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第二十話 illusion city




 石造りの古城に、男が一人。建物の影に潜むように、身を屈めている。
 その手には、拭い取ってなお血にまみれたナイフ。ここに逃げ込む直前に、刺してきた男の血だ。

 刺した男に恨みがあったわけでもなく、掲げる大儀もありはしない。ただ、楽しいから。彼が人を斬る理由はそれだけだ。その手口と残虐性から、仲間からはかまきりりゅうじ≠ニ通称され、(おそ)れられている人間である。ちなみに名前はりゅうじじゃない。

 ……だが、今ではその異名も(むな)しく聞こえる。
 いつものように、薄暗い路地裏に誘い出して一撃。過去のシリアルキラーを崇拝する(むね)を記したカードを傷口に刺す。これで三人目、順調な(はず)だった。
 黒神(くろがみ)(うつせ)――そう名乗っただろうか、奴は。
 最初は、偶然現場に居合わせてしまった一般人かと思った。何のことはない、驚いている間に雑作もなく殺す。そのつもりだった。
 ……いきなり笑顔で発砲してくるとか思わないだろ、普通。

 威嚇の一撃が耳を掠め、情けないことにビビりまくった犯人は、余裕を見せつけるように名乗りを上げる現に背を向けて逃げ出してきたのだった。
 今思えば、ここまでの道も完全に誘導されていたように思える。すっかり門も閉じられてしまった。ここに警察が大挙して押し寄せるのも時間の問題だろう。

 いいだろう、こうなれば一人でも多くの生徒を道連れにしてやる。
 どうせ死刑は免れない身だ。せいぜい親どもの泣き顔を見て、大笑いしながら死刑になってやろうじゃないか。

 と、その時、子供の話し声が聞こえてきた。足音からすると、こちらに向かっているらしい。
 まさか、殺人犯がこの学校に紛れ込んでいる、ということが未だ伝わっていないのだろうか。壁から片目を覗かせ、その様子を窺い見る。
 あまり見ない種だが、スカイブルーとライトピンクの髪の亜人は恐らく同種だ。兄妹か何かだろうか。その後ろにいる金髪の女は、その特徴的な耳から電気(ねずみ)の亜人と解る。

 ……とまあ、彼に理解できたのは、視界から得られる情報だけだった。
 その三人――ライトにルナ、そしてリミルが、ちっぽけな殺人事件なんて比較にならないほどの修羅場を幾度となく潜り抜けてきたことなんて知る由もない。

「ったく、凶悪殺人犯が逃げ込んだって、一体どこ探せばいいんだよ」
「まぁまぁお兄ちゃん、宝探しだと思えば楽しいんじゃないかな」
「もう宝じゃないの知ってるのが問題だなあ……」
「んー、じゃあ潮干狩りだと思えば」
「殺人犯アサリか何かかよ」

 だから、殺人犯がここにいると知った上で、しかも探そうとしているとは流石の犯人も想定外だった。どうリアクションしていいやら一頻(ひとしき)り困った後、ヒロイックな妄想に取り付かれて自分たちで逮捕しようとか考えているのだろうと言う結論に思い至る。
 彼から見れば、絶好のカモである。三人まとめてこのナイフの錆に……なんて、彼が白い刃をちらつかせた所で、ライトは背負っていた大剣を引き抜いた。

「まあいいや、見つけ次第この修造剣【トゥルル】で頭から真っ二つにしてハラワタ引きずり出した挙げ句、賊除けとして門に吊してやるぜ」
「十数倍ゴツい剣持ってる上に発想が俺よりグロい!?」
「あっなんかいた」

 しまった! あまりの出来事に思わずツッコんでしまったッ!
 だが慌ててはいけない、武器を持っているとは言え、相手は子供がたったの三人。亜人種ゆえに魔法も使うかも知れないが、高校生程度の実力ではたかが知れている。
 相手に対応する隙を与える前に()ればいい、まずはあの武器を持った男から――!

