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第二十話 (ひら)く砂の薔薇




 ────呼び声が、していた。

 金糸銀糸を纏い付かせた黒絹のような艶めく闇が、はためいては(ひるがえ)り、茫洋たる時と空の(はて)に折り重なっていた。
 闇の()す純黒とは色を持たぬ虚無であり、また同時に、あらゆる色を重ねた混沌でもあった。零でありながら、無限でもあった。

 去りにし万象の、あえかなる追憶。顧みられず、忘却に追い遣られた、吹き溜まり揺蕩(たゆた)う過去と未来の残響。
 その永遠(とわ)の奈落の深淵に、(ひじり)の意識は残骸のように浮かび、あるいは()けゆくように沈んでいた。

 ────呼び声が、していた。

 破鐘(われがね)の反響。
 常しなえの夜の大海(おおわだ)に、押し寄せては返す波。
 幾つもの姿形をとりながら、過去(あと)とも未来(さき)ともつかぬ時の闇の彼方から(どよ)もす(こえ)があった。

 (からだ)を貫いた痛苦も今や遠く、濃密に渦成(うずな)霧靄(きりもや)となって垂れ込めた久遠の廃忘(はいもう)の果てに覆い隠されつつある。
 定められた形状(かたち)と時間の(くびき)から、聖の根幹を形造るものが、虚ろの海へと解き放たれようとしているのだ。
 この光景もまた、血液が失われ、正常な機能が損なわれつつある脳が垣間見せる、末期(まつご)幻想(まぼろし)に過ぎないのだろう。

 ────呼び声がする。
 渾然たる虚数の海の彼方から、聖を呼ぶ声がする──。

《お前は》

 金紗(きんしゃ)の閃き。
 暗黒の(とばり)に走る稲光のような、()ざり合い、融け合った無意識の軟泥の中に(きら)めく一条(ひとすじ)の閃光があった。
 光は、耳に聞こえる言葉以上に、目に見える文字以上に、より根源的な聲を成して意味を伝えた。

《何を変えたかったのだ》

 銀沙(ぎんさ)の瞬き。
 遠く揺らめいて震える光の明滅が、そういった『意味』の配列を描いて、聖に尋ねた。

 ──たったひとつ、己の何かを変え、行き着きたる運命(さだめ)(たが)えることができるのならば。
 己の無力を──と、聖はそう考えた。
 何もできなかった。何もしてやれなかった。何をすることも許されなかった。
 それは(ひとえ)に、自分自身の無力ゆえのことであった。状況を覆すだけの戦闘力も、無知を補う知恵や洞察力も、争いを押し留め、思わず絆されるような包容力でもいい。何かひとつでもありさえすれば、また結末は違ったはずなのに。

 悔い(かこ)つならば、力が欲しかった。
 彼のようになりたかった。

 愛情──では、無かった。聖はそれを自覚していた。
 そうだ。初めから、彼という存在に憧れていた。ああなりたいと思っていた。
 憧憬は安堵の中に揺らぎ、いつしか形を変え、怠惰に歪んだ。努力の指標などではなく、ただ同一化を志すように変容していた。
 畢竟(ひっきょう)、聖はより優れたものの傍らに己を置くことで──優れた人に認められることで──自分自身にまで同様に特別な価値を見出そうとしていたにすぎない。
 そうではなかった。
 本当に望んでいたのは、そんな事ではなかった。
 ただ、きっと聖から見れば途方もない高みにある彼と────同じ場所に、立ちたかったのだ。

 だから、その為に願えるのならば、望めるのならば、力をこそ求めよう。
 護るべきを護り、壊すべきを壊す力。あまねく法を凌駕しながら、あらゆる理を支持する力。この打ち付けられた死の宿運(さだめ)すら支配し、掌握するほどの──力。
 他ならぬ彼のために。
 他ならぬ彼らのように。
 ()に頼らずとも、この両の足で立ち、戦うための────

「────力を──……!」

 光は(かす)かに、だが力強く瞬いた。
 死の淵にあってなお、遠く伸ばした指先が、『呼び声』に──触れた。



第一幕

『破滅を奏でるアルペジオ』

第六章 太陽と月に背いて




 十重二十重(とえはたえ)に降りた黒天鵞絨(ビロード)緞帳(どんちょう)を、燃えあがる刹那の(ほのお)()いて落としたかのように、不意に世界は明るさを取り戻した。

 指先に触れていたそれを手繰り寄せ、しっかりと握りしめて立ち上がる。服はあちこち破れて血にまみれていたが、そんな瑣末事に(かかずら)ってもいられまい。
 聖は額に張り付く真っ白な前髪を左手で払い、靴下越しに荒れた大地を踏みしめた。開かれた両眼(りょうがん)の揺るがぬ輝きを、腕の、そして指先の感覚を確かめるように振るわれたアビスゲートの刃が、煌と反射してみせた。
 傷一つない身体で、聖は、そこに立っていた。
 服の破れ目から冷たい夜風が入り込み、(すべ)らかな肌を愛撫して通り抜ける。その生命を、その存在を、祝福するかの如く。

