|
退廃に誓う虚構と交錯(中編) ―――― ああ青い空。白い雲。太陽光を反射して煌めく、どこまでも続く海。できることならここには夏に来たかった、と、冷たい潮風を感じながら人気のない砂浜に立ち、ゼノンは一人物思う。 だがしかし、駄菓子菓子っ。そんなことを悔やんでいる場合ではない。夏に来たかったなら夏に来ればいいじゃない。自分から行かせてはくれないだろうが、崇神ならきっと夏のうち一回くらい「そうだ、海行こう」とか思いついてくれるはずだ。 ともかく、今はこの現状をどうにかしなければ。 「んっんー、予想以上に侵食が進行してるわねー」 いつもと同じ不敵な笑顔と、いつもは見られない透明な薄灰色の瞳で、崇神は虫食いだらけの世界を眺めていた。 視界に映った青と白、そのコントラストを、まるで失敗した絵のように無作為に潰す黒色。それはまさに世界にぽっかりと空いた虫食い穴のようで、物質の分子運動や疎密、遠近に囚われず、自由気ままに描かれた様は、まるで立体的に見せかけているだけの絵の中にいるかのようだった。 「中心地を突き止めたのはいいけどさ……」 そう呟き、空中にぽっかり開いた、高密度の闇で均一に塗られた洞穴を覗き込むゼノン。その闇はあまりにも深すぎて、それが空間であると言う実感はない。試しに足下の砂を一掴みして放り込んでみると、それらは漆黒の闇に波紋を残して、粒子の一つも残さずに呑み込まれた。 「どう対処すりゃいいんだ、これ」 ゼノンは顔の半分を掌で覆い、もう片方の手をポケットに突っ込んで小さく溜息をついた。やり直しの効くゲームなどなら迷わず飛び込むところだが、ろくに考えもせず現実にそれを実行する無謀な勇気は彼にはない。 改めて周囲を見渡して見るも、この墨汁を零したような虫食い穴以外に大した異常は見受けられなかった。どうしたものかと思い崇神の方を見ると、 「よけてー」 サッカーボール大の光球が体感速度11.2km/sでかっ飛んできた、まさにその時だったので、 「うわーい!?」 ゼノンは脊髄反射を超えた超反応で真横に跳躍して 「ち、外したか」 「いやいやいや死ぬところでしたよ崇神さーん!!」 局地的な加熱に膨張して吹き飛んだ空気が、砂浜の白い粒子を巻き上げ、強風となって元の密度に戻る。彼女としては冗談のつもりなんだろうが、もし当たっていたら冗談では済まない。なんだ今のホーリーバースト。 「いいじゃない、あたしみたいに空飛べるわよ。Stayしがちなイメージだらけの頼りない翼でもきっと飛べるわよ」 「そんな強制的に俺を無限大な夢のあとの何もない世の中まで飛ばさないでください崇神さん」 そのツッコミを聞いてか聞かずか、崇神は白く煌めく砂を蹴りながら、楽しそうに両腕を広げてゼノンの横を軽快に駆け抜けていった。一見するとただ遊んでいるだけにも見えるその影は、両腕に薄青い魔力の光を纏わせて、それを翼のように風に乗せて砂浜に開いた虫食いを軽々と飛び越え、今やただのクレーターとなってしまった海の家・跡地に向かっていく。 「こんだけ派手にやりゃ誰だって気付くでしょー、あとは敵さんが来るのを待つだけよん」 崇神はくるりと舞うようにして振り返り、クレーターの淵に立って微笑んだ。その口振りからすると、どうやら今回の元凶は“敵”と形容できるものであるらしい。 ……あの光球をゼノン経由で海の家にぶっ放した意味があったのかどうかはよく解らないが。 だが、恐らく彼女の頭の中には、この混沌とした状況がきちんと整理されて収まっているのだろう。敵がどのようなものなのか、あの虫食い穴に呑まれるとどうなるのか、この世界がどのようなもので、脱出するにはどうすればいいのか、その答え全てが。 確かに実力こそ ……どうも腑に落ちないが、そればっかりは自分の対応能力の無さを嘆くしかないのだろう。 「っと、来るみたいね。ゼノンくん、耳澄ましてみなさい」 言って崇神は、海岸線に沿って続いている砂浜の向こう側を見つめながら数歩踏み出し、懐から掌ほどの大きさをした十字架を取り出して、自分の胸に宛った。