 以上が、犯人の思考した全てである。
 だがライトは、その僅かな思考の時間が終わる頃には、とうに行動に移っていた。

「なんだかよくわからんが空破斬!」
「ぶべらっ!」
「なんだかよくわからんのに即攻撃しちゃうの!?」

 いきなり飛んできた真空波が直撃し、犯人は見事な弧を描いて宙を舞った。
 これは油断とかそういう問題じゃない。今時の高校生は出会い頭に真空波飛ばしてくる、なんて念頭に置いている奴は世界中探しても存在しない自信がある。
 心の中でそんな言い訳をしながら無様にも地面に転がった犯人を見て、ライトの後ろで様子を窺っていたリミルが呟いた。

「ねえ、これさっき言われた殺人犯じゃない? ほらナイフ持ってるし」
「マジで? よし、じゃあまず 作業工程(1):真っ二つにする から始めようか」
「ヒィィィ本気で実行するのかよ!? 冗談じゃねーぞオイ!」

 犯人は慌てて逃げ出した。
 しかし回り込まれてしまった。

「フフン、そうと決まれば話は早い、アンタのチンケな未練ごと叩ッ斬る! 無意味にして無価値、無様で無惨な死に様を()れてやろう……身(こご)る地獄の底ですら安寧(あんねい)を覚えるほどになッ!」
「うわあああ何この大魔王の品格兼ね備えた高校生!?」
「違うよー、魔王だったのはお兄ちゃんじゃなくてヒスイ先生の方だし!」
「本物の魔王もいるのかよ!? ちょっと待て、ヤベェぞこの学校!」

 たかが子供と侮っていたが、冗談ではない。とても一介の高校生とは思えない殺気を振りまいて立ち塞がる少年を前に、犯人は身震いした。
 逃げようとした犯人を高速で追い抜き、回り込んだあの動き。何で出来ているのか、黒い光沢を放っている巨大な剣。それを見て正面突破しようなんて試みるほど馬鹿ではないが、それなら何ができると言うのか。
 (すが)るように左右を見回す。目に入ったのは、臆する様子もなく棒立ちでこちらを見ている少女が二人。
 そうだ、こいつらを人質にすれば――! 思い至るや否や、犯人はナイフを構えて駆け出した!
 が。

「わわっ、ミストボール!」
「じゃそれを帯電!」
「ぶぇ――ッ!?」

 電を(まと)って放たれた、霧のような魔力の光球は、空間に波紋を残して犯人を直撃した。衝撃波と共に、羽毛のような青白い魔力の光がはらはらと散る。
 予想外の反撃を受けた彼は、先刻の空破斬がギャグに過ぎなかったことを思い知らされるほど、ものの見事に吹き飛ばされて地面に転がった。慌てて起きあがろうとするが、全身を駆け巡った電流のせいか、身体が麻痺して動けない。

「あ、あれ、死んじゃったかな……どうしよ、お兄ちゃん?」
「殺されたら普通に死ぬような人には(ギャグ世界を生き抜くのは)難しい」
「ぼくらの話に入るには頭撃ち抜かれても平気で話してられるレベルじゃないと困るよね」

 無茶言うな。
 人間一人を瀕死に追い込んでおいて(ほが)らかに談笑する男女三人組を見て、自分以上の狂気を感じながら犯人は地に転がっていた。
 だが、話しているおかげで止めの一撃が飛んでこないのはちょっとした僥倖(ぎょうこう)だった。図らずも充分に距離を取れたのだ、身体が動くようになれば、ポケットの中の煙玉を使って逃げるには充分な状況である。実際、先刻もそうやって逃げ出したのだ。

 よし、だんだん全身の痺れが取れてきた。あとはこの煙玉を――と、そこまで考えたところで、ライトが何かに気付いたように振り向いた。それにつられて、他の者も視線を追う。

「あ、校長」

 その視線の先には、美しい銀髪を風に(なび)かせ、六枚の光翼をはためかせた黒衣の青年――
 ――が乗った、何かアメコミ風のバタ臭い顔をした機関車トーマスみたいな機械が暴走して妙にいい声で『Cでお願いします! 何か売ってください! Cでお願いします!』などと意味不明な言葉を繰り返しつつ突進してきたところだった。

「ハーッハッハッハ、この今週のおっかなびっくりメカは再生能力をも兼ね備えているのだ! さあ行けきょうりゅうせんしゃMk-IIッ!」
「ああもうどこからツッコんだらいいか解らないが、まず言うならソレは恐竜じゃないし戦車でもねぇーッ!」
「あ、ちょっと校長、そこにはぼくらが倒したばっかの殺人犯が――」
「ヘギョミツ」

 多くの読者が予測した通り、それを避けられるほど感覚が戻っていなかった犯人は暴走機関車の直撃を受け、ロケット団の如く鮮やかに吹っ飛ばされてお空の星になった。
 浮游感の中で彼の意識は空の彼方へと導かれそうになったが、全身を覆う痛みの鎧がそれを許さない。そして吹っ飛んだ先で木に引っかかり、枝に服を引き裂かれながら重力に従い落ちていく先には、