「な……に……!?」

 狼狽を顕に、フェイトは光の(つるぎ)を構え直した。彼だけではない。地に伏せる兇闇(まがつやみ)もまた、驚愕に目を見開いて彼女を見つめている。
 然もあらん。あれだけの傷を負って倒れていたはずの人間が、文字通り息を吹き返したのだ。そればかりか──(いや)、真に恐るべきは──彼女が今、もはや人間ではないという事実。
 真っ赤なリボンで括られた長い尻尾のような白髪が、風に靡いていた。凛と()めつける瞳も同様に冷たく白く、右の蟀谷(こめかみ)のあたりからは天を()くように漆黒の尖角(つの)が伸びている。
 彼女の姿は、紛れもなく亜人のものへと変容していた。
 それも、兇闇と全く同一の『イヴル』種の亜人に。
 アビスゲートの中央に嵌め込まれた黒い宝珠が、星夜を映して耀(かがや)いた。

「過去改竄……!? 人の身で……この土壇場で……これを成すとは……!」

 フェイトは殊更の喫驚を瞳に滲ませる。
 ──そう、アビスゲートの権能が司るは『時間』。かれの意思は歴史を歪曲し、過去の事実を変容せしめる。
 かつて人類がはじめて時空間への干渉を成し得た時、この剣に未来を託し『破魔剣(はまのつるぎ)』の銘を与えた民は、今や誰の記憶にもない。されどその力は衰えること無く、誰かに振るわれるのを待っていたのだ。気紛れな刃の輝きが、その身に相応しいあるじを見出すまで。
 故に今、聖は生きている。初めから死んでなどいないのだから。例えば彼女がただの無力な人間で、今日今夜(こんにちこんや)この場所で惨死の憂き目を見たとして、それを誰が記憶していても、いかなる記録が残されていても──『事実』は、すべてを否定する。
 『事実』がここに在るのならば、反駁(はんばく)する記憶や記録こそ誤りなのだ。

 驚愕の色を映した彼の目が、再び無感情に細められるまで、それから一秒にも満たぬ間のことだった。
 長い袖の中から、開かれた左手が──筋繊維の大部分を切断したはずの腕が──真っ直ぐに聖へと向けられる。応じるように、剣を握った聖の両腕も、また。

「──()(つき)狭間(はざま)に、神の()は在り……万象に(ことごと)く、()()いたれば、(たなごころ)(うち)(ふる)えよ──」
「──右手(めて)忿怒(いかり)左手(ゆんで)愁歎(なげき)織糸(おりいと)の十字の(あわい)跼蹐(きょくせき)せし身に(ひとみ)(かく)せる(ちり)よあれ──」

 囁くような詠唱の言葉は、互いに届かず、しかし確かに夜風の中に融けた。
 聖には直感的に理解できた。彼のその動きが、狙いを定めながらも唇を読まれぬよう隠す仕草であると。そして彼ほどの手練が詠唱を省かぬのならば、十全な警戒のもとに大魔法をぶつけようとしているという事だと。

 詠唱とは即ち『集中』の技法である。
 体躯の細かな動きではなく、思考や精神の働きによって──より正確に言うならば、思考伝達に伴う虚数質量体の振動によって発生する、実数領域の事象の連鎖こそが『魔法』なれば、必然、起こしうる事象の精度・確度はその精神に大きく依存する。
 故に、唱えられる言葉を、時によらば舞や香をも(もっ)てして、己の精神をより深く(ぎょ)し、より鋭い刃を成す。言葉を唱える最中(さなか)、準備段階で練り上げた事象の暴発を防ぐ意味もあるだろう。詠唱の技術とはそういうもので、これは武術における構えや呼吸の技に近しい。
 されど古来、戦場の鉄則とは巧遅ならぬ拙速──生半(なまなか)の戦であれば、先手こそ必勝。たとえ火器爆薬を一切使わぬ魔法戦においても、『詠唱付き』の乱発は悪手とされる。

