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第四十三話 月覆う夕闇は叢雲よりも昏く



 いつか
 テリジアの光が世界を()き、争いはさっぱり絶えてそれなりの平和が訪れた
 戦場を蹂躙(じゅうりん)していた者たちは自分たちの土地で密やかに暮らすようになり
 幾許(いくばく)かの星霜(せいそう)が過ぎ去った

 いつか
 宵闇を舞う黒い影がそこにあった
 世界の隅に現れたそれは死そのものとなり 死が死を(まと)い嵐となった
 愚かにも神の扉を叩いた人類への粛清(しゅくせい)の風と囁かれるが
 真相は定かではない

 少年がいた
 未曾有(みぞう)の危機に慌ただしく(めぐ)る世界の中で
 少年の時間はとてもとても緩やかなものだった

 少女がいた
 全てを滅びの風に奪われた彼女の世界は
 少年の影に瞳を隠すことで見えなくなった

 あるとき、彼女は風を見た 揺らぎ(もた)げる死の風を
 そのとき、彼女は初めて 世界を見た 少年をその身に隠して
 少女は少年のため 剣となり 盾となった

 そして 空は墜ちた
 我々の手で 神々の手で 無残にも殺された青は

 もう二度と 戻らない


――『警鐘』と題された文章 年代記の片隅より



第三幕

『因果の綴る追想録』

第三章 盈虚(えいきょ)の指標




「最悪」

 吹き付ける殺意の風を、崩れかけた塀の向こうに感じながら、ルナは小声で吐き捨てた。

 現状は(ことごと)く詳細不明、ゆえに理解できる情報だけをここに表記しよう。
 どうやら本日は晴天である。
 しかしこれだけでは、恐らく彼女の置かれた状況は幾百分の一も伝わるまい。故に、理解しがたい情報たちもまた、端的ながらここに追記しよう。
 ルナは今、どういうわけか廃墟と化した街の中、徘徊する無数の“魔物”達から身を隠している。

「ああ、もう。マジで最悪……」

 一昔前の女子高生みたいな語彙(ごい)に自ら苦笑しながら、ルナは独り()つ。その呟きを聞く者はいないが、感情を声にでも出さなければ混乱が治まらないのだ。

 勢いで“最悪”と言いつつも、現実に“最も悪い(サイアクな)”状態と言うには、まだ下が想定できる。特に、“魔物”のうち、ほとんどの個体の足がこちらより遅いのは、ちょっとした救いだった。それがなければ、ルナは最初の一撃を受け、逃げた時点で、追い(すが)られて(とど)めを刺されていた公算が大きい。
 ――まあ、刻一刻と“最悪”に近付きつつあるのもまた、逃れようもない事実なのだが。
 右足に大きく開いた一筋の裂傷は、深紅(しんく)の帯を止めどなく垂れ流しながら、鈍く熱を持つ。唯一の損傷だが、決して無視できる深さではない。

 “魔物”は、蠕虫(ぜんちゅう)と獣の中間とでも言おうか、白く濡れそぼった死肉のような質感の皮膚を持つ生物だった。
 形態は多種多様だが、多くは()うように移動している。脚の数は(まば)らで、自然には見たことのない奇数本の脚を持つ個体すらいた。その先端についた指は、類人猿のそれに似て細長く、しかし決して同様ではない、不揃いで不恰好な畸形(きけい)
 更には、前肢の先が(かま)状に発達しているものや、大きな(はさみ)になっているものまで。
 顔らしきものは(いびつ)に溶け崩れ、左右非対称な箇所に眼窩(がんか)が、そして口腔(こうくう)がぽっかりと()いている。その数や位置も、一定ではない。背中に顔面がついている個体や、頭部の代わりに無数の触手が(うごめ)いている個体も、既に確認している。

 一言で表すなら、“キモい”。
 二言目が許されるのなら“すこぶるキモい”。
 ホラーゲームなんかに登場するなら、(さぞ)かしお似合いだろうに。いくら仮想空間とは言え、こういうクリーチャーが出てくるにはロケーションのおどろおどろしさが足りていない。当事者としては、足りられても困るのだが。

 周りには、そんな正体不明の魔物が徘徊している。
 ルナは今も絶えず周囲を見渡し、警戒しているが、これは予想以上に精神的負担が大きい。部屋の中で消えたゴキブリを探すのとは(わけ)が違う。気付かずに忍び寄られたら、死ぬのだ。

