第十一話 異邦の風舞い叢雲を裂く
星の
あるいはその暗澹、彼女の行き着くべき末路の色か。
──もしも。
もしもあれが、ただの無差別殺人者であるならば、他の客や通行人に目もくれず、これほど離れた聖たちを追ってくることはあるまい。
しかし、返された答えは『
即ち、それは明確な目的を持って、聖たちを狙って来ているという事を意味する。
「畜生ッ、ありゃヤベェな! 何がヤバイってもうヤバイ事がヤバイ! マジヤバイ!」
「さ、さすがにワシも……あんなんに狙われる覚えはないのォ……」
男たちが喧しく騒ぎ立てる声にも、次第に強く、焦燥と惶惑の色が滲む。
「はっ……あ、はぁっ……ぐ、げほっ……はあっ」
聖は何か声をあげて問おうとしたが、息急くあまり嗚咽に
隙間なく冷水で浸されたかのように凍てつく肺腑を、怯えて暴れる心臓が横合いから強かに
整理のつかない感情の錯雑が、ただ生存本能のもとに一つへと
次第に小さく、まばらになる
「……撒いたかよ、流石に?」
「判らんな……はて、人の多い方と少ない方、どちらに行くべきか」
聖は、顔中に纏わりついた前髪を乱暴に払いながら、肺に
一陣、乾いた風がアスファルトを舐め、コートの裾がはためいた。
長く垂れた金髪の向こうで、スラぼうが苛立たしげに指を噛む。
「……そも、あれの狙いが読めんのォ。巻き添えを食わんよう、バラバラに逃げた方がよいやも──」
──それだけだった。肌を打つ音も、肉を裂く音も、骨を砕く音も無く、ただ一瞬の風に吹かれて木の葉の散るように、続くべき言葉ごと、時はひとつの生命を
主を失った腕が片方、取り残されて、ぼとりと地に落ちる。
やけに綺麗な切断面から滲み出した液体が、アスファルトを黒く染めていった。
「なッ……は……?」
見開かれた四つの眼はいずれも
その動きは見えなかった。ただ、気付いた時には結果が提示されていたというだけだ。
首を
目──のような、小さく瞬く一対の光が、
その眼光に射抜かれた瞬間、聖の麻痺しきった脳髄の縛鎖が僅かに
「うわっ……あああ……!」
怯え、
聖の引いた片足を追うように、それは関節の見えない腕の指らしきものを広げて、ひたりと地につけた。
──風切り音。
聖の肩を掠めるほどに近くを、すり抜けてゆくものが一つ。
「……ッの野郎ォ!」
果たして
緩慢に持ち上げられた漆黒の首──らしき箇所を目掛けて、振り抜かれた特殊警棒が
──されど、一閃に振るわれた黒い金属の光条は、回避の素振りすら見せない『影』に呑まれた瞬間、棒きれがへし折れるよりも簡単に、一切の抵抗なく消滅していた。
聖は、仔細な理屈を抜きにして、直感的に理解した。
触れれば、ああなる。それが何であっても、誰であっても──恐らく自分も──あの影の輪郭に触れた瞬間、きっと削れ散って消えてしまうのだ。攻撃を加えられれば防ぐことはできず、こちらから攻撃を加えても何一つ影響なく呑み込まれるのみ。
「ざッ……けんなよ、糞が……!」
皮肉めいて澄む冥闇の下、眩暈に
──その変容は果たして、本当に、涙だけによるものだろうか。
真実を確かめる余地はない。……彼の攻撃によって『影』の注意が逸らされた瞬間、聖は、縄を解かれた野良犬の如く、その場を背にして逃げ出していたのだから。
悲鳴のような息を吐きながら、夜闇を掻いてひた走る。
眼前に見せつけられた冷酷な現実は、確実に歩み寄る『己の死』を、いよいよ聖に実感させた。
──自分も今から、ああやって死ぬのだ。
その実感は、疲弊しきった聖の両足に鞭打って、とうに限界に達しつつあった身体を無理矢理に突き動かした。
後背で何が起きているのか、気にかけている余裕はもはや無い。この足で逃げたところで逃げきれないのは分かっているが、それでも今の聖には、無様にこけ
「嫌ッ……やだ……もう嫌だっ、こんな……」
唇から漏洩する言葉は、文章の体を成してはおらず、ただ、今にも狂いそうな精神の軋む音のようなものだ。
足が縺れ、バランスを崩して投げ出されかけた身体を、ふらつきながら必死に留める。
逃げなければ。一秒でも長く、一歩でも遠く。
……どこかに隠れるという選択肢も残されていたはずだったが、それは自分を袋小路に追い込む行為でもある。聖には結局、その決断は下せなかった。
そして幾度目か、崩れた姿勢を遂に留め損ねて、聖は、走っていた勢いのままに地面に投げ出された。
アスファルトの凹凸に裂かれた手のひらと頬に、灼熱の痛みが走る。──しかし、今はそんな小さな痛みに
聖は、震える身体を起こしながら、背後の闇を振り返り見た。見る必要は無かったが、恐怖に負けたのだ。──ぬう、と立ち上がった
「ひ……ぁ……っ」
それが聖の限界だった。
膨れ上がり続けた恐怖が、彼女の精神を完全に挫き、諦観が希望を喰らい尽くしていった。
もう足は動かない。這って動くこともできない。決して死にたくはないのに、どこにも力が入らないのだ。
聖は目前に迫る死から目を背け、地に伏せてぎゅっと瞑目したまま、最後に小さく、唇を震わせた。
「……せんぱい……ッ!」
──瞬間。
衝撃と共に、凄まじい破砕音が響き渡った。
一枚の
ぱらぱらと破片の散る気配と共に、残響が耳孔の奥を痺れさせる。
痛みは、今以上に強まることはなく、かと言って一向に安らぐこともなかった。
──殺されなかった?