 ──ならば、彼の起こしたその動きは、何を示すのか?
 知り得ぬはずの知識でありながら、今の聖は、それを読むことができた。

上級雷撃魔法(ライトニングアーク)!」
光球防護魔法(プリズマティックスフィア)!」

 迸る紫電。それも一縷(いちる)の雷光にあらず、視界一面を覆い尽くす放射状の雷霆(らいてい)である。
 蜘蛛の巣か、あるいは罅裂(かれつ)の如く、絡み合うように広がったそれは、大気の絶縁破壊に伴う高熱と炸裂音を撒き散らし、さながら光の洪水の如く、深夜の街並みを正午(まひる)よりもなお明るく照らし出した。
 ただ一筋の電撃であれば、盾によって防ぎようもあろう。周辺の大気を先んじてイオン化させ、放たれた後の軌道を制御して逸らすこともできる。故に、この全方位より襲う雷は、そういった防御行動をさせぬための選択──次いで、眼前に立つ敵の脅威度を推し量る行為。
 明暗は刹那にて(わか)たれる。閃雷の直後、球状に展開された光の薄膜に包まれた聖が、奔流の残渣から飛び出した。

「むっ……」
風力加速魔法(ミストラル・ドライブ)……!」

 踵が地面を押すと同時に、輝く羽根にも似た淡青の魔力の放散が、足運びの軌跡に帯を引いた。
 渦巻く風に背を押される感覚。戦の最中に幾度も見た超常の加速によって、聖の身体は地を滑るようにフェイトへと迫る。

 ──まだ使うべきではない。鐫界(せんかい)能力はエーテルエネルギーを消費しすぎる──

 自身の無意識の声か、異なる何かが伝える声なのか、もはや一つの心の中は判然としない。聖は顔面に吹き付ける風圧に耐えるように目を眇め、その向こうで彼が光の剣を構えるのを見た。
 剣閃を予測し、受けて弾くための下段の構えだ。当然、フェイントの視線に釣られるような愚は犯さず、恐らく聖が振りかぶる瞬間を待ってぴたりと制止している。ならば──

 ──今だ!──

 世界が様相を変えた。赤黒く鈍化する視界の中で、聖は疾走していた軌道を変えて跳躍し、真横から背後へと回り込んで、喊声(かんせい)と共に赤熱した刃を以て首筋を狙う。
 瞬間、不可視の弾丸を刃に受けたかのような衝撃に聖の両腕は軋み、勢いが削がれた僅か一瞬の間隙を突いて、フェイトは、翻した剣の腹で剣閃を受け止めた。
 ──読まれていた。聖は内心舌打ちを零して、巧みに刃を滑らせようとするフェイトの腕を、左手に込めた風圧の衝撃波で打ち払う。得物の刃渡りも腕力の強さも差は歴然なれば、鍔迫り合い(バインド)を維持したところで勝ち目はない。無論、彼もそれを黙って受けるではなく、風圧を相殺しながら指落としを狙うも、聖はそれをアビスゲートの円環部で受け流して素早く跳び退った。
 すべては瞬間の事である。高速のはずの攻防が、聖の目には(しか)と見えていた。
 渦巻いて風が鳴る。フェイトの細められた赤い眼が、黒髪の隙間から聖を見定めるように睨んだ。

「……その(わざ)。記憶を弄られたようだね」
「ああ……なんか、全然落ち着いてられるの、不思議だったんですけど……そういう事だったんですね」
「人格自体に変化はないのかな? なんとも興味深い現象だ……ふむ」

 離れた間合いを詰めるでもなく、フェイトはどこか愉悦を口の端に滲ませながら剣先を下に向けた。──無防備なようでいて、柄に片手を当て、即座に刃を跳ね上げることで攻撃に移れる構えだ。
 聖は慎重にアビスゲートの刃を正面に向け、努めて冷静に、放つべき言葉を選ぶ。

「……教えてください! ユイは貴方の名を呼ぶ時、敵意を抱いてなかった……それには理由があるはずです! どうして私達を……皆を殺そうとするんですか……!」

 押し殺した悲鳴のような問いかけは、何ら駆け引きの材料にもならぬ、純然たる疑念である。
 しかし対手のフェイトは、そんな拙い言葉にも表情を崩さず、粛然と答えを返した。

「前提に誤解が一つ。君のことは興味深いが、正直別にどうでもいい。実際に排除しようとしているのは狩人の彼だけだ。無論、邪魔をするなら払い落とすけど」
「なっ……え……?」
「そして回答しよう。邪魔をしているのは君達の方だ。せっかく増やした奴らをあまり無計画に消されては困る……」

