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第八話 黄昏(たそがれ)の風




 刃のような朔風は、凜冽(りんれつ)として頬を打ち、切っ先は(まぶた)を刺した。

 ほんの一刻ほど前には、あんなにも晴れ間が広がっていたものを、今や全て幻であったかのように、重苦しい曇天が横たわっている。
 (にわか)に、ひと雫ずつ地表に落着する孤独な雨滴が、所々、アスファルトを黒く染めていた。

 ──今夜は殊更に冷え込みそうだ。
 故郷の冬よりは幾らかマシだろうが、それでも。

 『螢一(けいいち)』は、紫紺色のコートの襟に口元を隠して、逃げるように足を速めた。

 足を一歩踏み出すたびに、内ポケットで揺れる重みが脳裏に影を落とす。
 あの行動を、最適解とは思うまい。全てを言うわけにはいかなかった。しかし、追わせるわけにはいかなかった。ただ、それだけだ。

 彼女の気絶は、軽度の一酸化炭素中毒によるものだ。意識を手放すに足る一呼吸分のガスは、原子同士を結びつける電磁気力をちょっと弄れば、大気の組成物質から容易に合成できる。
 この方法も今や手慣れたもので、高濃度酸素を用いた事後の安全な解毒法も心得ている。後遺症の心配は無いだろう。
 だから、これでいい。一切の問題なく、彼女は争いから遮断される。そのはずだ。

 不意に、落ちた雨粒が頬に触れ、冷たさが瑣末な感傷を押し遣った。
 ──(ひじり)のことを考える間、何故か止まっていた足を、濡れた路面から引き剥がしながら。

 雨脚は強まりつつある。ただでさえ動きづらい土地なのだから、向こう側の本部に連絡するためにも、今は急いだ方がいい。
 螢一は──いや、螢一だった』は、静かな嘆息と共に、冷気を掻き分けていった。

 やがて、季節外れの夕立のように沛然(はいぜん)と降り注ぐ驟雨(しゅうう)が、薄白く(けぶ)る町並みごと、彼の姿を覆い隠した。



第一幕

『破滅を奏でるアルペジオ』

第三章 彷徨の詠唱(アリア)




「……スマンねぇ、おっちゃんちょっとわかんねえなぁ。暇ン時ゃあ……いつもここにおるけどなぁ」
「そう、ですか……ありがとうございました……」
「ここのハトの顔ならな、わかンだけどなぁ。ほれ、あいつが『実像なき蠱惑』で、あっちが(つがい)の『とこしえに遍在する虚無』」
「ネーミングセンスが斬新すぎませんか」

 公園の砂を(つつ)く鳩を横目に眺めつつ、聖は、ベンチに腰掛けた老人に改めて一礼をした。
 調査開始より四時間。決定的な情報は、依然として得られていない。
 彼女は思わず項垂れそうになる頭を押さえ、粛然と、出入口に向けて回れ右をする。

 ふと見上げれば、相も変わらず陰鬱な気分を煽る曇り空。昨夜遅くまで降り続いた雨のせいか、日中にして大気は深夜のように冷えきっていた。
 臙脂色のマフラーの下から、白く(こご)る吐息が漏れる。

 螢一はあれきり姿を消し、(ゆい)の行方もまた(よう)として知れない。
 聖があの奇妙な催眠から脱した時には、消えてしまった人の代わりに、降りた静寂の(とばり)だけが、孤独に寄り添っていた。
 まるで短い蝋燭が燃え落ちて、投げかけられた影もまた消えてしまうように──瞬きの間に、全ては失われたのだ。

 涙は漫然と流れて枯れ、後には耐え難い喪失の虚無感だけが残った。
 何故だと問うても、答えてくれる者はもう居ない。圧壊しそうな心から逃避するように、聖は気付けば外を歩いていた。

 本当は全て、長い夢か幻だったのかもしれない。そんな漠然たる恐怖が、気を抜けば不意に襲ってくる。
 自分一人の記憶とは、どれだけ信用できるのだろう。聖は目を細め、半ば無意識に、コートのポケットに手を突っ込んだ。
 くしゃりと指先に触れる、縋るにはあまりに小さく軽い物理存在。
 携帯も通じなくなった今、この小さな紙片が、記憶と現在(いま)をどうにか繋ぎ止めている。

 『健康には気をつけろ
  気を病まず 元気で』

 聖が起きた時、彼とは不釣り合いに可愛らしいキャラクターもののメモ用紙の一番上に、ボールペンで走り書きされていた。
 ──三段階に分けて健康の心配しかしていない。もっと何か、他に書くべきこと無かったんだろうか。

「……先輩」

 明確に、彼は聖を遠ざけようとしている。
 ()れど、このたった二行の伝言は、これまでの彼の優しさが、決して虚言ではないことを語っていた。
 その確信があればこそ、聖は、彼を追ってここにいるのだ。逃避を続けるのではなく、追走するために。

 『危険が及んでも構わないから、せめて真相を教えてほしい』──なんて、それは後付の理由。
 本当はただ、『あんな別れ方は嫌』だっただけだ。
 では、どんな別れ方なら納得できるのか──と問われた場合、どう答えるかはまだ決まっていない。

「見つけます、絶対……見つけさせて、ください……」

 マフラーの内側で祈るように呟き、聖は再び、午睡の微睡(まどろ)みにも似た閑雅な住宅街に、足音をひとつ刻んだ。

 ──実のところ、この探索行も、まるきり出鱈目の彷徨ではない。

 螢一は以前から、屡々(しばしば)、聖や結にも行き先を知らせずに外出することがあった。あの不良たちに襲われかけた日もそうだったように。
 別に報告義務があるでもなし、それ自体は自然なことだ。外出くらい、誰でも──聖の場合は多少、他人より少ないかもしれないが──するだろう。

