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 記憶の川に、一枚の葉が流れていく。
 一枚、また一枚と、葉が流れては消えていく。


 深く深く、川底に眠るこの身では、そんな事はもうどうでもよかった。
 澱に(うず)もれ、自らもその泥の一部と化していくのが解っていても、自分はそれを眺めることしかできないのだ。
 記憶すら流れ落ちた空っぽの身体は、もはや無力感すらも感じはしない。

 光を見ることもなく、同じように過ごす日々の記憶は、片端から川にさらわれて消えていく。
 水圧は肺を浸し、虚無は心を浸し……ゆらゆらと肢体を撫でる水の流れは、ただひたすらに心地よく――
 ――そして、冷たかった。



 いつか、話し声が聞こえた。

 いつからここにいるのか、今までどこにいたのか、今がいつでここがどこなのか、自分は誰なのか……何もかも解らなかった。
 虚ろに揺蕩(たゆた)う意識はまるで覚醒の後のようで、あらゆる情報の理解を拒む。
 ただ一つ確かなことは、今まで暗い場所で安らかに眠っていた自分を、誰かが引き上げたということだけ。

 冷たく冷え切った、抜け殻のような身体と意識。
 静かに瞼を開けると、誰かが見ていた。人の顔を見るのは何日、何ヶ月、何年、何世紀ぶりなのか全く判断もできないが、まるで流れる水に全ての感情を奪われてしまったように、もはや何の感慨も湧かなかった。

 私は動こうともせず、ただ人形のように横たわっていた。
 記憶、感情、人格……全てを失い、今やあるのはこの抜け殻だけ。




 抜け殻に生命を吹き込んだのは、たった一言だけの言葉。

 それはただ、何の気無しにかけられた言葉だったのかもしれない。
 それでも、虚無に侵された私は、その優しい微笑みだけで――



 「――おはよう」



 ――――

 Weiß gespenst.
  第五章 白い亡霊

 ――――



 淡く照らされた遺跡の中で、ルナは辟易(へきえき)していた。

 夜光虫と言えばその幻想的な光のお陰で女性からの人気も高い数少ない昆虫だが、こうも数が多くなると気味の悪さばかりが募る。真っ暗な道を懐中電灯がいらない程度に照らしてくれるのは助かるが、虫はあまり得手ではないのだ。
 灰色で埋め尽くされた石造りの通路は、天井付近を飛び回る虫達から発せられた薄緑色の明かりに照らされ、どこか退廃的にも見えるコントラストを映し出す。
 それは、どうもルナには不釣り合いな場所のように感じた。自身で推測するに、この桃色の髪と長く伸びた無機質な耳、そして兄であるライトが選んだ、幾つかのリボンのついた可愛らしい薄桃色のワンピースは、この静謐(せいひつ)な遺跡に対して驚くほど浮いていると思う。

 この階層の迷路のような造りもまた、その辟易に一役買っていた。
 ライトを追って自ら罠に飛び込んだのに、まさかバラバラの場所に飛ばされるとは。下手に離れるよりもいっそ合流してしまった方が安全と読んで行動したはずなのに、これでは逆に合流に手間取ってしまう。
 二人揃ってなければ、ライトはともかくルナは亜人として常人以下の戦闘能力しか持たないのだ。特に一対一では実力が勝負を決める世界、一階でコスモ達とやり合っていたロボットのような敵が出てきたら、間違いなく太刀打ちできないだろう。それだけに、この状況に対する焦燥感も相当なものだった。

 少し歩くと、大きく開けた場所に出た。ああ、また同じ場所に戻ってきてしまった、と溜息をつきながら額に掌を(あてが)う。そこは学校の教室ほどの広さがある空間で、しかし天井の高さはその教室の三倍はあるだろうか、さらには数多くの柱と階段、そして立体的に交差する狭い橋のような足場など、どうにも見ているだけで頭が痛くなってくるような部屋だ。
 この部屋に足を踏み入れるのは、これで四度目になる。毎回違う場所から出たのだが、結局それぞれ違う場所から戻ってくることになってしまった。ここ以外の通路にも僅かな傾斜がついているらしく、マッピングしていても高度が食い違うことが屡々(しばしば)ある。こんなややこしい所からは早く抜け出したいところだが、大雑把に数えて数十はある出入口からして、そうそう楽に逃してはくれないらしい。

 ルナは下の足場に狙いをつけ、ひょいと飛び移った。失敗したら重傷は免れない高さだったが、既に今までにも何度もやっているのでそんな感覚はとうに麻痺している。コスモのように飛行魔法が使えれば楽だったのだが、同種とは言え彼女とはその実力に大きな開きがある。いや、正確に言うと同種ではないのだったか……まあ、ここで(ほぞ)()んだところで、今すぐに魔力操作の心得が身に付くわけではない。そう思い、ルナは再び歩き出した。
 しかしその直後、唐突に背後から肩を掴まれて驚いたルナは、短い悲鳴を上げて勢いよく振り返り、その勢いで床の上に尻餅をついた。
 上げた視線の先には、右手を出したままの体勢でルナを見下ろし、硬直している(ひじり)の姿があった。

「驚かせた……ようですね、ごめんなさい……」
「あ、え、うん……聖ちゃん、無事だったんだね」

 特に感動した様子もないような再会の言葉を交わし、ルナは軽く埃を払って立ち上がった。すると、聖は何も言わず足の爪先同士が触れそうなほどにルナに接近し、少し狼狽(ろうばい)している彼女に向かって囁くように言う。