恐る恐る顔を上げ、
軈て両眼に入射した光が一つの像を結んでも、視界に増えたそれが一体何の成れの果てであるのか、聖には正しく形容できなかった。
恐らくは、やはり何らかの機械──だったものだろう。ばらばらに弾け飛んだ今となっては原型の想像すらつかないが、どうも大元の姿から『半球形に
『影』もまた、消えてはいない。その機械の残骸のずっと向こうに、赤く揺らめく二つの光が見える。しかし、あれも思考する生物なのだろうか。突然の事態に驚いたように、その場で歩みを止めていた。
「悪ィ、怪我しなかったかい?」
状況に不釣り合いなほど日常的な、聞き覚えのない男の声。
雨に濡れた青草と、上質な香木を混ぜ合わせたような、
恐怖と緊張が限界を超えたせいか、それとも単に脳内物質の過剰分泌のためか、聖の思考は静止し、疑問すら抱けずに、ただ進行する現実を呆然と見つめていた。
猛禽の
すぐ傍に降りた、どこか不可思議な様式の装束を纏った男は、流水のような長い銀髪を風に遊ばせながら、鷹揚と微笑んだ。
その視線を受け、聖は何事かを彼に問われていたことを思い出して、ほとんど働かない頭のまま、ぼんやりと言葉を返す。
「え、……あ……は、い」
「おぉ、通じるもんだな。いや済まねえ、まさか転送地点の真下に人がいるとは思ってなくてなー……驚いたろ、ホント済まん」
どこか日本人離れした顔立ちながら、彼は流暢な日本語で、饒舌に言葉を紡ぐ。
……とは言え、混乱の極みにある聖の脳では、彼の言葉の持つ情報は十分の一も理解できないだろう。
彼もそれを察したか、少し困ったような顔をして、きょろきょろと周囲を見回した。
「あー、とりあえず今の状況をざっくり把握してーとこなんだが──」
刹那、真紅の光条が、彗星のように闇夜に煌めいた。
遠く佇んでいた『影』が沈黙を破り、獲物を狩る獣さながらに、猛然と男の
確かに開いていたはずの距離は、わずか瞬き一つの間に、たったの一跳びで詰められていた。
声を上げて危険を報せる間など、ありはしなかった。──あったとしても、今の聖では声すらも上げられなかっただろうが──ただ聖は、反射的に見開かれた瞳を以て、
光芒。
「え……なっ……」
飛来した
光と光、あるいは闇。互いが互いと反発し、その境界を鮮烈に際立たせて放散する。事も無げな微笑を浮かべたままの彼の輪郭を、白と黒とに塗り分けながら。
「──ま、目の前で美少女のピンチとなりゃあ、こいつぁ最優先事項だよなあ」
いかなる物理法則によるものか、中空に留められた光壁を、彼が腕の一振りに打ち払えば、大きく吹き飛ばされた影は枯葉のように宙を舞う。
同時に、腰だめに構えられた彼の右手の中に、螺旋を描いて風が集い、柔らかな熱と光を放ち始めた。
「
神速、放たれた光球は、空中の影をまっすぐに撃ち抜いて炸裂する。
夜天を
聖には、その感覚に覚えがある。──以前、
鮮やかに
もはや完全に言葉を失った聖の傍らで、全身の周囲に逆巻く風を纏いながら、異郷の人は、不敵に口角を上げた。
「悪ィな、ララ。待ち合わせにゃ遅れそうだ」