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第十六話 指先で刻む生の楔




 幽寂(ゆうじゃく)なる木々の(あわい)
 天心に遠く、純黒の真珠にも似た新月が、憐れむように座していた。

 濡れそぼって光る暗幕のような、闇夜。その中に埋没した真円の穿孔(せんこう)は、ただ、静かに眼下を睥睨(へいげい)している。
 仰向けに横たわる、癖毛の少女の潤んだ瞳は、天球を映す湖面の合わせ鏡の如く、その中点へと夜の瞳を湛えた。あたかも、人格を持たぬ夜の真意を推し量ろうとでもするかの如く、彼女はじっと、夜空と視線を交錯させ続けていた。
 少女は呼吸をしていなかった。もう必要がないからだ。言うなればそれは、少女の形をしているだけの、別の何かだと捉えた方が剴切(がいせつ)かもしれない。
 いずれにせよ──彼女自身が今の自分をどう捉えるかは、他者の知り及ぶところではない。

「────私、は──」

 霊廟(れいびょう)めいた静謐(せいひつ)な空気が、揺らいだ。
 横たわり、脱力し、自然な形に開かれた唇から、もしくは単にそう見えるモノのある位置座標から、立ち上る霧霞(きりがすみ)のように儚く、されど確かに、言葉が紡がれた。

 ざわ、と、常緑の木々が風に揺らいだ。まるで静止した時が動き出すのを待っていたかのように。

「君は」

 低く、穏やかな、男の声が夜を渡った。
 彼女の瞳は月をその上に重ねたまま動かない。知覚するために瞳を動かす必要は無い。ただ『意識』を傾け、読み取ればいいだけだ。
 黒髪の男は、夜よりも暗い漆黒の外套を風に泳がせ、朽葉の絨毯を踏み締めた。

「君は、まだ生きている

 静々(しずしず)と降る言の葉と共に、黒髪の隙間から、(くら)い赤色が見下ろした。
 後背より伸びた深緑の鳳翼が、微風を受けて揺らめき、広がる。満目蕭条(しょうじょう)の冬枯れの中、(かそけ)き星影の帯は、少女の傍らに跪く彼を、そしてその手許(てもと)を照らした。

「……すまない」

 優しく、しかし哀しげな一言の科白(せりふ)と共に、跪いた男は横たわる少女の頬に手を添えた。
 その瞳の深奥もまた、遥か上天の月に似て、彼女に(ひかり)なき光を投げかける。少女の桜色の唇が、小さく震えた。

「────こんな──……」

 小さな手のひらが、くしゃ、と猫のような癖毛を乱暴につかみ、わなわなと震えながら自分の頭に爪を立てる。
 満ち満ちた夜気は(さや)か、哀れな迷い子のように寂寞(せきばく)に打ち拉がれる彼女を、透明なヴェールとなって包み込んだ。
 彼女自身の細い腕に隠されたその表情は、悲痛な声に彩られて、歪む。
 彼女は『理解』してしまったのだ。覚えなき追想に記された論理を。

「こんな、仕組み(こと)が──……ッ!」

 枯草の揺籃(ようらん)に抱かれながら、(ゆい)は慟哭した。



第一幕

『破滅を奏でるアルペジオ』

第五章 アブソリュート




「ぐ、ぅ……っあ……!」

 混乱に喘ぐ喉は、絞り出すような呻きを上げ、冷たい夜気で肺腑を満たした。
 結の片腕は、肘先まで(ひじり)の胸元に埋没しているように見えた。──彼女の肘から先は、幾本もの黒い鞭のように変形して分かたれ、聖を拘束して宙空に留め置いていたのだ。
 何が起きているのか、今の彼女が『何』であるのか、即座に理解することはできなかった。
 赤く、(あか)く燃えるように耀(かがや)く両の瞳孔の燈火(ともしび)が、まっすぐに聖を射抜いて、肝胆をぞくりと穿つ。

「本当、ゴメンね……まだ慣れてなくてさ……い、痛い?」

 結の形状をしたモノは、聖の記憶にある結と同じように、申し訳無さげな表情を作って、縛り上げる『手』の力を緩めた。
 軋みをあげる胸郭の滲むような痛みが和らぎ、聖は混乱を極めた頭を必死に落ち着けようと、深く息を吐く。
 どうやら、言葉を発することくらいはできそうだった。

