第十七話 足先で刻む死の律動
烈空の閃きは刹那、鳴り渡る太刀音を従えて、闇夜の中天にて肉薄した。
上天から降るは白銀、地上から
その瞬間を制したのは、黒き光だった。
ぶつかり合わんとする瞬間、彼女は正面から全力をぶつけるのではなく、身を捻って回転しながら、片腕と片足をそれぞれ長い黒鞭と化したのだ。
踵落としのように頭上から迫る脚と、風を切り薙ぎ払う腕の一撃。ちょうど十字を描くように放たれた二つの攻撃は、そのどちらかに対して迎撃や回避を試みれば、もう片方の直撃を受けるように的確に配置されていた。
──人間の反応速度には、人間である限り限界がある。
思考や判断を下すこと自体にほとんど全く時間を要さなかったとしても──発生した『現象』が五感を通じて入力され、視覚や聴覚などの『情報』として処理された後、『神経回路』を通じて『脳』にまで伝達され、更に処理された結果として弾き出された運動命令を『筋肉』が受け取り『動く』まで──実に150から200ミリ秒。
加えて、物質の物理運動には慣性力というものがある。その時間的損失を加えた上で、ルシフェルが軌道を制御し攻撃を回避することは不可能だと、
何より──こんな最善手を、その200ミリ秒の内に発想し、実行できる可能性は著しく低いと結は考えていたが──もしも全て予測済みで、急速に軌道を変えた剣と魔法の一撃ずつで両方の攻撃を防がれたとしても、直後の硬直を、時間差の左腕が貫くだろう。本体を狙われたとしても──大丈夫だ。まだ死なない。故に攻撃は通る。
現実は、全て彼女の目算通りに進んでいた。目の動きを見るに、彼も既にこの攻撃の性質には気付いただろう。しかし、遅い。時間差の三軸攻撃、全てを回避する動きは、今からでは作れない──はずだった。
「──
「っな……!?」
結にとっての誤算は二つ。
一つは予想の範疇ではあるが、動きを予測されていたこと。そしてもう一つ、彼が最初から回避しか考えていなかったこと。
自分自身に向けて発動された暴風の散裂は、幾許かの血の雫だけを残してルシフェルの身体を軽々と弾き飛ばし、なおも渦巻く真空の刃が、結の物理肉体を僅かに損壊させた。
そして、烈風に煽られた不安定な体勢のまま、彼女は気付いた。回転しながら真横に吹き飛んでいったルシフェルが、銃の真似事のように、まっすぐに伸ばした指先をぴたりと結に向けている事に。
「────ッ!」
『超光速思考』により、結は数瞬前の自分の肉体に命令を送る。既に身体は、それに合わせて反応を開始していた。
肉体としての視点から見れば、脳に依存しない思考が時間を遡行するという感覚は奇妙極まりないものだったが、これが無ければ、結はとうに消滅していただろう。人外の力に内心で感謝しながら、赤く
「
「──
数発の風圧弾が放たれたのは、全くの同時ではなかった。
結の方が、わずかに遅い。それは相殺狙いなどではなく、迎撃されないための瞬間的な
──何せ結は、あの程度の攻撃を無防備に受けたところで、まだ死なないから。
お互いに干渉し合わないギリギリの軌道を通って、案の定と言うべきか、交差した風弾は先に結へと着弾した。
高熱を持つほど圧縮された大気が弾け、右眼を
対するルシフェルは、即座に風を纏って姿勢を制御し、迫り来る風弾から身を守るように、あの薄い光の防御膜を正面に展開した。
今の結の目には、その正体がなんとなく視えている。局所的に展開した電磁場と電磁場の間に、魔力──とでも言うようなエネルギーを集中させて、薄膜のような重力場を展開しているのだ。
押し通ろうとする脅威を遮断し、偏向し、屈折させる、サンドイッチ状に発生した
──ならば。
「──
「い゛ッ!?」
直撃寸前、圧縮された気弾が瞬間的に膨張した。
──『風』という現象は、簡略に言えば大気圧の均一化である。水が高きから低きへ流れるが如く、高圧の気体は低圧の空間に向かって流れ、密度の差を埋めてゆく。その気圧傾度力によって生じる気流が『風』となるのだ。
今、一斉に膨張して制御を失った風弾は、それでもなお高圧の気塊であった。点に集中していた物理的な破壊力は失われようとも、面に拡散した圧力は、流れとなって盾の後ろに回り込み、それによって生じた低圧気体の断層を埋めるように吹き荒れた。
突風とは時に乗用車すら吹き飛ばし、巨大な橋をも崩落せしめる。
轟音と共に遅い来る烈風は、咄嗟に防御姿勢を取ったルシフェルの姿を、津波に呑まれる木の葉さながら
「ぐはッ……!」
その衝撃に、壁には蜘蛛の巣状の
──当然だ。深夜とは言え、これだけ派手に交戦して、周りから気付かれていないはずがない。皆、嵐の日を過ごす森の獣のように、怖れ、息を潜めているのだ。
ぐらりと身を傾げ落下するルシフェルを横目に見て、
その視線の先で、彼女は着地際の隙を狙った
しかし、ルシフェルが多大な隙を晒している今、猶予を与えるべきではない。互いが互いを遮るように、疾走する二者の影。
そして、二つの刃が再び交わろうと閃いた──瞬間。
「──ユイっ! ダメです!」
無謀にもその
