第六話 上天の光を
あえかな白日の夢の如く、どこか決定的に現実感の欠如した景色は、広く、
一億五千万キロメートルの上天から降り注ぐ熱核融合反応の放射が、
晴天。眩暈に足を取られたのは、その眩しさの
「……す、すみません、大丈夫です」
「そうか」
無感情な調子でそう返しながらも、彼は暫く、聖の肩に手を添えたまま歩いていた。
決して悪い気分ではなかったが、おそらく今の聖は、客観的にはひどく不安定な姿に映るのだろう。小さな呼気の中に憂心を溶かし込み、吐き出して遮断する。
「先輩、その……」
「何だ」
「ええと、ありがとう……ございます、付き合ってくれて……」
「む……気にするな、それについては礼も遠慮も不要だ」
言いながら、螢一は、聖の束ねられた黒髪に指を通す。所々、乱れて絡まっていた髪を解きほぐしながら。
数日前、上級生が一人いなくなったという噂は聖も聞いていたが、こうして立て続けに
失踪現場とされる地点に残された血痕から、ほぼ確実に事件性があると判断されたためだ。
DNA鑑定によって血液から個人を特定するまでには、『ゲノムの
だが、精緻な結果を得るための確認作業を含めるのならば、数週間から数ヶ月の期間を要する。何をするにも多大な責任のついて回る刑事事件において、情報が表に出せるのはその段階になってからだ。──と、螢一が言っていた。
警察が言うには、結から最後に電話連絡があったのは十八時半のことで、連絡を受けた母親が迎えに赴いた十九時頃には、既に彼女はいなくなっていたという。
──十八時半。ちょうどその頃に聖が送信したメッセージには、その文章を相手が『既読』済みであることを示す文字が刻まれていたはずだ。
だがその後、わずか三十分の間に、彼女は消えてしまった。携帯端末のGPSも、一切反応しない。
犯行時間が限られるという事は、証拠となり得る痕跡を消すための時間も限られるという事実に直結する。
全ては警察が現代の科学捜査によって明らかにしてくれるだろう。
実際に現場をこの目で見て、可能な限りの思考を巡らせ、打てる手を全て打つまでは、到底、納得してただ待つことなどできるものではなかった。
「でも……こんなの、結局、私の自己満足です……から」
「一概にそうとも言えん。結と仲が良かったお前にしか気付けないこともあるだろう」
俯く聖に、普段と変わらぬ淡々とした調子で説く螢一。
過剰に配慮されるよりは幾許か気が楽だが──彼の言うような可能性は、無に非ずとも至極寡少だと自分で理解できている分、自嘲にも似た心
そんな
「それに──俺にも懸念がある」
抑えるような言葉の続きは、視線で促してみても発されることはなかった。彼が今以上の事を言わないのならば、それも多寡に上る可能性のうち一つに過ぎず、まだ特筆する段階には無いということだろう。
分厚い上着越しに感じる掌は大きく、錯覚かもしれないが、仄かに暖かく思えた。
──こんな風に、繰り返し、彼から聖の身体に触れるのは珍しいことだ。おそらく、聖に向けられた深い憂慮がそうさせているのだろう。
戸惑いは刹那の残響、聖は余計な思考を削ぎ落とし、その身の采配を彼の判断に委ねた。
「……あの、先輩」
遠く響く道路工事の音と、名も知らぬ鳥の奏でる前衛歌劇に掻き消されないように、聖は声を少しだけ高く震わせる。
「動機っていう点から考えると、一番に浮かぶの、あの時の四人なんですけど……ええと、それに触れないって事は……?」
「ああ、真っ先に調査済みだ。……そこまで重症ではないが、あの時の怪我で、一人が入院していた。残りの三人は当時、その看病に付きっきりだったようだな」
「そ、想像以上に仲良しですね……」
「うむ……特にリーダー格の男などは、手作りのプリンを同室の皆さんにも振る舞っていたらしい」
「……その情報は本当に必要でしょうか……?」
何故か深刻げにプリンを強調する螢一に思わずツッコんでしまったが、つまりは『覆しようのないアリバイがある』という事だ。