「ゆ、ユイ……その、身体……はっ……」
「えっと、説明が難しいから……何つったらいいのかな。今はあんたを──」

 ──瞬間、炸裂。
 飛来した複数の風圧弾に貫かれ、その衝撃に結の身体が(かし)いだ瞬間、聖を締め上げていた腕は一太刀のもとに両断された。

()……ッ!」

 閃く白刃(はくじん)は渦巻く烈風の如く翻り、冷たい切っ先に揺らめく彼女の身体を捉え、胸元を掻き裂く。少女の姿をしたそれは、闇夜に二つの赫い尾を引いて飛び退き、猫のようにしなやかに、車止めの上に着地した。

 割って入った少年は(しか)と大地を踏み締め、尻餅をついた聖を庇うように構えを取った。
 張り詰めて震える刀身に、降り注いだ光が反射して、煌めく。

「無事か、聖」

 その眼光は、刃と同じ色をしていた。
 切っ先はぴたりと(かつ)ての友を見据え、交錯する視線の危うい均衡の中を、振り捨てられた白布が舞う。

「……済まん。特定個人を狙ってくるとは、想定が浅かった」
「あのさ……お前俺を……ゼェッ……便利な乗り物とかだと……ゲホッ……思ってない……?」

 呆然と地に手をついていた聖を、息も絶え絶えに助け起こしたのはルシフェルだ。恐らく風圧に煽られて乱れた長髪を粗雑に掻き上げながら、彼は疲弊し果てた様子で深く息をついた。
 三者の視線が収斂(しゅうれん)する先、対峙する(しろ)い影の輪郭は、よく見れば、光源の位置に関わらず常に不定の陰影を落とし、その異質さを(ささ)やかに語る。揺らめく(ほのお)の灯りのような両眼(りょうがん)(くれない)だけが、虚ろな(からだ)の中にあって唯一、定常不変の意思の光を湛えていた。
 その瞳の光が、ゆっくりと伏せられた(まぶた)の、長い睫毛(まつげ)の隙間に(かげ)る。

「先輩……痛いよ。痛覚、もう無いけどさ……これは痛いなあ」
「……結。俺はお前を──」
「『お前を苦しめたくない』──とか言ってくれたら、殺されてあげよって気になれるのかな?」

 寂しげに、少女の(かお)は曖昧な微笑を作った。
 刹那、声なき焦燥が、聖の心を掻き乱した。理屈も論理も介入する余地なく、ただ、ふいごに煽られた未熟な炎のように乱れて舞った。耳鳴りと共に息が詰まり、食いしばった歯が震えて鳴る。
 蹌踉(よろ)めくように後退(あとじさ)れば、背に添えられた大きな(てのひら)が体重を支えた。聖の動向に気を配りながらも、その掌の主──ルシフェルは、油断なく結を注視している。

 わずかな夜の空隙を、静寂(しじま)揺蕩(たゆた)った。

「……意地悪だったよね。悪かったよ」
「お互い様だな」

 どこか諦観を孕んだ語調で、微かに口角を上げ、結は、右手の指をぎゅっと胸元で握りしめた。──今先ほど切断されたはずの、右腕を。
 仄かな風が頬を打ち、鏘々(そうそう)たる無音の緊張が空間を支配する。

 ──金属製の車止めを蹴る音が、刹那の停滞を斬り裂くまで。

 最初に動いたのがどちらかは判然としなかった。(くう)を裂いて肉迫する爪の軌跡を、翻る斬撃が交差して打ち払う。鳴り渡る炸裂音と共に、両者の影は弾かれるように離れた。
 裂帛(れっぱく)の咆哮。それは怯える獣の啼声(ていせい)のようにも、また哀哭の嘆きのようにも聞こえた。聞き慣れていたはずの声が、ひどく異質なもののように思えた。
 風に舞い上がる木の葉のように、少女の姿は勢いのまま上天に落ち、その腕の一振りに風圧弾が飛来する。
 炸裂。
 ルシフェルの放った光弾が、宙空でその幾つかを迎撃し、それを抜けてきたものは、兇闇(まがつやみ)の翳した掌の先で光壁に阻まれた。

「ッ……だ、だめです先輩っ! やめて……止まってくださいっ!」

 夜気を引き裂く悲鳴染みた声は、青白く波紋を描く剣戟に遮られた。

 振り抜かれる彼の白刃と、黒く(いびつ)大鷲(おおわし)にも似た彼女の爪が、食らい合う蛇の如く結び、衝撃と共に弾かれ、逸らされてはまた衝突する。
 結の纏う不定形の影が、その一撃ごとに削れ散り、宵闇の中に消えていった。(つるぎ)そのものの斬れ味にではない。彼の『意識』が起こす指向性を持つ(きょ)の波が、白銀(しろがね)を伝って(うつろ)を斬ったのだ。