「うーん、あの老人の意図は一体……マスターは……知っている? いや……うーん……」

 心ここに在らず、と言った様子で何事か呟きながら、覚束(おぼつか)ない足取りで校舎裏を歩く(ひじり)の姿があった。
 木の上がやけに騒々しい事に気付いて聖は足を止め、(いぶか)しげに顔を上げる。傍目(はため)にはどうみても変態にしか映らない半裸の男が、ちょうど降ってきたところだった。

「ひゃ!?」

 一瞬、聖は驚いて身を強ばらせた。だが腰に()かれたケルト十字状の剣破魔剣(はまのつるぎ)・アビスゲート≠フ中央に()め込まれた宝玉が揺らぐように(きら)めいたかと思えば、その瞳は無垢な少女のそれから処刑者(エグゼキューショナー)≠フ名に(たが)わぬ鋭さを放つ。
 その次の瞬間には、変態――もとい、犯人は全身を(ことごと)く斬り刻まれており、噴き出した鮮血を蒼空に残しながら、抵抗もできず地に落ちていった。

 聖自身とその周辺の空間に限定して時間の流れを限界まで加速させ、聖以外にとっては一瞬≠フうちに嵐のような攻撃を加える。謎の多いアビスゲートの能力の中でも、比較的自在に使えるもののうち一つだ。傷口が僅かに焼け焦げているのは、アビスゲートの剣先が加速範囲に入っていないが故の断熱圧縮に()るものである。

「最近は変態さんが多いですねえ……おおこわいこわい」

 ふう、と一息ついてから、アビスゲートを腰のベルトに括りつける。そして聖は、再び思考の森の奥深くへと踏み込んでいった。
 あとちょっと注意して状況を見ていれば、その男こそが現の言っていた殺人犯だとすぐに解ったものだろうが、残念ながら今の聖の脳内にそんなものが入り込む余地などない。

 その一方で犯人はと言うと、急所は全て外されたとは言え、このままでは失血死ルート一直線である。
 まさか死刑を言い渡される前に殺される羽目になるとは思っても見なかったが、冷たく感覚が失われゆく身体は次第に考えることすら拒みはじめた。

「うわ、派手にやったわねー」
「なんか無数の裂傷が増えてる気がするんだが気のせいか……?」

 そんな彼の元へと駆け寄ったのは、烈火のように鮮やかな赤い髪に黄金(こがね)色のメッシュが入った、六枚の光翼を背に持つ亜人の女性だった。
 ルシフェルの暴走を止めに来た、教頭ことラファエルである。
 彼の悪戯に巻き込まれて怪我をした人を治せるのは、数少ない回復魔法の適性を持つ彼女ならではのこと。今回は少しばかり状況が違うが、殺人犯を捕まえようとしたら殺人犯になったとかミイラ取りがミイラになる以上に笑えないので、ライトの頼みにより出動して貰うこととなったのだ。

「はい、最低限の止血程度だけど終わったわ」
「よっし、じゃあルナ、このはがねのはりせんで気付けしてやれ!」
「あいあいっ! そーれっ、かいしんのいちげき!」
「ひでぶっ! こ、殺す気かーッ!」

 またも噴水の如く血を噴き出しながら、犯人は勢い良く起きあが――ろうとして、貧血でそのまま元の位置に倒れた。

「うんうん、ギャグの世界と言うものが解ってきたようじゃないか」
「もういっそ殺してくれェェェッ!」

 昨日までの彼を知る人は、この無様な塊が彼だと俄には信じられないだろう。死刑になっても最後まで悪を貫くと思われていた人間が、今やこの様である。だが、許しを請うことで簡単に許されるほど彼の罪は軽くなかった。

「ククク、ならんよ」

 まさにこのタイミングを見計らっていたかのように、嘲笑を含んだ現の声が響いた。
 皆が一斉に声のする方を見れば、近くの窓に頬杖を突いて、校舎内からこちらに身を乗り出している彼の姿があった。その後ろには無論、(かくり)の姿もある。

「罪は罰を以て(あがな)え。罰は罪に宛い求めよ。それこそが法に従属するものの唯一の掟。その(ことわり)を違えようとする者は、法の敵であり、秩序の敵であり、我ら知恵有るもの全ての敵だ」

 軽やかに窓を飛び越え、現は淡々と語りながら柔らかな土を踏んだ。その表情に湛えるは、贋造(がんぞう)された微笑。深紅の瞳に透けて映る漆黒が、暖かな初夏の陽気を寒気の色に塗りつぶす。