彼は短い溜息を吐き、腕組みをして言葉を続ける。
「兎角、彼らは被疑者からは外れる。残る可能性は『事故』か『事件』かで分かれるが──」
「事故の証拠隠滅のため、慌ててユイを連れ去ったのなら……タイヤ跡や、血痕のばらつきまで消す時間はない……はず、ですよね」
「ああ。逆に、そういった間接証拠が無ければ『事件』である可能性が高くなる。それも行動の迅速さから、突発的なものではなく、計画的な犯行だろう」
矢庭に、夜天の
日常の薄膜を掻き割いて、その裏側に
目を逸らそうと逸らすまいと、それは常に、
「……ユイ……」
眩暈に
──解っていなかった訳ではない。だが実感は無かった。
いかなる理由があろうと、結の身は無事では済まないだろうと、その実感が、今になって襲ってきたのだ。
「大丈夫か」
「……はい」
嘘だ。
だが螢一は、おそらくそうと判った上で、俯く聖の肩をぽんと叩いた。
「無理は……お前がすべきだと思ったのなら、止めん。判断を誤らんようにな」
語調はそっけないが、決して乱暴でも、見下す意図もない、穏やかな声。
そうだ。物理的に結末がすべて確定していたとしても、まだその結果自体は判明していない。終着点が不明なうちから悲観して立ち止まっても、可能性は拓けないはずだ。
聖は淀む思考をふるふると振り払い、──束ねた髪の先端で、無意識に隣の螢一を攻撃しながら──今一度、唇を結び直した。
「大丈夫です……。……ダメそうなときは、言いますから」
「ああ。その時は可能な範囲で支えてやる」
その言葉に、張り詰め憔悴していた聖の心が、僅かに綻んだ気がした。
──
「ヘェェイ! そこのヤング・カップル!」
前方から不意に響いた胴間声に、二人揃ってびくりと跳ねた。
堂々たる佇まいで姿を現したのは、がっしりとした身体つきの警察官だった。──と、聖が認識したのは、飽くまでも第一印象だけを例に取っての話だ。
大まかな色調だけを維持してパンキッシュに改造された活動服の、ぎらついたレザー生地が、鈍く陽光を受け止める。各所にあしらわれた鉄鋲は重厚な存在感を主張し、服越しにもそれとわかるほどの隆々とした筋肉が、装いの重量感を遺憾なく引き立てていた。
サングラスの下から覗く星形のフェイスペイントを、口角と共に歪ませ、その男は、大仰な動作で聖たちに指先を向ける。
「その
「え、あの、その」
「おっとソーリー! 名乗りがまだだったな。オレはしがないポリスの一員、人呼んで『デスペラード斉藤』!」
バァ────ンッ!!
……という音が、今、本当に出ていた気がする。
全体的な存在以外に非の打ち所のない華麗なポージングを決めながら、デスペラード斉藤は、まるで
空気に明確な温度差を感じつつ、聖は引き気味に男の姿を観察する。
「い、一体警察で何をしたらそんな異名がつくんですか……?」
「フッ……長い話になっちまう、お天道様にでも訊いてくれ……」
またも華麗なポーズで空を見上げ、広い背中に哀愁を漂わせる斉藤。
その姿を指差しながら、聖は後ろの螢一に視線を送る。
「あの、モブが濃すぎませんか、この話……」
「俺に言われても困るが……同意はする」
答える螢一も、当惑げに腕組みをしながら、眼前の存在を量りかねているようだった。聖の心理がそう見せているのだろうが、心なしか色も薄い。全身のパレットがパステルカラーになっている。
そんな二人の戸惑いをよそに、斉藤は数度余計に回転しながら、再び聖たちを振り返り見た。
「さておき、ラヴァーズ!」
「いえ、ラヴァーズではないです……」
「細かい事はいい! 焦点は一つ、現場を野次馬しようってんなら止めとけって事さ」
急に核心に触れられ、聖は思わず言葉に詰まる。──その反応は、相手の推測を裏付けるに足るものだと気付いたのは数瞬後の事だ。
どうしたものかと硬直する聖を、螢一は半身で隠すように立ち、丁寧に言葉を返した。
「……同じような生徒が多いようですね?」