「あの、耳、触らせてください」
「は、えっ……い、いいけど何で?」

 そう訪ね返した時には既にルナの両耳に聖の両手が回された後であり、彼女はそのとろんとした瞳から見て完全に悦に入ってしまっているようで……いいと言ってしまった以上は無理矢理に振り払うのも可哀想かと思ったルナは、とりあえず聖はそのままにして話をすることにした。
 とは言え、まず何から言えばいいのかが判らない。耳のことについてはまぁ、ルナ自身も暇なときに自分の耳を触る癖があるので理解できなくもないのだが、さて他に何を()いたものだろう。細い指で耳を撫でられるこそばゆさに耐えつつ、少し考えてからルナは唇を開いた。

「聖ちゃん、どこから来たの?」
「そこの階段を下った先にある出入口です」

 視線を逸らすと、確かに通路には短めの下り階段がついており、その先には小さな門が口を開けていた。ルナがその場所を確認するのを待っていたのかどうかは判らないが、聖は一度切った台詞を続ける。

「そこから外に出られるのですが、戻ってきたら貴方がいたので一応教えておこうと思いまして」
「え……なんで戻ってきたの?」
「宝箱とか、あるかもしれないじゃないですか」

 聖のゲームじみた発言に、ルナは今まで散々彷徨(さまよ)ってきた道を思い起こして苦笑しながら応じる。

「今まで一個も見てないけど、そんなの……」
「でも、ちいさなメダルとか取り逃がしたら後で面倒ですから」
「まずそれ集めてる王様はそうそういないと思う」

 たぶん、この人には誰かついてないと駄目だ。そう直感的に判断し、ルナは急かすように聖の肩を軽く叩いて、状況を手早く展開させようと試みる。

「でもほら、出口が判ったなら急がないと」
「もうちょっと触らせてください」
「え……ど、どうぞ」

 そして、欲望に忠実な聖の一声の前に、敢えなく撃沈した。
 どう考えても今はそんなことをしている場合ではないはずなのだが……やはりこの少女の思考はよく解らない。しばらく呆れ半分にそんなことを考えていたルナに、聖は軽く抱きついた。

「かわいい」
「えーっと……あ、ありがとう……?」

 少し狼狽(うろた)えながらも、そう返すルナ。
 なんなのだろう、甘えたがりか、単なる亜人耳フェチか……まあ、今は思索している時間はない。とりあえず確率的には後者が濃厚、と心の隅に走り書きしてから、ルナは場を仕切り直し、改めて聖と向き合った。
 しかし、何も言わないうちに聖は身を(ひるがえ)してルナに背を向け、足早にその場を去っていく。

「こちらです、急ぎましょう」
「あ……うん……」

 いろいろとツッコミを入れたい所ではあったが、ルナは大人しくその後ろ姿を追った。

 石造りの壁に開けられたアーチ状の門をくぐると、そこにはルナが今まで通ってきたものよりも一層狭い通路が伸びていた。最低限の道具しか持っていないルナはともかく、アビスゲートとか言う、十字架と円形を組み合わせたような奇妙な形の剣を腰に()げている聖にとっては、ここでの方向転換は難しそうだ。
 だいたい、こういう場所を歩いている時に限って強敵に遭遇してしまうのが物語の常ではあるが、聖が一度行き帰りしてきたのだから今回は問題無いだろう。

「ルナさん」

 考え事をしている最中に名を呼ばれ、慌ててルナは顔を上げた。聖はこちらに振り向きもせず歩き続けているが、はっきりと聞こえた今の声は恐らく幻聴ではないだろう。それが証拠に、聖はすぐに台詞を続けた。

「そういえば、私が戻ってきた理由はもう一つあるんです」

 その台詞と共に長い通路は終わり、次に視界に広がったのは、大きな道路ほどの幅がある長方形のホールだった。二人が立っている場所はその角のあたりで狭い高台のようになっており、この程度の高さなら下まで飛び降りても身体に支障はないだろう。

「で、その理由というのは――」
「うん、言わなくていいや」

 ホールには、様々な異形の怪物が(ひし)めいていた。
 人間の形をしている腐った肉塊やら、犬の形をしたそれと同じものやら、もはや何なのかわからない脚と口だけのクリーチャーやら……人型なのになぜか頭部だけが三角形の全体的に意味不明な生命体まで。ここはホラーゲームの敵キャラの待合室か、それとも養成学校か、はたまた彼らにとってのアメ横か何かかと疑いたくなるような密度でそんなものが徘徊していた。

「私はさっきので充分なごみましたけど……どうします、やっぱり一度もどりますか?」
「いや、まずホラーとなごみで合計ゼロになったりはしないし……」

 階段近くに出ればいいな、と敢えてワープの罠を踏んでみたらモンスターハウスに出たような気分である。本当はその場で華麗に(くずお)れてしまいたいのだが、すぐ近くに化け物がいるのでそれもできない。まあ、どうも彼らは一世代前のアクションゲーム的なプログラム……いや、思考回路のようで、跳躍(ちょうやく)と言う発想がないため、段差があるとそれを越えることができず、そのため警戒しても無駄なものだとは思う。
 しかし

「じゃあ平気なんですね、では行きましょう」
「えっ、まだ地の文が途中……」

 小説的に考えて普通はあり得ない強引な割り込み方をした聖は、腰に差したアビスゲートを勢いよく振り抜いて、段差部分に足がめり込むほど突進モーションを繰り返していた三角頭たちを三体ほど一気に吹き飛ばしながらホールに降り立った。