ゼノンは言われたとおり、波音だけが ──gma 底冷えするような、 「そこね!」 鋭い声と同時に、碧空へと突き上げられた崇神の手から──正確には、崇神の持った十字架から発せられた光の線が、遥か上空を漂う白雲へと突き刺さる。直後、背後から聞こえた砂の弾ける音に振り返ると、そこにはヒトらしき形骸を取った漆黒の塊が不気味に直立していた。どうやら先刻の熱エネルギー照射は躱されたらしく、細く不安定な脚には焦げ跡が見える。 ゼノンは軽くバックステップを踏み、腰に差した細身の剣に手を掛けた。影との間合いはおおよそ五、六メートルと言ったところだろうか、突然襲いかかってきても恐らく回避できる距離ではある。 「おい、こいつって……」 ゼノンの懸念に、変わらず平静な空気を纏ったままの崇神が答える。 「うん、前にライトくんや華鈴ちゃんが対峙したって言う、影の魔獣と同類みたいね。話に聞いていたほどの再生能力はないみたいだけど」 崇神はそこで一旦言葉を切り、手にした十字架を胸の前に構えて、四方に伸びた銀色の金属板のうち、下方に伸びた長い板を、柄のようにして握りしめた。 「でも」 握った十字架を振り下ろし、空を斬る。それと同時に、十字架の上部から伸びた透明な刀身が、太陽光を反射して煌めいた。魔力を吸って刃と成す、鐫界器“焔の聖十字”の、言わば接近戦モードと言うやつだ。 「コイツが呟いてる言葉から、正体は予測できた」 ゼノンはその台詞を聞いて初めて、その影が言葉らしき音を発し続けていることに気が付いた。だがそれは、呟いていると言うよりは、影の内奥から音が漏れ出しているような朧気な言葉であり、聞き取ることは叶いそうもない。 台詞の続きを促そうと崇神に視線を戻すと、彼女は不敵な微笑を顔に貼り付けて十字架の剣を軽く薙ぎ、切っ先をまっすぐ影に向けて構え直した。いつもは見られない鋭い眼光に、ゼノンは気圧されて息を呑む。呑み込んだ空気はまるで氷塊のように、胃袋に落ちて脊髄を凍らせた。 「こいつは恐らく藤原道真の死後、残留したアストラル……要するに意識体ね。時平が、醍醐が憎いって、そんなに恨み撒き散らさなくってもみんな死んでるってのに」 言って崇神は、人の形をした漆黒を睨み付けた。 道真公の話は、少しだけゼノンも聞いたことがあった。確か学者出の右大臣で、しかし貴族出の藤原氏には敵わず島流しになってしまった人間だ。いつだったか、「学問の神様と呼ばれてはいるけれど、この人の人生からは“どんなに努力したって結局生まれの差には敵わない”としか寓意を読みとれない」と、崇神が日本史の本を片手に皮肉っていた記憶がある。 「それってつまり、幽霊ってことか?」 「ちょっと違うよ、これは飽くまでも残留した感情が物質化したか、または物質に宿ったもの。脳がないから思考や記憶も出来ない、その時の感情に刻まれた命令を実行するだけの偶発的プログラム。たぶん死ぬ間際の強い感情の揺れ、怨恨がアストラル界に波紋として残ってたんだね。千年も消えない大波なんて、そりゃ人間二人くらい巻き込めるわけだよ」 その存在は、広義的な意味でなら幽霊と呼称するのかも知れないが、狭義的な意味での幽霊ではないらしい。つまるところ、これは道真の生前から一貫して存在している意識ではなく、飽くまでも生者であった道真の感情に影響を受け、変質しただけのアストラル物質であると言うことか。そう言えば、前に崇神から「アストラルは感情を司るものでもある」と教えて貰ったことがあった。なるほど、同質の存在であれば影響もされ易いだろう。 ……何やら、この一日だけで霊妙な現象の数々に詳しくなったような気がする。 いや、以前の知識が欠乏気味だったと言うだけの話だろうか。少なくとも、彼女の 「じゃ、説明はこの辺でいいわねー」 思考中に響いた崇神の声に、慌てて意識を現実に集中させる。瞬間、脳に飛び込んできた視界には、先刻のやたらと呑気な声からは想像もつかないほどの瞬発力で、脚に絡んだ長いスカートを物ともせずに、影へと斬りかかる崇神の姿があった。 