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罪咎の匣




人々が月日で時を計るのを忘れかけた頃、
大いなる光のつるぎが世にあまねく上天の静寂を貫いた。

光は災禍の炎となって降り注ぎ、
炎は風を呼び、
風は集い嵐となって死をもたらし、
死はさらなる死を招いて大地を(そそ)いだ。

後の世に『怒りの日(ディエス・イレ)』と呼ばれる大災害より先、
人々に太母(はは)(たもと)へと還るすべはなく、

忘れ去られた光らぬ星は、神話の中の聖地と成り果てた。



CRIMINAL CUBE

罪咎(ざいきゅう)(はこ)

-Purgalatir-




 思えば彼女に初めて出逢ったのは、礎術(そじゅつ)学校の天文部室から星を眺めていた時だった。

 メメトの星軸(せいじく)は強く傾斜している。かつては違ったのかも知れないが、少なくとも今はそうだ。おかげで人類の活動可能領域は赤道周辺のわずかな帯状の空間に限られ、それでもなお寒暖は過酷だった。陽の沈まぬ白季(びゃっき)と、常闇の黒季(こっき)──代わる代わる南北に訪れる二つの季節の狭間で、冷やされたり熱されたりした極地の板挟みとなって常に強風が吹き荒れるのだ。もはや北風も南風もなく、特に地表近くに吹き下ろす冷たい風を、人は『黒い風』と呼んだ。

 その黒い風の吹くころ。
 太陽(サン)──自分の出身惑星系の恒星をこう愛称する、古い習わしがある──の留守がちな黒季では、澄みきった空に遠い星々がよく見えた。
 静止衛星軌道上にたゆたう『(キューブ)』も、質の良いレンズを覗けば薄っすらとその輪郭が確認できる。その巨大な構造体は、今は見えない恒星の光を浴びて、明瞭な白と黒とにそれぞれの面を塗り分けていた。
 防風柱(ピラア)を越えて届く死神の吐息に身を震わせながら、縮かむ指に息を吐き、またレンズを覗き込もうとした時。(ほの)かに漂う林檎の香気が、痛むほど()みた鼻腔を悪戯めいて(くすぐ)った。
 逆に言うならば、僕はその瞬間まで、横から自分が覗き込まれていることに気付きもしなかったのである。
 最初に視界を掠めたのは、淡桃(うすもも)がかった白い花が一輪。続いて薄闇の中でぼんやりと浮かび上がる人影は、まるでその花びらが柔らかに広がり、人の姿形を作ったかのような錯覚を覚えさせた。
 驚いて身(じろ)ぎをすれば、透き通った金色の瞳がぱちりと丸く見開かれ、甘く長い睫毛(まつげ)が宝球を磨くように(しばた)いた。
 幾重にも重なれば金色(こんじき)にも見える乳白の髪が、それ自体が一つの花弁であるかのように、微風(そよかぜ)(なび)いている。

「……やっと、気付いた」

 髪に()した花がふわりと揺れ、防寒套(ぼうかんとう)の長い(えり)元から小ぶりな鼻が、唇が覗いた。
 地底に()まうモールの民よりも更に色素の薄い髪や肌、それに、頭の横から生えている小さな羽は、恐らく亜人(あじん)種と呼ばれる者の特徴のひとつだ。
 白くなめらかな幼い輪郭を、澄んだ星明かりが薄っすらと照らし出していた。
 目にかかるほど長い前髪を鬱陶しげに払う指先に、紅く(きら)めく小さな指環(ゆびわ)があった。その光耀(こうよう)にふと目を奪われた瞬間──本当は、彼女自身に奪われていた目を、今、取り返したことに気付く。
 取り繕うように佇まいを正して向き直れば、少女は前髪の向こうで無感動な片目をぱちりと(すが)めた。

「君は──」
「もうじき、黒い雨が降る」

 言いかけた言葉を遮って、彼女は(かそけ)くも(さや)かな声色で、告げた。
 思わず面食らって呆けていると、どうやら言葉足らずだったかと思い直したらしい。背を向けかけた小さな身体は、そのまま舞うようにこちらへと向き直り、小さく首を傾げて見せた。

「あと二(こく)もしないうちに。帰らないとね、凍えて死ぬよ」

 果たして予言は的中した。
 メメトの民は『黒』という言葉を、具体的な実感を持って『冷たさ』や『死』の同義語として扱う。その価値観は日常に深く根差した黒い風に起因するところが大きい。凍える息吹は、老人や子供などの生きる力に乏しい者たちの生命を(さら)っていくからだ。
 南北の極端な寒暖差から訪れる嵐は、時に弱い人々の命を奪い去るほど冷たい氷雨(ひさめ)といかずちを伴って吹き荒れる。
 強い黒雨(こくう)の降りしきる常夜(とこよ)の日には、人々は時に炎を焚いて身を寄せ合い、時に夜光石またたく地底に身を潜め、嵐の過ぎ去るのを待つのが慣例だった。それは必ずしも忌むべき災厄ではなく、娯楽の少ないこの国において、数少ない交流や団欒(だんらん)、あるいは恋する人との一時の逢瀬(おうせ)の機会として活用された。

