The Farewell Song - わかれのうた -




 濫觴(らんしょう)は、どこまでも赤い(あか)い血紅色。

 在るはずのない既視感。()れは、偽りの記憶。
 偽りであることすら証明できない、偽りの――

「――」

 鐘の音が聞こえる。六十億の重畳(ちょうじょう)した()き声の残響。ずっとずっと聴かされていた子守唄。
 叫びたかったのに、言ってあげたかったのに、声が出ない。
 どうして、どうしてこんな、かなしいうたを。

 いつか、声が聞こえた。

「世界の迷い路を往く者よ、因果を外れた迷い子よ」

 連なる啼聲(ていせい)は止むことはなく、旋律の判別すらつかないほどに高らかに、割れ響く。

「無窮に終わらぬ迷夢の艱苦(かんく)より、解放される術を教えよう」

 衝動。泣きたかったのか、怒りたかったのか、狂いたかったのか、今となっては解らない。
 そこにあったのは、ただ純粋にして無垢な衝動。

「それは、――」

 ゆっくりと“進み始めた”時の中で、口を開ける。肺に満たされた吸気を、世界すべてに叩きつけるように、――

――「嗚、呼」――

 濫觴は、どこまでも赤い朱い血紅色。
 単位を持たぬ影の滄溟(そうめい)に浮かぶように、漆黒の空を染める不可視の鮮血に照らされて、少女は今、“一人”だった。



外伝

The Farewell Song

- わかれのうた -





 黒い影の大群がこの街を蹂躙し始めたのは、二週間ほど前になる。
 宵闇に紛れて人を襲う不定形の漆黒。個体という概念を持たないことから、それはいつからか群体(レギオン)と呼ばれていた。

「……っあー! いい加減に諦めてくんないかなーもー!」

 そんなお伽話の怪物から必死に逃げているのは、特にそれに対抗できる能力は無いと自負している至極一般的な女学生、黒神(くろがみ)小夜(さよ)
 二つに縛った鮮やかな桃色の髪を揺らしながら、人気の無い廃工場をひたすらに疾駆する。
 ここには幼い頃たまに忍びこんで遊んだものだが、そんな地の利を以てしても、わらわらと際限無く湧き出てくる漆黒を振り切ることはできずにいた。

 見ればわかる、あれは人間ではない。動物でもなければ、おそらく生命体ですらない。
 この逃走劇は、長引けば長引くほど小夜の体力だけを削っていく。最初にここに逃げこんでしまった時点で、結果は見えていたのかも知れない。助かりたければ、未だ明るい繁華街に向かうべきだったのだ。

 カードによる撃退ができることは、聞いている。
 だが、カードを取り出している間にやられるかもしれないと考えると、速度を落として鞄を探ることができなかった。恐怖が手を止め、判断力を奪っている。そこまで分かっているのに、それでも手は動かない。

 早鐘を打つ心臓を無理矢理抑えつけるように、胸の前で拳をぎゅっと握り締め、相手との距離を確認しようと背後に視線を動かす。
 その瞬間、無造作に転がっていたロープに足を絡め取られ、小夜はバランスを崩して、埃だらけの床に倒れ込んだ。

「うわ!?」
「ひっ!?」

 悲鳴は、二つ聞こえた。
 小夜自身が出した声と――物陰にひっそりと身を屈めていた黒尽くめの少女の、喫驚(きっきょう)の声。

「……へ?」

 相手にとってみれば、建物の影に座り込んでいたところ、いきなり小夜が倒れ込むように突っ込んできた、と言ったところだろうか。
 少女は長い黒髪の向こうで目を大きく見開き、困惑の表情でこちらを見返している。

「え、えと、えと、あの、どっ、どちらさまでしょうか……!」
「いや、キミこそこんなとこで何を――」

 あまりに予想外だった事態のおかげで逆に冷静になり、小夜はそこまで律儀に返してから、我に帰って背後に目をやった。
 当然と言うべきか、二人はすっかりレギオンに囲まれていた。隙間なく散り敷いた漆黒の華は、その輪郭ごと融け合って、数すらも判別できない。