 これは……ぐずぐずしていると置いていかれる。聖の斬り進む道が再度怪物で塞がるまでに付いていかなければ、ルナは確実に脱出の機を失うことになるだろう。そして、ハマった時には「おしてみよう、ポチっとな」……なんてリセットボタンはこの現実世界には存在しないのだ。
 今のルナにはろくに戦う力もないが、魔法の使い方や基本原理くらいは心得ている。この最低限の力でどうにかするしかない。そう決意し、ルナは現在持っている唯一の武器である片手剣を抜いて、聖に続きホールへと飛び降りた。

 そこでは襲いかかってくる異形を聖が(ことごと)く迎撃すると言う一定の光景が繰り返されていて、聖の戦闘能力を再認識させられると同時に、強大な数の力と言うものも思い知らされる。
 しかしルナが飛び降りたことで状況は変わり、敵のターゲットは聖のみから二人に変わった。それはもはや攻撃の密度が大凡(おおよそ)半減した事に他ならず、それを隙と見たか、聖はアビスゲートを一閃、そして変形させて弓の形を取り、そこから放たれた光弾は周囲の敵を次々と撃ち抜いた。

「行きますよ、ルナさん」

 それまでと全く変わらぬ無表情のはずなのに、そう言って視線を向けた聖の横顔は、ルナにとってとても凛々しく見えた。
 短く頷いたルナは、刀身が四十センチほどしかない片手用の剣を両手で持って、走り出した聖の後を追う。

 最初に飛びかかってきた大型の犬に一撃をたたき込むも、肉が抉れただけのダメージなど彼らにとって大した影響はなさそうだった。全く狙ったとおりの場所でヒットせず、さらに直撃の瞬間に力が分散してしまっているのも問題である。骨に当たっていたら逆に剣を飛ばされてしまっていたかも知れない。
 やはり修練もしていない剣で倒せる相手ではなさそうだ。頭のないラクダのようなクリーチャーの攻撃を(かわ)し、ルナはそれを睨め付け剣を構えた。

 ――現実の魔法と言うものは、多くのファンタジーに解説されているような極端な便利能力ではない。魔法とは言うが飽くまでも物理現象であり、その名称自体、未だ原理が理解されていなかった時代の仮称とも言うべき遺物に過ぎない。
 流石に難解すぎる部分はルナにも解らないのだが、魔法とは分子と分子との間の様々な相互干渉を別の媒介を用いて代替する事により、自然では起こり得ない現象を起こす方法のことだと言う。それを使役するのに消費する魔力≠ニは集中した精神などではなく、肉体に生命を結びつけている、魂より生成されるエネルギーのことだ。
 まぁ、アストラル体やエーテル体などと言った魂の類が発見されたのも、まず魔法が世に現れたからと言う話だ。質量がゼロの物質と言う存在は物理学史上でもなかなか刺激的な発見だったらしいが……さておき。

 人間と亜人の混在するこの時代において、両者の最たる違いは魔力を扱えるかどうか≠ナある。少々危険な力ではあるが、一般に普及している刃物や諸外国にとっての銃と同じで、使い方は本人のモラルに依存するため使うことは罪ではない。
 また、亜人ならば誰でも魔法を巧みに扱うものかと言うとそうでもなく、例え利便性を伴ったとしても人が筋肉を鍛えるかどうか選ぶように、魔法の修練を積むかどうかは個人によって違ってくる。まあ、才能による差が少ない上に極めれば様々な用途に活用できるため、ある程度は扱える者が多いが……少なくともルナの場合は、運動こそ自身の体脂肪率を最適に保つ程度にしかやらずとも、魔法は(たしな)む程度∴ネ上と呼べる程には訓練していた。

「すんごい行きたくないけど……さすがにこんな化物に食われてバッドエンドなんて結末もご免だよ!」

 人型のクリーチャーの攻撃を受け止めた剣は、そのまま怪物の右手から肩にかけて鮮やかに斬り落とし、閃いた刃は次の一瞬でその首を斬り落とした。

 電磁気力の代替操作によって刃物の片面付近に強い引力を、もう片面付近に斥力(せきりょく)を帯状に配することにより切断力を上げる……覚えたばかりの魔法だ。高熱を巻き起こしたりモノを凍らせたりと言った複合魔法の類は未だ自在には操れないのだが、魔法の基本と言われる電磁相互干渉を使ったものならば、狭い範囲での複雑な動きもそれなりに扱える。発動点を変えられれば逆向きにした引力だけで済む分魔力も浮くのだが……ルナのレベルではこれが精一杯だ。
 さらにこの魔法なら堅いカボチャだって楽々斬れる上に斬ったものが刃にくっつくこともなく血も簡単にはじき飛ばせる、出力を弱めれば料理にも便利な魔法なのだ。通販番組やデパートの実演販売などで穴あき包丁を売る際にはこれが使われている、と言うのは魔法使いにとっては有名な話である。

 ルナは飛びかかってきた小型のクリーチャー二体を沈め、聖との距離が開かないように足を進める。どうやら彼女が向かっているのは部屋の隅に口を開けていた小さな扉らしく、そこに辿り着くまでには部屋をほぼ縦断することになる。未だ数メートルしか進んでいないことを考えると少し憂鬱だが、こんな部屋からは可及的速やかに脱出したいところなので、あれこれ考えるのはやめることにした。

 しかし……ルナは単独での実戦経験は全くないわけでもないのだが、やはり慣れてもいないらしい。ルナの身体は、次に来る攻撃にまでは反応しきれなかった。肉塊から突き出た爪のような物体が顔に届く寸前、聖が放った光の矢がそれを周囲の敵ともども床に叩き付ける。

