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第十九話 宿運の星辰(とき)




 吹き下ろす空漠。冷たく、乾いた風の()は、鎮魂の調べにしては粗笨(そほん)に過ぎよう。
 揺蕩(たゆた)う時の静寂は、去りにし音の残渣(ざんさ)一時(いっとき)とどめて張り詰めては、(またた)きのうちに消えいった。
 残響に急かされるが如く、蹌踉(よろ)めきながらも踏み出した(ひじり)の爪先に蹴られて、砕けた石片が転がる。路面はあちこち壊廃し、惨憺(さんたん)たる有様を呈していた。

「ユ……イ……」

 言葉は弱々しく震えて掠れ、虚ろな吐息となって白く濁った。余韻の(おり)が暗闇のふちに沈みかかるころ、汗に濡れ、風に撫でられるまま(もつ)れて目蓋(まぶた)にかかった黒髪を、覚束ない手で払いながら、聖は、地に仰臥(ぎょうが)し動かぬ友の肢体を見た。
 幾億の夜が人の姿に凝集したかのような存在感は、今や薄霧を(くる)んだ紗幕(しゃまく)のように儚げに風に揺らいでいる。

「……()けた……?」

 ぴくりとも動かぬ少女の唇から、やがて、誰にともなく発せられた言の葉が風に乗る。
 胸元に穿(うが)たれた穴は血の一滴も零さずに、しかし揺らぐばかりの漆黒は気流に従って小さく棚引いた。

「……そっか……敗けたか、私……」

 答えを待たずして、諦観を(はら)んだ吐息が、闇のうちに()けた。濡れそぼつ瞳の天球に、深い水渠(すいきょ)の底のような黒々とした夜空の青が、不思議なほど穏やかに流れて落ちる。
 生命を奪い合っていたにしては妙に従容(しょうよう)として憂いげな、(さなが)ら競技か遊戯にでも敗れたかのようなその面差し。血の一筋、土埃の一つとして見えぬ(いとけな)い肌の輪郭は、(つい)ぞ見ぬ白磁の像のごとく冴えざえと美しく見えた。
 歩み寄ろうとしていた聖は、自然、その(さま)に息を呑む。
 兇闇(まがつやみ)は、彼女の戦意喪失を確認するように一瞥して、短刀を懐に収めた。

「頭は冷えたようだな」

 粗野に投げかけられた言葉にも、彼女は黙して応じなかった。
 しかし、それで充分だった。闘争の意志を失い、安らかに眠るようなその目を見れば、それだけで。兇闇はやれやれとばかりに小さな溜息を一つ()き、油断なく隣に控える男にちらと視線を送る。

「ルッシー。独断で悪いが、こいつを転送に巻き込む」
「何て!? ……いや、そりゃ確かにそうすッよな、お前らみてーな奴らはよ……」

 ルシフェルは大袈裟に驚いて見せたが、異を唱えはしなかった。
 横たわる(ゆい)に視線を戻し、兇闇は疲労を感じさせぬ粛然とした足取りで荒れた路面を渡る。その先で立ち尽くす聖の寄る辺となるように。

「ああ。確実な無力化手段が無い以上、情報源として保護することが許されるかどうかは判らんがな……。
 正直、今回の判断は俺の手に余る。それに(アイツ)は、少なくとも保身に囚われて大局の利を見失うような奴じゃないだろう」
「予定の時間どんくらいよ?」
「……あと三十分ほどだな。さすがに俺が行かんわけにはいかなくなったが……」

 そこまで語って、彼は、どうにも困り果てたような顔で聖を見た。その視線の不穏な色に、聖は内心どきりとして、首を(かし)げつ彼を見返す。

「ううむ……既に聖には説明義務が生じてしまっているからな。一度ラスティに(そば)に居てくれるよう頼むべきか」
「ま、待って……ください、先輩……。また……どこか、行っちゃうんですか……」

 喉に(つか)えた声を絞り出しながら、縋るように服の袖に指を掛ける。
 (いや)、事実、縋っているのだ。この指先に触れた、わずか一センチメートル四方の頼りない布の感触に。
 自覚は焦燥を加速する。聖は、掴んだ袖口の端を指に強く巻きつけ、言葉を探した。兇闇は白く冷えた小さな手に自らの掌を重ねる。