「う……うわーやっちったー! 逃げ場ないじゃんもう!」
「え、あ、はい、そう……ですね……」

 (にじ)り寄る黒色にはっとして、小夜は鞄を開けて手を突き入れた。こうなれば、戦うよりほかはない。ただ問題は――間に合うかどうか。それだけだ。
 だが、月明かり以外に照らすもののないこの廃工場は、あまりに暗い。無駄にごちゃごちゃと雑貨を詰め込んでいたことを後悔しながら、乱暴に鞄の中を探るも、デッキは簡単には見つからなかった。

「くっそぉ、やっぱダメかな……っ!」
「あ、あの……」

 座り込んでいた少女が、おずおずと口を開いた。今にも消え入りそうな、弱々しい篝火(かがりび)のような声だ。

「私がどうにかしますから、その……逃げて、ください」
「いや、どうにかも何も、キミもカード持ってないじゃない! それじゃ無理なんだよアイツらはー!」
「えーっと、えーっと……大丈夫だから言ってるんです、けど……」
「そもそも逃げようにも逃げ道ないし!」
「はい……あ、だから、それを私がどうにか……」

「――(やかま)しいッ!」

 二人の声を遮ったのは、凛として響く男の声だった。
 直後、その声の主と思われる青年が、二人の眼前に突如として現れた。どうやら今までは足場の上にいたようで、さほど高くもないそこから飛び降りてきたらしい。
 蒼い長髪を後頭部で括り、黒い礼服を肩に引っ掛けて、彼はいかにも不機嫌そうな表情で、呆気に取られている二人を睨めつけた。

 刹那、そんな突然の乱入者に反応したのか、レギオンの一体が奇妙な唸り声を上げて飛びかかる。
 だが彼は、眼前に迫る驚異を“驚異”だなどと微塵も認識していないような()めた眼で、開いた聖書に一枚のカードを貼り付けた。

「発動、光の護封剣」

 レギオンの牙が彼の首に掛かる直前、天から飛来した光の十字が漆黒を貫き、その動きを止めた。
 よく見れば、小夜が聖書だと思ったものは聖書型のデュエル・ディスクで、そこには光の護封剣のカードがしっかりと設置されている。
 小夜はひとまず礼を言おうと、一息ついてから唇を開いた。

「あ……ありがt」
「だぁーっちくしょー! ギャーギャー喧しーんだよさっきから! 人がぐっすりおねんねしてる横で何だお前らァーッ!」

 そして、爽快なまでにストレートな悪態に、二人は再び凍りついた。
 黒尽くめの少女に至っては、すっかり萎縮して縮こまっている。

「えっ、ね……寝てたの? ここで?」
「そーだよこの地区でアイツら退治してたら終電逃したんだよ悪いかよ! そんでせっかく休めそうな所見つけたと思ったらまーたこんな団体さん連れてきやがって! こんな廃工場に不用意に入るんじゃねえ危ないだろが!」
「いや、さすがにそれはその廃工場で寝てたキミに言われたくないよ!?」
「うるせえ野宿マスターなめんな! 寝られそうな場所は区別つくわ!」
「家なき子!? さすがに生活保護申請しようよ悲しすぎる!」

 どうやら肩に掛けていた礼服は布団がわりにしていたものらしい。よく見れば、その一面には細かい埃が付着している。
 小夜は一気に脱力して、一つ溜息をついた。だが、対する青年はそれに背を向け、護封剣に封じられたレギオンの大群に視線を移して舌打ちをする。

「量が多すぎるな……」

 そう呟くと、彼は右手で剣印を作り、ゆっくりと十字を切った。

Ateh,(アテー) Malkuth,(マルクト) Ve Geburah,(ヴェ ゲブラー) Ve Gednlah,(ヴェ ゲドゥラー) Le Olahm Amen(レ オラーム アーメン)

