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退廃虚構交錯(後編)

 ――――



 私は、ずっとベッドの中にいた。

 生まれる前も、生まれた後も。
 そうして、きっと死ぬまでここにいるのだろうと思っていたし、
 自分自身そうありたいと願っていた。

 でも、そうはならなかった。

 あの人は、あたしを半ば強引なまでに連れだしてくれた。
 そして、あたしをパートナーだと言ってくれた。

 ずっと一人だったあたしにとって、それはとても嬉しいことだったし、
 ずっと二人でいられると思うと、それはとても楽しくて仕方がなかった。


 けれど、“私”は今でも、ずっとベッドの中で眠り続けている。


 ――いつしか、あたしが私を忘れたら、あたしは幸福になれる?
 ――それでも、あなたと私の繋がりは、そのまま永遠になれる?


 それが叶わぬと言うのなら、私は、もう――……



 ――――


 舞う強風と、一条の光。


 まるで一枚の写真のように硬直した景色。動かない三つの人影。両腕を地に突いて喘ぐ崇神と、右腕を前に突きだしたままのゼノン、そして二人の中央で直立している影。静かな波音が繰り返し谺する中、糸の切れた操り人形のようにゼノンが砂に両膝を突いた。
 影の痩躯は、すっかり風通しがよくなっていた。胸元に大きく描かれた円形は、ただ綺麗な海辺の景色を映し込んでいる。ややあって、影は音も立てずに砂埃の中に倒れ、砂の粒子に溶解して消えた。そして、一切の黒色が消えたとき――真っ白な砂浜には、小さな十字架の煌めきだけが残っていた。

「なんて……ぶッ壊れた策だよ、ったく」

 この上なく率直な感想を、溜め息と共に吐き出すゼノン。ここまで寿命が縮んだ気分は久しぶりだ。今後こんな思いをしなくて済むように、どこかに駅前留学でもしてテレパシーを使う訓練でも受けようか、などと心底から思ってしまった。

「でも気付いてくれると思ってたよー、わざわざ物質を媒介にしてって説明した理由も、ゼノンくんに十字架を預けた理由も」

 確かに、ゼノンがもっと冷静に考えていたなら、その時点で違和感に気付けたのかも知れない。だから、今回のことは一概に崇神のせいだとも言えないだろう。だが、ゼノンにとっては自分の無力を突きつけられている気がして、それが逆に腹立たしかった。
 なんのことはない、あの時渡された十字架には既に“充分に感情(アストラル)が詰め込まれていた”のだ。恐らく崇神が戦闘中に充填していたのだろう。だが、魔力の刀身を出したままでは逆にエネルギーを吸収されてしまうし、かと言って急に戦闘形態を解くような不自然な真似をすれば、いくら敵に知能が無くたって本能的に警戒されてしまう。
 だから崇神はできるだけ自然に十字架の刀身をしまってからゼノンに渡し、形だけの足止めを命じておいて、自分はこれ見よがしにアストラル塊を錬成し、影を引きつけることにしたのである。気付いて貰えるように、ずっと視線を送り続けながら。

「敵を騙すにはまず味方から、って兵法もあるでしょ?」

 そう言って珍しく柔和な微笑を浮かべた崇神に、ゼノンは呆れ笑いで返す。

「その騙した味方を信じるなんて、賭けにしちゃ危険すぎるよ」
「ギャンブルはリスクが高いほど面白いのさーっ」

 崇神は軽快に言ってのけ、飛び石を渡るような歩調で砂浜を渡って十字架を拾い上げ、軽く砂を払って懐に放り入れた。もしもゼノンが気付かなければ危なかったのは自分の身だというのに、実に呑気な物言いである。彼女のそう言うところは、これから先、どれだけ更正させようとしても、恐らく変わることはあるまい。
 ゼノンは苦笑を漏らして立ち上がり、手にしていた細身の長剣を一旦砂浜に突き刺してから、ズボンについた砂を払い落とした。


