第十二話
星天。目下に色付く街の
高空の気流が外套を揺らし、
「……困った。完全に行き先を見失ったぞ……まずい、非常にまずい」
触れた指先で唇を歪ませ、彼は深刻げに眉根を寄せる。
と、甲高く唸る風の
「ちょっと待ってて、虚数領域密度を走査中──フェイズダウン直後は、多分おっきくなろうとするから、まだ多くのエーテルエネルギーを……おぉう!?」
姿なき少女の調子外れな喫驚の声に、髪の隙間、
「何か……あったのかい?」
「んーっ、見当はついた……と思うんだけど、周辺座標から
風が止んだ。そよぐ純黒は地に従って闇に溶け、鵬翼の
「……なるほど、アゲート界絡みかな。虚数領域密度の異常に転移座標が引き寄せられたようだね」
「ええー、マジかぁ……そんな転送精度でよく事故らなかったなぁ……」
「言ってる場合じゃなさそうだ。アゲート界の亜人なら、もしかしたらあれくらい対処されてしまうかもしれない。そうなる前に回収しないと」
男は、口元に宛てた指の隙間から小さく溜息を漏らし、飽くまで
ばさ、と今一度、羽撃きの音が夜の空隙を裂く。翼の動きに関わらず空の一点に静止しながら、彼は自身で風を孕むように、ゆっくりと両腕を広げた。
姿なき少女の囁きに、微かな不安の色が滲む。
「ま、間に合うかなぁ……」
「僕らの責任だ。間に合ってやりたいところだが」
加速。
飛行魔法に伴う
第一幕
『破滅を奏でるアルペジオ』
第四章 時の三糸星天に
吹き抜ける高熱の波。層状に分かたれて広がる真冬の冷気。
その中央で銀髪を棚引かせ、男は、不敵な笑みの
「さーて……で、何だアレ? ここら辺、ああいうのよく出んの?」
「あ……じ、事情とか知ってるわけではないんですね……」
「ッつーか思いっきり身体ブチ抜いたのに死ぬ気配ねーんだけどアイツ……えっ怖……何? 黒っ……え? うわ黒っ……」
「く、黒さは関係な……ゲホッゲホッ」
そんな彼に律儀にツッコもうとして、
遅れて気付いたが、今は決してそんな事をしている場合ではない。その黒い存在は、身を撃ち抜かれてなお、
続く極限状況の下で、混乱と冷静の境界線は摩耗し、消滅しつつあった。──エラリー・クイーン曰く『死の直前の瞬間、人間の頭の飛躍には限界がなくなる』と言うが、それと似たような現象だろうか。
少なくとも今以上に取り乱す事が無かったのは、聖にとっては僥倖だったかもしれない。
「っと」
ふわり、と周囲の空気が形骸を持ち──奇妙な現象だが、そうとしか形容できない──不可視の
銀髪の彼もまた、傍らに置いていた『何か』を手に、超自然的な跳躍でその後を追う。転瞬の間に、それまで二人を乗せていたはずの地面は、伸縮する純黒の鞭の一撃に割れ砕かれていた。
息
靴裏で地を噛み、彼は右手に持ったそれをまっすぐに影へと突きつけた。金でも銀でもない不可思議な光沢を返すそれは、十字に円環を組み合わせた、所謂ケルト十字型の──恐らくは、
「ふうッ……立てるかい、お嬢さん?」
「無理ですね」
「素直だな、ウチの子にも見習わせたいぜ」
苦笑と共に彼が手招きをすれば、聖を抱えていた透明な腕は薄らいで消え、支えを失って
顔を寄せれば一際に強く、異郷の香りが漂う。聖の人生上、どの時間、どの空間にも覚えのない、脳髄を眩ませるような奇妙な香りが。
あまりに多く錯雑する疑問と思考は、ただ進行してゆく現実の前に、演算処理装置から追い遣られてゆく。聖はただ促されるままに、震える手の余力を絞って彼の背にしがみついた。
二人の周囲に逆巻く風が、螺旋を描いて纏い付く。
恐らく聖の想像の埒外にある何らかの現象によって、
剣を手にしたとて、彼は、襲い来る漆黒の闇に、正面から斬りかかるような真似はしなかった。
常に一定の距離を取りながら、注意深く観測するように円周運動をして攻撃を回避する。黒き腕の一撃はブロック塀を溶かすように穿ち、アスファルトを容易く裂いたが、風を纏った二人を後から追うことはなく、ただ破壊のみを繰り返した。
視力──いや、動体視力に乏しいのだろうか?