 朗々と歌うような透き通った声は、寂寥(せきりょう)の闇を押し広げて己の意志を汪溢(おういつ)させてゆくかのように、確固たる力を持って紡がれる。
 ざわざわと全身を撫でる漠然とした力の波濤(はとう)に、ただ肌を(あわ)立たせている小夜の隣で、少女がぴくりと反応した。

Yod-He-Vau-He(ヨド・ヘー・ヴァウ・ヘー)――Adonai Tzabaoth(アドナイ・ツァバオース)――Eh-Ei-He(エー・エイ・ヘー)――Agla(アーグラー)

 描かれる五芒の陣に、闇の群れが大きくざわめく。小夜にはその平坦な黒一色の表情を読み取ることは出来なかったが、ちりちりと背筋を穿(うが)怖気(おぞけ)のような感覚は、もう感じない。
 ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして、青年は礼服を羽織りながら埃を払い、先刻とは一転して沈着冷静に言い放つ。

「小五芒星追儺(ついな)儀式……精神障壁を張った。(よこしま)な者はそうそう近寄れねェはずだ」
「き、キミは……魔術師なの?」
「セフィロト。ただの神父だ」

 命球樹(セフィロト)と名乗った彼は、言われた言葉に僅かに眉を(ひそ)めながら、再び聖書型デュエルディスクを開いて、レギオンの群れに向き直った。

「守りながらじゃ戦い(にく)い、隙を見てどうにか逃げな」
「ど、どうにかって……」

 小夜は当惑顔で周囲を見渡す。三人を取り巻いて(うごめ)く陰影に境界線は見えず、その数どころか、どこまでが“それ”なのかすら解らない。
 この状況下に於いて、隙と呼ばれるタイミングを見つけ、恐怖せず躊躇(ためら)わず闇の中を走り抜けろとは、只の女学生には過ぎた注文である。
 とは言え、それを実行せざるを得ないのは明白だった。
 小夜が覚悟を決め(あぐ)ねていると、隣で縮こまっていた黒服の少女が、小夜の服を軽く引っ張った。何事かと顔を向けると、彼女は少し怯えたように目を逸らし、か細い声で問いかける。

「あの、あの……逃げれば、いいんですか?」

 小夜はその問いの意味を理解できなかったが、見れば判ることだと思いつつも、ひとまずはその質問に頷いて答える。
 すると、少女は意を決したように、もう一度顔を上げて、何を思ったか小夜の首筋に抱きついた。

「その……つかまってて、ください」

 彼女がそう呟いたのと、小夜の全身に“帯のような何か”が巻きついたのは、同時だった。

「うわわわわ!?」

 驚いて飛退ろうとするも、その時点で既に小夜の足は地面に触れていなかった。
 重力加速を振り切り、大気を(はら)んで羽搏(はばた)くだけで人間二人分の体重を上天へと打ち上げるほどの巨大な黒翼。小柄な少女の背に冠された無骨なそれは、あまりにも不釣り合いで、それでいて宵闇に美しく調和していた。

「変形……っ、まさか――」

 その姿を見たセフィロトは、何かに気付いたのか少女に駆け寄ろうとするも、内翼が打ち下ろす下降気流の渦に阻まれて蹈鞴(たたら)を踏んだ。
 それと同時に、護封剣の束縛を解いたレギオンが、先刻展開した精神障壁に弾かれる音が廃工場に響き渡る。
 彼が慌ててそちらに向き直り、召喚した天使の軍勢がレギオンを蹴散らし始めた頃には、既に二人は割れた窓の向こうに飛び立っていた。

 僅かに残った硝子の破片は額縁にも似て、絵画よりも絵画らしく描かれた現実の夜空からは、ただただ月光が差し込むばかりだった。



 ――――



 こつこつと円卓を叩く音が、仄暗い部屋に(こだま)する。
 否、点いている照明は決して暗いものではない。だが、部屋に充満したどこか静謐(せいひつ)な空気は、暖かな光を歪め、世界を仄暗く錯視させる。

