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第七話 それは正午(まひる)の彗星に似て




 身を掻き裂くほどの焦燥は、気付けば遠く、鳴りを潜めていた。

 ──決して、忘却できたわけではない。胸の奥底で燻る不安の熾火(おきび)は、僅かにも隙を見せれば、容易く(ひじり)の心を圧潰させてみせるだろう。
 ただ今は、目まぐるしく転ぶ眼前の状況に、そんな感情も半歩ばかり置き去りにされているようだ。
 聖は、後ろ手に部屋の扉を閉めながら、乱れた呼吸を整えた。
 ……そう長い距離を歩いたわけでもないのだが、日頃の運動不足とは如何ともし難い問題である。

 ひと雫、流れた汗を手の甲で拭い、螢一(けいいち)の背中に視線を遣る。
 彼は、部屋の中で緘黙(かんもく)したきり何も語らずにいた。俯き気味の表情は、背後からでは窺い知れず、果たしていかなる理由があってこの部屋まで引き返したのか、聖は推し量ることすら出来ずにいる。

「せん、ぱい……?」

 じわりと滲む不安の影は、(やが)て、幽かな声となって口をついた。
 白昼に於いて(なお)薄暗い室内は、静寂を以てして殊更に静謐(せいひつ)な空気を湛え、玲瓏(れいろう)と揺らめく。

 聖の指先は静かなる停滞の中を彷徨(さまよ)い──(しば)しの逡巡の後に、彼の服の袖へと掛けられた。
 何をすべきか、何を言うべきか、頭の中で定まらぬうちに、手だけが動いていたのだ。

 上天の太陽は高く中して、カーテンの隙間から、細く光の帯を落としている。二人の元には、決して届かない位置に。
 聖はその光景に、まるで神の目から逃れるような、得も言われぬ背徳と、虚ろな憂惧を覚えた。

 ──(こご)り、揺蕩(たゆた)っていた空気が、揺れる。

 掴んだ指先に惹かれるままに、彼は振り返って──瞬きの刹那、聖の視界は暗転していた。

「っ、え」

 視界を塗り潰したのは、彼自身の身体だった。
 その両腕に抱かれながら、聖は、受け入れるでもなく、振り払うでもなく、ただ喫驚(きっきょう)に硬直していた。
 父親すら記憶にない聖にとって、これまで男性に抱かれた経験が全くの皆無であった事も、混乱に拍車をかけていた一因だろうか。
 螢一はどこか不器用な手つきで、しかし優しく、聖の髪をくしゃりと撫でる。

「……済まん」

 彼の声は落ち着いていたが、微かに──ほんの微かに、震えていた。
 思えば背中に回された腕も、まるで震えを隠すように、指先に強く力が込められている。
 発された言葉も含めて、それが果たして如何なる感情に起因するものかは解らない。しかし今、彼の表情を見てはいけない気がして、聖はそっと瞼を閉じた。

「どう……したんですか、先輩……?」

 須臾(しゅゆ)の沈黙。
 瞑目した今、耳元の彼の吐息は、奇妙なほどに大きく鼓膜を(くすぐ)る。
 頬に触れる服越しの体温と、呼吸に混じる心地よい匂いと──普段ならきっと、それだけで至上の安堵を得られたはずだ。
 それでも、辺りの深刻な空気が──()しくは単に、聖がそういうものに不向きな性格であったのか──浮ついた気持ちには、決してさせてくれなかった。

 ややあって、螢一は粛然と聖に向き直り、重たげに唇を開く。

「お前には……言うべきだと思う。最低限の事しか言えないが……落ち着いて聞いてくれ」

 只ならぬ様子に、聖は思わず息を呑んだ。

 ──正直に言えば、今、螢一が言った言葉の意味すらも、幾度か脳内で反芻しなければ理解には至らなかった。それほどまでに、聖の脳神経細胞(ニューロン)は焼け付き、遅延している。
 落ち着けと言われて即座に落ち着くことなど、到底できはしない。
 しかし聖は、自らの(はや)る心に押され、黙して彼の言葉を促した。

(ゆい)は……多分、もう戻らない。薄々解っていた事だが……殺したのは俺……のようなものだ。本当に……済まない」

 それは、寂然と凪の水面(みなも)に漏洩する、純黒の油の揺らぎにも似た、重く、そして静かな独白であった。
 張り詰めた冬の冷気は、揺籃の如く言葉を受け止め、刹那の残響のうちに留める。

 ユイは──殺された?
 しかも、螢一の手によって?

