TOP文章俺達の異世界転生物語がどうにも思ってたのと違う件について>第十五話


#15 / 天穿(てんうが)つ (そら)より()る炎を腕に




 『黒艦』の船体外壁は得体の知れぬ金属素材でできており、遠目には漆黒に見えるそれも、光を受けると白銀にきらめいて見えた。光をどのように吸収し反射しているのか、なんとも興味深い不可思議な色調である。
 闃然(げきぜん)たる洋上の暁光を半身に感じながら、一行はその上を疾駆する。その彼方、船体後部に位置する巨大な搬入口のようなハッチが音もなく開き、怪物の大口のような(ほら)の闇がその奥に広がった。シスが顔を顰めながら剣に手をかける。

「……何のつもりだ。罠か?」
「破壊する手間が省けたわ。問題は対処する、行くぞ」

 フィーネは悠揚迫らず答え、六人はその闇の向こうへと身体を滑り込ませた。

 艦の内部は整然として広く、紫音にとっては馴染みのある焼けた配線とオイル、薬品の匂いが混ざり合って、薄っすらと通路に香っていた。
 今や多くの学者・技術者がここでの研究に携わっていたとはいえ、艦内図が正式に公開されたことはなく、外に伝わっているのは、大まかな研究区域と居住区域の場所だけだ。かつて『円環』にいた者達や、一時的に外に出ていた者の体験談として語られる断片的な情報が、漠然とした像だけを結んでいた。
 おそらくは、居住区の向こう側。食料自給を行うためのプラントを両翼に擁する広場の、さらに奥にある立ち入り禁止区域。そこが『王』の棲まう中枢だ。

 硬質な跫音(きょうおん)は逆巻ける波濤の如く響き合って廊を渡った。

 人が生活しているせいか、それとも誘い込む意図があってのものなのか、道中において戦備(いくさぞな)えの罠の類は見受けられなかった。あるいはそもそも艦内白兵戦というものが想定されていない設計なのかもしれない。幾つか通路中に降りている隔壁があったが、光と雷を帯びたシスとエレインの斬撃のもとに気合一閃斬り捨てられ、その進撃を止めるには至らなかった。
 見張りの任を帯びた兵士か、はたまた功を焦った哀れなものか、幾人かの上級妖魔兵が銃や榴弾を持って立ちはだかったが、ただ強力な武装を持っただけで戦の利は得られない。質量弾をはじき、光や熱を偏向させる防護膜に怯んだが最後、その身は刃に裂かれ、魔法に焼かれ、あるいは投擲した榴弾を足元に贈り返されて、いずれも冥府へと旅立った。
 やがて辿り着いた巨大なドーム状の庭園では、人工的に再現された自然環境が、優美な木の葉のざわめきを、閑雅な小川のせせらぎを耳に届けた。居住区域と生産プラントのちょうど中央に位置する空間だ。憩う人々や彼らの連れた家畜などが、突然の見慣れぬ闖入(ちんにゅう)者を訝しげに見返した。

「……星間移民船か? 改めて目の当たりにすると……すごい技術だな」

 まるで小さな箱庭の中に入り込んでしまったかのような錯覚を覚えながら、紫音は小さく独り言ちた。恐らく宇宙空間での酸素の生産や一部分子の濾過・循環を担う構造の一部だったものを地球風に改造したのだろう。もしかしたら、船員のメンタルケアという役割もあるのかもしれない。
 かつて遠き来訪者は、このようなものを用いて宇宙の漆黒の中に旅立たざるを得なかったのだろうか。
 彼らは、そうして辿り着いた地球の姿に何を見たのだろう。何もかもを置き去りにして、どこに消えたのだろう。

「どうしたの、シオン? 気になること?」
「いや……何でもないよ。急ごう」

 ──考えたところで詮無きことだ。神話に記された『神』とやらが実在したか否かも、この艦の来歴も、すべて紫音の勝手な想像に過ぎない。
 遠巻きに眺める視線の集まる中、彼は改めて前方を見据えて、柔らかな土の地面に足を打ち付けた。

