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第九話 水面(みなも)の下に臥すは蛇




 己の心音を感じながら、数歩後退(じさ)り、距離を取る。
 攻撃、防御、逃走、いずれの動作に繋がるでもない、半ば本能的な危機回避行動だ。
 真っ赤なリボンに括られた黒髪が、慣性に従って小さく(なび)いた。

「あなた……ええと、スラリン……!」

 頬に一筋流れる汗粒が、赤みがかった陽光を反射した。濡れた背中が熱を持ち、指先に小さな震えが走る。
 (ひじり)は、荒れた呼吸をマフラーの下で抑えながら、眼前に立つ二つの影を()めつけた。

 その片割れ──無造作に跳ねた、くすんだ金髪の男、スラリン(仮)は、不満を顕に、威嚇するように唇をめくれ上がらせる。

「オイ何だその最初に出てくる雑魚みたいな名前、せめてピエールにしろやコラ」
「どっちもたいして変わらんじゃろ……」
「あ゛ァ!? テメェがピエールの何知ってやがんだ!? いいかァ、アイツのベホマとイオラは数えきれねェターバンの命を……」
「喧しいわい! つまらんことに(かかずら)うでない!」

 聖をそっちのけにして始まってしまった珍奇な言い争いの相手は、身体のあちこちをピアスで装飾した、ひょろ長い猫背の男、スラぼう(仮)だ。
 両目はまっすぐに伸びた長髪の向こうに覆い隠され、表情は窺い知れないが……少なくとも、この老人めいた語調に合った年齢ではないように思える。

 二人の動向に警戒しながら、注意深く視線を巡らせてみたが、他の仲間の姿は無い。仔細な理由については、今思案するべきではないはずだ。

「……ふゥ」

 まるで一筋の紫煙を吹き出すが如く、物言いたげな呼気と共に、跫音(きょうおん)が一つ。
 惑乱を鎮めるための時間は与えられず、一歩分、距離が縮められた。
 聖は咄嗟(とっさ)に取るべき行動が判らず、思わず身を強張らせる。怯えを悟られぬようになど、考えもせずに。

 時は、梅雨の夜を這う蝸牛(かたつむり)のように緩慢に進み、(しか)れどその中にあってなお、聖の思考は凍てついて淀んだ。
 ──続く状況を『想定外』と形容するには、些か剴切(がいせつ)ではないだろう。聖の脳内メモリは事態の処理に手一杯で、想定に割くほどの空き容量はそもそも無かったのだから。

「ヘイ」
「う、わっ……」

 突然、奪われていた携帯端末を放り返され、取り落とさぬよう慌てて胸元に押し付ける。
 ほんのひととき手を離れていた薄い板が、やけに冷えきって指先に張り付いた。

「そのガキの居場所、教えてやろうか?」
「え、なっ……なんで、知っ……」

 動揺し、聖は黒髪を振り乱すほどの勢いで顔を上げる。
 彼らの表情から俗な薄笑みはすっかりと消え、小さく(しか)められたスラリンの左目が、見透かすように聖を射抜いていた。

「その反応、どうやらマジで消えちまったらしいな?」
「あっ……」
「……嬢ちゃん、チと素直すぎるのォ」

 緊張が膨れ上がり、無言の責め苦となって、内側から背筋を刺す。
 螢一(けいいち)(ゆい)もいない、一人きりの聖は、これほどまでに愚かであったか。(いな)(ほぞ)を噛むのは後でもできる。考えろ──考えろ。

 き、と睨めつける表情を如何に捉えたか、彼は露骨に見下すように口角を歪め、肩を竦めて見せた。

「あァ、そう警戒しなさんな。オメーみてえな芋ちんちくりんにゃあ、もう大して興味ねェよ」
「芋ちんちくりんて……」

 あんまりにもあんまりな形容に、せっかく高めた緊張が全身の汗腺から抜けていく。しかし残念ながら、反論の余地はない。
 芋ちんちくりんは、努めて冷静に思考する。
 この男の(げん)が信用できるかと問われれば、間違いなく否と答えよう。しかし今、即座に逃走や攻撃に転じたとして、決して()い結果を生むまい。
 夕刻の住宅地。声を上げれば誰かに届く。──だが、人間の善性ほど信用できないものはない。聖の想定では、悪漢に襲われ助けを求める自分を発見した日本国民の取りうる行動は以下の通りだ。

