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第五話 汝が仔等は死の宿運(さだめ)につき(たま)えり




 深く、暗い無意識の深淵から、ゆるやかに浮上するように、意識は一つの形を取り戻しつつあった。
 気付けば辺りに夜は満ち、闇は遠く澄み渡る。
 視界は夜闇の中で不自然なほど明瞭に、されど歪な像を結んで、空間の果てに至るまで集束していた。

 寸断された過去の記憶が、水晶体を曇らせる。
 なぜ自分がここにいるのか、どこに行くべきなのか、全て霧(けぶ)る宵闇に()け消えてしまった様だ。
 因果、願望、宿命も何もかも、あの泥濘(でいねい)の中に置き去りにしてきたのだろう。
 それでも、膨大な寂寥は衝動となって、本能の後背から身体を()き動かしていた。


 ああ──そうだ、知っている。我々は、遥かな過去から、遥かな未来まで同様に、そうしてきたのだから。
 この渇きを癒すため、今宵もまた、歪んだ星天(そら)に踊るのだ──。



第一幕

『破滅を奏でるアルペジオ』

第二章 去りにし泡影の日々よ




 その報せが届けられてから、(ひじり)はどれほどの間を空漠のうちに過ごしていたのか、もはや憶えていない。
 まるで悪夢と悪夢の狭間にいるような、居心地の悪い虚無。その昏い霧霞から聖の意識を解放したのは、午前二時ちょうどに響き渡った、動画サイトの時報音声だった。

 急激に覚醒し、情報処理を行いはじめた脳髄は、目の前の現実に再び焦点を結び、事実はようやく実感を伴って描き出される。
 ──即ち、(ゆい)の失踪という、受け入れがたい一つの事象を。

「……そう、だ……!」

 聖は急激に襲い来る焦燥のままに、携帯端末の通話記録を指で辿り、彼女の名前を見つけて──止まる。
 結の身に何があったのか、聖は確認していない。たとえ無事であろうと、彼女から連絡してこないということは、そうできない理由があるはずだ。
 いくら不安に衝き動かされようと、今、この携帯を鳴らすことは、きっと得策とは言えない。その音は、結の身をみすみす危険に晒す可能性がある。

 数瞬の間の(のち)、聖は、履歴の一つ手前に並んでいた螢一(けいいち)の名を確認し、迷いなく、発信する相手を彼に切り替えた。
 何か明確な方策があったわけではない。ただ、こんな時、頼るべき存在として真っ先に想起されたのが彼だったのだ。
 だが──

「……なんでっ、なんでこんな時に……ッ」

 スピーカーから聞こえてきたのは、名前も知らない事務的な女性の声。
 聖は思わず歯噛みしながら、電波の不通を淡々と説くその音声を強制遮断し、手にしていた端末をベッドの上──通学鞄の側に放り投げた。

 深呼吸をして、着ている服を確認する。──着替えようと思ってはいたが、結局こんな時間まで制服のままだ。
 その上に、夕方脱いだばかりの厚手のコートを再び纏い、デスクトップ型のPCにシャットダウン命令を出してから、聖は、鞄と携帯を乱暴に引っ掴んだ。

 ──彼女は、可能な限り『冷静』であろうとした。
 今、果たして正常な判断力がどれほど残っているのか、それは聖自身にも解らない。少なくとも、普段の聖なら、どんな用事があっても午前二時に外出をしようとは思わなかったはずだ。
 だが今は、日常の枠を越えた事態と見るに充分な状況である。
 多分、この時間なら螢一は家で眠っている。携帯の不通は、充電のし忘れによるバッテリー切れか、もしくは機械自体の不具合。……確証があるわけではないが、可能性で言えばその辺が妥当だろう。
 もし彼が何も知らずに眠っているのならば、悠長に朝日を待たず、起こしてでも伝えたい。否、伝えなければならない。

 聖の中で順々に積み上げられた、行動の優先順位が、ちっぽけな常識感覚を覆い隠し、圧し潰す。
 夜勤で不在の母親に外出を告げることも忘れて、彼女は夜を睨み、部屋を飛び出していった。もしも連絡が来た時にはすぐに気付けるように、携帯端末の着信音量を最大まで上げながら。

 打ち付ける靴音に合わせて、呼気は暗闇を白く染めてゆく。
 真冬の夜気は容赦なく、聖の肺胞の一つ一つを刺すように冷やし、握りしめた指先は風を切るたび痛むほど()みた。
 大通りを選んで走ってはいるが、元よりこの地域は都会と呼ぶほど発展してはいない。すっかり眠りについた街は、完全な姿を留めながらも廃墟のように静謐(せいひつ)で、点在する信号機の明かりだけが、息衝くように、誰にともなく明滅していた。
 激しく跳ねまわる呼吸と鼓動が、泥濘(ぬかるみ)のように重たく足を取る。
 ……今、日頃の運動不足に(ほぞ)を噛んだところで、何が改善されるわけでもないのだが。
 通りすがる大型車の尾灯(テールランプ)が網膜を刺す。余計な思考を振り払い、唇をきゅっと一文字に結んで、聖はまた地面を蹴った。

 彼の部屋へは、徒歩でも十分程度で着く距離だ。こうして走れば僅か数分──しかし、この夜空の下での数分は、聖の精神を身体ごと冷たく軋ませ、疲弊させるには充分なものとなる。
 (ようよ)う辿り着いた飾り気のない扉の前で、聖は上下する胸を押さえながらふらつき、小さく咳き込んだ。