 そうして幾つかの扉と隔壁を越え、皓光(こうこう)の照る人気(ひとけ)のない静謐な廻廊を抜けた先、どこか時代の雰囲気の違う錬鉄の鎖の張り渡された大扉を、灼熱魔法の閃光が一息に鎖を融解させて解き放った。
 突如、色彩が黒く落ち込んだ。強い陽光のもとから分厚い雨雲の下に入ったかのように、光量の差に一瞬目が眩んで景色の濃淡が揺らめいた。そして、薄闇の緞帳(どんちょう)がするりと上がるかのようにして、目が慣れるに従って黒と金の荘厳なる広間が視界じゅうに広がった。
 その広間の中央、奥に繋がる(きざはし)(たもと)に、待ち受けるようにして彼はいた。
 撫で付けた白髪、しゃんと伸ばした痩身、銀縁の丸眼鏡の向こうで細められた金の瞳。よく整えられた立派な口髭を指先で撫でながら、待ちくたびれたかのように紫音たちを睨めつけるその姿。

「ヨゼフ……グライフェルト。やはり貴方もここにいましたか」
「またお会いできましたな」

 慇懃な態度で迎える彼を、紫音のほかにもう一人、対峙する此岸で眉を(ひそ)めて睨み返す者があった。

「……お主……」
「ほう、あなたはギオルフィナイト嬢ですな。そちらも、またお会いできて光栄です」

 視線が(すだ)く。シスは一見丸腰に見えるその老紳士に油断なく剣先を突きつけ、全身に緊張を孕んで唇を開いた。

「フィーネ。知っているのか、こいつを」
「ふん。父の子飼いの魔導師よ。そうか、これで合点がいったわ……その身体、私の力だな」

 憎々しげに言い放つフィーネ。
 老紳士は何も言わずに笑み、ゆっくりと後ろに下がって、白い手袋をはめた指先で背後の階段を示した。その先には、位置的には恐らく後部デッキに繋がる一つの扉がある。

「私に用のない方はお行きなさい。王はこの先におられます」

 一瞬、当惑が一同に走った。誰からともなく視線が交わされ──紫音は、頷いて応じる。一同へ、行け、と。
 警戒しながら走り抜ける勇者たちを、グライフェルトは襲わなかった。ただ彼らが扉を抜けるまで見送ってから、たゆたう残響を視線でつらぬき、紫音は護衛に残ったエナを背後に隠すように立ち、静かに問いかける。

「……何のつもりですか」
「シオン、私は貴方と戦うつもりはありません。話がしたかっただけなのです」

 グライフェルトは、こつこつと高い靴音を広漠な室内に響かせながら、金の瞳を紫音に向けて言った。

「貴方も気付いているのではないですか? アルフェイムの神──『来訪者』の真実に」
「だったら……何だと言うのですか?」
「わかりませんかな。彼らほどの技術と文明をもってしても、滅びの道は避けられぬ──いや、彼らはその文明の高みがゆえに、滅びの道を辿ったのです」

 刹那、彼が何がしかの操作を施したのか、広間の宙空に半透明のスクリーンが次々と浮かび、その画面いっぱいに様々な文書が表示されていった。
 紫音は腰の銃に手をかけながらも油断なく後退り、投影された文字のそれぞれに目を遣る。未知の書体で記された解明できぬ文章と、似たような文の長さを持つ英文が半々ほどの割合で表示されている。
 それらを流し読むことには、かれらが技術の粋を極めてしまったが故に技術が己に牙を剥いたことや、くだらない仲間割れで多くの民が死んだこと、今の技術を以てしてもどうにもならない環境汚染や、自然の生き物を見ることも叶わぬほど荒廃した故郷の話、そして『我々百と二十八人の独断』によって、新たなる地平でやり直そうとした旨が記されているようだった。