 断片的な情報は、聖の意識の深層へと、鉛よりも重く粘性を持つ澱となって降り積もる。
 転瞬、強烈な吐き気となって表出したものは、怒りでも、悲しみでもなく、膨大な『不安』だった。

「……ど、どういう……事ですか……?」

 ()()ぜの感情を抑え込みながら、聖は、所在なげに彷徨っていた両腕を螢一の背に回し、穏やかに、されど強く、きつく、抱きしめ返した。
 理由は聖自身にも不明瞭だ。ただ、そうしなければ──しっかりと押さえていなければ、彼もまた、聖の目の前からふっと消えてしまいそうな、そんな気がした。

 螢一は抵抗することもなく、伏し目がちに呟きを返す。

「詳しくは言えん……いや、楽観しすぎていた。俺のせいだ……俺の」

 ほとんど普段通りに聞こえる言葉の端々には、しかし深刻なまでの悔悛と憔悴が、克明に表れていた。
 聖は言葉に詰まって、思わず指先に力を込める。

「……し、しっかり……しっかり、してください」

 くら、と意識が胡乱(うろん)に揺れる。まるで自身の両足ごと地面が失われてしまったかのような、居心地の悪い浮遊感。そんな不安定な心を、ただ深い慙悔(ざんかい)が支配した。
 ──自覚してしまったのだ。頭に根付いていた、酷薄な思い違いを。

 聖は、確かに彼を信頼していたはずだ。しかし今になって思えば、それはいつしか時の中で、身勝手な信仰に取って代わっていた。
 その腕の中にあるものは、鼓動は、体温は、紛れも無く聖と同じ人間のそれであったのに。

「……済まない」
「謝るのは……その、だめ……です」

 原質的な感情は、心の内でほとんど形を成せないままに、断片的な言語となって漏れ出していく。
 聖は、強く胸を締め付けるようなもどかしさと、やり場のない羞恥を覚えた。

 今ここに居るのが結であったなら、きっと考えうる限り剴切(がいせつ)(げん)と動を以てして、雨滴を受け止める真綿のように、彼の辛苦を抱擁し、拭ってやれたはずだ。
 聖には、それができなかった。言うべき言葉も、取るべき行動も、渾然と融け合う思考の澱みの奥底に吹き溜まったまま、遂に浮上することはなかったのだ。
 形にできず募るばかりの思いは、哀切なまでに無力である。
 聖はそれを痛感しながらも、ただ口を緘して、彼の胸元に頬を押し付けることしかできなかった。

 数秒──あるいはほんの数瞬であったかもしれないが、わずかな時の空隙の後、聖を包んでいた柔らかな拘束は、静かに(ほど)かれる。
 仄暗い室内の静寂の中で、彼の瞳は湖面のように神秘的に、聖の姿を映し込んでいた。

 卒爾(そつじ)、颯然と立つ俄風(にわかかぜ)の如く不意に、何か抽象的な予感が聖の心中に去来した。
 きっと彼の瞳の虹彩の色に、殉教者めいた覚悟を、通し見てしまったのだろう。聖という一人の少女がそれを正確に理解できたか否かはさて置き、得体の知れぬ意志に汪溢(おういつ)したその(まなこ)は、彼女が『終わり』の時を悟るに充分なものだった。

「──聖。あとは俺がどうにかしよう。だから、これ以上関わってはならん。死にたくなければ……な」

 最後に彼は、優しく指先で頬を撫でる。──そう、聖には、それが最後だと分かってしまったのだ。声が出ない。桜色の唇が開かれ、小さく震えた。声は出ない。
 螢一は一瞬、聖の言葉を待っていたようだったが、やがて、諦観の微笑をもって続けた。

「さよなら、聖……やはり俺は、ここにいるべきではなかった」

 淡青の幽光が、ちらちらと舞う。螢一の指先から、浮遊するシャボン玉のように、離れては、また結びながら。
 その正体を、聖が理解できる道理はない。できる事といえば、ただ突然に投げかけられた別離の言葉に、戸惑い、狼狽(うろた)えるだけだった。

「ま、待っ──……」

 しかし、咄嗟の発声のために大きく息を吸った瞬間、黒く夜の帳が降りるように、聖の視界は闇に眩んでいた。
 一体何をされたのか、などと、そんな疑問を持つ猶予すら無いままに──ふらつく身体を抱きとめられながら、彼女は青白い光の中で、(つい)に意識を手放した。







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