「平気ですか、ルナさん」
「……うん」

 ――魔法と言うのは、極めさえすれば非常に単純な操作によって国、いや、大陸をも地図から消すことができる究極の技術だ。しかし亜人出現以来の長い歴史の中で、一つの魔法によって国、いや、街ですら幾度かしか地図から消えたことがないのは、それを極めるのが非常に難しいからに他ならない。

 いつか聞いた言葉が、焦りと共に蘇る。

「落ち着かなきゃ……集中、認識、錬成、操作、……」

 ――自身の内部では精神の平定、自身の外部では状況の認識……どちらか一方でも欠いてはならない二重の集中状態のなかで、エーテル体から生成される魔力を正確な量だけすくい取り、意識によって緻密にエネルギーとして錬成し、正確に操作しなければならない。それも、出来うる限り効率よく……だ。不慣れなまま実戦にてこれを連発するとなれば、その精神を襲うのは中途半端な疲労感では済まないだろう。

 言われたとおりだった。覚えたばかりの魔法、などと言う自分の限界≠いきなり出すべきではなかったのかも知れない。最初の数発はまだよかったのだが、精神の集中が途切れてしまっている今では、攻撃に狙いをつけることも出来なくなっていた。魔力の残量にはまだ余裕があると思うのだが、精神の疲弊がその操作を拒んでしまう。
 先が見えないのに最初から全力をぶつけるなんて、何も考えず突進する猪のようなものだ。敵の能力を推し量り、戦術に応じて最低限の力で戦うのが魔法戦の基本だと教わったはずなのに。

「……っちくしょぉー!」

 ルナは回避を止め、その両手で持った剣を、目の前にはだかる人型クリーチャーの顔面を目掛けて振り下ろした。頭蓋を叩き割る音と共に、一瞬の怯みを見せたそれを全力で薙ぎ払う。標的が沈黙した後もその勢いを殺そうとはせず、そのまま背後の小型クリーチャーを吹き飛ばす。……振り切ったときに刀身が立っていたせいで斬り殺せはしなかっただろうが、全滅させる必要はないのだ。充分だろう。

「ルナさん……意外と激しいんですね……」
「こ、こんくらい気合入れなきゃ切り抜けられそうもないもの……」

 聖の言葉に苦笑しつつも答え、ルナはもう一体のクリーチャーを斬り裂く。有り難いことに、この化物どもの思考レベルはどうやら並以下だ。剣術はほぼ素人同然のルナでは攻めに行ってもやられるだろうが、逆に飛びかかってくる相手を迎撃していけば安定して倒していける。本能だけで動いているような奴らゆえか、攻撃時に威嚇のためか大げさな動作で襲いかかる傾向にあるが、誰が見ても隙だらけなことに自分自身で気付いていないらしい。
 戦闘に於いては何かの拍子に冷静でなくなることが一番怖いものだ。実戦に対する恐怖心であったり、高速で展開する戦況に脳がついていけなくなったり、高い実力で敵を撃破し続けているが故の精神昂揚(こうよう)であったり……と原因は様々であるが、それは無意識であるからこそ陥る罠だ。その罠の存在を知識として知っていれば恐れることはない。

「今まで勘違いしてました……貴方は一方的に守られる側の人じゃないんですね」
「あはは……心外だなぁ」

 見れば、聖もルナと同じように攻撃時の隙を突く形で戦っているようだった。まあ、ルナとは違ってずっとスムーズな立ち回りではあるが……それでも今、ルナは化物退治を本領としている彼女と同じように戦闘を展開できているということだ。
 攻撃の威力だけで勝負せずに防御の隙を突くことを考える、そうすれば結果的に魔力の出力量は抑えられる……とても単純で初歩的なことなのかもしれないが、このように一見地獄とも取れるような場所であっても、それだけで充分だった。

 しかし、一瞬だけ見えた聖の瞳は、何か憐憫(れんびん)のような感情を湛えているように見えた。思えば、先刻の言葉にもそのような表現が底にあったような気がする。他の人から言われたのなら全く気付かなかったのだろうが、彼女の場合はいつも無感情な口調であったため、僅かな撥音(はつおん)の違いでも違和感となって現れてしまうのだ。
 再度確認しようかとも思ったが、今は戦闘の途中だ。そんなに長い間などありはしない。すぐに次の敵が現れ、ルナはそれを迎撃するため聖を視界から外さざるを得なかった。



 数分、経っただろうか。

 たった一つの扉を隔てただけで、こうも瞬間的に静寂が訪れるものなのか……と、ルナは辺りを見回しながら静かに安堵の息をついた。
 あの三国無双のような量の敵はもはや影すらも見当たらず、閉じられた扉の向こうにも気配が感じられないほどだった。もしかしたら、今までの攻撃は、自分たちの領域から侵入者を排斥(はいせき)しようとしていただけなのだろうか。いや、扉を閉じる寸前に聖が部屋の中へと撃ち込んだ巨大な光の矢が強烈すぎただけかもしれない。
 ともあれ、ひとまず危機は去ったらしい。今から思えば、あんなグロテスクな怪物に囲まれても、存外、冷静に切り抜けられたのは自分でも少し驚いた。
 ……まぁ、補足し損ねた奴らを残らず聖が射抜いてくれたおかげでもある。恐らく、彼女がいなければルナはこの場で十と何回か死んでいたはずだ。

