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第十八話 光の最果、最果の闇




 鳴り渡る銃声。
 三八口径の鉛弾(えんだん)は、照準の定めた通りに(ゆい)の胸部を撃ち抜いた。

「んっ……!?」

 まるで眼前に恐るべき魔物か怪物でもいるかのように──実質その通りなのだが──若い警官は錯乱し、威嚇射撃すら行うことなく、銃口を真っ直ぐに正面に向けて発砲したのである。

 彼にとっての不幸を挙げるなら、この国の警察機構の訓練プログラムが、人間以上の化物を相手にした場合の対応を想定していなかったことだろうか──それとも、この場に居合わせてしまった時点で、どうしようもなく不幸だったのか。
 恐怖や迷いによって撃ち込まれた弾丸は、亜存在にとって何の脅威にもならない。小さな金属の塊は、魔物に対して傷の一つも負わせること(あた)わず、闇に喰われて掻き消える。
 混乱した彼の頭が、その事実を理解できたかどうかは定かではない。
 ただ、焦燥が指を震えさせ、照準が──僅かにぶれた。

 そして────突如として身体に走った衝撃に、一瞬、(ひじり)の視界は真っ白に弾けた。

 落雷でも受けたかのような痺れと、ぞわりと吐き気を催す(いや)な灼熱感が、感覚のない左肩から全身に渡っていった。
 真冬の気温で冷え切った肌に、生温い感触が弾けるように広がる。
 遅れて、耳に飛び込んだ銃声を、凍てつきかけた脳が捉え──聖はその時になって初めて、何が起きたかを理解した。とくん、と心臓が一つ鳴り、肩にぽっかりと空いた穴から多量の血液が溢れ出た。

「いッ……ぎ……ぁあああ……ッ!」
「聖っ!?」
「っ……ひじりん!」

 魂を直接突き刺されるような想像を絶する激痛に、聖は掠れた叫びをあげ、崩折れるようにして路上に倒れ伏した。
 肉を抉り、骨を砕き、神経を引き裂いて、銃弾は聖の身体を貫いていった。その銃創の前からも後ろからも、鼓動の律動(リズム)に合わせて温かな液体が(こぼ)れ出し、(なまぐさ)い鉄の匂いが広がってゆく。
 もはや全ての考えは吹き飛んでいた。いっそ意識を手放せたなら、どれほど楽な事だろう。しかし、聖の身体はそうさせてくれなかった。じっとしていれば気が狂いそうなほどの痛みが脳を掻き毟り、かと言って僅かでも動けば殊更(ことさら)に痛みが増すため、のたうち回ることもできない。今の聖にできることは、ただ呻き声を上げながら身体を震わせることだけだ。

「聖ィッ!」

 兇闇がその傍らに駆け寄り、左手を高く掲げながら跪いた。
 並の遠距離魔法よりも遥かに小さく高速な銃弾は、銃撃を見てから防御するのは難しい。相手が構えた段階で、強力な輝光壁(シールド)を張っておく必要がある。故に、それは彼女を盾で守りながら、いざとなれば即座に剣を使える体勢だった。
 しかし、そうやって全ての危険因子に目を向けようとしたからこそ──彼は、気付く。ざわりと長髪を(うごめ)かせた結の、憤怒を顕にした表情に。

「てッ……めェええぇあァァッ!!」
「いかんッ、結! 駄目だッ!」

 制止する言葉を言い終えるより前に、アスファルトを踏み砕いて少女は跳躍した。今やその身体の大半が暴力的にうねる闇に変容し、猫のような癖毛の先は暗黒の(ほむら)のように揺らめいている。
 振り下ろす爪の一撃は、人間を容易(たやす)く肉塊に変えた。激しい血飛沫の中で、(ひしゃ)げて潰れた肺が断末魔の悲鳴を奏でる。瞬きを一つすれば、隣に立つものも、また同様の末路を辿った。

「畜生ッ……ルッシー、聖を頼む!」
「気ィつけろよっ!」

 今の騒ぎの間に立ち直っていたらしいルシフェルが、倒れる聖に向けて低空飛行で一息に接近する。
 同時に、弾かれるように駆け出した兇闇の一撃が、暴走する彼女の片腕を斬り落とした。跳躍。距離を取り、再びの剣閃──。