「……艦の航行記録? いや……日誌の翻訳文か?」
「人類には制御が必要です。制御された発展、制御された繁殖、そして制御された闘争が。彼らと同じ轍を踏まぬよう、誰かがやり始めねばならないのですよ」

 遥か遠い滅びの記録を背に負いながら、ヨゼフ・グライフェルトは淡々と語る。すでに相当に老いたはずの肉体の膿むような倦怠を、刃物のような眼が霞ませていた。さながら罅割れた古い調度品を、ただひとつの宝石の輝きが、その古さをこそ味に変えてしまうように。
 紫音はゆっくりと手にかけていた銃を抜き、その姿を強く、強く睨めつけながら、厳然と返した。

「人が……人を制御することはできない。人が人を束縛することはできない。現に私一人制御しきれず、ここにこうして立っているというのに──神にでもなった心算(つもり)か、グライフェルト……!」

 そして、彼が答えようと口を開くよりも前に、押し殺した少女の声が続いた。

「……あなたは……!」

 紫音の背後から、清廉な水の流れがそうある如く、凛と足を踏み出して、エナは、遠い蒼天を映し込んだような瞳をまっすぐに老いた男に向けた。

「あなたたちは……そうやって、私の村を。リオを……シオンの父さんを。数え切れない人達を、駒でも動かすみたいに殺してきたんですか……!」
「ほう」

 まるで錐の先端のように、殊更に細められる金の瞳。丸眼鏡越しのその視線は、二人を交互に彫り穿つように眺めた。

「なるほど、確かにお気持ちはわかります、お嬢さん。ですが気落ちすることは無いのですよ、一つの生命が消えたところで、世が滞りなく続く限り、どこかで二つ産まれているのですから」
「ッ…………!!」

 膨れ上がる憎悪と憤怒に、エナが息を呑んだ。紫音も同様に奥歯を軋ませ、その忌々しい笑みを浮かべた一人の老人に銃口を向ける。

「何が『人類の制御』だ。……目の前の人間の感情一つ理解できないお前が、数十億の人間を御しきろうと言うのか!」
「なにも私一人でとは思っておりません。故に勧誘を。物事の結果は、実験してみなければ解らないものでしょう」
「……では実験の結果がこれだッ! お前はお前の所業が生んだ怒りに殺されろッ、グライフェルト!!」

 銃爪が音を立て、銃口が火を吹いた。渦巻く気流を後に引いて飛来する鉛弾は、あの最初の邂逅の時と同じように、彼の前に張られた光壁に逸らされて床を、壁を打った。

「残念です」

 烈風が吹き荒れた。最後に飛んだ銃弾は、光の防護膜ではなく風に流されて逸れて落ちる。
 恐らく防御の手を与えないためだろう、彼が両手を掲げると、左右から挟み込むように巨大な大気圧の刃が巻き起こった。
 紫音は一瞬、その風の大顎の一撃を転がり込んで(かわ)そうとしたが──エナはそんな紫音が動くよりも疾く彼の腰を乱暴に掴み、同じくらいの暴風を纏って後方へと跳躍した。直後、左右より襲い来た、白く輪郭を持つ風のちょうど交点から、エナの展開した気流の障壁は暴風を食んで受け流した。

「……ほう!」
「うおぉっりゃああ──っ!!」

 抱えて護った紫音を置いて、エナは瞬時に攻撃に移る。踊るように回転するその掌の軌道から、立て続けに高熱の圧縮気弾が放たれて蛇のように襲いかかった。グライフェルトはその気弾の一つ一つを最小限の光壁で撥ね退け、後方に流す。炸裂とともに、巻き上がる熱風が陽炎をつくった。
 だが、時間差で紫音が投げた円筒を、グライフェルトは弾けなかった。遅れて気付いたのか、彼は跳躍しながら光弾でそれを撃って弾き返すも、直後、その円筒──市販の電気式雷管を用いた手製の煙幕弾から噴き出した白煙に、広間は一瞬にして覆われた。