幾度目かの回避と同時に、再度、放たれた熱風の弾が漆黒の頭部を撃つ。──されど、影の動きが停止することはなく、断面は不定にうねり、修復されて再びこちらを見た。
数度、舞うように地に足をつき、男は小さく舌打ちを零す。
「しかし変だな……こっち側に魔物は居ないって聞いてたんだが」
「ま、魔物……なんですか、あれが」
「ああ、やっぱ違ェのか? じゃあ何なんだアレ?」
「え……私に聞かれても……」
絶妙に噛み合わない会話を断ち切るように、黒の蹴撃が地面すれすれを一閃に薙ぎ払った。
男は聖を背に乗せたまま垂直に跳び、無防備なはずの姿に続く第二撃を、空中で後ろに大きく跳ねて回避する。激しく散った淡青の幽光の中、慣性に従って身体を押し付けられながら、聖はまた小さく咳込んだ。
「ふー……何にせよ、正体不明の敵相手じゃ慎重にいかねーとなあ。俺の趣味じゃねーんだけどさ」
殊更に荒れて渦巻く風の衣の中央で、彼の突き出す剣の刃は、街灯の光を受けて鈍く煌めいた。
──その刃は、果たしてあの影を裂くことができるのだろうか?
疑問に答えを返せるだけの情報量は、今の聖には与えられていない。ただ聖は、半ば直感に近い義務感に駆られて、言葉を伝えるために身を乗り出した。
「たっ、多分……触ると、ダメです。削り取られて……」
「あー、やっぱそういうヤツな? 参ったな、難しいやつじゃん」
やはり彼も勘付いてはいたのか、そう返しながら、剣の刃を僅かに下ろした。
しかし、言うが早いか──飛来。
目にも留まらぬ速度で
虚空に張られた不可思議な光膜は、通し見る景色を奇妙に歪ませ、波紋を作りながら、勢いのままに『影』を受け流す。
赤い光がふたつ、弾かれるように天へと投げられ、宙を舞った。
瞼が景色を切り取るたび、その姿は風に移ろい、歪む。
その時間的空隙は、呼吸の一つよりも永く、しかし鼓動を一つ打つよりも短く思えた。
「──
空中で身を捻る敵へと向けられたのは、刃ではなく、もう片方の開いた掌。
凛と紡がれる、韻律なき
「──死したる伽よ、さざめく時よ──唱え!」
掌上に迸る幽光のうちに、やがて小さな炸裂音と電撃が混じり合う。
その一方で、『影』は地に着くや否や、弾け飛ぶように軌道を変えて、再び至近距離に至るまで肉薄する。まっすぐに伸ばされた腕を照準と見るならば、まさしくその延長線上に。
銀髪の男は、高速で迫る純黒の人型を
「
刹那、鼓膜を
反射的に目を閉じ、背中の後ろに隠れてしまった聖には、その時何が起きていたのか、仔細は判別できなかった。
ただ──視界を遮断する前の、ほんの一瞬の視覚情報を元にそれを表現するならば──『雷球』である。突如として発生した激しい稲妻の奔流が、限定領域内で
巻き起こった雷撃のエネルギーは、大気の抵抗によって変換されて膨大な熱を生み、その高熱は大気を爆発的に膨張させ、爆轟と暴風を生む。
それまで掌付近に走っていた小さな電流は、電位差の蓄積段階で漏れ出し、絶縁破壊を起こしたものがそう見えていたのだろう。
あまりに突然の光と音に、聖はそれきり何も見えず、何も聞こえないまま、きっと小さく悲鳴をあげていた。身体の動きに振り落とされないように、震える両腕に力を込めながら。
ぎゅっと
うっすらと開いて滲む視界を、瞬きで拭う。
──しかし、『影』の姿は、
また、男の頬にも、一筋の血の跡があった。