 涙で滲む視界ではその姿を捉えることもできず、聖は苦痛に喘ぎながら、諦めるように目を閉じた。
 僅かながら痛みが鎮められているのは、骨を粉砕されたがために大量分泌された脳内麻薬(エンドルフィン)の働きだろうか。血まみれの身体に触れる体温に身を強張らせながら、聖はほとんど無抵抗に抱き起こされた。長い銀髪が風に揺れ、頬に触れる。

「う……ぐぅっ……あ……」
「大丈夫、弾は抜けてらァ……得意分野じゃねーからさ、まだ痛みは残るだろーが、勘弁な」

 ぐちゃ、と不快な水音を立てて、彼の掌が服越しに傷口を押さえた。痛み、というよりは、痺れた手足を掴まれるような電撃にも似た衝撃に、聖はびくりと身を仰け反らせる。

(ひたた)に湧け、生命(いのち)光耀(こうよう)──……回復魔法(キュア)

 柔らかな光が、体内に差し込まれた氷をゆっくりと溶かすように暖かく、聖の全身に染み渡っていった。
 (いや)──それを光と認識しているのは、目を閉じている聖の意識によるものだ。何か不可思議な力の波のようなものが、さながら眠りを誘う揺籃(ようらん)の如く、聖の身体を包み込んでいた。
 左肩の傷が熱い。灼熱する傷の痛みとは別に、全身の体温がその一点に凝集しているかのように強く、熱を持っている。
 痛覚はまだ残っていたが、身体に穴を穿(うが)たれているという(おぞ)ましい不快感が、急速に薄らいでいた。

 赤く暗い、瞼の裏の闇をじっと眺めながら、聖は、自分の頭にそっと掌が置かれるのを感じた。

「……言ったろ。いくら強くたって、人が背負える生命は自分とあと一つが限界だ。死んだら終わりだぜ、危険な真似は……俺らに任せろ」

 ゆっくりと目を開ける頃には、既にあの激痛は過去のものとなっていた。滲むような疼痛(とうつう)は神経を締め上げ続けていたが、動けないほどの痛みではない。
 ぼやける夜の景色の中に、傷だらけのルシフェルの顔が映る。群青の瞳が、ひどく虚ろな聖の表情を映し返していた。

「でもま、悪かねえ度胸だ」

 笑顔とともに言葉を残し、彼は立ち上がり、驀地(ましぐら)に──()ける。(せな)の光翼が夜を裂き、(ひるがえ)る刃は、兇闇(まがつやみ)を狙って振り抜かれようとしていた結の右脚を両断した。衝撃にぐらりと(かし)ぐその身を、追撃の刃が更に斬る。

 粘性を持ってべたつく血溜まりから、聖は掌を引き剥がした。一気に血を失ったせいか、頭が鉛のように重い。
 ふらつきながら膝をつき、痛む左肩を押さえれば、既に流血の気配は無かった。先程の回復魔法とやらの効果か、この短時間で既に治癒しつつあるらしい。
 戦場に目を()れば、既にパトカーが一台破壊されていた。それもただの破壊ではなく、まるで車輌の中間部分を切り取って消してしまったかのように、端の僅かな部分を残して、ごっそりと削り取られている。

「邪魔をッ……するなよお──ッ!」

 人ならぬ者の(こえ)。奇妙に震えるノイズを(まじ)えて、結は兇暴(きょうぼう)()える。
 姿形は(いま)(いとけな)い少女のようでありながら、びりびりと空気を揺るがす、獣王の咆哮の如き気迫。その両眼(りょうがん)()めつける先で、二つの影が大地を蹴った。
 二本の刃は風を纏って瞬間的に距離を詰め、左右から結の姿を捉える──刹那、彼女は両腕を交差させ、黒く歪んだ鞭で足元のアスファルトを打ち砕いた。削り取って消滅させるのではなく、体表面を硬化させ、飽くまでも物理的衝撃によって破壊したのだ。