息を切らせ、両腕を広げて眼前に立ち塞がった聖を見返しながら、結は、身を
「……止まっ……た……?」
兇闇は構えを崩さず、不可解げに呟く。──その反応を見るに、案の定、今の行動はかなり危険な賭けだったようだ。聖は内心幸運に感謝しながら、深く息を
しかし、聖の心中には、不思議な確信があった。
結は最初から、聖を殺そうとなんてしていなかったのだから。最初の一撃で殺そうと思えば殺せたはずなのに、彼女は傷つけぬように聖を捕らえたのだ。彼女の目的はそこにある。今戦っているのは、そのための邪魔を排除しようとしているだけだ。
靴下越しのアスファルトの冷たさが、刺すように脳を覚醒させていた。
冷静であれ。そう自分に言い聞かせながら、聖は、泣く子を
「私を……連れていきたいんですよね? ……落ち着いて……理由を……説明してください。『後で』は……なしです」
結の瞳の奥に灯った
吐息を白く曇らせながら、聖は落ち着いた語調で、言葉を紡ぎ続ける。必死に感情を押し殺して、目の前で涙なく泣き伏せる少女のために。
「みんな、冷静になってください……武器を向けられたら、武器を向けざるを得ないんです……。戦う理由があるなら、一つ一つ言ってください……それが否定できるものなら……意味なんて無いはずです……」
武器を持たない
それでも聖は、躊躇を押して一歩を踏み出した。
──思えば、結が泣いている時、自分から声をかけたのはこれが初めてかもしれない。
あの子は強い人だから、聖がただ傍らにいるだけで、どんな怒りも悲しみも、すぐに一人で片付けてしまえた。ただ隣に立つことで、彼女が前向きに思考するための小さな支えになってやれれば良かった。
しかし彼女は今、初めて、自分ひとりでは片付けきれない量の感情の波濤に押し潰されようとしているのだろう。
結の腕は、今や中ほどまで揺らめく影に覆われ、鳥とも獣ともつかぬ鉤爪を生やしていた。湧き上がる恐怖に折れそうになる心を叱咤し、聖はゆっくりとその表面に触れる。純黒は、聖の指先に冷たくも物質的な感触を返した。
「ひじ……り……」
古い映像に走るノイズのように、一瞬、結の姿がぼやけて歪む。
「ひじりん……違っ、あなたを……こんな、つもりじゃ……」
「ユイ。大丈夫です……私は……大丈夫ですから……」
努めて穏やかに、聖はその名前を呼んだ。半ば魔物じみた彼女の姿を、
その後背にて、兇闇はゆっくりと剣を下ろし、しかし油断なく状況を観察していた。──今、無防備な彼女に斬りかかれば、一撃で意識防壁を裂いて消滅させることが出来るかもしれない。それでも、彼は動かず、
張り詰めた静寂を、凍える夜風が
「私はっ────」
──
けたたましいサイレン音の接近に、続く言葉は遮られた。
「な、に……っ!?」
回転する赤色灯に照らされ、紫紺の闇の
淡々と進行する事態を、聖は呆然と見守っていた。
『そこの君達ッ! 持っているものを捨てて、手を上に上げて! いいですか、持っているものを捨てて、手を上に上げてください!』
威圧的なアナウンスが、スピーカー越しに響く。
その前では、車から飛び出してきた男が二人、威嚇のためか、まっすぐに銃を構えていた。片方は背広姿、片方は警官の活動服。──されど一瞬、互いに見合わせたその表情は、あからさまな
「馬鹿な……! 情報局は何をしている……ッ!?」
憎々しげに吐く兇闇。その言葉と同時に、聖にも状況が読めてきた。
恐らく本来は、このような事態が発生しないよう、何らかの根回しが行われるものなのだろう。しかし、計画通りの情報操作が行われることは無かった。──あるいは、行われようと行われまいと、関係がなかったのか。
銃を構える警官のうち一人に、聖は見覚えがあった。正確に言うならば、その背広の色に見覚えがあった。名前は忘れたが、あのデスペラード斎藤とかいうやたらとファンキーな刑事と組んでいたもう一人だ。
もしかしたら彼らは、たまたま近くにいたせいで、気付いてしまったのかも知れない。結の失踪事件を調査する過程で、偶然、立て続けに起こる破裂音や爆発音、悲鳴を聞きつけてしまったのならば──いくら情報操作が行われていようと、現場には関係ないはずだ。
考えるよりも先に、まずい、と聖は直感した。論理としては言語化できない曖昧な感覚だが、その薄ら寒い空気は、確実に聖の肌を舐めた。
「──ユイッ!」
それは、瞬間の事──であった。
赫い双眸に射抜かれた活動服姿の若い警官は、噛み合わぬ歯の隙間から、他の誰にも聞き取れぬほど
純黒の輪郭。
ただ奇妙な格好をして騒いでいる無軌道な若者ではない。それはあちこち破砕されたアスファルトや、巨人が殴りつけたかの如く派手に罅割れた民家からも瞭然だ。この夜の一角の光景は、あまりにも鮮明に常軌を逸していた。
何よりもそれを怖れさせるのは──肝胆を穿つ氷柱のような、膨大な殺気。
その存在が──数歩で詰めきれる距離にいるのだ。
「……ッ、オイ、待──」
片割れが異変に気付いた。されど、時既に遅し。
怯える獣のような叫声。震える指が