 1.たとえ一人でも割って入り、自分の身を犠牲にしてでも助ける──5%。
 2.遠巻きに見物する──25%。
 3.写真を撮ってSNSに投稿する──55%。
 4.よくわからない──15%。

 なんて国だチクショウ。
 とは言え、聖も、立場が逆なら『5%』には決して入らないであろう、無力なモブキャラの一人だ。長い歴史の中で人間が獲得してきた自己防衛本能を、今更責めるつもりは無い。

「……で、では──」

 言葉は乾燥に(つか)えた。聖は小さく喉を鳴らし、改めて(いぶか)るように視線を向ける。

「──なに……を?」
「協力してやろうッてんだ。探してんだろ? アイツをよ」

 カートゥーン・ムービーの悪役のような、ぎらついた笑みを浮かべて、スラリンは高圧的に、聖が抱える携帯端末を指先で叩いた。
 接近の拍子に嗅覚神経をひと撫でしたのは、男性用の香水の匂いだろうか。
 聖はその感覚に、得も言われぬ忌避感を覚え、反射的に後退る。

「ホホッ、本当は嬢ちゃんをエサに誘い出す予定だったんじゃがな」
「オイ、脅かすんじゃねェよ、爺さん」

 隣に控えたスラぼうが、手(すさ)びに長髪を指に巻き付けながら付け加えた。(いや)な笑顔だ。聖の反応を見て楽しんでいるのだろう。
 しかし成程、復讐狙い──と言ったところか。
 一連の干渉には不可解な点が数多く見られたが、それならばある程度は合点の行く動機である。この何の変哲もない住宅街に居合わせたのも、同じ人物を探していたのならば、偶然ではなく蓋然(がいぜん)的な結果だ。

 聖は(しば)緘黙(かんもく)し、マフラーを更に指で引き上げる。
 口(もと)を隠すのは、駆け引きの技術を持たない彼女にとって唯一可能な防御策だった。きっと今から行おうとしている事は、表情を読まれない方が都合がいいだろうから。

「…………目的を……話してください」

 正確に、そう発音する。正面の男たちが、ほう、と小さく息を漏らした。

 ──聖は、憔悴していた。
 恐らく肉親にすら解らぬであろう細かな機微を、その病んだ瞳の色を、もし結が見れば己が事のように憂患し、心砕いて慰めてくれるだろうし、螢一はまた甘く暖かなホットチョコレートでも作ってくれるのだろう。
 今はもう、どちらもいない。
 このような捨鉢な賭けに出るのは、その虚無こそが所以だった。判断の正誤を断ずるのは未だ早計であろうが、少なくとも聖は今、平時の判断力を欠いていた。
 なるべく自然に、人の多い場所に誘い出そうという狙いもあるが──即ち聖は、彼らの目的を、『利用』しようと試み始めたのである。

「目的か……意外と根性あんなテメェ。ヘヘヘ、いいぜ、話してやるよ」

 言葉とともに突き放されて蹈鞴(たたら)を踏み、それでも聖は、病んだ瞳に、(しか)と在るがままの情景を映し込んだ。
 寂びて乾いた冬枯れの匂いを乗せた風が、緊張した身体を慰撫するように吹き降ろす。

「実は、そう……弟子入り……しようと思ってな……!」

 ──そして、そんな決意も緊張も、全体的に予想外の返答に大半が吹き飛ばされて消滅した。

「……ん?」
「ん?」
「ん???」

 一気にビジー状態に陥った聖の脳内CPUが、与えられた情報を処理し終えるには、想定に比して数倍の時間を要した。







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