「ぬっ、これは……」
「今です、エナ!」

 言って紫音は駆けた。紫電と颶風(ぐふう)が白煙を貫き、嵐のように吹き荒れる。

 ──エナは、魔法発動前の予兆を読み取ることができる。『とんがり耳』の人種の特徴のひとつだ。これについては以前、神殿の地下で見た通りである。
 術者の意識体が起こす虚数質量体振動によって発動する魔法という物理現象は、それよりも早い速度で虚数領域を伝わり、その振動は周囲の他の意識体にも伝達される。恐らく彼女らはこれによる脳神経へのフィードバックを読み取っているのだろう、と紫音は実験結果から類推した。
 だが、それは魔人も同じことである。エナが読んでいることを、確実にグライフェルトも読んでいる。ただ先読みの防御がお互いに出し続けられるというだけで、この点について、決してどちらにも利はない。
 はっきり言おう。いくら魔法適正の高い『とんがり耳』とは言え、魔人に較べれば及ばない。魔人の力を身に宿し、『魔導博士』とすら異名を取る彼に、基礎的な魔法技術力で劣るエナが魔法戦を仕掛けたところで、一対一で勝てる見込みはなかった。

 グライフェルトも、きっとそれを解っている。
 『紫音が、それを知ってなお仕掛けてきていること』もまた、解っている。

 だから『先読み』の効かない紫音の攻撃には、万全に気を配っているはずだった。魔人化による身体強化を経たグライフェルトは、ホローポイント弾やライフル弾ならまだしも、拳銃弾を数発急所に受けた程度では致命傷には程遠いのだが、それでも実際、危険視はしていた。
 ぶつかり合う真空と真空。直後に放たれた爆炎に圧され、辺りに満ちていた白煙が晴れる。グライフェルトはエナの次に打つ魔法の気配を感じながら、油断なく金の瞳を動かして紫音を探した。

「──はぁああッ!」
「ほう……」

 そして、握り拳を大きく振りかぶり、姿勢を低くして突進してくる彼の姿に、グライフェルトは小さく嘆息を漏らした。それが優れた策と察したからではない。全く予想のつかなかった行動だからだ。
 傍見には枯れた老人に見えようと、これだけの身体強化を重ねて銃弾ですら通じなくなった肉体を、学者の細い拳でどうこうしようとは、よもや思うまい。
 彼は一息に光弾で迎撃しようとして、側面から襲い来ようとしている魔法の気配を感じて止めた。防護膜を展開するための『意識の波』を練りはじめ、吶喊する紫音の軌道を正確に見切って、その一撃を掌で受け止める。次いで降り注ぐ気圧弾を、グライフェルトはもう片腕で防いだ。

「時間差のつもりで──」

 刹那、余裕綽々に頬肉を歪めて笑おうとしたグライフェルトは、気付いた。目の前の男の、魔人の力で抑え込まれたただの人間の浮かべた笑みに、自分がこの物理学者に対して、ほんの一瞬油断したという事実に、気付いた。
 違う。
 弾かれるように視線を上げる。
 今、気配を悟れぬ必殺の一撃を放とうとしているのは──

 幼い表情に涙をいっぱいに浮かべて歯を食いしばりながら、腰の後ろの鞄から引き抜いた小型の手持ち式擲弾筒(グレネード・ランチャー)のような、銃身の短い、しかし大口径の砲をまっすぐに構えたエナの姿が、瞳に映った。

「まさか……ッ」
「遅いッ!」

 上げたもう片腕を、逆に紫音に押さえ込まれながら、グライフェルトは考えるよりも早く、咄嗟にもう一度防護膜を張った。
 間に合った、と思った。いずれにせよ、多少の銃弾や並の爆発などでは耐えられる身体だ。対戦車砲でも持ち込まれない限り、この一撃では斃されぬと。
 だが、違った。
 それはそもそも、武器ではなかった。