 そして、ルナには単独での戦闘能力は無きに等しい。
 亜人としては一般人以下と言っていいだろう。魔法が苦手なわけではないが、“銃を撃つことができる”のと、“銃を使って戦える”のとは全くの別問題である。たいした訓練も実戦も経験したことのないルナは、兄や兇闇(まがつやみ)のように戦える自信は無い。
 他の皆とは合流できておらず、探しに行こうにも魔物が邪魔だ。
 かと言って、ここで待っていても誰かが見つけてくれる保証は無い。状況は悪化するばかりだろう。

 兄と一緒でさえあれば、どんな困難でも打破できると思っていた。そして今回も、今まで同様、そうなれると楽観していた。
 いや、その思いは()だ、過去形ではないはずだ。
 ――なのに。
 胸の奥底に(わだかま)る、()けつく泥濘(でいねい)のような不安は、絶えず脈動を続けている。行き場のない焦燥(しょうそう)は絶望にも似て、しかし所以(ゆえん)なき感情の正体は(つか)めず、ただ吹き溜まるのみ。
 何か――取り返しの付かない事が、起きてしまった気がする。
 なんとも漠然とした憂懼(ゆうく)である。取り返しの付かない事象など、如何(いか)なる時にも起きていると言うのに。――なのに何故、この不穏な心の(はや)りは収まらないのだろう。

 確かな悪寒は、渦巻く不安に(まぎ)れ、ほんの僅か、知覚を鈍らせる。
 遅延(ラグ)は一瞬。しかし、そんな一瞬の間にも、往々にして事態は進む。

 ――がつ、と、何かを叩いたような音が聞こえて、ルナは反射的に視線を動かした。
 異状はない。
 そう思った刹那(せつな)、血に(まみ)れた細長い鎌が、ルナの腹部からずるりと生えた。背を預けていた壁越しに、彼女は刺し貫かれたのだ。

「ひ……っ」

 ぞわりと背筋を立ち(のぼ)怖気(おぞけ)に、視界が眩み、足の感覚が急激に失せてゆく。
 崩れ落ちそうになる直前、ルナは反射的に壁を叩き、転がるようにその場を離れた。(いや)な音を立てて鎌が抜け、穿(うが)たれた腹部の(あな)から真紅の(はな)が咲いて、重力に溶けてどろりと落ちる。

「っは……ぐ、あ……っ!」

 足が(もつ)れ、(まろ)びて地に突いた腕も体重を支えるに及ばず、ルナは地面の冷たさを頬に感じながら、(かす)れた(うめ)き声を上げた。
 激痛と寒気に全身が震え、乱れた呼気が咽喉(のど)を鳴らす。生温(なまぬる)い液体が肌を伝い、服をじとりと貼り付ける不快な感覚が広がってゆく。傷口は激しく熱を持ち、血はこんなにも温かいのに、身体の深奥(しんおう)はひどく冷たい。まるで自分の体温そのものが尽く散失してしまっているかのようだ。
 まずい。これは非常によくない。咄嗟(とっさ)に刺さった鎌を引き抜いたが、反射的な運動ゆえに激しく動きすぎた。あの動きで、内臓を自ら()き裂いてしまった可能性が大きい。(すみ)やかに体内の出血を止めなければ危険だ。この傷は確実に“ヒトの生命を奪える”領域に達している。
 しかし、ここまでの深手は、回復魔法でも簡単には治療できない。体内の損傷を治すためには、余程の熟練者であっても、状態確認のため一度皮膚を切開する必要があるのだ。ついでに言うと、粗雑(そざつ)な処置をすれば、感染症や後遺症を引き起こす可能性がある。そうなると、本当に回復魔法では治せない。死期を一瞬延ばすだけだ。
 ライトがいない――どころか、他の誰とも合流できていない今、この状況は――本当に、最悪と呼べるものになってきてしまった。

 痛みと不快感が強すぎて、上げようとした声も、叫びも、乾いた吐息に変わる。
 混乱する頭の中で、活路を模索することすら出来ず、ルナは必死に周囲の状況を取り入れた。出来損ないの人面をにたつかせ、五本足の“魔物”が這い寄ってくる。血が止まらない。逃げなければ。立ち上がらなければ。しかし、足に力が入らない。その僅かな動きだけで、腹部の傷に更なる激痛が走る。耐え切れず(うずくま)ると、視界の端にもう一匹、いや、二匹の魔物が見えた。
 近付いてくるそいつらに、自分は一体何をされてしまうのか、よく解らない。だが、(いず)れにせよ、歓迎できる事ではないのは確かだろう。
 ルナはせめて攻撃の魔法を放とうとしたが、精神の集中が不十分で、うまく形にならない。いよいよ危機感が表面に現れ、漏洩(ろうえい)する声に(おび)えの色が混ざる。
 そんな事をしている間にも、近付いてくる影はまた一つ。逆光を受けて黒く、痛みの涙に(にじ)むそれは、どこか、他の影よりも人間の形に近すぎる気がした。