「ありがとね、聖ちゃん……助かったよ」

 ルナがそう声をかけると、聖はいつものようにぼんやりとした無表情な顔を向け、少し逡巡(しゅんじゅん)するような素振りを見せたあと、

「……はい」

 と、小さく呟いた。

「そう、私は……助けているんですよね、これでいいんです……」

 続けて発されたその言葉に、少なからず不安定なものを感じたルナは、自分の剣を見つめている聖にそっと近寄る。何か思うところがあるのだろうか、彼女はアビスゲートの中央に填め込まれた大きな金剛石を指でなぞりつつ、そのまま動かずにいた。

「あの、聖ちゃ……」
「下がってくださいッ!」

 ほんの一瞬の立ち回りだった。声を掛けようと歩み寄った瞬間、聖の叫声と共にアビスゲートが宙に閃き、弾け飛んだ石壁の破片を打ち砕いた。一拍を置き、その聖の右腕が頭を掠めようとしたので、ルナは慌てて身を屈める。そうして、その頭上を越えてアビスゲートの向けられた先で、バラバラと幾つもの石が床に落ちる音がした。見ると、そちらの壁にも穴が穿(うが)たれており、剣の持ち手の円形から出力された光のシールドが二人を守っていた。

「ガード……でしょうか、このあたりには何か特別なものがあるようですね」

 聖の言葉に呼応するように、二人を挟み撃ちにするように通路の両側に空いた穴から、大きな影が一つずつ躍り出た。それは上階でコスモ達の相手をしていたガードロボットと同じように見える。しかし、細かい装飾や色調はそれとは違い、なんかこう、それとなく通常の三倍速く動きそうな外見になっていた。

「……なんか、そこはかとなく赤くて彗星な感じだね」
「アッガイってかわいいですよね……」
「いや、いきなりそんな方向に話を持っていくのはどうなんだろう……?」

 そんなよくわからない言葉を交わしながら、ルナはゆっくりと後ずさり、聖はそれを護るように剣を構える。
 ……コスモ達を苦戦させるほどの戦闘力(しかも、コイツらはたぶんその三倍)の敵、それも二体が相手では、ルナはそう簡単に攻撃できないだろう。複数の動きに気を配っての立ち回りなど、ぶっつけ本番でできるようなものではない。それを見誤る者には例外なく死が待つだけだ。
 攪乱(かくらん)に徹するしかない。そう悟り、ルナは剣を片手に持ち替え、もう片方の手にはバッグの中から取り出した子供の玩具程度の威力を持つ癇癪玉を握りしめた。
 しかし、聖はそれを手で制す。

「大丈夫です……もう少しだけ、下がっていてください」

 ルナが言葉を返す間もなく、聖は剣を両手に持ち替えて地を蹴っていた。それは疾走と言うよりも、驀進(ばくしん)と言った方が近かったかも知れない。まるで銃弾のように、高速で直線的な軌道を描いて敵に向かう彼女の姿は、本来なら格好の的となっていたことだろう。
 しかし、銃弾に攻撃を仕掛けられるような者はいない――つまり、その速さは、そこにいる二体のガードロボットが何らかの動作に移る前に、その場へと到達するに充分なものであった。

 自分の方へと高速で突っ込んでくるものがあったなら、特別に意識していない限り、誰しも反射的にそれに注目してしまうものだ。結果として、聖は恐らく二体分のロックを引き受けたことになる。
 それでも、攻撃は一つとして当たらない。彼女の俊敏で的確な動きは、まるで世界の中で彼女自身だけを早回しに再生しているかのようだった。

 聖は、常に二体のロボットの中央と言う位置を保ちながら戦っていた。どちらか片方に集中しすぎることなく、左右からの猛攻を舞うように躱し、その舞踏を彩るように銀色の刃が鮮やかに閃き……その光景にルナが魅入っているうちに、次々と機械の残骸が地に落ちてゆく。
 戦いと呼ぶには一方的すぎる、ただ美しい剣の舞。それは、どう贔屓目に見ても今までの動きではなかった。これだけの動きが可能ならば、先刻もあんなに時間をかけることなく、クリーチャーの群を斬り捨て、扉までの道を作るくらい楽に出来たはずだ。

 ルナの思考がそこまで及んだあたりで、最後に重いものが地面に落ちる音が響き、続いていた金属音は止んだ。
 完全に沈黙したガードロボットを見て、ルナは聖のもとへと駆け寄る。

「す……すごいね聖ちゃん、やっぱ強いなぁ」

 その言葉に、聖は静かに振り向いたが、すぐに視線を逸らして俯いた。

「……いつでも出せない強さなんて強さじゃない、ルナさんのほうがよっぽど強いです」

 ルナはその言葉に、単なる謙譲(けんじょう)などではない、何か様々な情を感じた。それは彼女特有の、生死すら曖昧な退廃的な雰囲気がそう思わせるのかも知れないが、だからこそ看過(かんか)はできない。「でも」、と前置きし、笑って言葉を返す。

「私だったら一体相手でも勝てそうにないよ、こんなの。さっきだって何度も助けて貰ったし――」
「あなたの剣には、迷いがなかった」

 台詞を途中で遮られ、ルナは思わず口を止めた。

「いくら気味の悪い外観をしていても……彼らは、生きていたんです」

 数刹那の間、ルナはその台詞の意味を理解できなかった。

 聖は、斬りたくなかったと言うのか。いくら敵とは言え、いくら化物とは言え、その命を奪うことを心の底では拒んでいたと。

 部屋のクリーチャーを全滅させようと思えば、簡単にできた。しかし、それができないから、襲ってくる敵を倒すのみに留めた。無生物が相手であれば、迷いを感じることなく戦える。……恐らく、そういうことだった。
 ルナに向けられた台詞だって、何か説教めいたものを含んでいたわけではない。誰に何を教えるでもなく、聖は今、ただ淡々と己を語っていた。それは彼女という人間と相対する上で経験のない情景で、ルナはそこに違和感さえ見いだしていた。
 しかし、あれほどの力を持ちながらも、そのような(しがらみ)に捕らわれていたとは、意外と言うほかはない。ルナのそんな感情を察したか、聖は虚ろで、しかし決して弱々しくはない視線をルナへと向ける。