 その日、共同シェルターの中で悪友たちと単調なカードゲームやら雑談やらに興じながら、それとなく彼女の姿を探したが、あの小さな花のような姿はどこにも見当たらなかった。
 きっとあの背丈では、まさに草の根でも分けなければ見つけるのは容易(たやす)からぬ事だろう。さすがにそこまでするのもどうかと思い、僕は林檎の実の堅い外殻を小槌で砕きながら、彼方此方(あちこち)へと逸らしていた視線を戻す。

 まだ名も知らないうちから、彼女のことが気になっているのは確かだった。
 万人が振り返るほど装いが美しいとか、美少女だ、という感じの人ではなかったとは思う。しかし、少なくとも僕一人を釘付けにするくらいには、その人は特異な雰囲気を(まと)っていた。
 最初に見たときは花に(たと)えこそしたが、よく整えられ洗練された瀟洒(しょうしゃ)な飾り花ではなく、野暮ったくて垢抜けない、自然の中にひっそりと佇む花のようだった。
 悪く言えば陰気な、良く言うなら清廉(せいれん)で神秘的な様相。嵐の前の夜空のように澄みきった透明さ。
 あまり平凡な人生は歩んでいないのだろうな、と、僕は直感した。


◆ ◆ ◆



 再会の日は思っていたよりも早く訪れた。
 黒い雨の止んだ翌日、天文部室の天窓から、彼女は背伸びをするように爪先で立ち、望遠鏡も使わずに真っ暗な朝の空を眺めていた。
 ありとあらゆる意図を測りかね、第一にかける声に迷っていたところ、彼女はよろめくような覚束(おぼつか)ない足取りで身を(ひるがえ)し、ぼんやりとした金の瞳でまっすぐに僕を射抜いた。

(はこ)が気になるんだね」

 鈴音(すずね)の言葉と共に、髪先から振り撒かれた林檎の香りがふわりと舞う。天窓から差し込む星明かりに照らされたその姿は、幼い(みぎり)に母に読み聞かせられた絵本の一(ページ)のようで、奇妙なむず(がゆ)さが心裡(しんり)を乱した。
 玉響(たまゆら)の静寂。
 防寒套の下に背負った鞄を降ろしながら、僕は頷いて肯定を示した。

 いつの時代からか、それこそ世界を焼いた光の洪水とどちらが先かわからないくらい(いにしえ)の昔から、『匣』はそこにあった。
 明らかに人工的な構造体ではあるのだが、仔細は誰の記憶にもなく、強固な外殻と奇妙な力場が破壊も分析も拒んだ。
 星団連邦政府も、匣の研究のためにメメトの地に観測施設を建てたりしていたようだが、今はもうない。
 未知の技術と存在に、あるいは目を輝かせて、あるいは外宇宙の恐怖に怯えて集った偉い学者たちは、さっぱり結果の出ない研究に飽きたのか、単に予算が打ち切られたせいか、とりあえずの体裁を整える『たぶん無害』の仮評価だけを置き土産にこの地を去った。
 そんな沿革があればこそ、この地に住む民であれば、上天に浮かぶ立方体に興味を抱かぬ者はそう居ない。他に興味を惹くような物事が少ないというのも理由の一端である。その謎を解く最初の一人の座を、未だに多くの者が狙っているのだ。

「猫がね、いると思う」

 ある日、彼女──アイテールは、焼きたてのタルトを一切れ、豪快に指で持ち上げてかぶりつきながら言った。
 僕はフォークを使って丁寧に一欠片ずつ同じものを口に運びながら、目を丸くしてそのまま鸚鵡(おうむ)返しに()き返す。『匣』の中には何があるのか──なんて、ここではありふれた話題の一つだが、そんな答えは聞いたことがなかったからだ。

「そう。生きながらにして死んでいる猫……確率の波間に何千年も囚われたままの。いずれその時が最期と知りながら、誰かに匣を開けてもらうのを待ってるの」

 物静かな声で、遠く思いを馳せるように少女は囁く。
 これは詩人の才能があるなあ、と大真面目に感心していると、アイテールはほんの少し口角を綻ばせるように笑いながら、古い物理学の例え話の引用だと教えてくれた。それはそれで、感心の対象が変わっただけだったが。