「――ふむ」

 黒いコートに身を包んだ金髪の男が、目深帽子を押し上げて、一つ息をついた。

「魔力を求め彷徨(ほうこう)する影の傀儡(かいらい)……レギオン。アイロニー、あなたが言うには、その正体は、行動から類推するに……」
「その辺の適当な死者の霊や、歪んだ残留思念で間違いないだろうね」

 (すべから)()く在るべし、と言った具合で言い放たれた言葉に、金髪の男は瞑目(めいもく)とともに緘口(かんこう)した。
 アイロニーと呼ばれていた、モノクルを掛けた黒髪の青年は、飄々(ひょうひょう)とした様子で口角を上げて応える。

瞠目(どうもく)には及ばんよ、オレも魔術師だから解るのさ」
「そうではありません」

 円卓に身を乗り出し、瞑目したまま言葉を続ける。語調こそ冷静そのものだが、目深帽子の下に見え隠れする表情は、僅かばかりだが焦慮の色を映し出している。

「非現実的な事象が実際に起きているのは確かですが、いきなり幽霊や思念などと、それはあまりに荒唐無稽ではありませんか?」
「つれないねェ、クロス。少しは夢ってモンを持とうじゃないか」

 不敵に微笑みながら、茶化すような台詞を吐くアイロニー。その真意を量りかねたクロスが再度諮問(しもん)し直そうとすると、彼はぱちんと指を鳴らしてそれを制し、訥々(とつとつ)と語りだした。

「では、アストラル体と言い換えようか……西洋魔術では人の三体のうち一層、星幽体として古くから知られているが、その構成粒子は発見されていない。恐らくは現在観測できぬタキオン粒子――虚数物質」
「より荒唐無稽な話になった気がするのですが」

 クロスのツッコミを意に介する様子も無く、アイロニーは言葉を続ける。

「幽霊が存在するとしても、それは皆が稚い子供のころに聞いた御伽話から思い描いているようなモノだとは、現実的には思えないよねェ。残留思念にしても、記憶や思考を司る器官である“脳”を離れて存在できる思念なんて存在しよう筈がない」

 かつん、と一つ円卓を叩く音。(しば)し、その残響音が仄暗い部屋を支配した。

「――アストラル界、すなわち虚数空間に生じた、強い波紋」
「……は?」

 戸惑の表情を浮かべるクロスを見返して、アイロニーは深く溜息をつきながら椅子の背(もた)れに身を預けた。

「人々が感じた恐怖や悔恨、怨嗟(えんさ)の念……脳で処理された感情は、意識そのものであるアストラル体へと何らかの作用で伝播(でんぱ)する。そしてその感情が強ければ強いほど、伝えられたアストラル体も強く揺さぶられる訳だがね……仮令(たとえ)、肉体の檻に封じられていたとて、それと密接している虚数空間とも同一の物質なれば、固有振動数も同一。あァ、共振現象って知ってる?」

 ぺらぺらと饒舌(じょうぜつ)に語る彼の表情から、その感情を推察することは難しいだろう。微笑を絶やさず淡々と言葉を紡ぎ続ける姿は、傍目には楽しげに映るだろうか。
 だが、相対するクロスの表情は、恐らく傍目にも真逆に映ることだろう。

「馬鹿な――そんなことが」
「言っただろう、オレも魔術師だから解るのさ」
「それが事実だとすれば、やはり放置しておくのは得策ではありませんね……魔術の心得がある者には、奴等が存在している限り、その原因や魔力の流出源は、いつ露呈してもおかしくない状況にあると言う事でしょうから」

 こつり、と、再び音が響いた。ただしこれは、今までのように指が円卓を叩く音ではない。
 二人が一斉に視線を向けた先――部屋の出入口には、童女と呼んでも差し支えないほど幼い少女が立っていた。