 背筋を寒気が穿つのは、破れた服のせいだろうか。聖は凍てつく風の痛みに耐えるように奥歯を噛み締め、彼の赤く無感動な瞳を睨めつけた。
 『増やした』──と、確かにそう言った。その言葉を言葉通りに受け取るならば、帰結する事実は一つだ。結を──もしかしたら同様に幾人も──あのように変貌()えた、その核心に彼がいるのだ。

「どうして……何のためにそんな……ッ」
「む、堂々巡りで要領を得ないね。目的は最初に言わなかったかな? 人の、と言うかこの世の歴史を終わらせるためだ」
「それを何故と訊いているんです!」
「先のことを君等に理解してもらうのは難しい。それを承知で答えるなら、そうだな、そうした方が総合的には世界の為だからかな」

 (ふる)える声にも整然と返答してゆく彼を睨みながら、聖は心中思索する。
 ならば何のために対話に応じる? 何のために対峙を続ける? その瞳の色は純然たる敵愾(てきがい)ではない。聖という存在を慎重に値踏みするような眼だ。何だアレは? どこまで信じていい? ──駄目だ。思考に割けるリソースが足りない。まるで考えがまとまらない。つい誰かを頼って視線を泳がせようとしてしまう。
 沈黙は刹那。フェイトはそんな聖の様子を見て、どこか自嘲的に小さく息をつくと、光の剣を構えたまま、柄にかけていた片手を離した。

「君の言いたい事はなんとなく解る。闘争ではなく対話によって相互理解を図ることはできないのかと、まあそういう事だろう」

 そう言いながら、空いた片手をまっすぐに伸ばす。
 まるで友好の握手を求めるように。片腕には剣を握ったままで。

「この手を取れるかい、『人類』」
「……ッ」

 半ば反射的に、聖の脳裏に浮かんだ答えは否であった。
 生命の奪い合いなど、避けられるものならば避けたいはずだった。されど背負う生命を天秤に、『できない』と思ってしまったのである。
 結になら、できた。
 せいぜい自分の生命ひとつ分の重みしか背負わぬ、身軽な聖であればこそ、恐怖を押して手を伸ばすことができた。聖と結という個人の間に、特別な感情が残されていたから、躊躇を振り切ることができた。
 そうでなければ、できない。彼が名指した人類という途方もない重責が背にあるならば、おそらくは殊更に。

 その反応を見て、フェイトは突如興味を失ったように(かぶり)を振り、光の剣を素早く上段に構え替えた。聖は咄嗟にその剣先に立たぬよう、身体を滑らせるように強い半身を作り直す。あの構えから、対手が踏み込みと水平斬りに備えた瞬間、力場障壁の出力強度を変えることで遠距離から頭部を狙う戦術が『記憶』にあったからだ。

「……飽くまで身を盾にするか」
「飽くまで剣を収めてはくれませんか……」
「眼前にあって捨て置けるものでもないのでね」
「ならば貴方を捨て置くわけにはいきません……!」

 言うが早いか、背後に回した聖の細い片脚が、足元の舗装材を一息に踏み砕いた。
 正確には、踵を打ち付けたその瞬間に、土中の元素を数種反応させ、破裂させたのだ。聖の後ろで衝撃によって大きく跳ね上げられた大小の破片が、電磁気の網にとらわれて不自然に軌道を曲げる。

「……ほう」
「行けッ!」

 指揮棒の如く振り抜かれた聖の指の先へ、まるで念動力にでも操られるかのように飛来する無数の瓦礫片は、一点に収束して粉微塵に弾け飛ぶ。その一つ一つの加速推進に用いられた圧縮空気が解放されてあちこちで渦を巻き、宙に舞う粉塵を巻き込んで、絵画めいた幾何学的紋様を描いて四散する。
 聖はもうもうと立ち昇る爆煙のような塵の塊を(すが)め見て、同時に重心を落として剣を構えた。
 ──舗装路の合材はある程度の粘性を持つ。いくら高速で無数に叩きつけたとて、これほどまでに微細な粉塵となるか?
 否。
 答えが脳裏をよぎった刹那、吹き溜まる粉塵を切り裂いて漆黒の影が飛来し、影──フェイトの握った光の剣がその勢いのままに振り下ろされた。
 見える。
 瞬間的に鈍く揺らめく視界の中で、聖の振るった赤熱する刃が対手の白刃を勢いよく弾き、続く追撃の太刀は、しかし翻る光剣に防がれた。聖は瞬時に刃を引くも、彼が誘いに乗る様子はなく、フェイトは剣を合わせた反動の勢いを利用して素早く刃を返し、二撃目の突きを狙う。
 再三の交錯。切っ先を(かわ)しざまに喉元を狙い薙ぎ払う聖の腕を、フェイトはすばやく刃を引いて斬り落とそうと試みた。恐らく初めから突きは引っ掛け(フェイント)──だが、それでも今の聖の方が速い。当然、喉狙いを『読まれている』ことなど『読んでいる』。
 踏み込む脚に力を込める。聖は瞬間的に地面に叩きつけた剣を支点として、逆上がりをするときのように(……できないけど……)一気に下半身を前へと投げ出し、フェイトの身体を、剣を握った腕を、そして胸部をと駆け上がるように蹴りつけた。

