TOP文章サダメノハテ>第十五話


第十五話 燈火(ほのお)(ひかり)




 皓々(こうこう)と照りつける冷たい光の、(からか)うような慰撫を受け、(ひじり)は、浅い微睡みの中から目を()ました。

 今や見慣れた、彼の部屋の天井。張り詰めたと言うよりは、緊張が切れて(たわ)んだような、どろりとした静寂。
 身体的疲弊からか、精神的憔悴ゆえか、いつしか眠ってしまったようだ。隣に座って髪を撫でてくれた温もりが、記憶の中に微かに残っている。
 身(じろ)ぎを一つすれば、体中の真新しい傷口が一斉に痛みだし、聖は小さく呻き声を漏らした。

 周りに人の気配はなく、寂寥がじわりと沁み入って心臓に絡み付き、(はら)の底に重く伸し掛かる。──時刻は午前零時を回った頃。二人は(くだん)の『定期報告』のために、外に出ているのだろう。確か、ルシフェルの移送について相談する必要があると言っていたはずだ。
 不安が消えたわけではなかったが、それよりも今は、安堵が僅かに優っている。

 仰向けに吐き出された吐息は、流れ着く先もなく淀む溜池の泥のように、大気の中、透明に濁る。

 あの後、螢一(けいいち)は──いや、その名も偽りなのだったか──深い安堵と悔悛(かいしゅん)()()ぜに溜息に込め、

「機密守秘義務のため、俺の権限で明かせる範囲でしか話せないのだがな……」

 と、そう前置きをしてから、ゆっくりと言葉を選び、真実を聖に語り聞かせた。

 曰く、あの黒い化物は、存在を知る者には『亜存在(あそんざい)』と呼ばれており、世界中で少なからぬ量の犠牲者を出しているという。
 条件が揃わなければ視認することすら覚束ないという不定形の身体に、銃火器や刃物を(ことごと)く無効化する防御能力。──そして何より、いざ遭遇すれば積極的に人を襲う攻撃的性質。
 個体の危険性は、そこらの害獣の比ではない。
 そのものの個体数は少なく、また、人口密集地域を避ける習性のため、一度の被害が大規模化することは少ないのだが、人知れず失踪する一人、謎の通り魔の犠牲になる一人の積み重ねは、人類にとって──より正確に言うならば諸国政府にとって、決して看過できるものではなかった。
 蜂に駆除業者が必要なように、熊に狩人が必要なように、『専門家』が求められた。

『……じゃあ、それが……ええと』
『飽くまで本名ではないが、今は《兇闇(まがつやみ)》あるいは単に《闇》と呼ばれ区別されている。日本に寄越されている間はな』
『……マガツ、ヤミ……さん?』
『ん……』

 重く濁った肺腑の空気が、針のように鋭く(こご)り、ちくりと内側から胸を刺す。
 ただ呼び名を改めた、それだけの取るに足らない違和感が、目の前の現実と重なって聖の心を締め付けた。
 心裡(しんり)の自覚は、己自身をひどく滑稽な子供のように思わせる。彼女は静かに奥歯を噛み締め、口を噤んだ。沈黙の中で物言いたげに伏せられた彼の睫毛(まつげ)は、深雪(みゆき)の如く白い────。

 ──渾然とした記憶が泡のように浮かんでは消え、聖はようやく、重い身体をベッドから起こす。
 音を立てて刻まれる秒針の単調な律動だけが、時の流れを声高に主張し、思考の停滞を妨げていた。精神も肉体も疲弊しきっていたが、考えねばならない事は()だ幾らか残っている。

 質素な(テーブル)の上に、紅茶のカップで留め置かれたメモには、やはり、彼らが報告のため外出している旨が書き記されていた。
 重い瞼を擦りながら、冷たいカップに口をつければ、微かな柑橘混じりの香りと、強い甘みが口腔に広る。アメリカ南部で好まれる、スウィート・ティーの特徴的な味付けだ。糖質が多すぎるからと言って普段はあまり作らなかったが、聖が落ち込んでいるのを見ると、彼はよくこれを出してくれた。

 甘く爽やかな味わいは、寝起き間際の渇いた喉に染み渡り、疼痛(とうつう)にも似た憂鬱を静かに癒していった。
 目を閉じれば、いつから降り始めたのか、しとしとと霧雨の降る気配が窓越しに感じられる。規則的に空気を揺らす雨音は、(かえ)って静寂を強調していた。

「……ふぅ」

 呼吸は、澱のように沈んだ空気を微かに震わせ、秒針はまた一つ時を刻む。

 ──かの『亜存在』は、剣閃に裂かれて消えた。
 されど、兇闇はその消え方を『どこか不自然だ』と言った。今回の件には他にも奇妙な点が多くあるらしく、恐らく調査のために人員を増やし、まだ(しばら)く滞在することになろう、とも。
 そもそも彼らは、単に駆除のみを役割として派遣されているわけではなく、どちらかと言えば、調査や研究の方が主立った目的であるという。