「うっ……わぁああああ──っ!!」

 エナがその銃爪を引いた。
 自分が殺すことになるかも知れぬ生命を前に、得も言われぬ感情に涙を押し出されながら、それでも彼女はその装置を起動した。
 爆縮コイルカートリッジの生み出す膨大なエネルギーは、超々高密度のプラズマとなってエミッターから放出され、小さな亜空間力場の泡を形成して空間中に広がる。亜空間素粒子制御による第一次エネルギー放射の青白い光が二人を包む。
 かつて冴羽博士が実験室から転送されて以降、改良に改良を重ねられた使い切り式の小型転送装置が、今、二人のいる空間を隔ててアルフェイムへと送り込もうとしていた。

「なっ……!?」
「一宮博士は元気か? って、前聞いてましたっけ」

 驚愕に目を見張るグライフェルトを前に、紫音は、にっと口角を上げる。

「元気ですよ。この転送システムの理論提唱者です」

 ばちん、と音を立てて、青白い光と共に空間が弾けた。

 瞬間、紫音の耳に荒れ狂う風の轟音がとどろき、斬り裂くような冷気が全身を襲った。
 複雑な制御のできない転移バブルに円形に区切られ、切り取られた床材ごと、二人は空に投げ出されていた。いや──それを空と表現していいものかどうかは自信がない。ひどく気圧の低い一面の蒼穹には、落ちるべき地面すらなく、ただ吹きすさぶ風の中を紫音たちは加速していた。

「うっ……うおおおおっ……!!」

 二人は吹き上げる風圧に回転し、その拍子に横の景色が視界に入った。
 青空の中、浮遊する岩塊のような大陸が、そこにあった。
 アルフェイム。
 永遠の循環の檻。
 かつて多くの時を過ごした、兄を、父を、多くの生命を飲み込んできた『異世界』が、その大空に浮遊していた。

 実際に試したわけではなかったが──理論的に、薄々こうなることは解っていた。
 計測の結果、地球よりも遥かに狭い閉じた空間であるアルフェイムは、転移の際に地球上の空間的座標と必ずしも相応しない。『黒艦』がやったように、転移時のエネルギーの掛け方によって転移先座標をある程度ずらすことはできるようだが、基本的に『大陸』そのものに出られるのは、恐らく人種・言語的なルーツから類推するにインド周辺を中心としたユーラシア大陸圏程度のはずだ。ゆえに日本の実験施設から転移した時、大陸東部のやや北寄りに出た。
 これは紫音の推測だが──アルフェイムは『もう一つの地球』や『パラレルワールド』などではなく、ヴュルム氷河期の到来に際して形成された、来訪者たちの『避難所』、ひとつの小さな時空連続体である。
 大陸よりも外側の空間は、より外側に行けば行くほど時空間が狭く狭く圧縮され、そのうち時空曲率はほぼ無限に達する。どれだけ離れようとしても、これ以降は空間的に離れることはできない。
 その限界に近い地点が────ここだ。アルフェイムの遥か西の西の果て。エメリス帝国領を遥か遠くに望む、永遠に落ち続ける空の果てである。

「や……やってくれましたな、シオンッ……! 初めから私と……心中するつもりで……!」

 低気圧の暴風と轟音の中をどこまでも落下しながら、グライフェルトは驚嘆を顕に言った。
 心中。そうだ。このまま落ち続ければ、恐らく下方に行くに従って時空曲率もまた増大し、最終的にはブラックホールよろしく、シオン達二人の構成物質はスパゲティ状に引き伸ばされて、空間潮汐力によって原子レベルで分解されることだろう。
 紫音は凍てついてゆく眼球を(すが)めた瞼で守りながら、彼の言葉に、わずかな笑みを作って答える。