「ノー! それについては居ても数人さ。だが見りゃ解ンのよ、ユーのように犯人探しをしたがってる奴は、な」
本当に最初から解っていたのか、それとも聖の反応を見てから判断したのかは不明だが──斉藤の大きなサングラスが、真っ白な歯と共にぎらりと光った。
話に聞いていた事件現場は、すぐ近くの角を曲がったところだ。ここに警察が居て、聖たちを呼び止めてきたと言うことは、恐らくまだ現場周辺の調査中だったのだろう。時間も然程経ってはいないのだから、当然といえば当然のことだ。
だが斉藤は、眼前の二人を露骨に邪魔がるような素振りは見せず、何かを推し量るように、聖と螢一とを交互に見比べた。
「素人は引っ込んでな……ってのは善意の提案だぜ! 何せオレ達でも手がかりが微妙すぎて色んな所の検査結果待ちなんだからな、ユーが行っても解る事なんざナッシングよ」
「手がかりが……? 決定的なものが何一つ残されていない、と?」
「イエス・オフコース! 何の作為の形跡も、轍の跡すらありゃしねえ。パッと
親指で肩越しに指し示された先には、舗装路の小さな破損があった。楕円形に近い、目立たない亀裂のようなものだが、確かに、不注意に歩けばいかにも爪先を引っ掛けそうな位置にある。
しかし──あんなやけに断面の綺麗な亀裂が、この登下校路にあっただろうか。
取るに足らない日常の景色を逐一記憶している自信はないが、少なくとも聖には、その存在に覚えはなかった。
怪訝顔の聖をよそに、螢一は、示された地点へと歩み寄り、屈んで手を遣る。
彼の興味を引くに足る
「……これは……」
その言動の真意を推量することは、聖の知識と処理能力では恐らく荷が勝ちすぎよう。
だが隣の斉藤は、その行動だけで充分だったらしく、得心したように腕組みをして頷いた。
「やっぱりな……新しいもんか」
「え……?」
それ以上、彼は何も言わなかったが──やはり、
だが、聖の幽かな戸惑いは、新たに駆け寄ってきた若い男の声に遮られ、緩やかに霧散した。
「あーいたいた、デスペラード斉藤さん! 休憩中にすみません!」
「おう、お前はゴルゴンゾーラ松本! どうした!」
「あの……私が知らなかっただけで、警察って皆そういう名前つけるものなんですか……?」
自分の常識観の方を疑い始めながら、聖は、ゴルゴンゾーラ松本と呼ばれた、地味な色の背広を着た若者を注意深く観察した。デスペラード斉藤と違って、外見的には特に変わったところは見受けられない。
ついでに思えば、人と会うことの多い刑事は、普通、活動服ではなく背広を着ているものだった気がするな……と、今になって思い出した。単に趣味で着てるだけなんだろうか、あの改造制服。
立て続けに現れる理解不能な事態をどうにか理解しようとして、頭から煙を出していると、いつの間にか戻ってきていた螢一に肩を叩かれ、聖は、混乱した脳神経の迷宮から強制的に弾き出された。
だが彼は、矢継ぎ早に言いながら、聖の手を取って歩き出す。──それまで進んでいたはずの道とは、真逆の方向に向かって。
「聖、一旦戻ろう」
「え……で、でも、まだ何も──」
「今は俺たちが現場に行っても無駄足に終わるようだからな。アプローチを変える」
ちらと背後に視線を遣れば、二人の刑事が何事か話しながら、現場に戻ろうとしているところだった。
確かに、まだ警察が捜査中なら、周辺は立入禁止にされているだろう。遠巻きにそれを見たところで、何も解ることなど無いかも知れない。
だが、ここまで来ておきながら、一見もせずに帰るというのは、いくら理屈が通っていても、螢一の取りうる行動として奇妙なものに思えた。
だからこそ聖は、抵抗せずに、小声で問う。
「せ、先輩……何か、あったんですか」
「否──とは言えんな。だから、来てくれ」
「……わかりました」
それだけ判れば充分だった。聖は静かに頷き、彼の後について早足に駆ける。
繋いだ指先は、少しだけ、冷たかった。