「何故人を殺してはいけないのか、なんて考える若者も、その問いに納得の出来る理論を展開できず通り過ぎてしまう大人も多いがね」

 誰もが茫然自失して、彼を見つめていた。彼が一体何を言わんとしているのか、それを理解できた者はここには居なかったようだが、これが(ただ)の悪党退治劇では無かったと言うことは今や誰もが悟っている。

「その問いの成立℃ゥ体が間違いを前提としている事に気付かんのだな。簡単なことだ、人は放っておけば人を殺してしまうものだから、秩序を維持するために法がそれを抑制しているのだ。個人の主義や主張など、全くどうでもよい事よ」

 現は、地面に倒れたまま動けない殺人犯に向かって、笑みを湛えたまま歩を進める。その笑みが指すものは侮蔑(ぶべつ)か、憐憫(れんびん)か、それとももっと利己的な意味を持つ何かなのか――それを推し量ることができる者は、幸か不幸かここには居ない。

「さて、世界の敵。不必要な存在よ。逃れ得ぬ死がその先に在るのなら、せいぜい貴様には我々の実験に役立って貰うとしよう」

 未だ充分な距離を保っていながら、立ち止まる。彼の表情は贋物(がんぶつ)であるが故に何物をも映すことはないが、後ろに立つ幽は違った。無表情という一つの形こそ崩さないものの、彼女の場合は表情を隠している訳ではない。単に性格によるものである。
 故に、僅かながら引き締まった彼女の唇≠ニ、(うつ)ろだが冷酷なまでの意志を(みなぎ)らせた瞳≠ヘ、その前に立っている現が贋物の下に隠している表情をも雄弁に物語っている。
 ――それは即ち、これから起こる事への示唆。何が起きる、と正確に言い当てることは、計画を知る者以外には出来まい。だが、何かが起きる、と漠然と予測することは誰にだって出来た。

 校舎の影から、兇闇(まがつやみ)もこちらへと走ってくる。その挙動にも表情にも別段変わったところは見られず、恐らく彼もこれから何が起きるのか知っているのだろうとライト達は推測した。

「ま、マスター……何する気なんだ?」

 充分な答えは得られないだろうと解っていながら、ライトはその疑問を敢えて言葉に変える。

「フフ、君たちは離れていなさい。心臓に自信がなければ、目も覆っていた方がいいかも知れん」

 予想の通り、現は曖昧に優しく微笑んだだけで、答えを返してはくれない。ただの学生が知るには過ぎた情報なのだろう、ライトはそれに納得していたから、それ以上は何も詮索しなかった。

「だとよ、リミル」
「なっ、なんでぼくに振るんだよっ! 別に怖くないっての!」

 リミルが怖がりを隠そうとしていることを知っているから、ライトはわざと彼女に悪戯な笑みを向ける。毎日のように繰り返しているやり取りだが、今回に限っては、この後延々と続くはずの漫才劇場は見られない。遮ったのは、幽の声だった。

「本当に、危ない。できるだけ離れていた方がいい」

 声の内に静寂を内包したかのような、今にも消えそうに揺らめく炎にも似た声。か細く、力弱く、しかし凛として周囲を照らす、確かな光を持った声だった。
 彼女がそう言うのだから、何を()き返すまでもなく、できるだけ離れよう。ライトとリミルは共に顔を見合わせると一つ頷き、地面に転がる殺人犯を一瞥(いちべつ)してから駆け出した。ルナも慌ててその後を追い、最後に残ったラファエルは僅かに迷うような素振りを見せた後、少しだけ距離を取った。

「このような仕事は……きっとあの子には辛いだろう、頼んだよ」
「ああ、任せろ」

 現の言葉に、兇闇は当然だとでも言いたげに返す。
 あの子、とは、聖のことを指す。兇闇の到着が遅れた理由は、彼女をここから遠ざけるためだ。無論、適当な嘘を言って誤魔化したわけではない。全てを話して、納得させた。わずか半年にも満たない期間で第一級処刑者(エグゼキューショナー)にまで上り詰めた彼女は、今や兇闇と対等の立場にいるのだ。隠し立てすることはあるまい。
 まあ、おかげで少々時間を食ったが、彼女に余計な気を回すと後で最悪の形になって帰ってくるのは、去年の冬に嫌と言うほど経験済みである。