「甘えるつもりはありません、殺さなきゃ殺される、逃がせば他の者に被害が及ぶ、そこは割り切れています」

 そう言って、剣をリボンで腰に結びつける聖。いつものような淡泊な口調も、今はどこかぎこちないように思えた。

「でも……どうしてこの手は、容赦せず皆殺しにしてくれないんでしょうね……」

 言葉と共に、薄く笑みを浮かべる。
 僅かに見せたその表情は、恐らく自嘲ゆえのものだった。

「そんな……気にすることないと思うよ、それだけ人を護ってるんだし、亜存在バスターとしてだって……」
「半年です」

 ルナの台詞を切り、聖は語調を強めて言い放つ。他人に比べればまだ稀薄だが、聖がここまで感情を言葉に投影しているのを、ルナは見たことがなかった。
 しかし、その感情も誰かに向けられたものではなく、ただ内向的な怒りであることがその瞳から感じ取れる。

「真冬の日、ただの学生だった私が亜存在に襲われ剣を取ってから、夏休みのこの日まで、半年……半年では、殺戮(さつりく)を歯牙にも掛けないような戦士にはなれませんでした」

 それは、(にわか)には信じ難い台詞だった。
 確かに、ルナはこの数ヶ月以前の聖は知らない。知っているとしたら、以前は人間だったが、アビスゲートを手にした際の影響で亜人になった≠ニ言うことだけだ。……だがまさか、亜人への変質からたったの半年でここまで強くなったと言うのか。
 自分ならできただろうか。たったの半年で、それだけの努力が。今からの半年で、できるだろうか。数秒も経たずに出せた答えは否≠ナある。それを当時十四、五歳の聖はやってのけたのだ。

「さらに言うなら、本当の亜存在バスターは先輩だけです。私はただ、自分の居場所がなくなるのが怖くて……自分のために殺してるだけですから」

 まるで毒を吐くように、振り返る背中越しに自虐じみた言葉を連ねる聖。
 ……彼女には、自分の嫌なところしか見えていないのだろうか。その行動によって多くの人が未然に救われているのは事実だし、それは英雄とすら呼ばれてもいい実績であるはずなのに。

「で、でも……それでも同じだよ、結果的に人を護ってるじゃない」

 ルナがそうフォローを入れると、聖は再び振り返り、ルナに無感情な眼を向けた。

「護ってもいるけど、それだけ人を殺してもいる……亜存在は、もともと人間なんです」
「……え」

 普段なら「怖い話は別に平気だよ?」、などと一笑に付していたところなのだろうが、どうやらそうも言えないようだった。
 確かに、聖や兇闇の纏っている空気には、どこか人を疎隔(そかく)せんとするような冷たさがあった。それは今まで、魔物退治を本職としているが表向きは学生として生活している、と言う境遇の差違から来るものなのだと思っていたが、それは謂わば処刑人としての自覚がそうさせていたのかも知れない。
 その対象が単なる悪人ならば、まだ救いもあろう。しかし、話を聞く限りそれは飽くまでも変質させられた人間であり、その善悪は関係ない。ただ運が悪かったと言うだけに過ぎない、被害者なのである。
 しかしその理由がどうあれ、人に害を為すものは社会のシステムによって闇へと湮滅(いんめつ)させられてしまう。そして聖は、その執行者を買って出ているのだ。
 平和のため、と言ってしまえば聞こえはいいかも知れない。しかし、その処刑人自身の話を聞く限りでは、そう思い込むこともできなかった。

「変質するのは死者の場合もあれば、生者の場合もある……詳細は不明ですが、亜存在は人が変質したもの。この仕事はただの人殺しです、誇れるものなんかじゃない」

 自分を叱咤(しった)するようにそう吐き捨てる聖の姿に、ルナは僅かな違和感を覚えた。
 そう解っていながら何故、自身を奮い立たせてその殺人≠繰り返すのか、その理由は……何なのだろう。ルナの頭に、一つの推測が浮かぶ。

「聖ちゃん、まさか……」

 幾許かの、間。
 聖は俯いたままじっとしていたが、ややあって、瞼を閉じて口を開いた。

「……昔、仲の良かったクラスメイトが一人、……まだ、どこかにいると思います」

 ――今、ようやく解った。聖は、自分を呪っているのだ。
 何も出来ず無力だった自分、必要悪を割り切れない自分、未だ精神的に強くなれない自分……それを認められない自分、全てを。だからこそ、強さを求めたのだろうか。僅か半年の間に、亜存在などと言う魔物と対等以上に渡り合える力を手にするほどに。

 かける言葉がない、とは、まさにこのことだろう。ルナは、今まで聖のことを自分とは違う≠ニ勝手な線引きをし、本質的な戦士だと勘違いしていた。彼女もただの、一人の少女であることに変わりはないのに。……ルナよりもずっと、人間らしい存在≠セと言うのに。
 何か慰めの言葉を、と思っても、今のルナの頭はうまく働いてはくれなかった。

「えっと……その、何て言ったらいいかわからない、けど……」
「大丈夫です、その連鎖を止めるために私達は戦い――それが最終的に、一番犠牲者が少なくて済む方法になる。そう解ってますから」