「……いや。説明が難しいんだが、危惧すべきは真逆というか──」

 卒爾(そつじ)、言葉を遮る風音。取られた構えにつられて(ひるがえ)る布のはためき。
 鋭い視線と共に、刺すように飛んだ言葉は、ルシフェルのものだ。

「待て。……何者だ、アンタ?」

 その言葉が向けられた先を、転瞬、誰もが振り返り見た。

 男──であった。どこか小柄で中性的な佇まいではあるが、体つきを見て紛うほどではない。
 整っているが艶のない、影のような黒髪。その隙間から覗く瞳は、凝固しかけた血のようにくろぐろと(くら)い赤色。少し童顔ぎみな(かお)は、もしも笑ってさえいれば快活で愛嬌のある形貌と言えただろうが、陰気な死人(しびと)のような虚無的な表情がそれを打ち消していた。
 夜よりもなお暗い漆黒の外套の襤褸(ぼろ)布のような裾が、さかしまの(ほのお)のごとく微風(そよかぜ)に揺れて地を舐める。
 こつ、こつ、と上質な靴の打ち付ける跫音(きょうおん)を響かせながら、彼は剣呑な視線の槍衾(やりぶすま)を悠然と通り過ぎていった。皆、警戒しながらも、それ故にいかなる行動も取れずにいた。

「フェイ……ト……」

 そして横たわる結が男のものと思しき名を呼んだ時、緊張は深まり、当惑の色は増した。
 もはや論を()たない。そこに立つ者は、間違いなくこの件の関係者だ。

 となれば必然、問題の焦点はたったひとつの判断に絞られる。
 すなわち────敵か、味方か。

「……よく頑張った。でも、あまり無茶をするものじゃないよ」

 殺到する視線を気に留める様子もなく、フェイトと呼ばれた男は跪いて、結の乱れた前髪を撫でつけた。それは低く落ち着いた、優しい声色だった。
 無防備に丸められた背中に、用心の気配は見えない。武器の一つも持たず、身を守る盾も鎧もなく、たった一人膝をついている。彼がもしも『敵』なのであれば、(いささ)か奇妙な振る舞いだと聖は感じた。
 淡青(うすあお)の幽光。もはや見慣れた魔法の光が、ぼうっ、とその指先から生じては漂揺(ひょうよう)する。
 ──(ひずみ)
 視界に走った光の紆曲(うきょく)を、最初、聖は理解することができなかった。物質ではなく空間そのものが、一斉に膨張と収縮とを繰り返してねじれた。かと思いきや、その領域だけ時が遡行するかの如く、同じだけの歪みを重ねられて消えた。一瞬のことだった。過程に対して結果が現れたのか、結果に対して過程がつくられたのか解らないくらいに。
 ただ、その一瞬のうちに、歪みのヴェールの内側で、結の姿は霧散していた。完全に、一縷(いちる)の残渣すらなく。
 兇闇とルシフェル、二人の間に戦慄が走る。今の聖では知る由もないが、『魔法』の原理では、このような芸当は物理的に不可能なのだ。

「……何者だ? 亜人のようだが……今、何をした?」

 音もなく立ち上がった黒衣の(せな)に向けて、二人は警戒の構えを取る。一方、聖の脳には既に正常な判断力など残されていなかったが、剣呑な空気に圧され、身を隠すように数歩後退(あとじさ)った。
 風はとうに止んでいた。無音の残響が耳に響く。
 フェイトは振り返りもせず、だらんと両手を下げたまま、鬱陶しげに呟いた。

「狩人か。……普段なら黙殺すべき細事だけれど……相見えては、そうもいかないね」

 刹那、静寂(しじま)の中に説明のつかぬ『気配』の鳴動を感じて、聖の肌はざわりと総毛立つ。
 (いくさ)嚆矢(こうし)は一瞬のうちに放たれた。
 小気味よい金属音をたてて、咄嗟(とっさ)に懐から抜き放たれた兇闇の短刀に、神速、振り抜かれた光の刃が受け止められる。──否、それは刃ではない。二つの指を立て、男の結んだ剣印が、得も言われぬ不気味な光を纏って金属の刃先を押し返しているのだ。
 斬り結んだ二条(ふたすじ)の光は、一瞬競り合っては、翻り、離れた。直後、飛び退った兇闇の着地の隙を目掛けて、掌圧──としか形容できぬ衝撃が襲う。掌から放たれた、岩床の如く硬く高密の気塊が、攻撃に備えて身構える前の三人を正面から打ち据えた。

