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第十一話 異邦の風舞い叢雲を裂く




 星の(またた)きは淡い残光に(くら)んで薄れ、月の見えぬ夜天は、冥々たる凪の海原にも似て冴え渡る。
 あるいはその暗澹、彼女の行き着くべき末路の色か。
 (ひじり)(くう)水面(みなも)に波紋を刻むように、また一つ、小さな靴裏をアスファルトに打ち付けた。

 ──もしも。
 もしもあれが、ただの無差別殺人者であるならば、他の客や通行人に目もくれず、これほど離れた聖たちを追ってくることはあるまい。
 しかし、返された答えは『(いな)』。
 即ち、それは明確な目的を持って、聖たちを狙って来ているという事を意味する。

「畜生ッ、ありゃヤベェな! 何がヤバイってもうヤバイ事がヤバイ! マジヤバイ!」
「さ、さすがにワシも……あんなんに狙われる覚えはないのォ……」

 男たちが喧しく騒ぎ立てる声にも、次第に強く、焦燥と惶惑の色が滲む。
 ()もあらん。彼らがどのような非合法的で過激な日常を送っていたと仮定しても、あれはその上をゆく『異常』だったことだろう。

「はっ……あ、はぁっ……ぐ、げほっ……はあっ」

 聖は何か声をあげて問おうとしたが、息急くあまり嗚咽に(つか)え、()むこともできず唾を散らした。
 隙間なく冷水で浸されたかのように凍てつく肺腑を、怯えて暴れる心臓が横合いから強かに()ちつける。口は半ば不随意に、酸素を求めて大きく喘いだ。
 整理のつかない感情の錯雑が、ただ生存本能のもとに一つへと(あざな)われ、震える足を動かしていた。

 (やが)て、どれほど歩を数えたか知れぬ頃。前をゆく男たちは、慎重に周囲の様子を伺いながら速度を緩め始めた。
 次第に小さく、まばらになる跫音(きょうおん)と引き換えに、耳孔の奥から打ち鳴らす早鐘(はやがね)()が、不快な朝の日の目覚ましのように頭痛を自覚させる。

「……撒いたかよ、流石に?」
「判らんな……はて、人の多い方と少ない方、どちらに行くべきか」

 聖は、顔中に纏わりついた前髪を乱暴に払いながら、肺に(こご)る気塊を絞り出すように、音を立てて息を吐く。周囲に注意を向けるどころか、自分の震えを抑える余裕すら無いままに。
 一陣、乾いた風がアスファルトを舐め、コートの裾がはためいた。
 長く垂れた金髪の向こうで、スラぼうが苛立たしげに指を噛む。

「……そも、あれの狙いが読めんのォ。巻き添えを食わんよう、バラバラに逃げた方がよいやも──」

 卒爾(そつじ)、一際に高く、ひゅう、と風が()いた。
 ──それだけだった。肌を打つ音も、肉を裂く音も、骨を砕く音も無く、ただ一瞬の風に吹かれて木の葉の散るように、続くべき言葉ごと、時はひとつの生命を(さら)って消えていた。

 主を失った腕が片方、取り残されて、ぼとりと地に落ちる。
 やけに綺麗な切断面から滲み出した液体が、アスファルトを黒く染めていった。

「なッ……は……?」

 見開かれた四つの眼はいずれも喫驚(きっきょう)の色に滲み、明瞭な視界が(かえ)って認識を曇らせる。眼前で進行する事象が、全て紛れなく現実であるという不変の認識を。

 その動きは見えなかった。ただ、気付いた時には結果が提示されていたというだけだ。
 首を(もた)げる暗黒は、近くで見れば奇妙に巨大で、畸形(きけい)の如く歪んだ体躯は、きっと立ち上がれば教室の天井よりも高く伸びることだろう。
 目──のような、小さく瞬く一対の光が、恐嚇(きょうかく)するように明滅する。
 その眼光に射抜かれた瞬間、聖の麻痺しきった脳髄の縛鎖が僅かに(ほど)け、凍てついた全身の細胞一つ一つが一斉に破裂するような爆発的な恐怖が、震慄(しんりつ)となって表出した。

「うわっ……あああ……!」

 怯え、後退(あとじさ)る聖の姿を見眇(みすが)めて、異形の漆黒は、まるで人間がそうするのと同様に首を傾げる。
 聖の引いた片足を追うように、それは関節の見えない腕の指らしきものを広げて、ひたりと地につけた。