 数日、ないし数週間──それが終われば、彼もこの地を去るだろう。

 得体の知れない焦燥感だけが、結論も出せないまま胸中に渦巻いていた。思考は主観的な願望と客観的な正しさの矛盾の中に摩耗して停止する。
 自分は今、どうしたいのだろう。
 どうしなければならないのだろう。

「先輩……ここに、居てくれない……かな……」

 口にすれば、気まぐれな神が聞き届けてくれそうな気がして、呟きを吐息に乗せる。
 あまりに空々しい響きに、思わず自嘲の笑みが零れた。自分自身が既に諦観しきっている願望を、叶える神などいるものか。

 吐き出された心裡の残渣(ざんさ)は、甘い紅茶の香りごと、冷たい風に(さら)われて、撹拌(かくはん)する。
 ──そう、風に
 大気圧差が引き起こす流動は、聖の目の上を覆う黒髪を、微かだが、確かに揺らした。
 完全に安定していた筈の、室内の空気圧が、静かに揺れ動く。

「──……え」

 窓が開いていた
 黒々と塗り潰したような、透明な夜の闇が、その向こう側に広がっていた。

 緩やかに吹き込む静謐な冷気は、衣服の隙間から全身を逆撫でし、ざわり、と皮膚を総毛立たせる。

 『扉を開けるな。窓を開けるな。一人では外に出るな』
 彼は、そう言っていたはずだ。亜存在を完全に消滅せしめたか否かが不明瞭な現状において、安全確認が終わるまで、念のため迂闊な行動は避けるべきだと。
 奴らは物質を自在に破壊できるが、それはただ攻撃行動に付随して発生する現象に過ぎず、移動の為にその特性を活用する個体は見られない。換気口のような狭い隙間が開いていても、奴らはそもそも通ろうとしないのだ。自分には通れないと思い込んでいるかのように。
 だから『入り口』を開けてはならない。
 奴らが『通れる』と思うような道を作ってはならない。
 兇闇は、確かにそう教えた。聖はそれを覚えている。

 ──では、その道を『不明な第三者』によって作られた場合は?
 その現象は、果たして何を意味するのか? 如何に対処するのが最善手なのだろうか?

 鏡面の曇りを拭うように、瞼は幾度も瞳を覆い、結んでは開いた。両眼に映り込む像は、幾度拭われたところで尠少な揺らぎも見せず、鮮明に現実を照らし──

 ふつ、と緞帳(どんちょう)を切って落としたように、咫尺(しせき)(べん)ぜぬ冥闇が訪れた。

「──……ッ!」

 揺蕩(たゆた)う気体分子の全てが(すす)か漆で覆われたかのような、透明にして濃密な闇。あの時──駅前のドーナツショップで発生した、局所的な停電と同様の現象だ。
 半ば凍てついた脳の信号が、僅かずつ集積して、やがて一つの解を下す。

 ──聖を狙っているのだ

 最初に視線を受けてしまった瞬間から、恐らく標的として認識されていたのだろう。思えば亜存在(あれ)は、初めから他の人間には目もくれず、間に立つ『障害物』だけを鬱陶しげに払いながら、聖だけを執拗に追ってきていたではないか。
 震える闇の中、脊髄に突き入れられた刃のような恐怖感が、全身の皮膚を(あわ)立たせた。
 ──ならば、どうする。何をすればいい──?
 聖は、頬に浮いた汗を拭う余裕すらなく、自問した。今にも破裂せんばかりに暴れる心臓を、震える腕で押さえつけ、素早く周囲に視線を巡らせる。

 暗闇の向こうに影は見えず、ただ、自身の荒い呼吸音だけが、冷たい静寂を引っ掻くように(こだま)していた。
 不意に吹き込む風が髪を揺らし、無数の気配が背後に(うごめ)く。しかし、息を呑んで振り返っても、暗闇に慣れ始めたばかりの瞳には、何も映らない。注意深く物陰を見つめようとした直後──ひやり、と、首筋に気配が触れた。

「あ……う、わああああああッ!」

 脳髄を満たした恐怖が、遂に弾けた。
 声にならぬ叫声をあげ、闇雲に振り回した手が机の上のコップを倒し、内容物を床にぶち撒けようと、もはや気にしている余地はなかった。聖は勢いのままに扉を開けて外へと飛び出し、靴下越しにコンクリートの冷たさを感じながら、とにかく広い所へと駆ける。

 その気配がただの風による錯覚だとしても、物陰の微かな蠢きが恐怖の見せた幻覚だとしても、憔悴しきった聖の精神には耐えられるものではなかった。
 瞬間的な錯乱は、惶惑(こうわく)の余韻を引いて、押し寄せる思考に呑まれた。──真っ先に扉を開けて外に出たのは早計だったかもしれないと、今更ながら思い当たる。いずれにせよ、あの部屋が安全とは思えない以上、既に戻ることはできない。もはや聖が取るべき行動は一つ、速やかに兇闇たちを探し、合流して、異常を報せなければならない。

 舗装路の凹凸が、布越しの足裏に食い込む。震えて鳴る奥歯を食いしばって痛みに耐えながら、聖は形振(なりふ)り構わずに走り抜けた。
 彼の名を呼ぼうとして、一瞬、躊躇(ためら)いが声を押し殺す。
 開けた道路の中央で、電灯の明かりを頼りに、聖は足を動かしながら辺りを眺め見た。