 とかく、これで準備は整った。現は大仰に両腕を広げて見せ、今や一人寂しく地面に倒れている犯人を見下すように笑うと、静かに宣言する。

「さて、では我々は秩序の代行者として咎人(とがびと)に罰を与えることとしよう……兇闇、そして幽、戦闘準備だ。場所が場所だからな、一瞬で終わらせよ」
「了解」

 秩序の代行者、と言う言葉を皮肉として捉えた者は、この中に一人でもいただろうか。
 剣に手を掛けた兇闇と、銃を手にした幽。二人に挟まれるように立つ現の手にも、小さな銃が握られていた。その照準は、眼前の地面に倒れて動かない一人の男にぴたりと合わせられている。これではどちらが殺人犯やら、傍目には理解できないだろう。
 犯人は何事かを呟こうとしていたが、残念ながら体力の消耗が激しすぎたらしい。最期の言葉を遺すこともできそうになかった。強いて言うなら最期の言葉はギャグパートの『もういっそ殺してくれ』だが、それだったら多分、本人も記憶から抹消して無かったことにするだろう。

 程なくして、現の放った銃弾が彼の身体に撃ち込まれる。
 ――だが、その(もたら)す結果は、遠巻きに眺める観測者たちの予想を大きく外れるものだった。

 着弾した場所を中心にして、一瞬だけ世界が黒く(ゆが)んだ。ぐにゃり、と、景色が異様にねじ曲がったのだ。陽炎(かげろう)蜃気楼(しんきろう)のような、偶然の自然現象ではないことは見ていれば判る。
 渦巻くような脈動が地面を伝わり、ねじ曲がった景色を更に(いびつ)なものに変えてゆく。木は大蛇が如くのたうち、地面はまるで荒れ狂う水面(みなも)のよう。そんな地面にライト達がこうして平然と立っていられることに、当人も強烈な違和感を覚える。

「な、なんだコレ……世界が、歪む……ッ!?」
「ちょ……っ、な、何アレっ!?」

 リミルが叫ぶまでもなく、それ≠ェ出現した瞬間には、もう皆がそれ≠見ていた。
 黒。――としか、形容できまい、その姿は。あの弾丸を撃ち込まれた男は、己の内側から漆黒に食い破られるように跡形もなく消滅し、代わりに巨大な黒が残った。
 パーツがあるのは、判る。恐らくは、腕。恐らくは、脚。(いな)、腕と脚の区別はつかない。ただ下にある方、長い方が脚に見えるだけだ。何とも判別のつかない、無秩序な形状を持った平べったいものは、もしかしたら翼だろうか?

 黒き魔物が咆哮(ほうこう)を上げる。その人の泣き声のような叫びは、何も知らぬライト達には嘆きの絶叫とも取れた。
 しかし、直後。事前に戦闘態勢を取っていた兇闇と幽の同時攻撃によって、その漆黒は呆気なく消滅した。何の魔法でも魔術でもない、剣と銃のほんの一撃ずつで、あの巨体が掻き消えたのだ。何も知らぬ者はその光景にただ驚嘆する他は無かったが、それを行った張本人たちは、こうなって然るべきだと言うことを最初から知っていたかのように平然としていた。

 兇闇は剣を鞘に収め、黒き魔物――亜存在のいた場所を一瞥して溜息を吐く。もはやそこに倒れていた男の姿も既に無く、後には僅かばかりの血痕が残るばかりである。

「成功、らしいな」
「うむ、推測は確信となった。完成したのは放っておいても数分で自壊するような(まが)い物だが、理論は立証されたわけだ」

 現はそう言って、銃を無造作にコートのポケットに落とすと、(あざけ)るように目を細めて口角(こうかく)を上げた。
 その嘲笑が自嘲の笑みであったと気付ける者はそこには居らず、遠巻きに眺めていた何も知らぬ子供達は、黙して背筋を震わせる他にはなかった。



 星々を映した水鏡に、歪んだ影が落ちる。されどその上に、遮るものは無し。
 彼らは気付いていないのだ。水面の遙か下、妖しく揺らめく魚と蛇に。気付けようはずもない、その水面は贋物なのだから。
 否――、贋物はどちらなのかは、今は誰にも判らない。その水面を取り巻く光こそが贋物か? 映り込む星は本当に其処(そこ)にあるのか? 歪な影を落とす魚と蛇は、何者にも観測されていないそれの実在は、誰が証明してくれるのか? それとも、この水面自体が、全て――?

 全てを知りし者は、彼らの運命を悲観し、瞑目(めいもく)するだろう。
 全てを作りし者は、彼らの運命を祝福し、微笑するだろう。
 そのどちらが正しいのかなんて、そのどちらかが正しいのかなんて、今はまだ、わからない。

 ――それはまるで静かなる凪の下、激しく渦巻く海流のように。



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