 ──風切り音。
 聖の肩を掠めるほどに近くを、すり抜けてゆくものが一つ。

「……ッの野郎ォ!」

 果たして如何(いか)なる感情に由来した衝動かは知るすべもないが、残された男は一人、激しい叫喚と共に駆けた。
 緩慢に持ち上げられた漆黒の首──らしき箇所を目掛けて、振り抜かれた特殊警棒が(しな)り、紫電の如く打つ。
 ──されど、一閃に振るわれた黒い金属の光条は、回避の素振りすら見せない『影』に呑まれた瞬間、棒きれがへし折れるよりも簡単に、一切の抵抗なく消滅していた。

 聖は、仔細な理屈を抜きにして、直感的に理解した。
 触れれば、ああなる。それが何であっても、誰であっても──恐らく自分も──あの影の輪郭に触れた瞬間、きっと削れ散って消えてしまうのだ。攻撃を加えられれば防ぐことはできず、こちらから攻撃を加えても何一つ影響なく呑み込まれるのみ。

「ざッ……けんなよ、糞が……!」

 皮肉めいて澄む冥闇の下、眩暈に(くら)む視界の向こうで、それでも彼は闇と対峙し続けていた。
 (まばた)きと共に零れ始めた涙のせいで、男の姿は超現実主義の絵画にも似て揺らいで(ひず)み、形状を留め置かず宵闇に滲む。叢雲(むらくも)が空を蝕むように、景色の中にぼやけて、融ける。

 ──その変容は果たして、本当に、涙だけによるものだろうか。
 真実を確かめる余地はない。……彼の攻撃によって『影』の注意が逸らされた瞬間、聖は、縄を解かれた野良犬の如く、その場を背にして逃げ出していたのだから。

 悲鳴のような息を吐きながら、夜闇を掻いてひた走る。
 眼前に見せつけられた冷酷な現実は、確実に歩み寄る『己の死』を、いよいよ聖に実感させた。
 ──自分も今から、ああやって死ぬのだ。
 その実感は、疲弊しきった聖の両足に鞭打って、とうに限界に達しつつあった身体を無理矢理に突き動かした。
 後背で何が起きているのか、気にかけている余裕はもはや無い。この足で逃げたところで逃げきれないのは分かっているが、それでも今の聖には、無様にこけ(まろ)びながら、出鱈目に逃げることしかできなかった。

「嫌ッ……やだ……もう嫌だっ、こんな……」

 唇から漏洩する言葉は、文章の体を成してはおらず、ただ、今にも狂いそうな精神の軋む音のようなものだ。
 足が縺れ、バランスを崩して投げ出されかけた身体を、ふらつきながら必死に留める。
 逃げなければ。一秒でも長く、一歩でも遠く。
 ……どこかに隠れるという選択肢も残されていたはずだったが、それは自分を袋小路に追い込む行為でもある。聖には結局、その決断は下せなかった。

 そして幾度目か、崩れた姿勢を遂に留め損ねて、聖は、走っていた勢いのままに地面に投げ出された。
 アスファルトの凹凸に裂かれた手のひらと頬に、灼熱の痛みが走る。──しかし、今はそんな小さな痛みに(かかずら)っている場合ではない。
 聖は、震える身体を起こしながら、背後の闇を振り返り見た。見る必要は無かったが、恐怖に負けたのだ。──ぬう、と立ち上がった(いびつ)な人型の影が、やはり首を傾げるような動作をしながら、近づいてきていた。

「ひ……ぁ……っ」

 それが聖の限界だった。
 膨れ上がり続けた恐怖が、彼女の精神を完全に挫き、諦観が希望を喰らい尽くしていった。
 もう足は動かない。這って動くこともできない。決して死にたくはないのに、どこにも力が入らないのだ。
 聖は目前に迫る死から目を背け、地に伏せてぎゅっと瞑目したまま、最後に小さく、唇を震わせた。

「……せんぱい……ッ!」

 ──瞬間。
 衝撃と共に、凄まじい破砕音が響き渡った。
 一枚の硝子(がらす)や陶器のそれではなく、もっと複雑な──複数の機械を重ねて、まとめて叩き壊したような。

 ぱらぱらと破片の散る気配と共に、残響が耳孔の奥を痺れさせる。
 痛みは、今以上に強まることはなく、かと言って一向に安らぐこともなかった。

 ──殺されなかった?