透明な刃は僅かに光を屈折させ、情景にズレを作ってしなやかに空を斬り、流れる。対する影は、その 反撃を予想していたゼノンは呆気にとられて硬直し、崇神はバックステップを踏んで大きく後退した。追撃を考慮していなかった所を見ると、恐らく彼女も驚いているところだろう。 「どういう事だよ、全然動かなかったから攻撃待ちでカウンターだとばっかり……」 「最初っから魔力を溜めようとしてた様子は無かったわよ、おかしいとは思ってたけど」 早口で手短に会話を済ませ、ゼノンは剣を抜いて攻撃態勢に移る。両腕に鋼鉄の重さが伝わり、切っ先が白い砂浜を突き刺した。柄を握った右手を身体の中心に置いて、深呼吸と同時に肩の力を抜く。 ……あまり知られていないが、魔力とは“ 先刻のように、実力があるにも関わらず、何もせずに待機しているだけの構えを取る場合は、実は無駄な魔力消費を抑えて反撃に備えていることが多い。あの影のような半不定形の者であれば、特にそれに当てはまる。相手の実力を見抜けない者は、初撃で終了と言うわけだ。 だが、影はそれをせず、ただ無防備に攻撃を受けた。ゼノンは──恐らく崇神も、反撃を躱し、こちらが追撃を加え、それが相殺されたところで戦闘を展開する心算でいたのだが。 このような魔力と武器を使っての殺し合いでは、通常、ガードを主体とするような格闘戦の戦法は用いられず、回避行動や攻撃・相殺を重んじる。生半可な防御では、一撃で決着がついてしまうからだ。いくら亜人や魔物が人間よりも少し丈夫だからと言っても、深い傷を負えば死ぬのは当然のことである。 となれば、この状況から導き出せる結論は絞られてくる。 即ち、この道真公の影は異常にタフなのか、それとも死なないのか……そのどちらかだろう。 「だいぶキツい戦いになるんじゃないか、これ……」 そう言ってゼノンは、倒れたまま動かない黒色を睨め付けた。深い漆黒は揺らめく気配すら見せず、ただじっとそこに存在し続けている。 「でも、こいつ消さなきゃ帰れないよー」 崇神はいとも簡単にそう言ってのけ、透明な刃を天高く振り 甲高い破裂音と共に、瞬間的に加速した弧状の刃は、未だ倒れたままの影へとまっすぐに向かっていく。 「enigma」 ――今度は、はっきりと聞こえた。 「ゼノンくん、そこから逃げて!」 崇神が早口で捲し立てる。舌の稼働できる限界に近いその言葉は、もはや言語としての情報を殆ど保っておらず、異国語の叫声のようにも聞こえた。 ゼノンは余分な思考をシャットアウトし、言われるままに右手を砂浜に突き、虫食いの無い部分を狙って転がる。その直後、すぐ脇を冷たい光が通り抜けた。あと少し行動が遅かったなら、別れを告げる間もなく左腕とサヨナラしていたことだろう。背後にちらと視線を送ると、どうやら光は崇神の放った刃であったようだ。 「SHIT」 短く呟く崇神。 「この虫食い穴と通じてるってわけね。遠距離攻撃はこっちも喰らうなんて、面倒ったらありゃしない」 崇神は右手に握った十字架の剣を、まるで軽いステッキのようにくるりと回転させてから、足を少し開いて前傾姿勢をとり、しっかりと両手で握りしめた。この構えは、彼女が荒っぽい力押しの戦闘方式に切り替わったことを示している。 「崇神、 呆れたようにしてゼノンは言い、ズボンについた砂を払ってから、傘でも持つかのような適当な構えで剣を握りなおす。崇神はそれにちらりと目を向けて、少し微笑んでから視線を元に戻す。 「じゃあFACKで」 「もっとダメだろ」 ゼノンも応えて笑い、「ただし」とそれに付け足す。 「俺は今のあんたを“いたいけな、おんなのこ”だとは認めないがね」 「その台詞、帰るまで覚えてなさいよ」 崇神は少しむっとした様子で口調を尖らせた。 「飼猫らしくしない飼猫は、あたしの好奇心の餌食にしてあげるんだから」 「そりゃあまた手厳しいね、お手柔らかに頼みますよ崇神さん」 まるでいつものようにリビングでソファに寝転がり、どこか気怠い休日の午後を過ごしているかのような呑気な対話。