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Infinite-Sandglass ―永遠を願う風詩、開闢の謌より―


 街は、崩れた。

 世に蔓延っていた文明の結晶は、ただそこに在るだけの瓦礫へと変貌を遂げた。
 かつては雑踏で覆われていた十字路の残骸には、もはやどれだけ見渡しても人影は見当たらず、とうとうここにいるのは、視界のすぐ後背で細長く伸びた影を作っている自分一人だけになったのだと理解した。

 しかし、この現状を造り出した根本たる原因だけは、どうしても理解できずにいる。
 記憶そのものはあるのだが、直前の記憶がない。何故ここに立っているのか――いや、ここが何処なのかなどと言う基本的な事さえも解らないのだ。自分の名前や、通っていた学校、友人の顔などは皆思い出せると言うのに。
 そして気付いてみればこれである。夢かと思ってもみたが、ここまで意思が明確ならば夢として認識し続けられまい。

 なんとも不思議な感覚だ。自分が最後に何をしたのかが思い出せない。最近の記憶だけが消え去ってしまうとこうなるのだろうか。創作によくある記憶喪失とやらは、現実にはそのような事例も多いらしいが。

 暫く逡巡してから、ポケットに入っていた携帯を取り出し、ディスプレイを確認する。表示された日付は四月十日……自らの漠然とした記憶に浮かぶ“今日”と一致した。どうやら数日に渡り記憶が失われた形跡はないらしい。
 となると、この惨状は今日のうちに起きたと言うことだ。更に推測するならば、記憶もそれと同時に失われたと考えるのが妥当だろう。
 ディスプレイから視線を上げると、崩壊した街が再び目に入った。アスファルトは(ひび)割れ、建造物は残らず倒壊している。目が痛くなるほど醜く晴れ上がったこの空の下で、作られたままの姿を保っているものは何一つとして存在しない。

 しかし、一番の問題点はそこではない。
 この広大な視界の中に誰一人として人影は無く、かつては人であった物すらも見当たらないのだ。いくら何でも、これは異常である。地震か爆発かは知らないが、高層ビルが崩れるほどの災害の後に死体が出ないのはおかしいし、災害のあった地域から住民全員が逃げおおせることは困難だろう。まず有り得ないと言っていい。

 現在地が解らないのならば、ここから大きく離れるのは得策とは言えないだろうが、この状況では見知った場所であっても判別がつかない。
 暫くはじっとしているつもりでいたが、それも些か飽きが来た。肺に溜まった気分の悪い空気を吐き出し、緩慢とした動作で右足を前へ出す。

 ざり、と冷たい大気を揺らす、アスファルトと靴との摩擦音。
 自分のものではないそれに、破れかけた冷静を心中で縫い合わせながら、少年は出しかけた右足と視線を背後へと動かす。
 その先にいたのは、長い黒髪の少女。ふわりと揺れる白い衣装と、敵対心のない虚ろな瞳に、精神の緊張は自然と掻き消されていた。

「貴方は永遠を願いますか?」

 こちらが思考するよりも早く、少女が唇を開いた。
 そしてまた、その質問の意味を理解しようとする前に、少女は音も無くふわりと頭を下げる。

「私は名付けられた未知数の謌、X-Aria.繋がれた桜前線はとうに過ぎ、砂時計は途切れました。貴方は永遠を願いますか?」

 そう言葉を紡いでゆくぼやけた眼を見て、ぺし、と、その白い頬を軽くはたいた。
 イグザリアと名乗った少女は少し首を傾げ、視線を落として考え込むような動作を見せてから、打たれた頬を掌でなぞり、

「私は寝惚けてません」

 と、短く一言だけ呟いた。
 あの不可解な台詞を聞いたときには、ただの寝惚けた娘かこの惨状で混乱した人かと思ったのだが、どうやらそのどちらでもないらしい。至って真面目に、まともな神経のままで語りかけてきているのだ。
 しかし、先刻の言葉の意味を理解するには至らなかった。何かの比喩表現なのだろうが、詩的すぎてどこから解読してよいのか見当もつかないのである。
 頭の中の歯車は錆び付いて止まり、仕方無しに、目の前に立つ唯一の人影を思考に宛った。
 この荒廃した世界で、自分と同じように残された少女。特に目立った共通点があるようには思えないが、何者なのだろう。髪や顔つきからは東洋人のように見えるが、仄かに赤い瞳はそれを否定している。イグザリアと言う名も、偽名ではないように思えた。
 そんな事を考えていると、彼女はまたぼんやりと口を開き、霞んだような、だがよく通る声で言葉を浮かべ始める。