「おい、クロス……ああ、アイロニーもいたのか」
「おや、これはシャルロット嬢」

 皮肉げに言うアイロニーに態とらしく相好(そうごう)を崩して応じてから、黄金色の長髪と黒い外套(マント)(ひるがえ)して、シャルロットは外見にそぐわぬ老成した動作で二人の元へと歩み寄り、空いていた椅子に飛び乗った。
 何事かと見返す二人に目配せをして、彼女はその要件が決してつまらない私用では無いことを知らせる。薄暗い部屋に差す明かりが、殊更(ことさら)に冷たく凍てついた。

(くだん)のレギオンについてだが、イレギュラーな存在が確認されたようだ。やや不鮮明な情報だが、一応相談しておこうと思ってな」
「イレギュラーな……存在?」

 ばさり、と机に放り投げるようにして広げられた資料には、汚れなき闇の偵察・観測部隊が撮影したと思しきレギオンの写真が幾つか(ちりば)められていた。
 今までの報告で幾度も目にしてきたような画像だが、今回はその(いず)れにも、一目で判る相違点が写し込まれている。
 部隊と交戦中だった漆黒の群れの中に、突如として現れた黒衣の少女。
 身体を変化させ、武器としてレギオンを薙ぎ払う姿。
 巨大な黒翼で空を叩き、何処(いずこ)かへと飛び去る姿。
 ただレギオンの出現ポイントに偶然居合わせてしまった極普通の一般民間人……とは、考え難かった。

 クロスは資料を手にとって()めつ(すが)めつ眺め、感嘆の溜息をつく。

「ほう……己の形を確立し、明確な意志と理性を持つレギオンですか」
「ああ。原因は解らないが、そんなものがいきなり現れたらしい。今は群れの中にはいないようだが――」

 対処を決め倦ねていることを示唆(しさ)するシャルロットの言葉を遮り、破顔を止めたアイロニーは頬杖をついて眉を顰めた。

「ふゥん……外観まで普通の人間に近い上に、ある程度の知性も備えてるとなると、そりゃあ危ないねェ。普通のレギオンより重要視した方がいい」
「アイロニー……どういう事だ?」

 そう言って先を促すシャルロットを暫し見詰め、彼はぱちんと指を鳴らして腕組みをした。
 微笑むように口角を上げてはいるが、虚空を眺めるその目は鷹のように鋭く、いつもの人を揶揄(やゆ)するような調子は鳴りを潜めている。

「そいつは――自分の正体を自覚してるのかねェ? 魔力がどこから得られたか覚えてるかも知れないし、それ以外のいろんな人の思念をも内包しているかも知れない。ついでに、人間と友好的にできる身体を持ってて、人間にイロイロ話せる言葉も操れるとなると……まァ可能性の話だけど、野放しにするのがどれだけ危ないか解るだろう?」

 淡々と語られる犀利(さいり)な言葉。
 彼の敷衍(ふえん)が終わり、部屋を静寂が支配してなお、シャルロットは黙して己の手を見据えていた。
 長い、長い黙考が終わり、彼女はその言葉を待っていた者の名を呼ぶ。

「クロス」
「はい」

 ゆっくりと席を立ち、彼女は長い外套を叩いて虚空を睥睨(へいげい)すると、静かに宣言した。

「汚れなき闇、全員に通達を。資料の少女について、本格的に調査すると共に優先的抹殺対象に指定。コードネームは――“仄暗い狂気(ダーク・ルナシィ)”とする」



 ――――



「うえぇ……気持ち悪ッ」

 低空から投げ出された姿のまま地面に横たわり、小夜は力無く呻き声をあげた。
 いきなり人から翼が生えたとか、空を飛んだとか、そんなことに対する喫驚など、あの常軌を逸する縦揺れで全て吹き飛んでしまった。
 鳥っていつもあんなに揺れてんのか。何が人類永遠の夢か。もう空なんて飛べなくていいや。