「──ッ! オ、オイ待てって……こりゃ冗談にもならねェぞ……!」

 宙に浮かされ、無防備に頭から地に落ちかけた聖を受け止めて守りながら、ルシフェルが口の端を()げて吐き捨てる。

「ぐッ……質問に答えてくれ! 何者だ!? 亜存在事件の関係者かっ!?」

 兇闇は短刀の切っ先をまっすぐに彼に向け、肘をゆるく曲げた強い半身の構えを作った。斜めではなくほとんど真横に構えた姿は、通常の武道や格闘とは違う、銃や刀剣といった殺傷力の高い武装に相対するための姿勢だ。
 無感動な昏い瞳が、微かな憐憫の形に細められた。家に迷い込んだ愚かな蟻を潰すような、冷淡な(あわれ)みと殺意。眼前で()かたれる生死に些かの価値も感じていない眼。

「無知は至福、(しか)れど愚蒙は罪なり──……走狗(そうく)よ。歯牙にかけた獲物が、己が罪科の落し仔とも気付いていないのか」
「何……ッ!?」
「今は眠れ、やがて全ては無に還るさ」

 嘆息を皮切りに、波濤(はとう)のごとき攻防がはじまった。
 肉薄。何らかの超常の加速によって数瞬で距離を詰めるその速度に、兇闇は構えていながらも対応が遅れる。反撃を狙った腕を引っ込め、(すんで)の所で輝光壁(シールド)を展開すれば、振りかぶって叩きつけられた灼熱の光弾が炸裂した。
 ルシフェルの纏った羽衣めいた(きら)めく薄布が、青白く発光する。──大気に潜んでいた何がしかの力が形骸を持って浮かび上がるかのように、光のヴェールが兇闇の身を包み、吹き飛ばされた先で柔らかく受け止めた。
 息を呑む聖。彼は至近距離の閃光に網膜を()かれている。直後に遅い来る追撃の刺突を防ぐ術は無いかと思われたその時、不可思議な大気の歪みが、光を纏った剣印の軌道を僅かに逸らした。空いたフェイトの懐に──その一瞬の空隙のうち、いつの間にか兇闇の手にあった小さな秘匿携行銃(コンシールド・ガン)の銃口が向けられる。相手が『生きたモノ』ならば、鉛弾は有効なはずだ。
 立て続けに放たれる衝撃が、闇夜を揺るがした。

「……なるほど、練度は高い」

 銃弾はきゅるきゅると甲高い音と共に、白煙をあげ、虚空でぴたりと止まっていた。
 光学兵器や気流、火焔などのプラズマと違って、純粋な質量弾は輝光壁の力場(フォースフィールド)では防ぎにくい。推進ベクトルを偏向させて逸らすならまだしも、この至近距離で、腹部に向けて放たれた複数の弾丸を、完全に食い止めるだけの障壁は張られていなかったはずだ。
 眩んだ眼では事象の正体が掴めず、咄嗟に真横へと飛び込み、地を転がる兇闇。直後、(くう)を薙ぐ(かいな)。上天から斬りかかろうとしていたルシフェルに向けて、宙空で受け止められていた弾が放たれた。推進剤めいて剥落し、煙となって霧散する小さな光の結晶。