「名は本質を示すもの。私が形骸(けいがい)を持つ理由は、未知数の謌として名付けられたから」

 歌うように、声は冷たい空気に凛と響いた。

「形骸を持つが故の記憶、それは存在していると言える?」

 その儚げな存在は、こちらの反応も待たずに言葉を繋ぎ続ける。
 瞬きをしない虚ろな瞳は、じっと少年を見据えたまま。

「記憶が確定されるのはいつ? 昨日までの日々は、本当にあったものなの?」

 早口で捲し立てるように言うと、イグザリアは身体を揺らし、一歩だけこちらへと近付いた。
 その小さな身体に得体の知れない迫力を感じ、少年は同じようにして一歩だけ後ずさる。

「記憶が消えた後の人格にとって、記憶が消える前の人格は故人も同然。でも、記憶と言う存在そのものが曖昧になってしまえば、そんな概念すらも危うくなる」

 そこまで言うと、イグザリアは音も立てずにその場でくるりと回転し、その形骸を空気の奥深くへと埋没させ、掻き消えた。

「貴方が昨日会った友人と、今日また再会した友人。同じ記憶を持つ二人が、本当に同一人物であると言う保証はありますか?」

 背後から響いた声に驚き、慌てて振り返る。そこには、長い黒髪を風に(なび)かせて佇む少女の後ろ姿が、崩壊した街と雲一つない青空の中で浮き彫りにされていた。

「嘘で作られた歴史は、一つとして嘘を含まない。鐘の墓場へようこそ」

 そう言って振り返り、不敵にして莞爾(かんじ)とした微笑を浮かべる彼女を見て、直感的に皮膚が(あわ)立った。これは明らかに世の道理から逸脱している、と、そんな憶測が思考を埋め尽くす。

「鐘の()く丘で観劇の対象となっていた人々は、いつしかここに辿り着きます。夢の延長、永遠に吊される人々、これは自己に内在する崩壊した世界観。砂時計は返されました」

 その言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに、少年は(きびす)を返してアスファルトを蹴った。その際、勢いをつけすぎた右足から一瞬感覚が奪われるが、そんな事に構ってはいられない。この少女に深く関わってはならない、と、全身の細胞が告げているのだ。直感のみに頼るのは愚かだが、このような類の直感はひとまず信用した方がいい。
 罅割れて段差だらけなアスファルトは予想以上に歩きにくく、ましてや全力疾走ともなると幾度も足を取られて転びそうになる。この状況下に於いても未だ必死に冷静さを繋ぎ止めてはいるが、それもいつまで保つことだろうか。
 ふと気付いてみれば、辺りはもう黄昏色に染められつつある。背後に追う者がいないことを確認してから速度を緩め、今一度ポケットから携帯電話を取り出し、開く。ディスプレイに表示された時刻は、朝の八時だった。我が目を疑い、思わず立ち止まると、ディスプレイに表示された無機質な四桁の数字が目紛るしく入れ変わり始め、次々と支離滅裂な時刻を示し始めた。

「壊れちゃいますよ?」

 狂った携帯を思わず放り投げようとした――だが未だ動かしてもいない手を掴まれ、背筋に沿って氷が落ちた。この少女は、場所の移動と言う行動に課程を必要としないのだろうか。

「不確定性原理、物質の座標と運動量は同時に計れない。不安定な要素を増したこの世界を観測する“主観”が貴方だけにある限り、その誤差は無限に増長するの」

 硬直した指から携帯を引き剥がし、クスクスと静かな笑いを漏らすイグザリア。
 それを見て、もはや逃げおおせることは不可能と悟り、呼吸を落ち着けてから彼女に向き直る。

「何なんだ、これ」

 何から訊いてよいのか判らず、最初に口をついたのはその言葉だった。冷静になって思い返せば、彼女の言動はこちらの疑問に答えていただけなのかもしれない。……ただ、その疑問を言葉にした覚えは無いのだが。

「当然です、ここでは指向性とされた入力も、出力も無意味。ここは鐘の音が吹き溜まる場所、砂時計となり巡る人生の終焉」

 透き通った詩的な言葉が、風鈴のように空気を震わせた。この少女、形骸こそ人間と同じだが、それ以外は全く以て異質であると断言していいようだ。眼を細めて、その人型の向こう側を見透かすように視ると、当の彼女は、何を思ってかにこりと笑顔を見せた。

「人の子よ、永遠を願いなさい」

 そうして、その言葉を最後にして、唐突に“記憶”は途切れた。


  ――――


 流れ、流れ続けてゆく。
 人生とは、永遠に続く刹那にして一刹那の永遠。
 その記憶は剥落(はくらく)して(おり)となり、時間の川底に降り積もる。

 砂時計は無限に返され続け、流れる砂は繰り返し永遠を紡ぐ。
 歯車のように回る、円としての永遠は、誰もが極小を見ては線と信じ、本質に気付かれぬまま廻り続ける。

 永遠を願うなら、永遠を壊しなさい。
 刹那こそが、本質としての永遠なのだから。


  ――――


 その場所に、地平線は見えなかった。
 ただ無限に続く寂びた平原に、背の高い石造りのアーチが点在し、吹き荒ぶ風を分けていた。
 アーチには、例外なく一つずつ、鐘が下がっていた。