 刹那、漆黒の刃がその剣を吹き飛ばした。


「うわ!?」
「そんな、嘘っ!」

 そんな感嘆の台詞さえも、斬り潰そうと襲い来る刃。ゼノンは怯んで動けない崇神を突き倒すようにして地面に転がり、紙一重で斬撃を躱す。小太刀を右手に持ち替え、飛び起きると同時に一閃。そうして弾き返した刃の持ち主は、既に人の形をしていなかった。現れた影をよく見れば、それはもはや完全に不定形と成り果てており、先刻弾いた刃も蠢く形骸の中にぐにゃりと吸い込まれていく。

「ヤバい、暴走してる……っ!」

 まるで今日世界が滅びると宣告されたかのような表情で、金切り声を上げる崇神。彼女がここまで慌てているのは珍しい。流石にここまで強い執着は想定外だったようだ。ゼノンは一旦小太刀を納め、地面にへたり込んだ崇神を立ち上がらせた。
 この世の何ともつかない不気味な形状をとった影からは、高さ十メートルはあるであろう巨大な柱が隆起し、それがそのまま振り下ろされる。二人は大きく右に跳躍してどうにか躱すも、物理法則を無視して巻き起こった風に煽られ、岩盤に打ち付けられた。

「っ……やぁッ!」

 岩盤に磔になりながらも崇神の放った熱線は、空を一閃して巨大な柱を貫いた。それに怯んだ影は柱を納め、ぐにゃりと波打ってその形骸を変貌させてゆく。
 ゼノンは巻き起こった高濃度の砂埃に埋没するようにして倒れ、「げふっ!」と肺の中の空気を吐き出したゼノンを気にも留めず、崇神はその背に華麗に着地した。

「げっほ、崇神さん、どうしましょうこれ、げーほげほ、ぉぇ」
「どうしたの、落ち着いてゼノンくん!」
「いいから早く降りて」

 崇神は少しふらつきながらもゼノンの背中から降り、黙って懐から十字架を取り出した。ゼノンも咳き込みつつ立ち上がり、骨に異常がないのを確認すると、鞘に納めた小太刀に手を掛ける。だが、崇神はそれを手で制し、濛々と視界を覆う砂煙の向こうを目線で指した。

「崇神さ――」
「いい? 会話してる時間は無いわ、今度は引きつけとかナシに私が全力でぶっ放すから、貴方は奴を攪乱(かくらん)して、合図したら逃げて」

 早口でそう言うと、ゼノンの返答も聞かずに、崇神は握りしめた十字架をまっすぐに構え、先刻のようなアストラルの光をそれに収束し始める。
 だが、ゼノンは理解していた。今と同じことをしていた彼女の、あの苦悶の表情の意味を。そして、今彼女が考えているであろうことも。
 対象を射抜くかのように真剣な瞳。重要な役回りを自分から買って出ている。自分の命“だけ”をベットにした賭け。そして何より、いつも名前で呼んでいるゼノンのことを「貴方」と呼んだ。今の彼女は、何から何まで彼女らしくない。まるで――

 僅かに躊躇(ちゅうちょ)するも、ゼノンは静かに口を開く。

「ちょっと待って、死ぬ気?」

 びくりと身体を震わせて、崇神は光の収束を止めた。だが、そんな間は一瞬のことで、彼女はすぐに表情を戻し、一つ二つ呼吸を整えてから小さく笑みを零す。

「死にゃしないわ、まだ大丈夫よ」
「でも今、指摘されて死を怖れたってことは……」

 ……少なからず死ぬ可能性があるってことじゃないのか。
 そこまで訊くことはゼノンにはできなかったが、どうやらその必要はなかったらしい。崇神は苦笑しながらも瞼を閉じ、

「どうでもいいところで観察眼鋭いんだからなぁ」

 と、自嘲的な笑顔をゼノンに向けた。

「気にしないで、さっきの賭けでもそれなりに覚悟してたことは判ってるでしょ? それに確率は絶対じゃない、私はこれくらいじゃ死なないよ」

 まるで言うことを聞かない子供を強引に説得するかのような早口で捲し立てる崇神。確かに、もしも先刻の賭けで最後までゼノンが気付かなかったならば、彼女は身体への負担を考えずにアストラル塊をぶっ放していただろう。その覚悟、と言うより度胸については、その時点でも驚いていた。
 だが、今回は違う。他者の行動如何に関わらず、崇神は自らの生命を賭け金として投げ出さなければならないのだ。それも、彼女の反応を見たところ、生き残る確率はあまり高いとは言えない。
 ゼノンの表情から思考を見て取ったのか、崇神はふいと視線を逸らし、再び十字架に光を集め始める。