「チィッ……」

 殺到する鉛弾を、ルシフェルはアビスゲートの光の盾で受け止め、斜めに逸らして威力を殺した。不意打ちは失敗だ。兇闇と共に跳ねるように退避し、靴底で地を噛む。

「────窒素結晶……!」
「馬鹿な……そんな芸当がッ!?」

 ふらつきながら刮眼(かつがん)し、兇闇は構えを取り直す。
 ──窒素。地球大気のおよそ七八%を占める、常温では無味無臭の気体。それを今の一瞬のうちに六〇ケルビンの極低温まで冷却し、結晶化させ、文字通り弾丸の全運動エネルギーを受け止めたのだ。
 ただ結晶化させて小さな盾にしただけでは、支えもなく宙空に存在する固体窒素の塊は破砕され、吹き飛ばされて終わりだろう。──だが、あの甲高い摩擦音。恐らく相応の圧力操作によって、推進力と衝撃を全て熱に変え、あるいはエネルギーを伝達させた結晶を細かく散らすことで無害化し、放散したのである。
 しかし──大気中の気体窒素と固体窒素との密度差は、実に一対七〇〇以上。小指の先ほどの結晶体を作るのにも、小さなビル一軒分ほどの体積の空気が必要となるはずだ。大気中の水蒸気や、もしかしたら二酸化炭素までも混合して凍結させていたのかもしれないが、いずれにせよ一瞬のうちにそれほどの気体を圧縮したような暴風は起こらなかった。それに、奪われた温度は無に消えるわけではない。気体の圧縮を伴うのなら尚の事、局所的な冷凍には局所的な熱放射が付随する。それが一切、発生した形跡がないのだ。
 常識外の魔法だ。
 緊張が汗となって兇闇の頬を伝った。

「多分だが……圧縮大気の気流を爆発反応装甲(リアクティブアーマー)みてェに全身に纏ってるんだろうぜ。無茶苦茶だが……あり得なくは無え」

 ルシフェルは鋭く、猛禽めいた瞳で対象を(しか)と見た。
 フェイトのどこか陰鬱な赤い眼が、かすかに(きら)めいて開かれる。ほう、と小さな溜息が聞こえた。

「……チャラい見た目の割には、随分頭が切れるようだ」
「前半は余計だ陰気野郎コラッ」
「む。それもそうだ。外見的特徴を(あげつら)うとは、とんだ非礼をしたね。済まなかった」
「あ、いやこっちこそ強い言葉で言い返しちまって……」

 やけに折り目正しく頭を下げるフェイトに、全く同じ動作で応じるルシフェル。

「丁寧にやっとる場合かッ!? 話が通じるのか通じないのかどっちなんだお前は!」

 そこにすかさず兇闇の声が飛び、ルシフェルははっとして武器を握り直した。
 ほんの一瞬の、不自然な静寂。腕を投げ出し、脱力した姿勢のまま、フェイトの眼は複雑な感情を宿して、また細く歪む。

「話してもいいけど……こちらの要求は覆せないただ一つ」
「何……?」

 警戒しながらも、兇闇の怪訝な声は自身の敵意を()き止めた。右手に銃、左手に短刀を持って、交差させるように構えながら。
 風切音。光を纏った剣印が、まっすぐに二人を指す。

「全人類ごと涙をのんで滅んでくれ」

 淡々と告げる声に誇張や冗談の色はなく、大気全体が姿なき聴衆のごとく慄然と震えた。
 ──滅びよと言ったか。いかなる要求のための手段でもなく、それ自体を目的として人を滅すと言うのか。
 あまりに規模の大きな言葉に狼狽(うろた)え、後ろで瞠目(どうもく)する聖をよそに、兇闇は一際強く全身を緊張させながら、奥歯を軋ませ吐き捨てる。

「……承服できん!」
「だろう。故に対話に意味はない。以上だ」

 砕けたアスファルトの細かい破片が、フェイトの周りで渦を巻く。
 何事か思惟(しゆい)していた様子のルシフェルが、瞬時に応じてその前に躍り出た。あれが消耗した気流の鎧を修繕しているのだとすれば、あまり時間を与えるべきではない。
 フェイトがその姿に向けて手をかざせば、そこらじゅうに散らばった大小の瓦礫が浮遊し、外敵に殺到してゆく蜂のように無数の礫弾となって飛来する。瞬間、空中で急制動をかけたルシフェルは宙返りをして地面に手をつき、短く叫んだ。

爆裂魔法(サンドマイン)ッ!」

 地中で炸裂する衝撃に、路面のアスファルト合材の板が剥落し、勢いのままに跳ね上がった。発動速度と引き換えに、合材を砕かぬ程度に威力を抑えられた爆裂魔法(それ)は、彼の眼前に黒く(いびつ)な盾を出現せしめた。
 立ち上がったその表面に破片が突き刺さる鈍い音が響き、衝撃に()されて震える。しかしその盾が押し返されるよりも前に、ルシフェルは次の行動を起こしていた。即ち地面についた掌を支点に、そのまま止まらず身体を回転させたのである。