「ぬ……っ」

 女学生の細い足とはいえ、螺旋状の気塊を踵と同時に撃ち込むその一撃一撃は、並大抵の打擲(ちょうちゃく)よりも遥かに重い。フェイトは小さく呻き、わずかに体勢を崩した。
 ──やはり、あの気流の鎧は『読み』に従って、急所を守るために動かしているようだ。不随意に、自動で攻撃に反応するようなものではない。
 既に冷え切った足裏には、もはや靴下越しにも温度や感触は伝わらなかった。蹴撃の勢いに跳ね上げられた肢体を軸として、闇に咲く花びらのようふわりと広がるスカートを気にも留めずに、聖はそのまま空中で身を捻って刃を一閃させる。充分な隙があれば足元を薙ぐつもりでいたが、しかしフェイトもまた、不安定な体勢から反撃の一太刀を繰り出してきていた。お互いに剣を剣で受け、しかし身体を支える地面のない聖は、ぶつかり合った運動量を一身に受けて背中から地面に叩きつけられた。
 ──いや、違う。衝撃の威力を利用して、自ら手首をばねにして地面側に跳んだのだ。実際、そうしていなければ彼女の身体は無防備な形で上空にかち上げられていただろう。
 それは一瞬の出来事だった。二つの影が交錯してから、再び弾かれるように離れるまで、十秒にも遠く満たぬ攻防。聖はその加速する意識の中に、確かな手応えを認めていた。

「ふん、やはり動ける……!」

 剣戟の残響も未だ鳴り止まぬ、直後。受け身を取って転がり、体勢を立て直そうとする聖に向けて──否、彼女にのみならず、傷負った身でどうにか立ち上がろうと地に膝をついていた兇闇のもとにまで、フェイトの指先から螺旋状の衝撃波を伴う光弾が放たれた。
 今なお止まぬ粉塵の中、聖の純白の瞳が無数の光を映し込む。視認と着弾が同時でないということは、高エネルギーの圧縮粒子線、ないし何らかの媒体を用いたプラズマ弾とでも呼べるものか──強く発光して見える理由は、極度に凝縮されたエネルギーの影響を受けて大気の構成粒子が電離しているためだろう。ならば性質上、相殺は難しい。指向性の輝光壁(シールド)ではあれほどの弾幕を防御するには不十分だ。
 ならば──

「させません!」

 ──アビスゲートの中央に嵌め込まれた黒い宝玉が、不気味に赤く煌めいた。
 刹那、数種の軌道を通って飛来していた光の弾丸がすべて、淡く輝く波紋だけを宙空に残して、完全に消失した。電磁場による干渉ではなく、重力場による歪曲・拡散でもなく──特定座標の時空間そのものに揺らぎを発生させ、攻撃の威力を、異なる連続性を持つ時空間に僅かずつ逸らすことで無害化する、『時空間障壁』によって阻まれたのだ。
 これが、鐫界能力。
 鐫界器の魔力回路をもってのみ世に発現せしめる、人の為せる領域を逸脱した『超物理現象』とでも言うべき権能。
 それを目の当たりにしたフェイトが何か言葉を発するよりも前に、聖はその喫驚の隙を突くために駆け出していた。