 疲憊(ひはい)した頭と身体に鞭を打ち、ゆっくりと上体を起こすと、どうやらその開けた場所は、小夜のよく見知った場所であったらしい。
 楓高校、グラウンド。どうやら、この数分の間に東区から西区までの距離を飛行していたらしい。
 そういえば――常時気絶寸前でろくに聞こえなかったが――あまり大勢に目撃されないように繁華街や中心部への降下は避けると言っていた気がした。

 そういえば、彼女はどこに行ったのだろう。
 小夜は付着した土埃を軽く払うと、ゆっくりと周囲に視線を巡らせた。

「――っ」

 そして、然程離れてもいない場所に倒れ込んだままの少女を見つけて、小さく息を呑んだ。
 飛んでいた張本人とは言え、やはり彼女にもあの揺れは堪えたのだろうか?
 (いや)、どうやらそういった風体ではない。

 声をかけようとしたが、どうにも声が喉より向こうに出て行かない。
 小夜はふらつく頭を押さえながら立ち上がり、ゆっくりと近付いていく。そして――どうやら只事ではないと解った瞬間、慌てて彼女の元へ駆け寄った。

「ど……どうしたのっ、ねえキミ!?」

 倒れ()したままの姿で息も絶え絶えに見上げる少女を、小夜は抱え上げて呼びかけた。

「魔力切れ……みたい、です」
「ま、魔力……?」

 あまりに浮世離れした単語に、小夜は当惑顔で鸚鵡(おうむ)返しに尋ねる。

「ええと、生命力、です……人が活動する際に……絶えず、消費される……エネルギー」
「生命力……、ねぇ、ひょっとしてキミは……」

 恐る恐る問いかける小夜に、黒衣の少女は咳き込みながら力無く微笑んだ。
 あの時、身体を変化させた瞬間から、小夜にも推測出来ていたことではある。他の同族とは随分と違うようだが、恐らく彼女の正体は――

「きっと、推測通りです……“私たち”レギオンは、魔力を……自己生成できない、から……人を……」

 既にそれほど冷静な頭を持ちあわせていなかったからか、その事実を聞かされても、大して動揺することはなかった。
 目の前で今にも死んでしまいそうな華奢(きゃしゃ)な少女が、レギオン。突然変異か何かだろうか。今まで小夜が抱いていたイメージとは、あまりにも違いすぎる。
 ただ、彼女が同族の手から小夜を救ってくれたことは確かだった。
 小夜は己を落ち着けるように(めい)して一つ息を吐き、かりかりと頬を掻きながら微笑んで切り出す。

「えー、あー、その、私のでよければ、ちょっとくらいならあげてもいいんだけど……」
「いいんです……奪ってまで、生きていたく……ない」

 だが、その提案は優しく拒絶された。小夜は思わず、消えるのが怖くないのか、と問おうとしたが、すぐにそれは愚問と知る。
 精一杯に強がって笑う彼女の手は、力無く震えていた。

「何やってんだお前ら、劇の練習かなんかか」
「うぉわ!?」

 あまりにも突然に響いた声に驚いて、小夜は全身の皮膚を粟立たせて振り返った。
 月下の薄明に照らされて立っていたのは、楓高校の制服を着た青年だった。無造作に伸びた茶髪を掻き上げ、睨め付けるかのように小夜たちを見下ろしている。喧嘩でもしていたのだろうか、白いワイシャツには真新しい血の跡がついていた。
 その姿には、小夜も見覚えがある。いつも妹を乗せてあまりにも堂々とバイクで登校してくることで有名な不良一年生だ。名は確か――帝獄(ていごく)幽人(ゆうと)

「あー、お前アレだろ、科学科二年のハイテンションツインテール」
「えっ私ってそんな有名になってんの? ……じゃない! いつからそこにいたの!?」
「なんか降ってきたから様子見に来た」
「劇の練習で天空から降って来られるとお思いでしたか!?」