「──っらァッ!」

 気流の螺旋を纏って蹴り飛ばされた巨大な合材片は、その重量にそぐわぬ速度で真っ直ぐに風を切り、フェイトめがけて襲いかかった。
 フェイトの黒衣の袖から引き出された白い指先が、指揮棒のように振られる。高熱に輝く気圧弾が複数、正面からそれを押しとどめては弾け──立て続けに襲う衝撃についに耐えきれず破砕された盾の向こうから、果たして二つの影が飛び出した。片方は左、片方は右から、いずれもしっかりと得物を構えながら。
 二つの刃の軌道の先で、黒髪に隠れた眉が僅かに(ひそ)められた。
 右からは(くび)、左からは心臓を狙う、研ぎ澄まされた刃。いずれかが通れば雌雄は決するであろう致命の挟撃に、しかしフェイトは迎撃も回避もせず、ほんの少し重心を落とした。

 飛び散った(あけ)の雫が夜風に揺れる。
 突き出された二つの刃は、いずれも彼の差し出した掌のなかに埋没し、鮮血に濡れながらも、狙った箇所には届かずに留められた。

「……痛いな」

 生温(なまぬる)い血のぬめりに(まみ)れ、握った刃に貫かれた手が、兇闇の手の甲をゆるやかに握り返す。
 短い刃は、中手骨の隙間を通って掌を突き抜けていた。一瞬怯みかけた兇闇は、しかし刃を引くことなく、すぐさま手首を小さく傾ける。力の向きに従って交差した腕の隙間に銃口が差し込まれ、間髪入れず、弾丸が放たれた。

 迷わず頭部に撃ち込まれた二発の銃弾は、衝撃を発して男の身体を大きく仰け反らせた。
 二人は刃を引き抜いて瞬時に飛び退り、距離を取って再び構える。兇闇の薄く開かれた唇から、吐息が白く棚引いて消え──しかし、それだけの時間が過ぎても男は倒れず、そればかりか足を移して、踏み止まった
 (かぶり)を振れば、血に濡れて(ひしゃ)げた金属塊が、音を立てて地面に落ちる。
 額に開いた弾痕からは確かに血液が流れていたが、その薄い液体の層の向こう側では、既に傷口は変色した痕跡のようになりかかっていた。よく見れば、両手に開いた斬撃痕も、また同様に塞がりつつある。

「馬鹿なッ……銃弾を食らって……!?」
「回復魔法じゃねーよな、今の……再生能力(リジェネレーション)って奴かよ?」
「確かに種として治癒の早い亜人はいるが……範疇外だ。脳に達さなかったのか……?」

 (おのの)く二人に、フェイトは変わらず、路端の虫でも見るかのような無機質な表情で両手を広げ、視線を巡らせる。

「まだ勝機はあるかい? 早めに諦めてくれると幾分楽なんだが──」

 しかし、返された答えは変わらぬ敵意と、白刃の輝き。(ひた)と向けられる四つの(まなこ)と、二つの牙。
 それを見るや、彼はいかなる感慨もなく、静かに目を伏せて溜息をついた。

「……そうか」

 その両手の指に纏った光が、荒廃の夜に軌跡を残して閃いた。
 魔法の余波に荒れ狂う風の中を、刃交(はま)ぜの響きが(こだま)する。淡い光に覆われたただの指が、腕が、錬鉄(れんてつ)の鎖のように刃を受け止め、銃撃を弾いた。振り下ろされる指先は研ぎ澄まされて鋭く、受け損ねれば容易(たやす)く肌を裂き、肉を(えぐ)った。
 兇闇が弾の切れた銃から地面に落としたきりだった長剣に持ち替えても、盤上の有利不利が傾く兆しはない。そればかりか、フェイトは同時に繰り出される(つるぎ)の一閃を、腰の後ろから引き抜いた黒い十字の金属板で受け止め、続く暴風の魔法で二人を一斉に吹き飛ばしてみせた。
 傷も疲労も、あまりにも一方的に蓄積されていた。恐らく彼は敵を(たお)すことよりも、間違っても致命の一撃を受けないよう、慎重かつ防御的な立ち回りを志向していながら、与えられた僅かな損傷は全て自然治癒してしまうのだ。それでも、息つく間もなく戦いは続いた。