「いや、ダメだ。こっち側だと──」

 風圧に揺られ回転しながら、背中の細長い鞄から、片手で小さな機械を取り出す。
 ──エナが使ったものと全く同じデザインの、銃身の短い手持ち式擲弾筒のような──

「あんた、飛べるだろ」
「……ッ!」

 瞬間、グライフェルトは『飛行魔法』の詠唱を始めるが──時既に遅し。彼の胸ぐらを掴んで身体を小さく丸めながら、紫音が真下に向けて引いた銃爪は、一瞬の光とともに目下に転移バブルを形成した。空間制御から転移開始までの一瞬、重力に従って落下する二人は、するりとその泡の中へと収まる。計算済みだ。全て。この自由落下を初めてから、どれだけの秒数が経過し、どれだけの重力加速が二人にかけられたのかも。
 再びぱちんと音を立てて視界は弾け、地球、その大西洋北部、その海上およそ千メートルの上空に、二人は姿を現した。頭上から大きく影を落とす『黒艦』の、下部シールド有効半径は、とうに抜けている。
 虚数質量濃度の足りない地球上では、フィーネですら扱えないような膨大な重力制御を必要とする飛行魔法はもはや発動できまい。
 あとはただ、驚愕を顔に浮かべるグライフェルト教授に、最後の一撃を叩き込むだけだ。

「おっ……うおお……おぁああああッ……!!」
「眠れよ教授ッ……死んでった皆と同じように……!」

 昇りゆく暁光を受ける、闃然(げきぜん)たる洋上。風を切り落下するグライフェルトの懐に、紫音の拳の一撃が振り下ろされた。

 その手の中に握られていたものは────『蝶』。
 かつて父を救出に向かった際、扉が開かなかった場合に使えとフィーネに渡されていた、特製の魔法道具。

 性質としては可塑性爆薬に似るそれは、本来はエナの魔法によって爆発させる予定だったものだが──爆発とは即ち、燃焼の連鎖反応である。成分の一部が燃焼することで、その熱と圧力をもって隣の成分がまた燃焼し、それらの反応の連鎖が爆発的に行われることによって、大規模な破壊を伴う衝撃と音が発生するのだ。
 即ち、その『蝶』もまた、爆発が起きれば連鎖爆発を起こすものには違いない。手を引くと同時に安全ピンを引き抜き、電気式雷管と同時に仕掛けられたそれは、もはや手で取り外すことも、魔法で弾くことも叶わぬ、あらゆる衝撃によって圧縮爆発を起こす魔法の爆弾と化した。

 紫音は肩のベルトの紐を引き、背中に格納されていた『有翼甲冑』の翼を展開して、わずかに風を孕むと同時にグライフェルトの身体を蹴りつけて引き離す。
 勝った。これで紫音が──生きようと死のうと、終わりだ。
 グライフェルトは千数百メートル分もの重力加速を受けて海上へと落下しながら、離れてゆく紫音めがけて両手を向け────
 ────ふ、と自嘲的に微笑んで、風を起こした

 爆発。
 着水と同時に凄まじい水飛沫が柱となって立ち上り、円形の波紋となって海上を渡る爆風の衝撃を受けた紫音の翼が、少しだけ制御を失ってふわりと高度を増した。
 紫音は全身に海水の雫を浴びながら、呆然と、その残渣を見ていた。
 彼は────自分の信念を貫いたのだ。あの時、最期に一矢報いることができたはずなのに、彼は紫音の翼に渾身の上昇気流を浴びせて減速させた。あのままでは結局速度を殺しきれずに海面に激突していたであろう紫音を救うために。
 二つの生命を失うのではなく、一人が死に、一人が生きた。そうして最期まで『より良い選択』をして──彼は、笑っていたのだ。

 紫音はしばし呆然としていたが、ふと思い出したように、懐のポケットに入れていた通信機を取り出し、滑空を続けながらそれを耳にはめた。

「…………シオンです。こちらは終わりました。海上に落ちたら目印を出しますので、回収してください……」

 爆発の余韻に揺らめく海を、太陽がただ暖かく照らしていた。






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