 『殺意』──それが亜存在を唯一刺し貫くことができる刃の名である。
 研ぎ澄まされた感情の波濤だけが、前途に塗り込める不定形の闇を払うことができる。
 怯えは鋭さを失わせ、迷いは斬れ味を曇らせる。かと言って、無秩序に散漫する激情では、拒絶する『意志』の外皮に鎧われた核を斬り裂くことはできない。
 霧中に打ち込む嚆矢(こうし)のように、一条(ひとすじ)に澄んだ思念の閃きこそが、魔を討つ銀弾となるのだ。

 一際大きな衝撃と共に、斬り結んだ二人は互いに弾かれるように跳躍し、距離を取った。中空で身を守るように交差させた結の腕の袖口が、ルシフェルの放った風弾に抉られて飛散する。噛み殺された苦悶の声が、何故か、いやに克明に聞こえた。

「……下がれ聖ッ! 刻印体(これ)が相手では護りきれん!」
「護る必要は無いッ! 私を見ろッ、私だけを!」

 獣のように身を屈めて着地した彼女の、赫い双眸が闇に煌めいた。
 靴裏で噛んだアスファルトの破片を一息に巻き上げ、結は人間離れした速度で再び疾駆する。

 兇闇の翳した左手に、青白い光の盾が形成された。瞬き一つも許さぬうちに、交錯。直前で斜めに逸らされた光壁に打ち払われて、結は疾走の勢いのまま上空に舞った。
 ──否。彼女はその防御行動に対して、自らの身を回転させて衝撃を殺しながら、わざと弾かれたのだ。兇闇がそれを理解し、咄嗟に剣を上天に向けて振るったのと、頭上で身体を捻った結が虚空を蹴り、瞬間的に軌道を変えて垂直降下したのは全くの同時だった。
 剣と爪とがぶつかり合い、それぞれ致命の一撃を逸らしながら、交点にかかる力を利用して間合いを離す。
 息つく間もなく、連撃。兇闇の背後を取るように着地した結の一撃を、彼は重心を落として片足を引き、素早く向き直りながら水平斬りで受け止めた。

「私だって……聖を傷つけるつもりなんか無いんだ……っ! でも私は戻れないから! 連れてくしかないんだよッ!」

 刃に触れた結の漆黒の手が、じわじわと溶断されてゆくように赤みを帯びて、剣をゆっくりと飲み込んでいく。
 恐らくその一点の防御に意識を集中して、感情の波の伝播(でんぱ)を防いでいるのだろう。互いに致命傷を狙いながら、相手の狙いを逸らそうとする。真剣同士の戦いにおける『バインド』に似た状態だ。

「……対話が可能なのか、結!?」
「できたところで手遅れなのは、先輩が一番よくわかってるはずでしょ……ッ!」

 しかし兇闇にとって、それは危険な体勢だった。今の結は全身が凶器も同然である。空いたもう片腕の一撃を受けるわけにはいかないし、蹴撃にも気を配らなければならない。

 それでも彼は、一呼吸の間が過ぎても離れようとしなかった。
 情に心乱されたわけではない。
 間合いの近さに怯えて迂闊に剣を離せば、より大きな隙を作ることになると理解していたのが理由の一つ。
 不意打ちを輝光壁で防御さえできれば、その瞬間が好機になるという目算があった事がもう一つ。

「──加速魔法(ディストーション・アクセル)!」

 そして最後の一つが、状況が一対多であること。
 恐らく想定外の初速で突っ込んできたルシフェルの、ケルト十字型の剣が真っ直ぐに結を捉えた。彼女は押し合う腕を解いて咄嗟に飛び退(すさ)り、殺到する二つの剣先から(すんで)の所で身を逸らす。
 その瞬間を好機と見たか、二人は一気呵成に踏み込み、立て続けに攻める。

「く……っ!」

 刹那、結は既に闇に覆われていない、中ほどまで裂かれた右腕を二人に向けて掲げ──自分の手刀で切り落とした。

 回転しながら宙を舞う少女の右腕と、飛散する血液らしきもの。追撃を試みていた二人は喫驚(きっきょう)か、もしくは不可解な表情を露わにして左右に一斉に散開し、防御態勢を取る。
 切断された腕は緩やかな弧を描いて地に落ち、反動で小さく跳ねて、虚ろにぼやけて黒い(もや)となり霧散した。飛び散ったはずの血液も、一滴残らず消滅していた。

 遠巻きに見ていた聖も、その瞬間にやっと気付いた。
 自切である。外敵に狙われた蜥蜴(とかげ)が尻尾を自ら切り離すように、右腕を切り落として『得体の知れぬ攻撃』を警戒させ、二人の注意を逸らしたのだ。