 斬り裂かれた、風の()き声。
 あまりにも高速で振るわれた何かが、空を裂き、その下の“魔物”を二つに割ったのである。その躯体(くたい)から血飛沫(ちしぶき)は上がらず、代わりに何か透明な体液が空中に飛散した。
 事態が飲み込めず、(いぶか)しんで目を見開いていたルナは、その次の攻撃で、ようやくその正体を認識することとなる。

 (すなわ)ち、眼前の魔物に墓標の如く突き立った、“ケルト十字型の剣”を。

「――アビスゲート、鐫界(せんかい)能力発動」

 最後の影――桜花(おうか)(ひじり)は、突き立てた剣を再び握り締め、細い脚で大地を踏んだ。瞬間、アビスゲートの中央に()め込まれた宝玉が(ほの)かに(きら)めき、彼女の“時”は加速する。
 後は、もはや目で追える速さでは無かった。
 閃光が(ひるがえ)る度に、動くものが減ってゆく。歪な生命(いのち)灯火(ともしび)が、吹き消されてゆく。それが幾度繰り返されたのか、ルナはもはや数えていなかった。

 やがて、周囲の敵を殲滅(せんめつ)し終えた聖は、倒れ伏したルナの元へと走り寄る。
 彼女は回復魔法を使えない。この状態のルナを助けられはしない。それでも、今は自分以外の者の助けが、()り所が欲しかった。

 合流を喜ぶ声すら出せないルナに、聖は微かな狼狽(ろうばい)を見せながらも、右手に持った十字の剣を(かざ)し、瞑目(めいもく)する。青白い魔力の幽光が、周囲に漏れ出し、幾何学(きかがく)的な軌道を描く。

「お願い……力を、“顕現()”してください……」

 円環の中心、十字の交点に嵌め込まれた黒い宝玉が、(くら)(きら)めいた。
 その瞬間、腹部と背面の傷口に生じた奇妙な“うねり”は、決して心地よい感覚ではなかった。回復魔法の暖かさとはまるで違う、もっと奇妙で異質な干渉。しかし、不思議と痛みは緩やかに和らいでいった。
 傷口が、恐らく塞がりつつある。ルナはそれを自覚した。――だが、その直後。
 一度は鳴りを潜めたはずの痛みが、更なる激痛となって舞い戻る。温かい血が一際(ひときわ)多く吹き出し、地面に波紋を作った。“塞がりかけた傷が、また開いた”のだ。

「いっ……ぎ、ぃ、痛い痛いっ……!」
「あ……ご、ごめんなさい、ルナさん……ま、まだ、私には、無理だった……みたいです」

 慌てた様子でアビスゲートを手放し、聖は、痛みに()()るルナの手を握り締めた。
 回復魔法を使えない彼女が一体何を試みたのか、大凡(おおよそ)の想像はつく。“時間”を操る鐫界器であるアビスゲートで、過去を改竄(かいざん)しようとしたのだろう。聞けば、彼女は(かつ)て一度、致命傷を受けた際に、“最初から傷を受けていない事にする”と言う強引な方法で死を逃れたと言う。
 だが、今こうして失敗し、巻き戻しの途中で元に戻ってしまったところを見ると、その能力は、平時にも自在に扱えるわけではないらしい。

 流石(さすが)にあの痛みを二度も味わうとなると意識を失いかけたが、ルナはどうにか気合いで踏みとどまった。“死ぬほどのショックを受けると死ぬ”のなら、ショックに耐えさえすれば問題ないはずだ。多分。

 聖はきょろきょろと辺りを見回し、何か事態を好転させる方法を探っているようだった。しかし、廃墟の町並みに人影は無く、あるのは瓦礫(がれき)と不穏な気配ばかり。
 ルナもまた、(つと)めて冷静に状況を観察する。
 ――傷は深手ではあるが、出血量から見て、すぐさま死に直結するほどの重症でもない。恐らく、止血さえすれば少しは()つだろう。だから、何もなければ服を止血帯代わりにでもして、応急手当だけしてくれればいい……と、ルナはそう結論した。
 同時に、聖も何かを決意したような目をして立ち上がった。