「躊躇してて二人とも死んじゃ意味ないんだよ、一人でも生き残れる可能性があればそれに賭けるべきなの」

 ゲームの主人公かヒロインのような、その綺麗すぎる台詞を聞いて、ゼノンはただ押し黙り、綺麗すぎる崇神の横顔を見つめていた。
 違う。やはり、今の彼女はいつもの彼女とは違う。ゼノンは常に彼女の剣であり、つい先刻までそうして役割を果たしてきた。その剣を救うために、どうして主が生命を捨てるのだろうか? 答えは、今の崇神は主でないからだ。
 そう、今の彼女は、何から何まで彼女らしくない。 まるで――


「――弱さと優しさを隠しきれなくなった、意地っ張りな子供みたいだな」


 スローモーションの景色の中で、かちゃり、と音を立て、砂浜に小さな十字架が転がった。薄れてゆく砂煙の中、俯いた崇神の横顔は微かに震えている。

 パートナーの存在意義は、もちろん人数に比例する単純な作業効率の上昇もあるが、その真価は、経験の違いに由来した、自分には到底できないような思考と発想を借り、互いの能力をより多く発揮するための媒介とし合えることにある。
 本来は学問や経営に於いて言われる言葉だが、これが適用されるのはその限りではない。と言うか、教訓めいた言葉や寓話(ぐうわ)(ことわざ)などは、その指し示す意味があらゆる方向に順応するようにできているものだ。今この時も例外ではない。

「崇神、さっき俺がしたこと、まだ覚えてる?」

 崇神はゼノンを剣として見ており、この現状を数値化して考えていた。それは光学的な感覚に頼った視覚ではなく、周辺をデータとして認識する、模倣的な視覚でしか物事を視られなかった彼女にとって当然のことなのだろう。だから、彼女の思考は確率と効率に支配されている。表向きの自由奔放な性格は、余計な時間や感情を排除するための策であり、彼女の一面ですらなかったのだ。
 だが、今回はそれが仇となった。自己の恣意が数値へと介入することを嫌うあまり、他者に対しても閉鎖的になっていたのだ。それ故に、ゼノンと言う“剣”を使いながらも、彼女は独りで戦っていた。他人を道具として見下すような思考は、そこには存在していなかったのだろう。彼女にとっては自身も他人も共に数値であり、ただ、その数値の計算全てを、自らの脳髄にのみ課していただけ。だから、ただの数値である自分の命を、確率のため簡単に投げ出せるのは当然のことなのだ。
 全ての符号を得て、ゼノンはいつもの崇神のように、にやりと楽しげな微笑を浮かべた。

「剣ってのはさ、使い方次第で盾にもなるんだよ」

 その言葉に込められた意味に、きっと崇神は気付いていたのだろう。

「待っ……」

 だが、彼女が正常な思考能力を取り戻す頃には、既にゼノンは足下の砂を蹴っていた。

 ――どうせするのなら、二人とも生き残れる賭けのほうがいい。確率を読むことなんてゼノンには出来ないし、敵の性質も完全に理解できているわけではない。例え手順に問題が無くとも、成功する根拠は推測でしかない。
 だが、ここでやらねばならない。彼女に依存してしまっていた、今までの自分を切り捨てても。崇神には到底理解できないような、数値化できない理由で。