「む……ッ!」

 めくれ上がって宙を舞う舗装材の石版のような破片を、結は両の手で正確に(つか)み取り、剣風に合わせ左右に向けて突き出した。
 いかに鋭い鋼鉄の刃も、岩石の類を『切断』することは難しい。劈開(へきかい)性の高い鉱物ならば『破砕』することは比較的容易だが、舗装材に用いられるアスファルト合材は、コンクリート等に比べて柔らかく砕けにくい。幾度も衝撃に耐えることは難しいものの、使い捨ての盾としてならば、これ以上ない適材だった。
 黒く(いびつ)な塊に、振り抜かれた刃は突き立って阻まれる。武器に込められた殺意の波が、その一瞬、押し留められる。微風(そよかぜ)に揺れる蝋燭の()のように、感情の余波を受けた両腕が波打った。
 反撃の好機。そう即時に判断したか、結は舗装材の板を掌上(しょうじょう)で滑らせ、(やいば)の軌道を斜めに逸らして微かに身を屈めた。
 しかし。

輝光壁(シールド)だッ!」
「応っ!」

 そこから続く攻撃よりも僅かに早く、打ち込まれる掌底が彼女の両腕を弾き飛ばした。──左手そのものによる攻撃ではない。輝光壁の持つ重力場、即ち『局所的な空間歪曲』を正面からぶつけ、曲率差によって剪断(せんだん)したのだ。

「くっ……!」

 機先を制され、結は(たわ)めた身体を()ねて上空へと()んだ。そのまま宙空で回転し、垂直に落下しながら、再生した両腕を叩きつける。
 高速ではあるが、直線的な軌道だ。眼下の二人は風の反動を(もっ)て弾かれるように跳躍し、その一撃を(かわ)して構えを取り直した。

「威力は増したが……さっきよか、やりやすいんと違うッ!?」
「……これくらいが普通だ。本来はな」

 二人の亜人はどちらからともなく円を描くように駆け、残ったパトカーに向けて放たれた漆黒の槍のような一撃を、兇闇が光壁を以て弾いた。睨めつける(あか)双眸(そうぼう)(ゆが)む。続く追撃もまた、直線的な刺突。兇闇はそれを水平に斬り払い、青白い魔力の幽光を散らして左手を掲げた。

「──光弾魔法(エナジーボルト)!」

 破裂音。
 大気の組成物質に電磁気によって干渉し、精密に生成された高エネルギー電磁波は、極小の磁場によって束ねられて不可視の矢弾と化した。
 それは、人間に対して撃てば、ちょっとした衝撃(ショック)を与える程度の弱いパルスレーザーを放つ魔法である。ルシフェルのように、膨大な魔力を瞬間的に扱えるなら、鉄板を穿つくらいは可能かもしれないが──少なくとも、兇闇の技術力ではそこまでの芸当は出来ない。

 しかし、レーザーとは紛れもなく光であるが故に、光速で着弾する。攻撃の性質を予め見切らなければ、視認してからの迎撃は不可能。
 気体干渉による減衰を防ぐために形成された、帯状の真空(ガイドライン)を辿って、光の矢は結の膝を射ち──走る衝撃(ショック)に、波打った脚部が円形に弾けた。

 今まさに駆け出さんとしていた彼女の身体は、一気にバランスを崩して前傾し、地に突いた両手首を捻って咄嗟(とっさ)に身を跳ね上げる。光翼を広げ加速したルシフェルが、宙に浮いた姿を捉えた。斬撃に胸元を裂かれながら、結は残った片足で虚空を蹴り、(すんで)の所で追撃を逃れる。

 兇闇は上空の攻防を眺めながら、叱咤するように、左手で背後の車の扉を打った。

「……逃げろッ! 早く逃げろ、死ぬぞッ!」

 運転席に残っていた男の表情(かお)は定かではない。いかなる言葉を発したのかも不明瞭だ。しかし、彼はその一言で我を取り戻したらしく、甲高いエンジン音を上げながら後方に急発進し、夜の闇へと消えていった。
 兇闇は僅かに安堵したかのように小さく吐息を漏らし、剣を両手で持ち直して正眼に構える。