 この星の一日は十三刻を数えて過ぎ、黒季は百と十日で終わる。
 ひとたび言葉を交わしてみれば機会はそこそこ訪れるもので、彼女が一人でいるのを見かけては声をかけてみるうち、白季が訪れはじめる頃には彼女の味の好みや、服や小物の趣味がなんとなく解るようになっていた。意外と普通なところも、そうでないところも知れたが、やはり興味は尽きずに(つの)った。
 この三つも下の後輩であるところの少女アイテールは、極端なくらい無愛想で、あまり友達は多くはないようだった。というか、礎術学校で他に誰かと親しげにしているところをそもそも見たことがない。もちろん話しかけられれば丁寧に答えるし、用事があれば自分から人に話しかけることもあるのだが、いずれにしても悲しいくらいに事務的なのである。態度自体は堂々としていて迷いがないのも、人を寄せ付けない要因の一つだった。
 暗くて、冷たくて、怖い人。どうも同じ年代の学生からは、そんな風に見られているらしい。

「……なに」

 視線を感じてか、彼女は次の一口を止め、怪訝(けげん)げに見返した。頭の横の小さな羽が、ぱたぱたと落ち着かなそうに羽撃(はばた)く。

「アイは観察してて飽きないなと思ってね」
「そう。口説く準備でもしてるの?」
「んん〜……、もう少し大きくなったら考え始めようかな」

 遠回しに子供扱いを受けて、むっと刺々しく目を細め、彼女はまた一口、タルトのクッキー生地を(かじ)った。もしゃもしゃと動かす口を隠すように添えられた左手の、指環の紅い宝玉がきらりと光る。

「キミこそ、も少したくましくなった方がいいと思う。今後のため」

 言われた僕も彼女の視線を真似てみて、それから二人して笑った。
 彼女の乳白色の髪に挿された林檎の封花(ふうか)──装飾用に枯死を防ぐ処理を施された生花のことだ──が揺れ、仄かな香りを振りまいた。
 かつて外縁区域のモールの民の元で修行してきたという夫婦の営む焼き菓子店の甘い匂いに、その爽やかで甘酸っぱい花の香りは、(かぐわ)しく、よく馴染んだ。

「──でも、誰にも観測されない確率の詰められた箱があるなら」

 食後の温かい龍血茶(りゅうけつちゃ)に口をつけながら、アイテールは不意に呟いた。

「その小さな空間こそが何よりも自由な外側で、不自由な箱の内側に閉じ込められてるのは、私達の方かもね……」

 物憂げな彼女の言葉に、僕はやはり感心して、今度、詩か散文でもさり気なく書かせてみようかと考えるのだった。
 考えてもみれば()(ほど)、あの匣の内側に宇宙のすべてが内包されてしまっているなら、なんとか自由な外の世界へ出られないものかと躍起になって努力を重ねる人々の姿も、腑に落ちる気がするものだ。

 ……にしても、そんな古い時代から人類の傍らに猫はいたのか。また一つ歴史を知った。


◆ ◆ ◆



 卒業を間近に控えた幾度目かの黒季。いつになく強い黒い雨に振られて、小さなシェルターに(こも)り始めてから二十刻ほどが経過しようとしていた。
 取り留めもなく喋り続けるのにも、流石に退屈を覚え始めた頃。ぼんやりと放熱器に両手をかざしていたアイテールは、これまでとはどこか違った語調で語り始めた。

「プルガラティールの話をしようか──」

 聞き慣れぬ言葉だった。それは何だ、と問いかけてみても、簡潔な説明が思いつかなかったのか、彼女は訥々(とつとつ)と物語を紡いだ。
 かつて幾度かの歴史改変を行った、地球(ジアース)という惑星のこと。西暦二〇一〇年、地球外の知性体による連合組織、未開発惑星管理委員会──地球人にとっては神も同じ者どもによる地球への干渉実験。その惑管委の本拠、アスガルドで発生したテロリズム。内乱。巻き込まれた地球の子供──。
 まるで見てきたかのように、アイテールは彼女自身の知り得ぬ歴史を淡々と語った。僕はその顛末(てんまつ)を、途中からは自作の娯楽物語か何かかと思って聞いていたが、アスガルドを追われた神々と地球人が乗り込んだ航宙艦として『罪咎の匣』の名が飛び出た時は、思わず目を見開いた。
 罪咎の匣、プルガラティール。
 惑管委が惑星ジェリアに最初の干渉実験を行った際にも用いられた、立方体状の巨大な戦艦。
 邪神の手に()ちたアスガルドを奪還すべく、生命からがら逃げ出した神々はこの艦を旗艦として、地球人類と結託して反撃の道を探るのだ。