 右腕の切断面をぎゅっと握りしめながら、結は痛みを感じているのか、それとももっと別の苦しみのためか、絞り出すような呻吟(しんぎん)の声をあげた。
 ぼたぼたと滴り落ちる血液は、見る間に赤から黒へと変わり、地に落ちたそばから蒸発して消えていく。

「こんな……こんな身体になって……狂っているのかいないのかも、自分じゃわからないんだよ……! ねえ、私はこんな事ができる奴だった!? 殺したくなんてないのに、どうして躊躇(ためら)えないのッ!?」
「……結……!」

 少女の姿をした魔物は、哀哭の、或いは惶惑(こうわく)の嘆きを、叩きつけるように吐き散らした。
 ──聖は、何も言うことができなかった。変わり果てた変わらぬ友を前にして、何を言えばいいのか、まるで見当がつかなかった。
 魔物は、今、涙なく泣いているのだろう。混然とした思考の中で、それだけは何となく解った。──耐えるように奥歯に力を込めながら、平静を装って小さく結んだ唇。その口元は、結がそうしている時と、全く同じ形をしていたから。

 兇闇も何か思うところがあるのか、額に汗を浮かべつつ、ゆっくりと剣を構え直した。腕を交差させて顔の横にぴたりと近付け、切っ先を自身の正面に向ける──『雄牛(オクス)』の構えだ。
 その『構え』に反応したのかは定かではない。ただその直後、結はまるで溜まった涙を押し出すように、ぎゅっと強く瞼を閉じて、再び開いた。より明瞭な赤色の光を両の瞳に宿して。

「私自身が信じられない私を……誰が信じられるもんかあッ!」
「待て、結! 自問できる理性があるなら──……くっ!」

 腕を振るった勢いに血液が溢れ出し、再び右手の形を取って、元通り固着する。
 猛進する黒爪の一撃を、横薙ぎの剣が受け止めた。そのまま剣を振り抜いた隙を突いて、もう片腕の爪が腹部へと突き出される。しかし兇闇は足さばきで瞬間的に身を引き、同時に翻る刃が頭部を狙った。結は咄嗟に腕を引き戻して防御し、致命の剣閃を僅かに逸らす。しかし斬り上げた刃の勢いは、そのまま上段の『屋根(フォム・ダッハ)』の構えに移行するための流れとなる。袈裟斬りと突きがぶつかり合い、お互いに逸らそうとして弾き合う──。

 一瞬一瞬の間に、十重二十重に折り重なる攻防が展開されていた。しかし如何せん、人外の力を手にしたとは言え戦術的には素人の結が、やや振り回されているように見えた。
 兇闇の動きは最小限で、両手がほとんど胸の前の空間から動いていないのに対して、結の方は大きく両手を振り回し、剣の動きに翻弄されながらも反応速度だけで対応しているように、聖の目には映っていた。

 それでも、二人は間違いなく、殺し合っていた
 聖はふらつく身体を抑え、後退りながら、震える指で頭を抱える。

「っ……ユイ……何が……もう、何なんですかっ、うううッ……」

 目前で展開される状況に対して、聖は為す術を持たなかった。
 兇闇に言われたように逃げることも既に忘れて、身を震わせることしかできずにいた。

 そんな聖の前に、まるで視線を遮るように躍り出たのはルシフェルだ。それは安全に結にのみ射線を通すための位置であり、聖自身を狙われた瞬間に即座に守れる位置でもあった。
 その移動に気付いたらしき結が小さく跳躍し、打ち合った剣との交点を、そのまま支点にして飛び退る。
 空中で身を縮めて防御態勢を取る彼女に、砕けたアスファルトの破片が弾丸のように殺到し、腹部を、肩口を、太腿を穿った。

「チッ、女の子の形してるモンを撃つのは、どうもな……」

 掌で小さな瓦礫の破片を弄びながら、ぼそりと呟くルシフェルを、結は既に闇で塞がった傷口を抑えながら悔しげに睨めつけ、顔を(しか)める。
 兇闇はそれを見て下段に構え直し、視線を逸らさずに鋭く叫んだ。

「ルッシー! ……なるべく無力化に留めたい。頼めるかっ!?」
「無茶言うなってェのッ! 戦場で甘ったれてッと死ぬぞ!」

 返しながら、彼は低空を()ぶように駆け、手にした破片を放り投げた。
 その(つぶて)は怒れる蜂の如く、それぞれが意志を持つかのように、うねる軌道を描いて追尾し、結の身体に突き刺さる。