二人にとってはこれも日常だった。 少し過激で、どこまで冗談なのか判らない会話と行動。所々は虐めのようにも見えるかも知れないが、その中にはいつでも確かに笑いがある。そういうものなのだ。例え生死を分かつような殺し合いの最中であっても、この二人は冗談混じりのくだらない話をしては笑っている。支配する少女とされる少年、端から見れば、ちょっとしたことですぐに そんな会話の途中も、影は 今の一撃、影も傷を負わなかったわけではない。先刻の反撃は単純な反射ではなく、恐らく、受けたエネルギーを近くの虫食い穴からそのまま放出してきたのだろう。その能力から、不可解な戦法の目的は解けた。初撃を敢えて無防備に受けたのは、こちらの力を見極めるためだ。そして今、こいつはその威力から二人を“取るに足らないもの”と認識している。 「くふっ」 崇神は静かに嘲笑の声を漏らす。その対象が自身か相手か、その判断はつかないが。 「待ってるってんなら、飛び込んでってやろうじゃない」 そう言って、彼女は背中の光翼に、電流のような煌めきを小さく弾かせ、白い砂を蹴り上げた。透明な剣が甲高い風切音を奏で、その音に遅れてゼノンが続く。 間合いに入れば、影は今度こそ戦闘行動を開始するだろう。一対一の戦いならば特攻なんて愚行と言う他はないのだろうが、こちらは二人――それも、奇妙だが強固な信頼で繋がった二人なのだ。例え相手が大魔王バーン並のカウンターを仕掛けてきても、今ならどうにか耐えきれる自信がある。 「頼んだわよ、ゼノンくん!」 「アイ・マム」 攻撃態勢を解かずに疾走していた崇神が、影の間合いに入った瞬間に右後方へと跳躍し、影の頭部から放たれた黒い光線は、彼女の服を少し掠めただけに終わった。後続のゼノンは予め準備していた指向性の魔力シールドを左掌に展開し、光線にぶつけて散らす。肘関節にかかる負担は大きかったが、耐えられないものではなかった。それよりも、相手の頭部にかかった反作用のほうが応えるだろう。概ね計算通りだ。 「さすがの学問の神様も、老化してモノ考えられなくなっちゃった?」 頭部への衝撃に大きく仰け反った影を、崇神が逆袈裟に斬り上げる。その一撃にかなりの力を込めていたらしく、黒色の痩躯は上空へと打ち上げられた。だが、目視できる範囲では大した傷はついていない。 「ち、あんま効いてないな」 呟いて、ゼノンは右手の剣をしっかりと握り直し、数歩踏み出してから、崇神と影の中間を目掛けて 「剣を盾にする、って発想も面白いわねー」 「いや、て言うか回避行動とる力くらいは残しとこうよ」 呑気な口調で言う崇神に、ゼノンが呆れ顔で返す。 ……恐らく、こんな会話はこれが最後だ。あの影ももう認識を改める頃だろう。いくら本能のみで動いているとは言え、二回失敗したならば、今までのような大技ばかりではなく、極めて戦術的な攻撃をしてくる可能性が高い。 崇神の立っている場所から左――距離にして五メートルほど離れている地点――に突き刺さった剣は、今からでは拾えないだろう。ゼノンは仕方なしに左手用の小太刀をベルトについた鞘から抜き、右手で構えた。 「……ゼノンくん、ちゃんと気付いてね?」 崇神の台詞の真意を理解する前に、影は鞭のように波打つ腕を振り上げ、不気味な動作でこちらへと滑り込んできた。その動作は異様に早かったが、予測していたほどではない。右足を引いて振るわれた腕を躱し、それを小太刀で斬り落とす。 「enigma」 距離感や方向は関係なしに響いた、嗄れた声。それと同時に、斬り落としたはずの腕が再生している――いや、伸縮自在であるそれが、恐らく延長して元通りになったことに気付く。 Enigma。謎という意味の英単語。その言葉の真意を見出すことは残念ながらできなかったが、ゼノンの記憶が間違っていなければ、聖がよくその単語を口にしていたはずだ。さて、その時はどういった意味合いで言っていただろうか……。 「ゼノンくん!」 急に名前を呼ばれ、ようやく背後の気配に気付いた。