「──は……ぜっ……はあッ……!」

 静まり返った夜天に、澄み渡る透明な闇。
 瞳を巡らせる限り、此方(こなた)より彼方、上天に至るまで、異質な黒色の影は見当たらず、町そのものが氷河の眠りの内にあるが如く、ぴんと張り詰めた冷たい停滞が全てを支配していた。
 人も、車も、獣も、虫さえも、深い夜の底に息を潜めていた。
 遥か高空の雲の流れがなければ、時そのものが静止してしまったのではないかと見紛うほどに。

 恐らく、駅前の大規模爆発事件は、既に憶測混じりに報道されていることだろう。ガス爆発か、大陸絡みのテロリズムか──いずれにせよ、現場に程近いこの区域において、深夜の外出を控えるには充分な理由だ。
 聖は静寂の理由を、脳の片隅でそう結論付けた。

 ああ、彼らは、この眠れる町のどこにいるのだろう。携帯端末を咄嗟(とっさ)に持ち出さなかったのは失敗だったかもしれない。それにしても、あの窓を開けたモノも、影も、なぜ姿を現さない?
 思考の奔流に過熱する脳へ、冷えた酸素を必死に送り込みながら、聖は痛む踵をまた打ち付ける。


 ────金の、糸。


 舞台照明のように頭上から降り注ぐ、古い電灯の瞬きが、ちら、と風に遊ばれる(かす)かな煌めきを捉えた。

 踏み出した足の勢いが、止まる。相応の恐怖と、危機感を以てして、突き出されていた筈の足が。
 転瞬のうちに見失った一縷の光は、雑音めいて混淆(こんこう)していた聖の思考のすべてを攫い、脳髄を痺れさせた。
 それが果たしてであったのか──視認し、理解できたわけではない。しかし、理解するよりも前に、一際大きく鳴った鼓動に導かれるように、聖は身体を動かしていた。その光の流れ来た先に、視線を向けるように。

「──……あ」

 乱れていた呼吸が、凍てついたように堰き止められる。
 小さな公園の入口で、車両止めの柵に腰掛け、彼女は聖に視線を投げ返していた。長毛種の猫のような癖毛を冷たい微風に靡かせながら
 見覚えのある制服は、心なしか少し草臥(くたび)れたようにも見える。
 息を呑み、目を見開いたまま硬直する聖に、彼女は視線を泳がせながら、ばつが悪そうに頭を掻き、曖昧に微笑んだ。

「えーと……なんか、ゴメン。心配……したよね、ひじりん」
「っ……ユ、イ……!?」

 名を呼ぶ声は、からからの喉に(つか)えて掠れた。──再会を喜ぶばかりの声ではない。当惑と疑念を多分に(はら)んだ、狼狽(ろうばい)の声だ。
 血痕を遺して行方知れずとなったきり何の音沙汰も無かったはずの彼女が、よりによってこの場所に居るという事実は、異常と言って余りある。
 ──しかし、この瞬間、即座に平静を取り戻すには、聖にとって霧島(きりしま)(ゆい)という存在は重すぎた。なけなしの理性を上回る程に、彼女の摩耗した感情は、涙に滲む親友の姿形を、かつて感じた体温を求めてしまっている。

「……ユイ……っ!」

 強い瞬きで、瞼に溜まる涙を押し出し、ただ確かめるように再び名を呼ぶ。
 駆け寄ることも、咄嗟に逃げ出すこともできなかった。本当に彼女なのか。それとも罠か、幻か──しかし、だとしたら、どうしたら良いのか。混乱を極めた聖の脳髄では、いかなる結論をも下すことができなかったのだ。
 結は座っていた柵から飛び降り、一瞬だけ嬉しそうな笑顔を作って何かを言おうとしたが、躊躇いの(かげ)りと共に、差し出しかけた右腕を抑えた。
 悲しむような恥じるような、複雑な表情をして、結は、所在無げに伸びかけた手を胸元できゅっと結ぶ。──彼女のこの顔を見るのは、いつぶりのことだろう。不器用な聖には気の利いた言葉をかけてやることもできず、いつもいつも、ただ黙して隣に居ることしかできなかった。
 結の桜色の唇が、小さく開く。何かに怯えるように、震えながら。

「ゴメン。ゴメンね、ひじりん……あんま、時間があるわけでもないからさ──……」

 ──炸裂音。

 ローファーの踵に踏み抜かれた赤煉瓦(レンガ)の床が、抉れるように砕けて散った。
 轟音とともに、白く円を描く衝撃波の中心を抜けて、少女の姿が肉薄する。凄まじい風圧にぴくりともせず、まっすぐに聖を射抜く瞳の色は、熾火のように(あか)く、赤い。

「な……っあ……!?」
「────聖……ッ!」

 見開いた両眼に映り込んだのは、強く、強く奥歯を噛み締め、今にも泣き出しそうに歪んだ表情。
 疾走する勢いのまま、胸の中央に突き入れられた腕の衝撃に、聖の身体は宙に浮いた。







inserted by FC2 system