 恐る恐る顔を上げ、(しばた)(まなこ)を袖で拭う。強く瞼を閉じていたためか、涙に濡れていた先程までよりも、更に視界は不明瞭だ。

 軈て両眼に入射した光が一つの像を結んでも、視界に増えたそれが一体何の成れの果てであるのか、聖には正しく形容できなかった。
 恐らくは、やはり何らかの機械──だったものだろう。ばらばらに弾け飛んだ今となっては原型の想像すらつかないが、どうも大元の姿から『半球形に()()かれた』ように、鋭く切断されたような形跡があった。

 『影』もまた、消えてはいない。その機械の残骸のずっと向こうに、赤く揺らめく二つの光が見える。しかし、あれも思考する生物なのだろうか。突然の事態に驚いたように、その場で歩みを止めていた。

「悪ィ、怪我しなかったかい?」

 状況に不釣り合いなほど日常的な、聞き覚えのない男の声。
 雨に濡れた青草と、上質な香木を混ぜ合わせたような、静謐(せいひつ)な異郷の匂いが、風に乗ってふわりと香る。

 恐怖と緊張が限界を超えたせいか、それとも単に脳内物質の過剰分泌のためか、聖の思考は静止し、疑問すら抱けずに、ただ進行する現実を呆然と見つめていた。
 猛禽の羽撃(はばた)きにも似た、布が大気を孕む音。
 すぐ傍に降りた、どこか不可思議な様式の装束を纏った男は、流水のような長い銀髪を風に遊ばせながら、鷹揚と微笑んだ。

 その視線を受け、聖は何事かを彼に問われていたことを思い出して、ほとんど働かない頭のまま、ぼんやりと言葉を返す。

「え、……あ……は、い」
「おぉ、通じるもんだな。いや済まねえ、まさか転送地点の真下に人がいるとは思ってなくてなー……驚いたろ、ホント済まん」

 どこか日本人離れした顔立ちながら、彼は流暢な日本語で、饒舌に言葉を紡ぐ。
 ……とは言え、混乱の極みにある聖の脳では、彼の言葉の持つ情報は十分の一も理解できないだろう。
 彼もそれを察したか、少し困ったような顔をして、きょろきょろと周囲を見回した。

「あー、とりあえず今の状況をざっくり把握してーとこなんだが──」

 刹那、真紅の光条が、彗星のように闇夜に煌めいた。
 遠く佇んでいた『影』が沈黙を破り、獲物を狩る獣さながらに、猛然と男の(くび)めがけて躍りかかったのである。
 確かに開いていたはずの距離は、わずか瞬き一つの間に、たったの一跳びで詰められていた。

 声を上げて危険を報せる間など、ありはしなかった。──あったとしても、今の聖では声すらも上げられなかっただろうが──ただ聖は、反射的に見開かれた瞳を以て、(しか)と見た。

 光芒。
 淡青(うすあお)の幽光が激しく散って、夜光虫のように天を舞う。

「え……なっ……」

 飛来した赫奕(かくやく)たる光の矢は、彼の片腕と共に掲げられた閃耀(せんよう)の光の盾と、ぶつかり合って止められていた。
 光と光、あるいは闇。互いが互いと反発し、その境界を鮮烈に際立たせて放散する。事も無げな微笑を浮かべたままの彼の輪郭を、白と黒とに塗り分けながら。

「──ま、目の前で美少女のピンチとなりゃあ、こいつぁ最優先事項だよなあ」

 いかなる物理法則によるものか、中空に留められた光壁を、彼が腕の一振りに打ち払えば、大きく吹き飛ばされた影は枯葉のように宙を舞う。
 同時に、腰だめに構えられた彼の右手の中に、螺旋を描いて風が集い、柔らかな熱と光を放ち始めた。

風弾魔法(ゲイルバレット)ッ!」

 神速、放たれた光球は、空中の影をまっすぐに撃ち抜いて炸裂する。
 夜天を()いた輝きの残渣(ざんさ)より、渦巻いて広がり、頬を撫でる熱風。
 聖には、その感覚に覚えがある。──以前、螢一(けいいち)が放った不可視の弾丸。あの時に広がった熱風と、今のそれは非常によく似ていた。

 鮮やかに(なび)く銀髪の狭間に、揺れる藍色の飾り羽。群青の瞳はどこか(たの)しげに、しかし冷淡な煌めきを持って、片腕付近を喪失した『影』を睥睨する。
 もはや完全に言葉を失った聖の傍らで、全身の周囲に逆巻く風を纏いながら、異郷の人は、不敵に口角を上げた。

「悪ィな、ララ。待ち合わせにゃ遅れそうだ」







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