 ──亜存在に対しては、ただ形骸(けいがい)を削っても意味がない。本体外皮を損傷させると共に、『感情』の波を、それを媒介に伝播させなければならない。
 故に、投擲や銃弾による攻撃は効果が薄い。殺意を喚起し、集束する媒介としては優秀だが、石礫も鉛弾も、そのものが意識を持っていないからだ。いくら強い指向性の感情を込められていても、発生源である本体から遠ざかれば影響力は失われていく。
 『魔法』はその性質上、虚数領域に発生する固有震動を伴うためダメージを受けやすいが──それでも、先刻から幾度となく身を削っている風弾魔法(ゲイルバレット)を幾度受けたところで、今の結にとっては致命傷には程遠い。

 だからこそ、その数発の礫弾(れきだん)が発生させる衝撃は、彼女が驚愕するには充分なものだった。
 それは、結の身体を大きく損壊させることこそ無かったが、無数の震動を一斉に叩き込んだ。まるで小さな波がいくつも干渉し合い、重合して巨大な波になるかのように、全く同じ方向から同一ベクトルに打ち込まれた衝撃波は、瞬間的に共振して結の身体を吹き飛ばしたのである。

「ぐっ……!?」

 傾いだ身を、追撃が襲った。
 背に光翼を展開して急加速したルシフェルが、掌上で圧縮した気圧弾を彼女の腹部に直接叩きつけ、零距離で炸裂させたのだ。
 攻撃行動による『感情』の伝播強度は、無論、その距離に反比例する。風の螺旋を纏った掌底を叩き込まれた結の腹部は、甲高い破裂音をたてて飛散し、その大穴で胴体を両断された彼女は、上半身だけの姿で夜天に放り投げられた。
 思わず息を呑む聖。
 回転しながら後方に吹き飛んだ結は、しかし器用に両手を使って地面を跳ね、体勢を立て直す。着地する頃には、彼女は再び元の五体を保った姿に戻り、服もまた破れ目一つ無く再生していた。

「痛ッてェ! さ……さっきから気になってたけど誰なの、そこのV系っぽい人!?」
「ぬぁ、俺としたことが……敵とは言え淑女相手に名乗りもしねえとはとんだ無礼を……」
「言っとる場合かッ!? 相互支援態勢ッ、崩すんじゃない!」
「わーかってるって!」

 疾駆し、逆袈裟に振り上げた兇闇の一太刀を、しかし結は両手を掲げて防いだ。青白い光が散り、刃を弾かれた兇闇は即座に身体を引いて構え直す。

「相殺波か……っ!?」
「殺意が軽すぎるんだよおッ!」

 続く爪の追撃を兇闇は剣で受け止め、二人はどちらからともなくバックステップを踏んで離れる。
 瞬間、上空に飛翔していたルシフェルの詠唱が夜の最中(さなか)に響き渡った。

「──(ゆが)みし塵よ、閻浮(えんぶ)の塵よ、(くら)(くら)みて(いびつ)に墜ちよ!」
「吹き(つど)颯声(さっせい)一縷(いちる)閃耀(せんよう)が如く成りん……!」

 その響きに呼応するように、結もまた凛と言葉を紡ぐ。

重圧魔法(グラヴィティ・フィールド)!」
加速魔法(ディストーション・アクセル)!」

 刹那、風景が捻れた。時空曲率が局所的に増大し、可視光が歪な屈折を経て距離感を狂わせる。

 『重力』──とは、即ち空間の歪曲である。万有引力とは、決して質量同士が磁石のように引き合っているわけではない。例えば柔らかなマットの上に重い金属球を乗せれば周辺が沈み込むように、質量によって空間が歪み、沈み込んでいるのだ。その傍らにもう一つ球体を落とせば、お互いの起こすマットの歪みと自身の持つ重量によって、二つの球体は引かれ合う。この歪みこそが『重力場』である。

 実数質量物質による影響をほとんど無視できる亜存在と言えども、それそのものが存在している『空間』の影響は受ける。
 そのルシフェルの推測と、行動自体は正しかった。唯一の誤算は、結もまた、それを直感的に理解していたこと。
 彼女は超重力の檻の中で同時に時空曲率を操作し、重力場を相互干渉させることで影響を相殺したのだ。

「ッ……こいつ、マジか……ッ!?」
「仕組みさえ解れば……今の私にならぁあッ!」

 天に向けて墜ちるが如く、結は跳躍一つを以てして上空の彼に向けて急激に加速する。
 応じてルシフェルもまた、舌打ちを零して急下降し、剣を振りかぶった。







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