交錯際の一撃が当たったのではない。漆黒の腕は軌道上の『空気』を消し飛ばし、周囲の大気がそれを埋めるために生じた真空の刃が、鋭い不可視の斬撃となって頬を裂いたのである。
「おーっと……ダメか? 物理効かない系なら魔法だろーと思ったんだがなぁ、ビミョーに見当外れたか……物理現象には変わりねえしなー」
「……ま、魔法……」
変わらず鼓動は早鐘のように鳴り続けていたが、緊迫感なく饒舌な彼の鷹揚とした余裕や、雰囲気に呑まれて、聖の思考は冷静さを取り戻しつつあった。
もしくはただ、とうに混乱を極めて恐怖が麻痺しているのかもしれない。
兎角、聖は、眼前に展開される事態を、考えるよりも素直に受け入れていた。信じがたい現象とは言え、目の前で実演された以上、改めねばならないのは古い認識の方だ。疑問が無いわけではないが、あれこれと思索するのは生き延びた後でいい。
「よッ……
こうして激しい動きをする際、聖が落ちないように支えてくれた風の動きも、『魔法』の一種であったのだろうか。
彼は細かく左右に跳んで影の触手を躱しながら、再びその肩めがけて淡い光の弾を放った。
しかし──無傷。高度に圧縮された風圧の弾は、波紋すら起こさず黒い身体に吸い込まれて消える。
「だ、駄目……効いてない……っ」
「チッ、さっきは効果あったのにィ……何かあんだな、タイミングか何かがよ」
後背方向へ、超自然の加速。大きく『影』との距離を離し、男は纏い付いていた風を剣の一振りに弾き飛ばす。
周囲の家々から、
厭な汗が背中を伝う。目の前で死んでいった者達の無惨な有様が、刹那の走馬灯のように、脳裏に浮かぶ。
その時、男はもう片方の掌で、必死にしがみつく聖の髪を軽く撫でた。急な接触に驚いて見返せば、彼もまた目を合わせ、安心を誘うように破顔してみせる。
「よし、死ぬ気で掴まってな。ちょっと周り気にしてられんわコレ」
「え……は、はいっ」
「フッ……怖いかもしれんけど背中で漏らしたりすんなよ? それはそれでご褒美だけど、できれば別の時に頼む!」
「えっ、いや、頼まれてもしませんけど……とか言ってる場合じゃないです、前、前から……っ!」
慌てて指を差した彼方から、神速、弧を描くように追いすがり、位置の隔たりを埋める漆黒。
大型の捕食動物を思わせる恐るべき速度で迫り来るそれが、今まさに触れんとした時、またも聖の視界を淡青の幽光がよぎった。
「
跳躍──
身体に覚える感覚は、大地へと向かう引力に揚力で抗っているのとは、どこか違う。様々な方向から引かれ合い、空中でぴたりと力が釣り合ってしまったような、奇妙な感覚だった。
「念のためもう一回言っとくぜ。死ぬ気で掴まってな」
「……はい」
回した片腕をしっかりと掴まれていなかったら、きっと聖は途中で地に落ちていただろう。
神妙に頷いて、絶対に振り落とされないように両手を組む。高空の冷気は、指先を切り落とさんばかりに痛かったが──今これを離したら、きっと『痛い』では済むまい。
いかなる物理法則に従ってか、地に置き去りにした影もまた、宙空を蹴って二人を追ってきていた。
もしかしたら、最初に逃げた聖たちを確実に追ってきたのも、この移動法によるものだったのかもしれないが……いずれ考えても詮なきことだ。
急降下に伴って流れゆく景色を横目に、聖は唇をぎゅっと結んで、憔悴しきった目を逸らさずに、しっかりと前を見た。