振り返ると同時に小太刀を閃かせ、虫食い穴から伸びていた一本の触手を斬り捨てる。それから一瞬の間もなく右へ飛ぶと、ゼノンが今までいた場所を黒い光線が貫いた。 やはり、油断はならないらしい。虫食い穴を通じた全方位・オールレンジ攻撃……僅かな思索の暇もないとは、これはなかなかに攻めづらい。 「はいやー!」 崇神が影に斬りかかる。逆袈裟に斬り上げ、素早く手首を返して強力な斬り下ろし、そして怯んだところを渾身の力で薙ぎ払い、走り抜けた。彼女の多用する、癖とも言える三連撃だ。 影は大きく吹き飛ばされるも、やはり大した傷が付いているようには見えない。その体躯は空中で静止し、遠近感のないのっぺらぼうのような顔の深奥が僅かに青く煌めいた。反射的に跳躍すると、影の頭部を取り巻き飾る、サークレットのような光の輪から、幾本もの光線が放たれ、ドーナツ状に砂浜を穿った。 「あう!」 崇神の身体が宙に舞い、左掌を地面に突いてくるりと一回転してから着地し、反動を殺すようにして数十センチほど地面を滑る。どうやら先刻の光線を屈んで躱したところを蹴り飛ばされたらしい。事前に魔力シールドでも張っていたのか、大事はないようだ。 ゼノンが見たところ、この影は単純な攻撃しかして来ないらしい。面白いくらいに行動を読むのが容易なのである。通常時は威力の低い物理攻撃、吹き飛ばされたりして間合いが大きくなったら光線での攻撃。影自体の攻撃は、ほぼこの二種類に大別できる。ショートレンジかロングレンジか、その二種類しか行動パターンが無いわけだ。 ただし、その連鎖はシンプルであるが故に無駄がない。物理攻撃の威力は一撃で死に至るほどではなく、光線も予測できれば躱しやすいとは言え、こちらだって未だ影に大きなダメージは与えられていないのだ。このままでは、先に疲弊したこちらが負けるだろう。 「や、たぶんあんたの読みは間違ってるわ」 崇神が思考に口を挟んだ。ゼノンが考えることくらいは軽くお見通しだと言うことか。 「今受けた蹴り、間違いなく物理的なものだった。こいつはどうやら、アストラルが表層に現出してるだけの 言いながらも、崇神は周囲の虫食いから迫り来る触手を斬り潰していった。十字架の刀身を維持しているだけでかなりの疲労感が伴うと言うのに、喋りながら戦っていても息一つ切らせない余裕には恐れ入る。 ツクモガミと言う言葉自体には聞き覚えがある。九十九日の間使われなかった道具に魂が宿るとか言う、日本の古い妖怪だ。この場合は“魂の宿った物質”と言う意味合いでいいのだろうか。 「だから、この魔力の刃で干渉するよりも、物理的な干渉のほうが顕著な反応してくれるのよ。試しに物理的な効果を考えずに魔力だけで叩いてみたけど、やっぱりダメージのうち大半が光線のエネルギーに換えられてる」 何ともないような涼しい表情で、崇神は猛然と殴りかかってくる影の腕を輪切りにしていく。落ちた腕は溶解して砂に吸われ、かと思えば、まるでトカゲの尻尾のように、残った部分からまた生えてくる。 「たぶん発電機関みたいなものを体内に持ってるんでしょうね、光線は少し動いてエネルギーを貯めないと使えないみたい。特性から見るに、レーザーよりはメーザーに近」 「ああもう、難しい話はいいから簡潔に話してくれないかな」 ゼノンの言葉に崇神はいったん手と口を止め、放たれた光線を紙一重で躱してから、 「勝ち目薄すぎ!」 と、この上なく簡潔かつ投げやりな台詞を吐いた。 もちろん、ゼノンもそれくらいは判っているつもりだ。だが、崇神がそう言うとなると、どうやらこの影は想像の上を行っているらしい。 話によれば、以前ライト達が邂逅したと言う影は、シャープやフラット、そして魔王ヒスイまでもが協力し合い、初めて倒せたと言う。正直、ゼノンと崇神の実力では、合わせたってヒスイ一人にすら敵わないのだ。影側の実力差は不明であるとは言え、同種と見られるモノをたった二人で狩ろうと言うのは、確かに無理があると言わざるを得ない。 