 その視線の先で、結は獣じみた四ツ足の体勢で電柱に爪を引っ掛け、今まさに飛びかからんと真紅の瞳の焦点を彼に合わせていた。
 弦音にも似た、(くう)を裂く風籟(ふうらい)。鳴り渡る喊声(かんせい)のような、奇妙に重合した裂帛(れっぱく)の叫び。その流星の如き激情を、一振りの剣閃が()つ。
 落とされた腕は漆黒の(もや)となって掻き消え、更に交錯際に繰り出される蹴撃を、兇闇は瞬時に重心を落として二の太刀で斬り上げた。結は地面を片手で跳ねて転がり、兇闇は素早く構えを下段に移行させ反転する。

 ──異変が、発生しつつあった。

 ルシフェルが攻撃に備えて上空に飛翔し、その瞳で捉えたのは、切断された肩と脚から不定形の影を揺らめかせ、立ち上がることなく地面に手をついて(うめ)く結の姿だった。
 先程までの調子なら、あの程度の損傷は受け身を一つ取る間にも全快し、空中で手脚を落としたところで、地に落ちるまでには四肢を再生して立ち上がって見せただろう。
 兇闇もそれに気付いたらしく、迎撃に適する下段の構えを、すぐさま上段に構え直した。

「ぐ……うっ……!」

 震える膝と片腕で、地に転がった結は苦しげに唸り、上体を起こす。揺らめく暗黒の帯が(あざな)われ、僅かずつ手足が再構築されてゆくが──これまでと比して、致命的に遅い。

「あいつ、再生が……!?」
「詰め切るッ!」

 光翼をはためかせて戸惑うルシフェルの声に、兇闇は迷いなく言い放ち、驀地に疾駆した。
 新月の闇を裂く剣の煌めきは、電灯から降り注ぐ(しろ)い光を反射して、さながらそれ自体が凝集した閃光そのものであるかのように、(さん)と流れ、夜天に閃いた。
 ひゅん、と短く()く刃音が、結の(くび)を真っ直ぐに捉える。
 純黒の闇に、光が突き立とうとした──瞬間。

「嘘……だよ」

 闇に覆われていた腕と足が、一瞬で再生した。
 同時に、地についていた結の片手が、黒い塊を掴んで突き出される。先程も防御に用いた、アスファルト合材の断片を。

 ──硬質な音を立てて、刃の切っ先がその歪な盾に阻まれ、ほんの僅かに食い込んで止まった。腰に構えた彼女のもう片腕は、数瞬の後には彼の心臓を貫いているだろう。

 白い瞳に映り込んだ、彼女の表情が、舗装材の欠片に隠れてゆく。
 赤い瞳に映り込んだ、漆黒の闇から、彼の表情がまた露わになる。

 その口許(くちもと)は──ひどく穏やかに、言葉を紡いだ。

「──知ってたさ

 舗装材の盾の向こうで、彼は──既に、剣を捨てていた。

 たとえ自分の掲げた腕に視線を遮られていようとも、光に縛られない彼女の視界には全てが見えていた。だからこそ、彼女は取るべき動作を止めなかった。
 兇闇は、片腕で緩く握った剣を、防がれると同時に手放し──懐のベルトに吊られた短刀を抜き、一瞬で構えていた。
 疾走の勢いを殺されることなく、彼は、渾身の殺意を纏った白銀の刃を滑らせる。迎撃のため即座に放たれた結の貫手は、その輝きの前に両断されて再び霧散した。
 支えを失った長剣が、弾かれた勢いのままに上空に放り投げられて────落ちる。
 懐に潜り込んだ彼の一突きは、ちょうど、彼女が人間だった頃は心臓のあった位置を正確に刺し貫いていた。

「……悪戯を企んでる時のお前は、無理して普通っぽい表情を作るせいか……猫口になるからな。すぐ解る」

 凍てついた世界。憂いを帯びた白い瞳を、音もなく(なび)く栗色の癖毛が覆い隠した。
 そして、次に風が吹いた時、見棄てられた人形のように力を失った肢体が──ゆらぎ、倒れた。

 胸に穿たれた風穴は、揺らめく影に覆われながらも、それ以上塞がることはなかった。







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