダウンという物理現象だ。

 一度起こった電流の連鎖は止まらず、それと同時にリミルが作った、局所的低気圧の道を辿る。電気は最も抵抗の少ない道を選んで流れるという特性通り、わずか数千分の一秒の間に、リミルと黒犬を雷のリードが結んだ。

 大気の熱膨張による衝撃波だろう、黒犬は吹き飛んで壁に叩きつけられた。見かけほど軽くないのか、予想したよりも小規模な吹き飛び方だった。
 間髪入れず、床に落ちた黒犬の前に躍り出るライト。その手には、非常に小さな拳銃が握られていた。特徴的な銃身から、すぐに見分けがつく。ハイスタンダード・デリンジャーだ。
 立て続けに二度、響く銃声。
 漆黒の影のような飛沫(しぶき)をあげて、どちらも頭部に命中したように見えた。

「……ど、どう?」
「当たりはした……けどよ」

 銃をポケットに落としたライトは、床に倒れた黒犬を遠巻きに眺めながら、半身でリミルを隠すようにして、様子を伺っているようだった。
 肩越しに覗き込んでも、それが果たして致命傷を負っているのかどうか、判別することはできそうにない。吹っ飛んだくらいだから、攻撃が当たっていることは確かなのだろうが……いくら()めつ(すが)めつ見ても、それは黒い揺らぎでしかないのだから。

 そして案の定と言うべきか、揺らぎは然程(さほど)の間もなく再びざわりと脈打ち、立ち上がる。傷の有無は視認できないが、少なくとも血は出ていないようだった。

「あ、あれでダメージ無しか……ライト、戦わない方が賢明だよ」

 リミルは耳打ちをするようにこそりと呟いて、身構えた。
 だが、ライトは「いや、」と小さく一言、腰のベルトから短めの片手剣を抜き、姿勢を落として黒犬に向き直る。

「当たらなかったわけじゃない、硬すぎて効かないわけでもない。そして、虚数領域の変調を誘引しているのが、こいつだとしたら――そっちから働きかける方が妥当ッ」

 瞬間、跳びかかる黒犬の牙を(かわ)し、すれ違い様に振るう剣先がその腹を掠める。
 音もなく裂かれた腹部から、弾けるように黒い霧が散布され、消える。それは僅か一瞬のことだったが、これまでの攻撃には見られない反応だった。

「はッ、やっぱりな! 感情による魂の振動、それこそがコイツにとっての“ヤドリギの矢”だ!」

 その台詞から推測するに、悪意や殺意のような、強い感情を意図的に喚起して斬りつけたのだろう。
 感情を受け取る意識体――アストラル体を、強い指向性感情で振動させ、虚数領域内でそれを伝達させたのだ。
 詳しい原理などは解らないが、あの黒犬が虚数領域に存在していることは、眼前で起きた事実から明白。視覚的に認識できる理由は……まあ、後々考えるとして、その正体が少しでも解れば、戦い方も組み立てられる。

 リミルは今、このライトという少年に、心底から感嘆していた。
 確かに、我流と思しき戦闘技術はそれほど高度なものではなかった。魔力そのものは多いようだが、その扱いは決して上手くはない。
 だが、こと発想や機転、そしてそれを迷いなく実行する行動力に()いて、彼のそれは非凡と言って(しか)るべきものだ。

「よしッ、このまま応戦しながら広間に向かう! リミル、魔法より何か武器使え武器!」
「う、うんっ……参ったな、近接戦って苦手なんだよなあ……」

 呟きながら、リミルは小さなサバイバルナイフを取り出して、逆手に構えた。
 物理的な破壊力は関係ない。攻撃を通じた感情の伝播(でんぱ)、恐らくそれのみが、あの黒犬に致命傷を与えられるのだろう。
 半透明に揺らぐ影をきっと()めつけ、片足を引いて半身(はんみ)の構えを取る。相手の攻撃範囲を半身に限定させることで、攻撃を読みやすくするための、武道における基本的な構えだ。

 ――通常、人間は無意識的に、最も力を使いやすい体勢で作業を行う。(すなわ)ち、真正面を向いて、自分の中心に対象物を配置する形である。
 両手で重いものを持ち上げようとするときに、まさか真横から側転をするようなポーズで持ち上げる人間はいまい。そんな格好では力が入らないのが直感的にも理解できるからだ。
 しかし、その直感的なイメージを信じて、真正面を向いて戦うとなると――瞬間的な回避を行うには、まるで驚いた猫のように“真後ろや真横に跳ぶ”以外に無くなってしまう。次の瞬間には、隙だらけの硬直を晒すことになるだろう。
 だから、近接戦闘では、どれだけ冷静に構えを維持していられるか、また、必要に応じて即座に構えを解くことができるかが、勝敗を決める重要な鍵となる。
 高速展開する戦闘により、冷静に思考する余裕を失ったり、疲労によって身体が自然体を求めるようになると、人は無意識的に真正面を向いてしまう。そうなると、もはや終わりだ。正面立ちになった瞬間、左右から連撃を入れられれば躱す術はない。

 そうならないためには、冷静さを失わないための強い精神力と、何より自信を裏付ける実戦経験が不可欠となる。
 そして――(なまじ)、遠距離からの一撃で大抵の勝負を決められる実力があるからこそ――リミルには、それが不足していた。

 死角となる背中からの攻撃を防ぐため、完全な半身よりもやや斜めに構えた、剣術や銃撃戦などよりも格闘に適した構え。知識としては知っているため、意識的に、その構えを取ることはできる……が、果たしてそれを何秒間維持できるかは解らない。