 腰に提げた剣の柄を握り締めながら、穏やかな声でそう言った聖の姿には、その華奢な肢体からは結びつかないほどに力強い意志が汪溢(おういつ)していた。

 ああ――なんと強いのだろうか、この少女は。
 その強さを手に入れるために、自らの弱さを認めず、脆さと引き替えてでも自身に孤独を与えていたのだろう。決して自分から人に頼ることなく、自分の強さの証明のように敵を貫く、まるで細く鋭い硝子の剣のようなその力。それはきっと、命を削って戦っているようなものだ。そんなものを振り回してがむしゃらに進んでも、いつか屍の道の先で呆気なく折れてしまうことだろう。
 それでも、「汚れ役は自分たちだけでいい」と暗に示した彼女の生き方を、ルナは否定することができなかった。
 彼女はもともと亜人ではない。住んでいた場所も、周りを取り巻いていた環境や人々も、ルナ達とは初めから違う。そして――それらは全て、ここに来ることで捨て去られてしまった。彼女にとって、古き時代の名残はもう何も残されていないのだ。たった一つあるとしたなら、それは殺すべき対象へと変わり果ててしまった親友が一人。
 生まれついての殺し屋でも戦士でもなんでもない、ただの中学生に(おお)されるには、その現実はあまりに重い。
 ――まさか、一度そうして全てを失ってしまったから、彼女は彼女自身の意志で亜存在と干戈(かんか)を交えると言うのか。本来は自分が出るべきではないと知っていながら、……仮令(たとえ)、戦禍の中に果てようと、桜の森の満開の下、自分の場所を求め、その身に限界が(きた)るまで戦おうとしているのか。

「ともかく、今は早く皆さんと合流することを考えましょう。このままでは指令の遂行もままなりません」

 そう言って歩き出した聖の後ろ姿は、いつにも増して生気が薄れ……あれこれと思索していたルナにとって、まるで白い亡霊のように見えた。
 恐らく、今まで僅かな瑕釁(かきん)もない戦士だと思っていた聖の弱みを見せられたことによって、その像が零落して見えているのだろう。同時に、無責任に彼女を頼り切っていた自分が、とても愚かしく思える。ルナは無言で唇を噛んだ。

「……ルナさん」
「えっ、あ、はい!」

 急に名を呼ばれ、少し狼狽しつつ顔を上げる。
 すると、数歩の間を開けて前を歩いていた聖は、穏やかな笑顔を湛えて振り向いた。

「話、聞いてくれて嬉しかったです……ありがとうございました」

 その言葉に、ルナは自らの心中を貫かれたように思った。
 重ね重ね、なんと自分の矮小(わいしょう)だったことか。こうして肝胆を披いてくれた聖を、何故今の今までそれが彼女の生き方ならば≠ネどと黙過(もっか)しようと思っていたのだろう。何故……彼女を死なせたくないと、その精神面だけでも助けてあげたいと思ってやれなかったのだろう。
 もしここにいたのがライトなら、きっと黙してはいなかったはずだ。

「ねえ!」

 呼び止める声は、想定よりも少し大きな声だった。関わらず、聖はゆっくりと顔を此方(こちら)に向ける。何ですか、とも訊ねない、その空虚すら感じさせるうっすらとした寂寥(せきりょう)の表情に気圧されるも、ルナは微笑みながら聖に駆け寄り、軽く手を握った。

「私には力無いから戦えないし、特別な知識もないから辛さを和らげたりはできないけど……でも、話聞いてあげるくらいならできるよ、いつでも」

 このような台詞を言うのはあまり慣れておらず、ルナは言葉を発した後で少し気恥ずかしく感じていた。……と同時に、このような台詞を常習的かつ自然に使える兄に対して若干の敬意がプラスされた。
 聖は暫くきょとんとしていたが、その後は躊躇(ちゅうちょ)する様子もなく少しだけ口角を上げ、嬉しそうに「はい」と呟いた。
 よく見てみれば、彼女はこんなにも表情を変えていたんだな、と胸中で呟き、ルナも笑う。自分自身で距離を置いていたから、今までそれが見えていなかったのだ。誰かの理解や愛情を求めることは本質的に不可能でも、自分から理解しようと歩み寄ることでそれが叶うこともある……ルナは今、ようやくそれに気付いた。
 (そもそ)も、経験と言う観点に於いて、ルナは双子≠ナあるライトよりも圧倒的に劣っている。彼の妹を名乗るなら、せめて同等の場所にぐらいは立っていたいものだ。きっと彼なら、今までも聖の表情くらい読みとれていたのだろう。そう思い、ルナは台詞を続ける。

「一応さ、他のことでもちょっとは力になれると思うし」
「じゃあ……帰ったら、耳触らせて下さい」
「また!?」
「好きなんです、そういう人外要素……」

 ルナは、少し発言が軽率だったかも、と若干後悔した。
 ……もしさっきの推測が実は的外れなものだったら、ただ自爆しただけになるなあ。

 しかし、推測の正否に関わらず、今まで大気に潜んでいた淀んだ重みは、もはやその空間から消え去っていた。



 聖と共に再び歩き始めて、改めて周りを見てみれば、今歩いている通路はどうやらそれまでの場所とは少し(おもむき)が違うようだった。
 二人を取り囲んでいる灰色の石壁や床、よく見てみれば天井にまで、奇妙な壁画や記号が彫り込まれていた。今までにも壁に彫られた絵や文字を見ることは屡々あったが、ここまでびっしりと隙間無く何かが彫られているのは流石に気味が悪い。
 夜光虫の数も、今までよりずっと減ってきているようだった。かと言って、光が弱まっている気配は見受けられない。どうやら通路の先まで規則正しく続く柱に乗っている石が、同じような光を発しているらしい。このような柱も、今までには見かけなかった。光を発している石もその実体はよく解らず、持ち帰ったら喜びそうな知り合いが何人かいる。