 瞬時に赤黒く鈍化する景色の中を、聖は疾走する。
 この現象もまた、アビスゲートの『時間』に干渉する鐫界能力によるものだ。聖の周囲だけを相対的に加速させることで、時の流れる速度に明確な境界面が発生し、その外部から入射する光が長波長の赤い光に偏移しているのである。可視光の大部分が不可視の赤外線となり、光量自体も加速率に応じて少なくなるため、まるで夕焼け空のまま真夜中になったかのようなどす黒い景色となる。
 恐らく外部から見れば──明確に視認できれば、の話だが──レンズを通したかのような景色の歪みと、青白い残像を伴った聖の姿が映るのだろう。加速領域を素通りする光は一瞬歪んで元の波長に戻り、内側で聖に反射した光だけは、時の境界面を通る際により短波長の紫色の光へと偏移するためだ。
 振り抜いた刃が赤熱するのは、大気の断熱圧縮による瞬間的な加熱である。刀身部分を加速範囲から外に出すことで、通常あり得ない速度で押された空気が外部に逃げられず圧縮され、圧力をかけられた気体の分子運動量が激しく上昇して高熱化しているのだ。
 この『加速能力』をほとんど無意識のうちに駆使して、いま、聖は戦っていた。

 『客観的には』瞬時に距離を詰めたように見えることだろう。蒼く残像を残して地上に弧を描きながら、聖の手にした十字の(つるぎ)は、回り込んだ背面から脇腹を狙って一息に放たれた。
 その軌跡が視界に収められるよりも早く、今度は予測されやすい急所ではなく、確実なダメージを狙って主要筋肉を狙う。
 だが、振るわれた白刃が肉体に到達するよりも先に、まるで濁流に取られるかのように剣先が逸らされた。これまでのように窒素結晶で直接受け止めるのではなく、身体に纏った気体の鎧を、気体のまま瞬間的に動かすことで攻撃を呑み込んだのだ。

 これは──攻撃位置を予測されているのではない。戦術を読まれている。

 流れに剣を取られ、体勢を崩した隙を突かんと振り下ろされた光剣を、咄嗟に受け止めるのは容易であろう。しかし、聖に刻まれた覚えのない経験が警鐘を鳴らす。これを正直に受けるのは危険だと。
 剣と共に叩きつけられた衝撃波が地面を大きく穿ったのは、聖がそこから飛び退った直後の事だった。局所的に発生した高熱による上昇気流が破片を巻き上げ、竜巻のように空へと立ち昇る。
 再び両者は離れ、荒廃の夜に剣を構えて向かい合った。

「……二度目。読めるのか、虚数領域の『流れ』を?」
「え、まあ……どうなんでしょう、多分……?」
「多分か」

 次に仕掛けたのはフェイトの方だ。恐らく空気圧を用いた超常の加速によって一瞬で肉薄し、左手に展開した灼熱の光球を叩きつけんと迫る。
 あの熱量は──今の聖には受け止められない。
 そう理解するが早いか、聖は再び『時空間障壁』によって炸裂前の高熱を時空の揺らぎに霧散させ、次いで、衝突に備えて眼前に輝光壁(シールド)を展開する。
 フェイトが同様に輝光壁(シールド)を張るのもまた、同時であった。異なる波長をもって展開・積層化された電磁場と重力場が干渉し合い、激しいエネルギーの散逸光を周囲に散らしながら──

「やはり脅威だね、君は」
「どうも……っ」

 ──増大する力場同士の反発力と、高密化した重力による空間歪曲の反動によって、両者共に吹き飛ばされた。
 聖は気圧弾の炸裂によって地面を跳ね転がりながら姿勢を制御し、片やフェイトは空中で身を捻ってふわりと浮遊するように姿勢を戻す。
 露出した土の地面を滑りながら剣を構え直す聖のもとへ、ほんの数瞬、立て直しの早かったフェイトが、天を裂いて追撃の吶喊(とっかん)をかけた。直線的な軌道だが、その加速度は弾丸のごとく速い。しかし、姿勢制御や反動推進に立て続けに用いたためか、気流の鎧は確実に減衰しているはずだ。聖は『加速』によって再び赤黒く染まる世界の中、その襲来を好機と見て、躱しざまに喉笛を狙うも──

「──む。これは痛いな」
「な……っ」

 フェイトはその高速の剣閃を手のひらで受け、刺し貫かれながらも刀身を握り締めた。
 想定外の手応えに集中を乱された聖が、『加速』を一瞬解いてしまったことに気付くのはその直後の事だった。灼熱した刃に肉が焼け、血が蒸発する嫌な匂いが鼻をつく。剣を持つ腕を取られ、がら空きになった腹部から冷たい風が流れ込む。

「やば──っ」
中級衝撃魔法(ミーティアルショット)