 影は、もはや完全に狂っていた。周囲に開いた無数の穴は、無差別に暴れ回った痕跡だろう。戦闘には不向きなことこの上ない環境だが、虫食い穴は一つとして復活しておらず、おかげでゆっくりと話している時間もできたのでよしとする。
 まずは推測が正しいかどうかを確かめなければならない。ゼノンは小太刀を抜いて順手に構え直し、咆哮(ほうこう)と共に影へと斬りかかった。影もそれに反応し、長い腕のようなモノを伸ばして襲いかかってくる。両者が衝突する寸前、にゼノンは左方へと跳躍して躱し、そこにあった大きめの岩を蹴ってその腕を斬り裂いた。失敗らしい。小さく舌打ちをしてから、影の追撃を返す刀で弾き、僅かに怯んだそれに刃を突き立てる。風船が破裂したような乾いた音と共に、影から伸びた腕はその根本から弾け飛んだ。成功だ。暴走の影響で影の密度が幾らか拡散しているとは言え、“感情を込めた刃”は、ここまでの破壊力を発揮するものなのか。
 ゼノンは確信した。これを強引にでも影の中心部へと直撃させることができたなら、きっと今度こそただでは済まない。崇神のものほど強力な感情ではなくとも、二発立て続けに打ち込めば、恐らく影は消滅する。問題は中心部への攻撃が二連続で成功するかどうか、ただそれだけだ。

「ははは、はははははっ」

 自然と、笑みがこぼれた。それは主観的に見た自然にして客観的に見た不自然であり、ゼノンが自分以外の全てへと向けた、嘲笑にも似た哄笑(こうしょう)であった。
 自ら封じていた感情が、沸々と蘇ってくる。力への渇望。モノを壊す悦楽。邪魔な要素を残らず薙ぎ払う爽快感。動いているものを動けなくする、その芸術的な狂喜。このように、幾重にも取り巻く理性の(せき)で覆われていた感情が蘇ることを、ゼノン自身は“狂う”と呼称していたが、もはやそんなことはどうでもよかった。

「守るため狂うことに、躊躇(ためら)う理由があるものか」

 しつこく理性を取り戻そうとしている自我に言い聞かせるように、ゼノンは小さく、しかし力強く呟いた。その言葉を最後にして頭の中の警告は止み、代わりに二万ヘルツを超えるような高周波数の無機質な音が頭蓋の中に谺した。

 刹那、ゼノンは弾かれたように駆け出した。まるで動体を狙う肉食獣のように、影もその瞬間から攻撃を開始する。
 幾本もの束になって迫る黒い腕にゼノンが小太刀を一閃させると、破裂音と共に巨大な円形が穿(うが)たれた。すかさず屈んで光線を躱し、そのまま右前方へと跳び、前転してから左腕をバネに立ち上がり、その先の腕をまとめて叩き斬る。常に一定の距離を保とうと逃げ回る本体はその一撃ごとに怯み、次第に距離は詰められていく。
 斬、突、打とあらゆる形状を用いてゼノンに迫る影を、閃く小太刀の煌めきが残らず迎撃し、破壊する。狂気のような影の連撃と、その全てを舞うようにして壊し尽くすゼノン。息をつく間もなく展開する戦闘は、まるで完成の極みを見せた演劇のようだった。
 この激しくも典雅な殺し合いの中でも、疲労感は全く感じず、呼吸をしている感覚もない。脳内麻薬のようなものなのだろうか、この状態のゼノンはもはや意識すら半ば混濁している状態にあり、いつもの穏やかな姿は残滓さえも無く、形を潜めている。戦略のために働いている頭脳は、ゼノンを完全に狂わせないための最後の砦でもあった。
 あと三メートル。もはや攻撃と迎撃の区別もつかない。ただ反射的に動くものを壊し、破裂音の数だけ、一歩ずつ詰め寄っていく。二メートル、後少し。これが最後の賭けだ、成功しなければ命はない。ゼノンは小太刀を構え直し、漆黒の深奥を睨め付けた。

 その時、一条の光線が、影の中心を貫いた。

 ゼノンにとっても予想外のタイミングで飛び込んできた強い感情の一閃に、影はぐらりと形骸を歪める。その光線の出所をちらと見れば、まっすぐに十字架を構えた崇神の姿があった。

「今よ、ゼノンくん!」
「感謝するよ、崇神!」

 二人の台詞は全くの同時だった。
 硬直した影の中央に、ゼノンは全力で小太刀を突き入れる。爆発音にも近い、一際大きな破裂音が響き、影の中心に空洞が穿たれた。影は飛び退き距離を取ろうとするが、先刻までと比較すると大幅に遅くなっている。計算通りだ。ゼノンは右手に持った小太刀を投げナイフのように持ち替え、空中の影を目掛けて投擲した。