 それは今までのただ迷路があるだけ≠フ殺風景な石の空間とは違い、荘厳な神殿の様相を強く残していた。
 本当はもっと急がなければならないのに、歩む足は自然と静かに、緩やかになってしまう。今までにも増して静謐な空気の前に、無意識のうちに萎縮してしまっているのだろうか。それとも、真夏にしては涼しすぎるこの場所の温度がそう思わせているだけか。

「何かを(まつ)ってたのかな、この遺跡……」

 歩きながらぐるりと周囲を見回し、ルナは呟く。横を歩く聖も、足下から頭上へと目線を動かし、それから唇を開いた。

「ワンダースワンとかですか」
「なんでそんな微妙な時代のゲーム機!?」
「あ、天井にさいたまの彫刻が」
「それ太陽だよ……」

 そんなことを話しながら歩いていると、眺めていた壁画が不意に途切れた。改めて前方に目を向けると、どうやら通路を歩ききったらしく、広大と言うよりは広壮な空間が目の前に広がっていた。
 そこは、一般に広間の名を冠する空間よりも遙かに広く、もし地面が平坦であったなら、この部屋だけで野球ができるであろうほどだった。出入口は二人が入ってきた場所の他には一つしかなく、しかし、まっすぐにそこまで向かうには、ルナの興味を引きすぎるものが、部屋の中央にはあった。

 それは、恐らく祭壇だった。
 まるでピラミッドのように、傾斜の緩い段差に四方を囲まれ、それは白銀に輝いていた。

 祭壇には、一振りの剣があった。

「なんでしょうか、あの剣……」

 どうやら聖も興味を示したらしい。それはそうだ、もしゲームで同じようなマップに出会したとき、これをスルーするプレイヤーは気付かなかった奴∴ネ外にいないと断言できる。
 しかし、ルナの内にはそれだけではない、何か漠然とした郷愁(きょうしゅう)の念が渦巻いていた。全て流されたはずの身に宿るはずのない感情に、ルナはある種の期待と恐怖を抱く。

 しかし、あの剣に近づいてしまったら、皆の側から引き離されて二度と戻れなくなるような――そんな感情がふっと頭を過ぎった時には既に、聖に続いて階段を上がりきってしまっていた。

 聖の背後から見るその剣の白銀は、弱い薄緑色の光源しかないこの空間に於いて、明らかに異質であった。金色の柄や、刀身の一部に施された装飾は、派手ではないが繊細で、古いとも真新しいとも感じさせない不可思議な光沢をしていた。
 どれほどの時をこの場で(けみ)してきたのだろうか、見当もつかなかった。一年や二年で積もる量ではないほどの埃にまみれているのだが、とてもそれほどの長きをここで過ごしてきたようには見えない。その刀身の輝きには、僅かな曇りも見受けられないのだ。どのような技術で作られているものなのか、ルナの知識では想像することもできない。

 物珍しいような、懐かしいような、奇妙な感覚だった。
 何せ……その名をルナは、呼ぶことが出来たのだから。

「エクスカリバー……」

 呟くと、聖が不思議そうな顔をして振り向いた。

「これが、そうなんですか……?」
「え、あ、いや違う……なんか、それっぽかったからさ」

 慌てて顔を上げ、笑って否定する。
 エクスカリバーと言ったら、アーサー王伝説に出てくるお伽噺の聖剣だ。そのイメージから、白銀に輝くこの剣を見て、その言葉が口をついて出てしまったのだろう。そう自己解決し、ルナは再びその剣に視線を戻した。

「でも、なんなんだろう、この剣」

 しかし、あの奇妙な感覚が消えたわけではなかった。そもそも見覚えがないのだから既視感では無く、かと言って知識のうちにその姿があったわけでもない。なのに、この実体のない追想は消えないのだ。

 一刹那、あっただろうか。
 ルナの直感は、思考を超えてその感情を理解させた。それは或いは、本能という名のものだったのかも知れない。今までに聞いた様々な話を脳が統合し、その剣の得体を報せたのだ。
 だが、それを理解したときには既に遅く、その瞬間の剣の輝きに、ルナは前兆を見ていた。

「危ない!」

 ルナは短く叫び、不思議そうにこちらを見ている聖の肩に掌を当て、力を込めて押し飛ばした。


 ルナは、浮かれていたのかも知れない。
 本当は力など何も無かったのに、聖との距離が縮まったことで、彼女と同列に立っているような気になっていた。
 所詮は兄がいなければ無力な身だというのに。無力は自覚しなければ死が待つだけだと、解っていたのに。
 今更ながら、ルナはそう気付いた。


「え、ルナさ――」

 自分を呼ぶ聖の言葉は、最後まで聞こえなかった。



 その時にはもう、ルナは――自らの顔のうち半分と、左肩を失っていたのだから。



 地に倒れた身体の纏う薄桃色のワンピースは、赤黒い鮮血に染まっていた。






第一章:雨粒が奏でる序曲

第二章:エンドレス・パーティー

第三章:盈虚の指標

第四章:燦爛たる始まりは黯然とした終端へ

第五章:白い亡霊  ←いまここ

第六章:Der blaue Himmel




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