「……それが……『匣』の正体?」

 やっとのことで絞り出した言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。

「アカシャの書──という書物がある。
 その実在を知れば、私を殺してでも奪おうとする人がたくさんいる本。私は、狂死した祖父からそれを継いだ」

 暗に他言無用だと言われていた。それでも、どんな危険性よりも先に、それだけの信頼を寄せられたという事実に、胸の奥底の熱さを感じてしまう自分がいた。もしかしたら、こんな反応も予め読み込まれていたのかもしれない。

 そう、曰くアカシャの書とは、過去から未来、開闢(かいびゃく)より終焉、全時間全空間ありとあらゆる事象事物が必要なだけ記された、たった一冊の書であるという。
 正確に言うには、過去はともかく未来については現状採択しうる可能性を選択的に読み取ることが可能な程度で、完全な未来予測というのはヒトが読む限り不可能なようだが、恐らく使う者が使えばその限りではないらしい。
 その『高い可能性』が記されていたからこそ、理解(わか)っていた。あの日、じきに黒い雨が降り始めることも、天文部室に残った呑気な青年に自分が危険を伝えなければ、帰路の途中で嵐に飲まれて死んでいたであろうことも。

 アイテールは、書を継いでから日夜、過去の追体験に没頭した。
 未知を解き明かす快感、知られざる物語の興奮、遺失した娯楽の痛快さ、恐るべき悪辣(あくらつ)への戒め──全てをありありと脳に描いて、去りにし日々を歩いた。(最高級の食べ物の味情報を覗くのだけは、本体がムチャクチャにお腹が空くのがつらすぎて数回でやめたらしい)
 大真面目にかつての偉人達の知識を学んで知恵熱を出した日もあったし、興味本位に、自分では到底実行できないアブノーマルな快楽の記憶を覗き見て、幼い脳が耐えきれずに鼻血を出したこともあった。
 あまりに多くの他者の追憶を眺めすぎて、アイテール自身の自我が希薄になってゆくことに気付きながらも、祖父の最期の姿を何度も想起しては自分を見失わぬよう耐えた。

 以前言った、シュレーディンガーの猫の話も、これで知った。
 この星がかつて『真理』を意味する惑星エメスと呼ばれていたことを知った。
 遥か漆黒の宇宙の遠くに、地球という人類の故郷が確かにあることを知った。
 上天をめぐる匣の来歴を──かつてその地球を通って飛来したことを知った。

「ねえ。まだ皮が硬くなかった頃の、原初の林檎だって、多分、まだそこにあるんだよ」

 アイテールはそう言って、まるで稚気(ちき)じみた理想的な未来を語る子供のように、無邪気に破顔した。
 皮が硬くない林檎。そんな事を言われても、僕には想像もつかなかった。思ってみれば、このメメトにある動物や植物のうち、一体どれほどがこの星の原産種なのか、僕はよく知らない。

 生命を狙われかねないほどの秘密をすべてさらけ出した後、アイテールは、逃れ得ぬ宿命を背負った殉教者のように、金色の瞳をどこか遠くに向けながら、呟いた。

「──私は、あの匣に行くよ」

 故郷への長い道を、一歩ずつ確かめるが如く、幽くも清かに。

 僕も連れて行ってくれよ──とは、言わなかった。
 彼女には未来が見えている。だから、道が交わるのならば必然と交わるだろう。どんな言葉があろうとも、やるべきことは変わらなかった。


◆ ◆ ◆



 発見以来、一切の人の探求を寄せ付けなかった『罪咎の匣』プルガラティールは、たった一人の亜人の少女の前に(ぬか)ずいて、門扉(もんぴ)を開けた。
 血相を変え、目の色を変え、様々な思惑がまた、メメトの地に集った。
 しかし再び閉ざされた扉は、誰の手にも及ばずに沈黙を保つばかり。そしてわずかな日々をおいて、『匣』は突如、メメトの静止衛星軌道上から姿勢を変え、漆黒の宇宙の彼方へと針路を取った。
 かつて惑星ジェリアと呼ばれた、もはや誰の記憶にもない星が、その先にはあった。

「──うう……なんで観測室の我々がこんな、軍隊の真似事なんか……」

 星団連邦政府指揮下、深宇宙探査・資源回収用巡洋艦エルダークラインの一室。慣れない装備の点検をしながら愚痴る同僚をよそに、楽しげに微笑むものがあった。
 なんなら鼻歌でも飛び出しそうなその様子に、げんなりした様子の研究者が眼鏡越しに尋ねた。この危険な任務に、何か良いことでもあるのかと。

「そりゃあ、まあ」

 目を閉じて、彼は答えた。どこか遠くの──長い長い道のりに思いを馳せるように。

「友達に会いに行くわけですから」

 そう言って笑みを作った拍子に、胸元に飾った林檎の白い花が揺れ、甘い香りがふわりと広がった。




 ────A.D.4120



2017/05/31


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