 直後、上から叩きつけられた衝撃弾は、反射的に張った輝光壁(シールド)でエネルギーを受け止めることができた。
 しかし、その勢いによって地面に叩きつけられた背中の側は無防備そのものだった。砕石と舗装材の破片が分厚い服越しにも皮膚に食い込み、肺から空気が絞り出される。

「がっ……げほっ、痛……ったぁ……」

 轢かれて潰れた蛙のような体勢で聖が喘ぐその上空では、衝撃を放った反作用によってか、わずかに天へと舞い上がったフェイトが、光剣の狙いをしかと定めて今まさに振り下ろさんとしていた。
 あと一秒も経たぬうちにとどめを刺されんとする状況。以前の自分であれば、きっと死の恐怖に怯えて目をつぶっていただろう、と、聖は咳き込みながら思惟する。
 されど今は違う。思わず身をすくませるほどの未知の恐怖は、今や既知の情報に過ぎない。
 死か。
 確かに、二度はごめんだ。
 大地を背にして聖が掲げたものは、抵抗を止めぬ瞳と、十字の中央、赤く揺れる宝玉の煌めきであった。それを知覚できる者であれば、膨大な魔力の収束もまた感知できたはずである。

「ぬっ……!?」
「射てッ!」

 直後、天を貫いた光の柱を、フェイトは『防御』しようとはしなかった。これは小手先の防護膜などで防げるものではないと、瞬時に理解していたためだろう。
 柱に沿って発生した超高密度のエネルギーの奔流は、軌道上に連鎖的な爆発を生み、光と熱と衝撃波を、そして強力な放射線を周辺一帯に降り注がせた。極小単位の帯とはいえ、量子的ゆらぎ──いわば基底状態の時空間そのものを消滅させ、その潜在的質量を残らずエネルギー化したのだから、破壊力は推して知るべしと言ったところか。
 しかしフェイトは、確実に致命の間合いで放たれたはずのそれを、発動準備にかかった僅か一瞬の間に直撃を逃れていた。爆発の余波を受けて肉体を損傷させながらも、音速を超えて膨張する大気の波を利用して自身を地上へと吹き飛ばしたのだ。

「ぐっ……『見えざる手』と似た光……真空相転移砲? そんなものまで扱えるのか……」

 斬り裂かれた腕、貫かれた掌、そして爆発による全身の傷と火傷。すべてを高速で治癒し、ふらつきながらも、それでもフェイトは五体満足で立っていた。
 聖も痺れる身体で立ち上がり、応戦態勢を取ろうとするが──瞬間、気弾が足元の地面を打ち付け、飛散した(つぶて)輝光壁(シールド)の防御を抜けてむき出しの足を打った。これらの力場の性質上、電磁波や粒子線は無力化しやすくとも、固体にかかる運動エネルギーは拡散が難しいのだ。

「うぁっ!」
「だが随分甘いね。上空に向けてしか撃たない気かい」

 夜に浮かぶ(くら)い瞳の冷淡な睥睨(へいげい)を受けて、聖は歯噛みした。
 相転移砲を地表に向けて放たないのは、何も住民に配慮してのことではない。一つに『自分も危険だから』、そしてもう一つに『相手を上空に投げ出しでもしないと回避されやすいから』だ。連射が効けばその限りではなかっただろうが──聖には、そこまで膨大な魔力を一度に扱う力はない。恐らく彼は、警戒するあまり聖の実力を測りかねているのだろう。

 次はどうする。どうすればあれに致命の一撃を叩き込めるのか。聖は自問する。
 たったの一撃、背中から叩きつけられたあの衝撃が、想像以上に全身に響いているようだった。個人が扱えるエーテルエネルギーも無尽蔵ではない。鐫界能力を使えるうちになんとかしなくては。──今度は私が、彼を守るために。
 脚の痛みを堪えながら、剣を構え直す。おそらく傷の治癒を待っていたフェイトも、これ以上の時間はかけられぬと判断してか、一歩、また一歩と距離を詰め始めた。一気に疾駆してくるなら『加速』能力によって迎撃もできようものだが、こういった緩やかな接近というのは、今の聖にとって最も警戒すべき動きだ。
 頬の汗を拭う余裕もなく、靴底が路面の砕石を踏む音だけが夜闇に響く。彼我(ひが)の距離は、もはや三歩も踏み出せば刃圏(はけん)に入るほどだ。先んじて動くべきか。聖は僅かばかり前傾に身構えた。