 だが、その刃は、波打つ影の形骸に埋没しただけだった。



「え……っ」

 何が起こったか判らない、と言うような声をあげる崇神。だが、数秒が経過した今でも変わらず存在し続けている影が全てを物語っていた。
 そう、最後の投擲は失敗に終わったのだ。ゼノンはすぐさま体制を立て直そうとするが、武器を持たないその小さな身体は、影の繰り出した巨大な(つち)に押し潰されて見えなくなった。

 轟々と吹き荒れる風の中、崇神は感情の読めない顔でその場にへたり込んだ。茫然自失とは、まさにこのような状態のことを言うのだろう。第一の標的を潰した影の触手は、動けない彼女に狙いを定める。

「……そん、な」

 順調だった。武器を媒介に圧縮した感情の波をぶつけて怯ませ、一歩ずつ近づいていく。充分に近づいたら崇神が弱めの感情の波を放って隙を作り出し、その隙に中心部へと一撃。そして、弱り切った影に向かって小太刀を投擲。この二連撃で倒せる可能性は、確実ではないが確かにあった。だが、ゼノンはその最後の一撃で失敗したのだ。
 簡潔に要約するならば、そう、最後の賭けは見事に――

 ――成功したのである。

「っらあああああああああああ!!」

 影の真上に、細身の長剣を握ったゼノンが突然現れ、咆哮と共に、自身に渦巻く混沌とした感情、その全てを乗せた刃を振り下ろした。
 刹那、爆風と見紛うほどに激しい風が渦巻き、漆黒の影を粉々に吹き飛ばし、荒れた砂浜をすっかり平坦に戻してから、何処かへと消え去った。後に残されたのは、砂浜に立つ二人の男女と、砂浜に落ちた二本の剣のみ。

「ゼ……ゼノンくん!? なんで!?」

 崇神は頓狂(とんきょう)な声をあげてゼノンに駆け寄り、それが本物であるのを確かめるかのように、両手を強く握りしめた。ゼノンはそれを見て微笑い、砂浜の小太刀と長剣に視線を落とす。

「あの小太刀じゃ、止めには力不足だと思ったから。長剣の方が確実性は高いし、さらに不意をついて全力で斬り抜けられれば尚のこと。だから、わざと殺されてみた」

 そう言って、ゼノンは頭につけた装飾輪をこつりと人差し指で弾いた。さっぱり理解できない、とでも言いたげな崇神は、それを見て暫く考え込んでいたが、やがて「あ!」と感嘆の声をあげた。

「そ、氷の装飾輪。光ってのは粒子性もあるからね、こいつの“粒子運動低下”に適用できるんだ」

 この装飾輪は本来、物質の分子運動を操って熱量を奪ったり、流体を状態変化させて固体にするのに使うものだが、ここでは大した役には立たない。その上、大幅な変化や状態の維持には精神力を多大に消耗するのだ。いくら物理法則を崩壊させる強力なオーパーツだとは言え、利用法によってはデメリットも現れる。精神が大きく作用するこの世界では、そんなデメリットは通常のそれよりも命取りとなりかねない。
 しかし、ここが物理的空間から完全に乖離(かいり)していない中途半端な場所である以上、崇神のような特異な存在であっても、光学的な視覚に頼っているのだ。ゼノンはそこに目を付けた。

「光の伝播(でんぱ)を、遅くしたの……?」
「ああ、俺に密着した僅かな空間を操るだけなら、そこまで精神力使わないし。それに、数秒保持できれば充分だったから」

 あの巨大な槌に潰される以前に、ゼノンは自身の周囲に於いて光速不変の法則を壊し、自分がまだそこにいるかのように見せかけていたのだ。そして本物の自分はと言うと、反射する光を変化させて砂浜に擬態し、影が崇神に気を取られている間に剣を拾って、影の背後へと移動した。その後は見ての通り。