 戦風(いくさかぜ)舞う最中(さなか)、混乱の極みにあって後退りながら震えて状況を見ていた聖に、フェイトの赤い瞳がふと向けられた。
 その瞬間、これまで恐怖や困惑に錯雑(さくざつ)し形にならなかった思考の渦が、不意に我に返る。
 同時に、興味を失ったように外された視線の意味を、聖は理解せずとも直感的に悟った。──見逃されている。事情も知らぬ非戦闘員の、取るに足らない一人として、ただの人間の、ただの子供として、注意を払う意味もないと捨て置かれている。
 蚊帳(かや)の外に置かれたことを自覚したその瞬間、ほとんど感覚の無かった足がひどく震えていたことに気が付いた。
 だが────この足で、どうすれば良い?
 逃げろ、と幾度となく言われている気がした。言葉こそ無かったが、兇闇の必死な形相を見ると、そう思われている気がした。
 しかし恐怖は理性を圧し潰す。治りかけた肩の銃創(きず)が熱を持つ。逃げようとして動いて、背後から何かを撃たれたら、きっとあれ以上に痛いだろう。当たりどころが悪ければ死ぬかもしれないし、場合によっては死ぬよりひどい目に遭うかもしれない。
 それに──今、逃げたら、彼らは。
 どのように念じても、聖の足は震えて動かなかった。

 ぶつかり合った金属の軋む悲鳴のような音。擦れた鉄のきな臭い匂い。その残滓(ざんし)を引き裂いて、辻風が真冬の空気を全身に叩きつける。
 フェイトが兇闇の剣を左手で防ぎ、なおも競り寄る彼の腹部に蹴撃を見舞って吹き飛ばしたその瞬間。体勢を戻すまでの片足立ちの姿に、僅かながら隙が生じた。
 すかさず、ルシフェルはその片足を一息に切断せんとアビスゲートを構えて気合い一閃振りかかる。が──剪断(せんだん)の魔法を込めた刃先が届くよりも一瞬先に、その刀身が大きく跳ね上げられた。
 斬り上げの瞬間、指を滑らせ力を運ぶ間隙を突いて、フェイトの手にした黒い十字の一辺から、突如、薄膜のような光の刃がまっすぐに伸びたのである。
 宛ら諸刃の十字剣としての様相を表したそれにルシフェルは即応できず、咄嗟に剣閃を逸らして防御することしかできなかった。結果、想定外に強力な一撃に大きく弾かれたアビスゲートは、彼の手を離れて宙を舞い、剥げた路面に突き立てられた。

「防いだか」
「く……ッ!」
「やはり手練だ。平和な世にいたとは思えないな」

 ルシフェルは素早く身を翻して二の太刀を(かわ)すも、続く光球の直撃を受け、巻き起こる爆発の衝撃に大きく吹き飛ばされた。
 目眩む白熱に思わず(まぶた)を覆ってしまった聖には、鮮血の帯を引きながら遠く地面に叩きつけられた彼が、果たして無事であったか確かめるすべはない。
 だが、少なくともこの瞬間、彼は戦うことができない。
 攻め手に回る好機と見たか、大胆に間合いを詰める対手(たいしゅ)の剣撃に、兇闇は一瞬対応が遅れる。鼻先にまで迫る十字剣の光の刃を間一髪払い落とし、そのまま鍔迫り合い(バインド)を狙って剣先を下げ滑らせるも、その不可思議な力場の光刃はただの鉄の剣とは性質が違う。何らかの干渉によってその刀身は激しく瞬き、雷撃にも似た音を立てて、重ねられた剣を弾き返した。
 ────()られる!
 眼前に迫る死の予感に、兇闇の歯は割れ砕けんばかりに噛み締められて軋んだ。
 盾による防御も、先んじて叩き込む魔法も間に合わない。恐らく反作用によって同じだけ()ね上げられた光の剣は、その勢いで巧みに構えを移行させて防御に回され、その向こうから今にも突き出されんとする左手の中には、先程と同じ炸裂寸前の光球がある。

「────っ!」

 息を呑む、刹那。
 横合いから斬りつける斬撃に、その左腕は不自然に曲がった。
 振り下ろされた赤熱する刃は、一息に肉を裂き、骨を断ち、腕の半ばほどまで斬り込んだところで筋繊維に引っかかり、止まった。引き斬るのではなく力任せに叩きつけられた刀身は、千切れかけたその腕をあらぬ方向へ捻じ曲げ、溢れ出る血液を見る間に蒸発させた。