「おや、最近はお客さんが多いな」

 風音に混じって不意に聞こえた声は、恐らく青年のものだった。

「鐘の墓場からここに来る人は珍しいね。鐘の哭く丘へようこそ、在る()き廻廊より外れた旅人よ」

 さぁ、と吹いた一陣の風を裂き、帽子を目深に被った黒装束の男が、眼前に現れた。突然すぎるその動作は決して不自然なものではなく、至極当然と言うように行われたものだった。

「まず僕について。僕は鐘の守人。この鐘一つ一つに人生があり、僕は落ちた鐘を直すのが勤め。鐘が落ちてしまっては観劇できないからね」

 男は柔らかな微笑を顔に貼り付けたまま、服と対照的に白い色をした右掌で石の柱を撫でつけて、ふらりと歩を進めた。

「次にこの場所だ。ここはあらゆる時間軸の果て、世界の総てにゼロによる除算が施された、無限を超した永遠の荒野……存在を識る者からは、鐘の哭く丘と呼ばれている」

 もう一歩を踏み出し、(そび)えたアーチからするりと右手を離す。

「響いた鐘の()は、永遠を求めて流れ、いつしか墓場へと辿り着く。河川口に作られた三角州(デルタ)のようにね」

 そう言うと、青年はまっすぐに右手をこちらに差し出し、その掌に乗っている小さな携帯電話を開いた。ディスプレイの表示は零時きっかりを指し、それから動く様子はない。

「これは束縛と、自由であることの意味を知るものだ。君のものだよ、持っておくといい」

 差し出されたものを、何も言わずに受け取る。零時一分、数字が進んだ。
 少年の視界に映った光景は、それが最後であり、最初でもあった。


  ――――


 昔のお話。

 この世に一つとして場所と言う概念が無かった頃、何処でもない何処かに、黒装束の少年と、虚ろな瞳の少女がいた。

 二人は謌に“名前”を与え、謌は名前から光を生み出した。
 光の対照として、光でないものは必然的に闇と呼ばれた。
 光と闇は物質を描き出し、あらゆる場所が生まれた。

 少年は自らの形骸から鐘の守人を創り、少女は自らの形骸を謌に分け与えた。
 いつしか謌は万物を造ることの罪を知り、最後に“永遠”を遺して姿を消した。

 彼女の遺した砂時計が返される度、世界は反転し、同じ歴史を歩み続ける。
 偽りの永遠は無限に続き、守護を失った鐘は永久に慟哭を繰り返してゆく。

 名付けられし未知数の謌が姿を潜めた後、何処でもない何処かに、黒装束の少年と、虚ろな瞳の少女がいた。
 その存在を知る者は、彼らを「黒神(くろがみ)」と呼んだ。

 これは遥かな昔、世界が巡り始める前のお話。
 そして、いつか砂時計が壊れてしまうまで、無限に続いてゆく物語。



 ――また一つ、鐘が泣いた。

「やあ、君か」

 アーチの石柱を背にして座り込んだ、帽子を目深に被った黒装束の青年は、長い黒髪を草原の風に靡かせ立つ、虚ろな瞳をした少女に語りかける。

「思うことがあるのなら、気の済むまでここにいるといい。ここには時間と言う概念は存在しないのだから」

 真新しい包帯の切れ端を持った少女は、俯いたまま動かない。青年は瞼の裏の赤白い黒色をじっと見つめながら自嘲的な笑みを零し、静かに頭を垂れて動かなくなった。

「……見捨てたのは誰で、見捨てられたのは誰なんでしょうか」

 一枚だけ胸に残った桜の花びらを優しく指で掴み、哀しげな少女は言う。

「世界は連鎖するように広がり、永遠と無限は感染してゆく……もう止まらない」

 その透き通るような声は、風鈴のように吹き荒ぶ風に震わされていた。青年はそれを宥めるように、静かな声で一人呟く。

「桜、櫻。その儚さと言う一刹那の輝きを永遠に留める術は無く、それは字の通り、哀れな人々の夢に過ぎない。黒神達の求めるものがその夢にあるのなら、僕はこの世界を奏で続ける」

 青年はそこで言葉を切り、醜く青く澄み渡った空を仰いだ。少女もそれに倣い、そして、いつしか握りしめていた桜の花びらを風に放す。

「――永遠を願いなさい」

 無限に続く砂時計(INFINITE-SANDGLASS)は、ただ只管(ひたすら)に永遠を謳い続ける。
 いつの日か、砕けた硝子の隙間から煌めきが零れ落ちる、最期()瞬間(とき)まで。



/end



2007/9/17


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