「ゼノンくんの策も人のこと言えないじゃない、もぉ」

 気が抜けたような笑顔で、ゼノンの腹を小突く崇神。ゼノンもそれに微笑で返す。瞬間、背後に風が吹いた気がして振り返ると、そこには――

「うわ!?」

 驚き、反射的に上体を反らす。人の頭部程度の大きさになった影がゼノンの前髪を掠め、数メートル離れた砂浜に落ちた。
 なんと恐るべき怨恨と妄執。風化も瓦解もせずに千年の時を過ごしてきただけはあると言うことか。二度も粉々にされながらも蘇り、飽くまでこの世を呪う。この悲運の学者の執念には、ただの残留思念にはないような、空恐ろしいものを感じる。
 ゼノンは驚愕の表情で影を見据え、剣を手放してしまったことを後悔しつつも、硬直している崇神の前に立ち、シールドを展開させようと右掌を突き出した。
 だが、

「Enigma――歪んだ永遠(とわ)への願い、なんて愚かなこと」

 唐突に響いた、その物静かだが凛とした声と共に、影は跡形もなく消え去り、

「しつこい人って、私きらいです」

 代わりにそこに立っていたのは、奇妙な形状の剣を握った少女だった。黒いリボンで細く纏められた長い白髪に、右の蟀谷から生えた黒く無骨な尖角(ツノ)。色白で華奢な身体に、奇妙だが神秘的な剣。虚ろな瞳に、細い肢体を包む黒服。いつもとは些か印象が違うが、その弱々しさと威圧感の同居した姿は、間違いなく聖のものだった。

「勝利に酔いしれた瞬間にこそ隙が生まれる、と、どこぞのカエル勇者も言ってます。注意して下さいね」

 抑揚の乏しい声でそう言うと、聖は左手を胸のあたりに宛った。恐らく癖なのだろう、彼女を見るとこの姿勢でいることが多い。

「で、でも聖、どうしてここに?」
「どうしても何も、私も巻き込まれただけですけど……」

 ゼノンの問いに、それが呼吸をしていること程度に当然の事象であるかのようにあっけらかんと言ってのける聖。少し経ってから説明不足に気付いたのか、無表情のまま少し首を傾げ、

「私の家、ドア開いてませんでした?」

 と短く訊ねた。ゼノンと崇神はその質問の意味が暫く理解できずにいたが、やがて「あ」と二人揃って口を開いた。
 ここは一種の亜空間であり、現実世界の物質が動いたとしても、こちらの物質は動かないはずである。二人は朝起きたら既にここにいた。ならば、あの時点で聖の家のドアが開いているのはおかしいのだ。それを見たときは周囲の異常に紛れていたため気にも留めなかったが、聖が深夜帯に自宅のドアを開け放っている理由はない。ならば、聖も一緒にこちら側に来ていて、二人が起きる以前にドアを開けて出ていったのではないかと考えるのが普通である。
 聖は相変わらずの無表情でこちらを見ているが、その顔にはどことなく呆れが混じっているようにも見えた。こう見えて彼女も鐫界器の所有者だ、真っ先に彼女を見付けようとしていれば、こんなに苦労することもなかっただろう。

「あたし達、ひょっとしてバカなのかなー……」

 そう言って苦笑を浮かべる崇神に送れるような否定の言葉を、ゼノンは持っていなかった。
 もうなんか、笑うしかない。



 ――――



「ほれー、さっさと歩けぃ」
「さっきあんだけの大仕事させた人によくこんな仕打ちできますねアンタは……」

 夕暮れ色に染まった街道を歩くゼノンと、それに乗っかって命令を下すだけの崇神。二人はただひたすらに太陽の沈む方角へと歩き続ける。
 先刻の騒動が決着した直後、崇神が「よーし散歩行こう」とか言い出したときには、軽く三十回くらい「マジっすか!?」と言った覚えがある。そして結局マジだったわけで、今二人は(主にゼノンが)疲労と戦いながら廃墟を目指しているわけだ。

 あの時、僅かに見えた本当の崇神については、「もう少しだけ、いつも通りでいさせて」との本人の言葉に、ゼノンは追求する術を無くしてしまっていた。
 本当なら「でも自分にとってはそっちの方が好ましいんだぜ!?」と全力で小一時間ほど言い聞かせたいところだったが……あの悲しげな瞳の前では何も言えまい。