 ──瞬間。

「今だ、『(ラスティ)』ッ!」

 背に護っていた兇闇の、刺すような声が飛んだ。

「ひゃいっ」
「何……?」

 不覚にも声にびっくりして身を竦ませてしまった聖の目前、警戒して剣を構えるフェイトとの間に、猫のごとく靭やかに着地する人影があった。
 聖よりもさらに一つ二つほど小さく見える、おそらくは少女の姿。肩口で切り揃えられた栗色の髪をふわりと風に遊ばせながら、身の丈以上もあろうかという奇妙な形の──三日月型の刃を先端に持った槍斧(ハルバード)のような──武器を夜空に振るい、舞うようにその軌跡で円を描く姿は、この夜舞台に演舞を行う巫女のような、神秘的な様相を孕んでいる。

「──わかってる。そんな大声出さなくても」

 幼い姿には似合わぬ冷淡な声が、至近距離ゆえか、やけにはっきりと耳に残った。

 だが、その声が耳に届く頃には、聖の脳は、送り込まれた情報を処理する能力を失っていた。
 それは、より優先的に処理すべき混乱のためだ。降りる瞼が気紛れに世界を塗り替えたかの如く、聖の視界は一瞬にして異なる景色を映し出していたのである。
 自分がいたはずの場所で爆炎が巻き起こり、それに呑まれるフェイトの後ろ姿を遠巻きに眺める今の位置にまで、二人はただの一歩も動かぬままに移動していた。パッチワークめいて切り取られ、入れ替えられたかのようなアスファルトの舗装路が、その事実を強調している。
 ラスティ、と呼ばれた少女の円舞によって、空間同士が繋がったように思えた。──よく見れば彼女の髪の隙間からは、丸っこい獣の耳が見える。亜人だ。

「く、焼夷剤か……!?」

 その一方でフェイトは炎に巻かれながら、風を纏って飛び退り、それから立て続けに炸裂する手投げ榴弾の爆轟と無数の破片をいなしていた。ラスティと兇闇の齎した波状攻撃であろう。そこに突如、瓦礫の影から血まみれのルシフェルが光翼を展開して飛び出した。

極大風刃魔法(ゴッドブレス)ッ!!」

 両の手に横溢した青白い魔力の光が、新月の夜に帯を引き、十字を切った。
 高精度の電磁気的斥力によって発生した、完全なる真空──即ち『無』の刃が轟音と共に大地を破砕し、周囲のブロック塀や瓦礫片ごと、道路の幅いっぱいに深く十文字の断裂を形成した。破壊力を持つ気刃の(たぐい)を直接ぶつけられたのではない。ただ空間中に突如として『無が発生した』、そのために全てが引き裂かれたのだ。
 その十字の交点に捉えられていたはずのフェイトは、破壊が起こる寸前に凄まじい衝撃を受けたかのように吹き飛び、回転しながら塀を打ち砕いて民家の壁に叩きつけられた。恐らくは緊急回避のために、自傷覚悟で己を弾いたのだろう。軽く咳き込みながら地に膝をつく彼は、それでも支障なく臨戦態勢をとっていた。

「チッ……今のァ何だ、整流された電磁場に電磁場をぶつけて磁気反発でテメーを吹っ飛ばしやがったのか? やるじゃんド畜生」
「……裏を返せば『防ぐ手段は無い』ようだな。あの防御能力もどうやら万能ではないらしい」

 未だ戦うには心許ない足取りで、兇闇は防御姿勢を崩さぬように後退(あとじさ)る。一方、身体を血に濡らしながらも既に傷を塞いだらしいルシフェルは、彼を庇うように地上に降りて前に立った。
 四対一。八つの視線が(すだ)く先に対峙するフェイトは、微かに憎々しげに目を細める。

「増援……とはね。想定より早いな」
「待ち合わせしてたんだよ、元々。乱入者はあんたの方」

 (いとけな)くも冷たい無表情を崩さず、毅然として返すラスティ。金の瞳が射抜く先は、フェイトの姿からルシフェルに、そして兇闇へと移って止まった。

「『(ドゥンケル)』。キミが真っ先に負傷してるなんてらしくないじゃないか」
「ああ、助かった『(ラスティ)』。気をつけろ、奴は圧縮気流の鎧を──」
「問題ない。私は夜目が効く。燃焼剤の炎の踊り方でだいたい見極めたよ。それに──」

 風啼(かざな)きの音が舞う。この月なき夜に代わって照らす月光のように、夜天へと掲げられた黄金(こがね)の刃がぎらりと輝いた。刃のような瞳と、瞳のような刃が、万象を焦点に捉える。

「──そんな障壁、私には『関係ない』」







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