 いつものノリで決闘前のまんざいデモを始めかけたところで、今はそれどころではないことに気付いて中断する。
 小夜の抱えているレギオンの少女は、辛うじて息はあるようだが、意識は既に失われていた。
 一般女学生であるところの小夜は、レギオンに対抗できる能力など一つも持ちあわせていない。
 だが、科学科随一の技術者として、彼女“一人”を救う方法なら、たった今思いついた。

「えっと……そうだ、幽人くん……だよね」
「あぁ? 何だ、俺も結構有名なんだな」
「一つ思いついたことがあるの、初対面でなんか頼むのも悪いけど、この子を理科室まで運ぶの手伝って!」

 まさか唐突にこんなことを言われるとは想定の範疇(はんちゅう)外だったのか、幽人は暫し駭然(がいぜん)として立ち尽くしていた。
 彼は腕組みをして少し考えた後、ずいと顔を近づけて小夜の瞳を覗き込んだ。その目付きは鋭い威圧感を孕みながらも、決して淀んではいないと小夜は思う。

「……お前、俺が誰だか解ってて言ってんのか?」
「い、いちおう」

 しかし小夜がそれにも屈さず毅然として……もとい、していたつもりで答えると、幽人はどこか満足気に口角を上げて、横たわる少女の肩を持ち上げた。

「はッ、いいぜ。手伝ってやんよ」
「えっ……あ、やけにあっさりと」
「俺は不良かも知れねーが、別に悪人のつもりもねーぞ。どーせお前一人じゃ閉まってる扉ブチ破れねえだろ」

 小夜を置いてさっさと校舎に向かう幽人を、ふらつく足を叱咤(しった)して、慌てて追いかける。

 科学科名物ツインテール。炭素や珪素をベースとした身体と有機体回路の脳を持つ人工生命体――それを創り出しているシステムを転用して、彼女の一部に“魂”、即ち、魔力を吹き込む。
 魔力というものが果たしてどういったものなのかは判らないが、曲がりなりにもそれで生命が創り出せている以上、何らかの効果は期待できる……と、思う。

 後先のことは考えていないし成功するかどうかも判らないが、ひとまず彼女を助けることが何より先決だ。理性と知性があるのなら、その正体がレギオンであることなど関係ない。

 背後から三人を見つめる視線があることも知らず――小夜は月明かりの下、校舎に向かって駆けてゆく。

「ふーん、レギオンの女の子に……小夜先輩だっけ、なーんかありそうだね、あの人にも」

 ぼそりと呟くその影の名は、水奈底(みなそこ)(かなめ)
 明確な自我を保ちながらも、その身に“闇”を宿す少年――。


 ――夜の歯車は、軋みをあげて回り続ける。



 ――――



 崩れかけた家屋の廃墟に座り込んで、“彼”は月を見上げていた。

 ひどくうらぶれて半ば自然と同化しているが、そこには虫の鳴き声ひとつ聞こえず、雑草を揺らす風すら届かない。
 あらゆる人の目から見捨てられ、世界から切り離されて凋落(ちょうらく)したこの家は、鮮やかなモノクロームの景色に(ふちど)られ、世界から隔絶されていた。

「月に叢雲(むらくも)花に風、月()つれば則ち()くなり……満ち始めたかね、彼女の世界は」

 誰にともなく、しかし自らに向けたわけでもなく、“彼”は言う。
 しかし、静謐な大気に融けて消えるはずの言葉に、返す者がまた一人。

「何れにせよ、満たされれば後は削れ散るだけ。悲しくもまた夜は来るさ」
「ふむ、()わば盈満(えいまん)(とが)め。地獄に放り出されたあの子のために、神の加護でも祈ろうか」

 “彼”は、招かれざる“訪問者”の声に動じることもなく、静かに挨拶の言葉を告げる。

紺青(こんじょう)の月姫は壮健かい、月下の長兄よ」
「俺がいる限り壮健だ、黒神の始祖さんよ」

 応じて口角を上げる“訪問者”の表情は、アイマスクの下に隠れて定かではない。薄く長い外套がはためいて、揺蕩(たゆた)う大気を押し広げた。

「ふむ、君がここに居るということは、侵入者避けの罠は作動しなかったのかな」
「玄関の超巨大ネズミ捕りの事か? でかすぎて罠の意味ねえよアレ」
「それは盲点だった、小型化を検討しておこう」
「小型だったら侵入者避けにならんだろーが」