 だが、聖は以前から、そこに一縷の違和感を抱いていた。
 彼はあまり、娯楽に興味を示さない。運動は得意なようだが、スポーツが好きというわけでもない。芸能関係にも関心がないようだし、ゲームセンターやカラオケ等のアミューズメント施設にも、恐らく自分からは行かないだろう。
 趣味と言えそうなものは、読書と料理くらいのものだ。
 そんな彼が、一体をしに出かけているのか、追求こそしなかったが、聖にはちょっとした疑問だった。

 そして、心に『疑問』を燻らせていればこそ、見落とさずに済んだ情報がある。
 時折、彼が出かけた後に──主に聖や、時々いる結のために──菓子類などを買ってくる、コンビニのレシートの『店舗名』。
 偶然目に入ったその文字列には、徒歩で向かうには少々骨の折れる距離にある、この住宅街の地名が含まれていたのだ。
 そんな些細な事が、妙に気にかかった理由は今も解らない。ともかく、さりげなく見てみれば、その次も、次の次も、レシートに印字されていたのはこの周辺、もしくは道中の店だった。
 彼は何らかの故あってこの地へと頻繁に足を運んでいたのだ。聖はそう結論づけた。ここでなら、手掛かりを得られるかもしれない。

 ────追って、会えたとして、何をすると言うのだ?
 整理のつかない感情から生じかけた自問を、頭を振って払う。

 聖はそれ以上の思考を止め、前をゆく買い物帰りらしき女性に目を遣った。今は黙考している時間も惜しい。

「すみません、少しだけ……いいですか?」

 地道な情報収集というものは、続けているとどうにも気が滅入る。
 それでも見切りをつけない理由は、決定的ではないにしろ、既に幾つかの収穫があるからだ。

「……あら、この子。覚えてるよ、カワイかったし」
「本当……ですか!」

 スマートフォンに表示させた螢一の横顔(隠し撮りである)を見て、その女性は頬に手を当て、どこか楽しげに、値踏みするような視線を聖に向けた。

 敢えて結論を急ぐならば、螢一は、確かにここに来ていた。それは今話している彼女だけでなく、他数名の住民から得られた証言だ。
 当時の目的は、未だに見えてこない。何か質問を繰り返していたことだけは、漠然と読み取れるのだが──その内容までは正確に覚えていない人が多く、記憶していたとしても一見関連性が無いような問いばかりだ。
 少なくとも聖には、彼が何を考えてここを訪れていたのか、まだ想像もつかない。

「その様子だと、どっか行っちゃったんだ、彼」
「ええ……まあ」
「ふーん……見つけたらアタシが拾ってもいいって事かな」
「え。それは」

 似たり寄ったりの問答の後、彼女は悪戯っぽく口角を上げ、少し荒れた指先を亜麻色の髪に差し込んだ。
 その仕草に、聖の胸中で不思議な焦燥が揺らめく。ありふれた妬心などではなく、もっと異なる焦慮のかけらのような。

 反射的に滑稽な声をあげてしまった聖の肩をぽんと叩いて、彼女は口の端からくすりと漏洩するような微笑を零す。

「冗談。きっと見つかるよ、頑張んな」

 花の綻ぶような笑顔だ、と思った。きっと自分には、こういう表情はできない。
 急かすような焦燥感が、また背筋をざわめかせる。
 学生という、ある種閉鎖的なコミュニティの中では、それを強く意識することは滅多に無かった。──己の『幼さ』を、こうも実感するようなことは。
 もしかしたら、置いていかれた原因の一端は、それだったのかもしれない。

 沈んだ思考を打ち切るのは、今日だけでも、これで何度目だろうか。
 礼を言い忘れていたことに気付く頃には、彼女は既に、遠い後ろ姿になっていた。

「きっと、見つかる……ですか」

 口に含んだ薄氷が溶け出すように、繰り返す言葉が、うすく開いた唇から風に滲む。
 誰にともなく放たれた呟きに、されど不意に、返す言葉があった。

「ああ──俺もそう思うぜ」

 ──通常、多くの動物は、“吃驚(びっくり)”した時、交感神経が活発化し、主な筋肉を一斉に緊張させ、心拍数を上げることで全身に酸素を送る。
 自然界において“吃驚”するような事態とは、生命の危機に直結しかねない状況であり、筋肉が即座に最大限運動可能な態勢を整えるためである。驚いた時に身体が跳ね上がるのはこれが理由だ。
 それは今、この瞬間の聖においても例外ではなかった。
 背後から響いた声に、咄嗟の反応を起こせずに立ち竦む。それは、一秒にも満たない間だっただろう。
 だが、その間に、肩越しに伸びた手が、聖の持っていたスマートフォンを速やかに奪い取っていた。

 息を呑み、振り返る。
 そこに居たのは、残念ながら──非常に残念ながら、確かに見覚えのある顔だった。

「はン……硝子の靴でも持ち逃げされたか、シンデレラ?」
「お主、その脳のどっからそーゆー台詞出てくるんじゃ」

 スマートフォンに表示したままになっていた螢一の写真に目を落としながら、彼は──あの時の不良、というか変人集団の一人、スラリン(仮)は、意地の悪い笑みの(かたち)に表情筋を歪めた。







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