「な……にっ!?」
「ぐぅ……ッ!?」

 肉の焼ける、()せ返るような匂いが飛散する。剣を取り、両者の合間に躍り出た聖の鼻にも届くほど。

 目に映る情景から彼の死を予感した瞬間、弾かれたように聖はそこから駆け出していた。
 右足を縛る理性も、左足を縛る恐怖も置き去りに、神の命ずるが如く、ただ胸の奥底から湧き上がる衝動が身体を支配するままに、冷たさに痛む足を大地に打ち付けた。
 地面に突き立てられた墓標めいた十字を通りすがら手に取り、呼吸すらも忘れ。
 赤黒く鈍化する意識の中を、彼女は駆けた。

 何故──などという疑念は、今更、頭には無かった。
 何故、このような無茶をしたのかも。
 何故、その接近が彼に気付かれなかったのかも。
 何故、あの一瞬のような時の隙間に滑り込めたのかも。
 何故、己の身が引き裂かれ宙空にあるのかも──もはやどうでもいいことだった。

「……聖……ッ!?」

 兇闇の震えた声が、耳の奥、残響となってこだました。

 ──聖がフェイトの腕を叩き折った直後。その手の中にあった灼熱の光弾は、しかし収まることはなく、狙いを大きく逸らして暴発した。即ち──割って入った聖の腹部に向け、至近距離で炸裂したのである。
 防御魔法の一つも使えぬ聖が、その一撃を受けて無事で済むはずがない。
 全身に走った、四肢を打ち砕くほどの衝撃に、聖の身体は軋みをあげて吹っ飛び、血飛沫を撒き散らして地面を跳ね転がった。
 異常な方向に折れ曲がった手足は、出血のためあちこちが変色していた。縦に()かれた腹腔(ふくくう)からは寸断された(はらわた)が、濡れた光沢を持つ腎臓が一つ漏れ出し、もともと下垂気味だった胃が、膵臓が、子宮が、その奥に露出していた。あかあかと脈打つ腹部大動脈の断面から、心臓の鼓動に合わせて傷口を洗い流すように鮮紅の液体が溢れ出ていた。
 広がってゆく血溜まりから、白く(なまぐさ)い蒸気がむっと立ち昇る。
 聖は──聖だったものは──もはや操り糸の切れたように脱力して動かなかった。

「────貴様ッ……!」

 忿怒(ふんぬ)に口の端を滲ませ、兇闇は手にした剣を構え直して吶喊(とっかん)した。
 対するフェイトは、脂汗を額に滲ませながらも冷淡な瞳で彼の姿を睥睨(へいげい)し、千切れかけた腕を庇いつ、光の剣の腹でその一撃を受ける。

「平静を欠いたか」
「……(うるさ)いッ! 貴様、よくも……よくも聖をッ!」

 ほとんど力任せに刃を突き立てて迫りながら、兇闇は、抑えてもなお盛んに漏洩する炎のように、震える言葉を吐きつける。
 実質片腕を奪われたに等しいフェイトは、その猛進する勢いに圧され、じわじわと剣を押し込まれていた。──しかし今、兇闇は確実に冷静さを失っていたのだ。脳裏で()()ぜになった感情に押し出され、一度見たはずの戦術を考えもせずに至近距離に飛び込むほどに。

「人というやつは、いつの世も変わらないな……」
「何──」

 フェイトの周りで静かに渦を巻く、高密圧縮された気流の鎧が、ひとつに(あざな)われ、巨大な槌鉾(つちほこ)となって解き放たれた。
 無防備な脇腹を(したた)かに打ち付ける気塊は、直撃と共に激しく弾け、音速を超える膨張は白い衝撃波となって、兇闇の身体を軽々とブロック塀に叩きつけた。

「がッ……は……」

 喀血(かっけつ)し、うつ伏せに倒れるその手から、力なく剣が離れ、地に落ちる。

「……眠れ、いずれ(ほろ)ぶべきものよ。いかなる艱難(かんなん)も、あらゆる辛苦も、全ては夢寐(むび)(あわい)に消えよう」

 倒れ伏す三者を見下ろしながら、その昏い瞳の奥に浮かぶのは、一際強い憐憫──いや、追懐。
 動かないその左手の指先から、絡みついた血の雫が滴って、落ちる。

 天心に遠く、純黒の真珠にも似た新月が、物言わず座していた。



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