 きっと、もう手遅れなのだろう。彼女は既に取り返しのつかないところまで自分を偽り続けてきている。今更になって生き方を変えようと思っても無駄なことでしかなく――それでも、彼女は笑顔でそれを受け入れるだろう。
 だから、ゼノンもそれを受け入れる。崩れかけた“いつも通り”の平穏は、見せかけと偽りで飾り付けられ、繕われた。そうして、何事もなかったかのように、これからも巡り続けるだろう。
 ゼノンはただ、意識の深層で独り眠る彼女を連れ出すこともできない、自分の無力さを恨むしかないのだ。


 それでも、そっと握りしめた、背中に乗った少女の手は、確かに暖かかった。
 それでも、そっと震えたまま、背中に落ちた少女の涙は、確かに温かかった。



 ――――



 予想外の事態、と言うほかはない。鏡面世界の亜存在が、まさかこんなにも早く浸食してくるとは。
 いや、違う。一番の問題は、死者の追憶を利用していたことだ。いくらアストラル界に波紋が残っていたとは言え、いくら媒介があったとは言え、過去の記憶をエネルギー源として使用するには“鐘音の墓場”との相互干渉が不可欠だったはずである。
 今回は物理的世界へと現出する前に排除することができたが、そう毎回うまくはいくまい。黒神邸の空間スキャナがあれば、波形の変遷から“Enigma”の出現を予測することは可能だが、このまま放置しておけば、ここも“裏側”の日本と同じように、滅びの運命を辿ることになるだろう。

 奴が核としていた祭文は、媒介としては優秀なものではあった。伝承では、道真は無実を訴える祭文を作って祈り続けたと言うが、実質はこれか。びっしりと敷き詰められた、自分を蹴落とした者共を呪う言葉。流石に学者と言うだけあって、魔術的な意味も大量に鏤められている。これでは天に届いたとしても配流が解かれるはずはない。
 ともかく、早急な対処が望まれる。道真のように媒介を残しつつも強い怨恨を持つ者は珍しいだろうが、世界中の歴史を(ひもと)けば、ディオに蘇らせられたアレみたいなのがまだ大量にいることは違いない。
 少なくとも、今回の道真公は聖だけでどうにかできそうなものではなかった。亜存在との戦闘経験こそあれ、ここに立っている桜華 聖はただの人間の女学生であり、特に変わった生い立ちもなく、しかもゆとり世代に直撃している。ただ少しだけ、変な運命に巻き込まれただけに過ぎないのだ。
 この運命の流れに関係を持たない者たちには、今ここで何が起こっているのかなんてわからないだろう。まるで凪のような無風、その静かな海上しか見えていないのだ。水面下で渦巻く激しい海流など、じきに来る津波など、知る由もない。

「Enigma、Stigma、鏡面世界に永遠世界、そして無限世界……」

 ぶつぶつと呟きながら、自宅の屋根の上に立った聖は、そっと真っ暗な新月の空を見上げ、手にした奇妙な剣――破魔剣(はまのつるぎ)・アビスゲートを震わせて、悲しげに()く風を斬った。斬り殺された風は鳴動を止め、聖のスカートもはためきを止める。

「また、戦争が始まるのかな……?」

 黒く澱んだ空気の中、青い瞳を爛々(らんらん)と煌めかせながら、隣に座った黒猫が「にゃあ」と呟いた。
 閑散とした夜の街に、その静かな対話を聞く者はない。



「……うん、でも今は、はやくここから抜け出さないとね……」

 うーん、自宅の窓で“外側から鍵をかける”なんて密室トリックの検証してたらうっかり閉め出されるとは、なんてミステイク。
 かれこれ二時間ほどこうしているけれど、時刻は既に丑三つ時、通りかかる人なんて居やしない。
 おーいだれかー。ミニスカートじゃそろそろ寒いですよー。だーれーかー。ゼノンさん達まだ帰ってこないんですかー。お――い。






 ――――End...?







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