「……ああもうっ、もっと組手とかしとけばよかったっ!」

 半ば自棄になって叫びながら、それを掛け声代わりに、跳びかかる影をナイフの一振りで迎撃する。
 冷たい刃に乗せられた“殺意”によって、影は弾けて四散する。
 ――だが、浅い。
 勢いを殺しきれず、黒犬はそのままリミルの耳元を掠め、四肢をばねのように縮めて壁に着地した。
 すぐに反撃が来るだろう。慌ててリミルは重心を落とし、素早く回旋し向き直る。が、それと同時に疾駆していたライトの一撃が、壁の黒犬を的確に射抜いた。

「なんでマンボウはあんな非効率的な生き方のまま進化しないんだァァァァッ!」

 通路中に反響する叫び声とともに、黒犬の胴体が弾けて吹き飛ばされる。

「リミル、感情を込めるんだ。強い指向性を持つ感情こそがあの影を打ち払う」
「いや、それは解ってるけど、何か他にいい感情無かったの!?」
「だって気になるじゃねーか、三億個の卵から一匹生き残ればいい方なんだぜ? なんでそんな死にまくる生活形態に進化しちゃったのか、もう気になって気になって……」
「し、真剣な顔して訴えかけんのやめろー! な、なんかぼくまで気になってきたじゃんか!」

 戦闘に必要な情報だけを考えようとしていた頭に、マンボウの無表情がちらつく。
 ああ、どうしよう。脳裏を泳ぎ始めた。思考の外に追いやろうとすればするほど、意識に染みこんでくる。なんでもっと合理的な形に進化しなかったんだマンボウ。進化どころか尾ビレ退化しちゃってるぞマンボウ。何をどうしたらそうなるんだマンボウ。

「どうしたリミル、構えが不安定になっているぞ! 雑念に囚われるな!」
「だ、誰のせいだよ誰のーっ! ああっ、マジで気になって仕方なくなってきた……!」

 必死で頭の中から巨大な魚影を振り払いつつ、リミルは黒い犬に再びナイフを向けた。
 だが、その影はまるで“お座り”を命じられた忠犬のように、ちょこんと座り込んで動かない。
 一瞬、二人が訝しんでその様子を伺った。それは時間にして数秒にも満たない、僅かな間。しかし、間隙と呼べるものは、その一瞬だけだった。

 まるで悪趣味な騙し絵のように、不気味に伸びる影。
 座り込んだ黒犬の首だけが、ぬるり、と伸びて、鞭のように(しな)う。その先端が急速に肥大化し、肉を切り開くような気味の悪い音を立てて割れ――

「ひっ……!」

 二人が揃って地面を転がった刹那、巨大な影の口によって遺跡の壁は削り取られ、ぽっかりと半球形に穿(うが)たれた。削り取られたと言うよりは、壁自体がさっぱり消滅したように、綺麗な断面が露呈している。
 ――あと数刹那、反応が遅れていたら、リミル達もこうなっていた。

 それは後から思えば、恐怖が衝動的に右腕を突き動かしたのかもしれない。だが、影の触手の追撃を、リミルの電撃が即座に散らしたのは僥倖(ぎょうこう)だったと言える。
 一瞬、生じた隙を突いて跳ね起き、下層への道を駆け抜ける。幾つかの影の矢が、今まで二人がいた場所を貫く音が聞こえた。

「や、やっぱココじゃ戦いにくいよ、逃げようライトっ!」
「お……おうッ、ちょっとこの第二形態は予想外だったな!」

 暴走する影を剣で打ち払いながら、焦燥を顕にしてライトは後退(じさ)る。
 瞬間、リミルはそれを好機と見た。彼の影に隠れ、振りかざしたナイフに青白い魔力の光が灯る。

「なんで……なんで本物のホタルイカまで“ホタルイカモドキ科”に分類されてるんだァ――ッ!」
「お前の疑問も五十歩百歩じゃねーか!?」

 振り下ろされた白刃から、大気圧の刃が舞い飛んだ。圧縮気圧の塊は周囲に暴風を振りまきながら、もはや異形と言っていいほど長く伸びた影の首を、両断して弾けさせる。
 それでも致命傷には程遠いようだったが、逃走を手助けする時間稼ぎには充分な一撃だった。

「今だッ、階段まで急ごう、ライト!」
「ホタルイカってホタルイカモドキ科なのか……マジか……」
「もうっ、その疑問は後でいいから、行くよってばぁ!」

 神妙な面持ちで考え込むライトの手を引き、リミルは薄暗い通路を疾走した。
 目前に見える階段を降りれば、ルナとの合流地点に指定してある広間に出るはずだ。きっとこの狭苦しい通路よりは戦いやすいであろう、その場所に向けて、二人は駆け抜ける。


「――えっとぉ……なーんか、また、えらいことになってるなぁ」

 もはや元型すら留めていない影が、それを追いかけて、不気味に(うごめ)きながら壁を這いまわる――その後ろで、かりかりと頬を掻きながら、呆れたような苦笑を浮かべる少女の姿があった。
 外側に跳ねた薄桃色の髪と、それと同じ色をした、猫のような三角耳。
 腰に()いた“コキュートス”の柄に手をかけて、その少女――デューは、場違いなほど呑気に間延びした声で、誰にともなく呟く。

「こんなに“特異点”に近い所で騒ぎを起こすなんて、ヘイトも肝心な所でツメが甘いね、全く……」

 それはまるで猫のような、真意の見えない笑顔。
 善意であるのか、悪意であるのか、そもそも彼女にその二つの区別があるのだろうか?
 その判断を下せる観測者は、幸か不幸か、ここには居ない。



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