「ああクソ、どうすりゃいいんだよっ」 悪態をつきながらも、ゼノンは背後の小さな虫食い穴をひょいと飛び越え、左右から襲い来る触手を屈んで躱し、小太刀を一閃して斬り落とす。その勢いに乗せて、握った右手を砂に突き、後転。すり抜けざまに、地面に突き刺さった剣を抜く。その動作を隙と見て襲いかかってきた触手の群れは、崇神の十字架から放たれた熱線により 「あいつの恨みを上回るような感情で押し潰せばいいの。波と波とをぶつければ、小さな波は飲まれて消える」 台詞が終わらない内に、ゼノンは剣を持ち替えると、影の放った光線を踊るような回転で躱し、その勢いを殺さないように影の懐へと飛び込み、右手の長剣を重量に任せて叩きつけて、渾身の力で振り抜いた。ひょろ長い身体は数メートル吹き飛んだが、直撃したはずの胸元には、やはり僅かな痕が残った程度だった。 「でも千年分の恨みだぞ、そんなん上回る感情なんて……」 「風化してることを祈りましょ。物質を媒介にして感情の密度を上げてもいいんだけど、あたしの武器じゃ吸収されちゃうし」 崇神は手に持った十字架の刃を消し、ただの装飾品となったそれをゼノンに放ってよこした。魔力の 「そんなわけで、足止め役お願いね!」 言うやいなや、崇神は脱兎の如く駆け出し、十数メートル離れた小岩の上に飛び乗った。影もそれを追おうと前傾姿勢に入るが、背後からゼノンの長剣がその片足を断ち、バランスを崩した影は宙返りを行うようにしてゼノンに向き直る。その真っ黒な肩越しに見た崇神は、両掌を合わせて腰溜めに構えており、その中央には小さな光のようなものが見えた。 「ふふふふふ、今なら撃てる、今なら撃てるわー!」 怪しげな笑い声と共に、両手の中央に浮かべた光球を肥大化させてゆく。恐らくあれが凝縮された感情とか言うものなのだろう、ゼノンはそれが充分に錬成されるまで時間を稼いでいればいいと言うことらしい。 崇神から預かった十字架をポケットに突っ込み、右手の長剣を下段に、左手の小太刀を逆手に持って胸元に構える。一呼吸置き、踏み込むと同時に長剣を逆袈裟に振り上げる。直撃。踏みとどまった影が振るう腕をステップで躱し、小太刀を閃かせて、黒い腕を中央から縦に斬り裂く。 「かー」 どうやら、本体である影を一つの対象に係り切りにしてしまえば触手の動きは止まるらしい。生憎ゼノンはモノならぬモノの性質を見切る技術は持ち合わせていないが、推測で言うならば、この虫食い穴自体に意志はなく、その空間の繋がりを影が利用しているだけなのだろう。頭脳のない意識体に、遠近の行動を使い分ける能力があるとは思えない。 今するべきことはただ一つ、莫大なエネルギーに反応して崇神に向かっていく影を全力で止めることだけだ。ここで止められなければ、確実に負ける。 「めー」 崇神は周囲に吹き上げるような風を纏い、はためく長髪と衣服はまるでスーパーでサイヤな人のようだ。この技も、二文字目にして既に何を出そうとしているのかわかってきてしまった。 右手と左手を交互に繰り出し、息をつかせる間もなしに――息をしているのかどうかは判らないが――斬撃の雨を振らせる。崇神の十字架と同じ鐫界器“氷の装飾輪”の能力、粒子運動の低下を使おうかとも思ったが、この世界ではあまり大きい効果を期待できそうにない。ここで実戦で使えるレベルの変化を望むならば、有効範囲は大きく見積もっても数十立方センチ、状態を保持できるのは数秒だろう。 「はー」 あと少しだ、と、崇神の方を見ると――苦悶の表情をしながらも、ゼノンに微笑を送る彼女と、目が合った。 ああ、何と言うことだろう! そう思った刹那、ゼノンは思わず手を緩めてしまい、緩んだ腕の隙間から影が飛び出していく。それに気付いたゼノンも後を追うが、影の初速は人と比べてあまりに速く、追いつけそうにない。 この先一年分の不覚を、いっぺんに持ってこられた気分だ。台詞の真意も、彼女の心情も、何もかも気付くのが遅すぎた! 「めー」 ひどく遅く流れる時の中、ただ、間に合えと、願った―― |
|
前編 中編 ←いまここ 後編 |