 至極真面目な顔で、奇妙な会話を繰り広げる二人。“訪問者”は、視線を向けすらしない“彼”の隣に座り込み、自らの膝に頬杖をついた。

「放り出されたとはよく言うぜ。お前だろ、あの子に語りかけて自我を持たせたの」
「家に帰れない迷子を見つけたから、遊んであげただけさ」

 悪びれる様子もなく言い放つ“彼”は、静かに姿勢を崩して朽ちた床に寝転んだ。大半が瓦解してしまった屋根の向こうから、黒髪の隙間に覗く瞳に月を映し込む。

艱難(かんなん)の路に辛苦(しんく)の茨を絡ませて、咎人(とがびと)が如く、幽鬼が如く、刑台に向かいて歩むのみが現し世であるならば、地の獄とは果たして何処の名なるものか――果てさて、答えは出るだろうかね」
「また下らねえ期待と実験か……手前でやれよそーゆーコトは」

 呆れ顔でそう揶揄する“訪問者”に、“彼”は初めて視線を向けた。まるで楽しそうに蟻を潰す子供のような、一点の邪気もない莞爾(かんじ)とした微笑を湛えて。

「人間とは何か。あの子は人間で在れるのか。人は人に愛されるに値する存在なのか。これは人であることへの可能性の追求なのだよ」

 蕭然(しょうぜん)とした廃墟を、静寂が支配した。どのような場所にもある筈の、空気の微細な振動すら無い空間では、彼等自身の鼓動すら、やけに大きく響く。
 然程の間は無かっただろう。矢庭に“彼”は再び上体を起こし、小さく伸びをしてから再び口を開いた。

「小夜が黒神の力を以てして刻印したエーテル体は、魔力を半永久的に産出する。多分、名前も適当に付けてくれるだろう。まず一つ、危機は脱した」
「あの子がレギオンだって話は全く広まってない訳じゃねーぞ、これから様々な人間に狙われることになる……あんま巻き込んで壊してくれるなよ、小夜ちゃんは俺も結構気に入ってんだ」
「その点については君が一番心配なんだが……変なアイマスクのお兄さんにちょくちょく抱かれる寸前まで追い詰められてると言っていたぞ」
「ああそれはきっと人違いさ僕悪くない」
「人違える程度の特徴じゃあるまい、そのアイマスクは」

 澄まし顔で(うそぶ)く“訪問者”に、“彼”は含み笑いを漏らしながら返し、自分の髪を軽く掴んでから静かに()いた。

「さて……ともかく、見つけられるかな、あの子は。無窮に終わらぬ迷夢の艱苦より、解放される術を」
「ああ、よく言ってたな。“それは――”」

 モノクロームの雲が孤独な月を包みこみ、暁闇(あかつきやみ)を深める。濃密に塗り潰された藍色の空は、歩くべき道の輪郭すらも覆い尽くして冥闇(めいあん)に変えるだろう。
 まさに、月に叢雲。鮮やかな闇が、世界を染め上げる。そんな中、“黒神の始祖”と呼ばれた彼と、“月下の長兄”と呼ばれた訪問者とは、闇など意に介さず薄笑みを浮かべていた。

「――迷いを受け入れ、心より楽しむことだ。迷妄を楽しめるようになった時、人はあらゆる苦しみから解放される」

 月は巡る。闇がその身を覆おうとも。
 星は巡る。炎がその身を焦がそうとも。
 天は巡る。光がその身を穿とうとも。
 人は巡る。たとえ、貴方がいなくとも。


 終焉は、どこまでも暗い(くら)い蒼黒色。
 さあ、彼女がどこまでやれるのか、観劇といこうじゃないか。




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