「けほっ……せんぱい……」

 磨りガラスの窓の向こうは、暗闇と静寂に満たされている。
 やはり、彼は眠っているのだろう。

 数秒──聖は、最後に生じた躊躇(ためら)いの理由を自問しながら、ボタンに触れた指先に力を込める。
 インターフォンの甲高い通知音が、暗い室内から鳴り響いた。
 聖は大きく肩で息をしながら、数秒ごとの間を置いて、二度、三度と繰り返しボタンを押下(おうか)する。暗闇の中で眠る螢一が起きてくれるまで、絶えることなく。

 だが──遅い。
 聖は奇妙な違和感と共に、言い知れぬ焦燥を覚えた。

 既にインターフォンの押下回数は二桁を数えている。
 彼は決して、寝起きの悪い方では無かったと思う。いつも彼より早く寝て、遅く起きていた聖が知っている事は少ないのだが──それでも、これだけの音を鳴らしても動く気配すら無いというのは、やはり妙である。

「先輩……先輩、お願い……起きてください……」

 (かす)かな呟きは闇に融ける。もはや幾度ボタンを押したのかも判らなくなり、聖の凍えた心に染み込むように、不安ばかりが増大していった。
 考えたくはないが、考えざるを得ないのだ。彼が今、本当はここには居ないとしたら、と。
 結は、何の先触れもなく、突然、行方を晦ましてしまった。──では、消えたのは本当に彼女だけなのだろうか? 螢一もまた、時を同じくして消えてしまったとするなら、今の今まで発覚せずにいたとしても、自然な事ではないか?

 聖は乾いた喉を小さく鳴らし、指の震えを片手で抑えた。
 もしも、二人が『消えて』しまったとするなら、この宵闇の中、一人で飛び出したのは早計だったのかもしれない。

 深夜の静寂と暗闇は、根拠の無い小さな不安にも、大きな恐怖の虚影を与えるものだ。
 今にも破裂しそうなほどに(はや)る心臓の鼓動は、こつり、と背後で響いた硬質な跫音(きょうおん)に、殊更大きく跳ね上がった。
 聖は息を呑んで振り返り、咄嗟(とっさ)に身構える。

「……聖か? 一体どうしたんだ、こんな時間に」

 だが、その視線の先に立っていたのは、まさに待ち侘びていた螢一その人の姿だった。
 これまで心中を支配していた憂懼(ゆうく)が、薄らいで消えていく。聖は、思わずへたり込みそうになる自分の身体を、両腕で抱えて支えながら、深く息を吐いた。

「せ、先輩……どこ行ってたんですか、もう……」
「む……済まない、心細かったか。ともかく入れ、冷えただろう」

 項垂(うなだ)れる聖の肩に手を添えながら、螢一は、恐らく普段よりも優しいつもりの声で室内へと招き入れた。……さほど代わり映えしない声色であるため、断定はしかねるが。

 首筋に触れた指先は夜気にすっかり冷えきっていたものの、それでも、肌から伝わる確かな安堵は暖かな肯定感となり、聖の煩慮(はんりょ)を一つずつ包み隠していった。
 ──彼がこんな時間に外で何をしていたのかも気になりはしたが──そんな些細な疑問より、今は優先すべき事項がある。

 今や見慣れた一室の中、聖は促されるままにベッドに腰掛け、乱れた呼吸を整えた。
 冷たくなった汗が衣服を肌に貼り付け、不快に体温を奪ってゆく。
 何をどう話せばいいのかも解らず、(おの)が身を抱きながら震えて嘆息を漏らすことしかできない聖を、螢一は、僅かに伏した瞳の中に映し込みながら、何事か思案しているようだった。

 やがて彼は、彼女の乱れた黒髪を、細い指先で一梳きして、従容と立ち上がる。

「……まずは暖まれ。ホットココアでも作ろう」
「そ、そんな場合じゃないんです、先輩……っ!」

 弾かれるように視線を上げた聖は、しかし(つい)ぞ見ぬほど真剣な彼の(まなこ)に、思わず続く言葉を呑み込んだ。

「解っている」
「え……」

 まっすぐに聖の目を見て、彼は言った。
 普段通りの粗野な語調ではあったが、明晰に、真摯に、……自分の戸惑いを、おくびにも出さず。

「こんな夜分に訪ねてくるのだからな、只事ではないのは百も承知だ。ならば尚更、まずは心を平定しろ」

 聖の肩に毛布を被せてから、螢一は、その毛布越しに彼女の両肩を撫でた。まるで良き親が子に対してそうするように、文句の一つも言うことなく。
 ただ両の掌が触れているだけで、抱擁にも似た優しさの中に、緊張の糸が(ほど)けていく。
 彼が立ち去った後も、その温もりは聖の中に残り続けて、穏やかな呼吸の中に融け合っていった。
 固く握りしめていたせいで白く染まった指先は、まだ小さく震えていたが──そっと両手を重ねると、じきに収まった。何の事はない、筋肉の収縮によって発熱を促す、生理的な不随意運動だ。

 螢一は、聖から見えるように開けっ放しにした扉の向こうで、小さな手鍋にココアパウダーと砂糖を放り込んでいる。いつもながら、食べ物や飲み物に対しては妙に本格思考だ……と思うのは、聖がコンビニの弁当や惣菜でばかり育てられたからかもしれないが、さて置き。

 粉末の流れる音。金属の触れ合う音。ミルクを取り出し、流し込む音。スプーンでそれを練る音。
 その全てが、呆れるほどに日常の色を纏って、聖のやり場のない焦燥を受け止め、呑み込んでいた。

 (やや)あって、聖は、からからに乾いた喉に(つか)えながらも、掠れた声を絞りだす。
 深夜三時の(かそけ)微睡(まどろ)みの時を、揺り動かすように。

「……ユイ、が」

 その時、彼の手が止まった真意を、聖はきっと知ることはできない。
 瞳の色に表出した感情は、聖が見ることもできないうちに、すぐに瞼に覆い隠されてしまったのだから。



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