「よし……!」

 そして、そのままルナに背を向け、何事も無かったかのように歩きはじめた。

「あきらめましょう」
「ええええェェ――ッッ!?」

 思わず大声をあげて盛大にツッコみ、直後、腹から(あふ)れる(おびただ)しい量の血液に目眩(めまい)を覚えて、再び倒れ込む。
 そんなルナの姿を横目に(とら)えて、立ち止まった聖は何やら満足げに頷いた。

「ほら、意外と喋れるもんですよ……私も同じような状態のとき、死んだおじいちゃんのニセモノと会話してましたし……」
「い、いやっ……喋れたけど、代償として私に致命的なエラーが……げほっ、お、おじいちゃんのニセモノって何……?」

 本当だ。意外と喋れた。どうやら身体を貫通された衝撃が大きすぎて、自分の中で制限を課していたようだ。
 でも、なんだろう、無理して喋る度に寿命が削れ散っているような気がする。課されていた制限、超えちゃいけない身体のセーフティーだった気がする。

 しかし聖は、傷や血液に慣れているのもあるのか、いつもと何ら変わらぬ無表情で言い放つ。

「ほら、それくらいの傷なら、ミスタだったらホッチキスで塞いで平然としてるレベルですから……大丈夫ですよ、たぶん」
「あのマンガの登場人物のタフさと現実世界を比べちゃあいけないッッ!」

 またも、思わず大声でツッコんでしまい、ルナは腹を抱えて苦悶する。
 しかし、聖はにやりと口角(こうかく)を上げ、ルナの元へと戻って、その肩にぽんと手を置いた。

「――計画通り」
「え……?」

 (いぶか)るルナに、聖はさも当然のように、至極真面目な顔をして台詞を続ける。

「この小説は今……『ギャグパート』に入りました。だから当面は大丈夫です……メインキャラは『死ぬ空気』がなければ死なないし、死ねないんですよ……『呆気(あっけ)無い死』も、まあ作品によってはあり得ますが、ギャグパートなら例え東京タワーに突き刺さっても死にません……」
「やめようそういう卑怯な手で死亡フラグ回避してくのっ!」

 腹部と背中の両面から、噴水のように血を吹き出しながら、裏手で空を叩くルナ。あれ、ツッコミってこんな最期の力を振り絞ってやらなきゃいけないもんだっけ? とか、考える暇もない。
 ――どうしよう、このままだと仲間に殺されかねない。
 こんな流れの結果で死にたくは無いが、なんか、不思議と本当に死なない気がするから困りものである。こんなに痛いし、血とかだばだば出てるのに。

 しかし、そんな()り取りをする余裕が生まれた今、ルナの心中には、別の懸念もまた去来している。
 こんなサツバツとしたマッポー的世界の中で、他の皆は無事でいるのだろうか。
 兇闇は、多分、聖よりも更に強いだろうから、少しは安心できる。ライトやリミルは、まあ、戦えないわけではないが、結局は素人の学生であるため、不安は大きい。何より、戦う力を殆ど持たない華鈴(かりん)は、無事だろうか。――彼女のことだから、今頃、なんか空気を読まずに不用意な行動をして、戦争中の国とかでモブ一般兵に捕らわれそうになってる気がする。

 嫌な予感は、(いま)だ止まない。ルナは、(しば)逡巡(しゅんじゅん)した結果、再び口を開こうとした。多少痛んでも、止血だけして自分を連れて行って欲しいと頼むためだ。
 しかし、震える彼女の口から、その言葉が紡がれる事は無かった。
 代わりに、背後から響いたのは、どこか物憂(ものう)げな、しかし確かな優しさを持った少年の声。

「――いつから……来たか、解らないけど――」

 ルナは驚き、やっとの思いで身動(みじろ)ぎをして、声の出処(でどころ)を確認すると、そこには見覚えのない――少なくとも、ルナには見覚えのない――男が立っていた。
 声や顔にはまだ(いとけな)さが残り、歳は恐らく少年から青年に移りゆく頃だろう。
 髪の色は暗闇のような黒。奈落の底を映し込んだかのように(くら)い、赤い瞳。左側頭部からは、角のようにも見える影が、はためく布のように音もなく揺らいでいた。
 落ち着いた色の、民族衣装のようなゆったりとした服を着て、彼は、廃墟の街にぼんやりと立っていた。

「“この時代”にようこそ。ヴィズルのお姉さん方」

 穏やかに微笑(ほほえ)む彼の姿を見て、何故、聖が驚愕の――そして、恐怖の色を顔に浮かべているのか、ルナには()だ、理解できない。
 即ち――眼前に立つ少年が、彼女を一度殺した存在であるということを。



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