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第四十一話 IN FUTURE



「の……ノルウェー……ですか?」

 唖然と口を開けた華鈴(かりん)の言葉に、兇闇(まがつやみ)はさも当然のように首肯(しゅこう)して返した。その手には、見たことのない綴りで書かれた“道路地図”が握られている。日本の書店に並んでいたものと同じような、一部地方を重点的に書き表した地図だ。

 そう、二人は今、書店に身を隠していた。恐らく戦争、()しくは紛争の影響で、住民は避難しているらしく、無人の店舗は分厚いシャッターに守られている。やらないよりはマシだと言うことで、各出入口には簡素なバリケードが築かれていた。
 この寒さの中、窓を割らずに済んだのは僥倖(ぎょうこう)だったと言えよう。なんと、どうやらこの世界では、解錠魔法(デコード)に耐性を持っていない錠を裏口に付けていても特に不安にならないらしい。……一応“禁止魔法指定”を受けている解錠魔法を、当然のように使ってみせる兇闇にも驚いたが。

「俺たちが今立っているのは、恐らくノルウェー王国西部のエストフォル県、サルプスボルグと呼ばれる地域だ。この店の住所らしき部分にもそう書いてある。正確に読めるわけではないので、断言はしかねるが……逃げながら確認したところ、太陽光を遮るためのブラインドが殆どの家についていた。これは太陽高度の低い北極や南極近くの国によく見られる傾向だ。この気温の低さも、推測の裏付けになるだろう」

 手にした地図をぱらぱらと(めく)りながら、当の兇闇は涼しい顔をして言葉を連ねていった。最低限の手当ては済ませたものの、その左腕に巻かれた包帯は、痛々しい赤黒に染まっている。

 華鈴には、これだけの重症を負って(なお)、彼がそんな表情をしていられる事が信じられなかった。たった四歳分の年月が、こうも人の強さを分けるものなのだろうか。
 恐らくは、(いな)。それは彼の(たゆ)まぬ研鑽(けんさん)の結果であり、華鈴との間に開いた差は、ただの“歳月”などでは埋め(がた)い。もし華鈴が、当時の兇闇と同じくらい自己を高める努力をしていれば、もう少し戦闘の役に立てたかも知れないし、今だって、回復魔法で彼の傷を癒すことができたかも知れないのだ。
 だが、今更(ほぞ)を噛んだところで、何も変わりはしない。今の華鈴を形容する言葉は“足手(まと)い”の四文字に尽きるという事を、彼女は純然たる事実として自覚していた。その事実から目を逸らしても仕方がないのだ。
 故に華鈴は、余分な迷妄を捨て、必死に頭を巡らせる。
 もう、すっかり冷静になれたと言えば嘘になる。それでも、華鈴が兇闇の力になれるとしたら、こうやって、“会話”の相手となる事だけだった。

「で、でも……ここ、架空の世界なんじゃ……」
「惑星環境レベルだけではなく、地形や歴史なども現実世界をベースに形成されているのだろう。実際の世界での戦争をシミュレートしたりできるからな、不自然な話ではない」

 目線だけを華鈴に向けて応じながら、兇闇は地図のページを捲り続ける。
 やがて最後のページに辿り着いた時、ようやく彼は指を止め、視線を戻した。

「ふん……先の兵士の言葉、最初はリミルが話していたスウェーデン語に似ていると思ったんだが、ノルウェー語だったらしいな。俺は喋れんが、確かあれはスウェーデン語やデンマーク語などと近縁だったと記憶している。北欧神話で有名な“古ノルド語”の派生言語だな」

 英語すら理解不能な華鈴には、どのへんが何に“似ている”のか皆目見当もつかなかったが、確か“ヨーロッパの言語は殆どラテン語の方言のようなものだ”と、以前ヒスイに教わった記憶がある。日本語が理解できる人間なら、方言でどの地方の言葉かある程度推測できるように、ヨーロッパの言葉も、分かる人には分かるのだろう。……多分。

 華鈴がそんな事をぼんやり思いながら良い返事を探していると、本を眺める兇闇の目が僅かに細められた。
 不審に思う間もなく、彼は開いていたページ――いわゆる“奥付”を、華鈴に向けて差し出す。そのうち一箇所に視線を促すように、人差し指だけをぴんと伸ばして。

「さて、更に興味深い記述を見つけた。刊行年だ、見てみろ」

 本を受け取った華鈴は、読めない文字を読むために至近距離でその文字列を確認する。確かに、彼が指差していた一文の中に、日付らしき数列が表記されていた。
 Mai……というのは、“方言”のように英語に近いと仮定するなら、多分、響きが似ている五月(MAY)だろう。とすれば、その後にくる四桁の数字は、この書籍が刷られた年と言う事になる。
 何の気無しにそれを眺めて、もう一度視線を文頭に戻そうとした時、華鈴は遅れてその数の意味を――彼がその部分だけを華鈴に見せた理由を“理解”し、目を見開いて、紙に鼻先が触れそうになるほど顔を近付けた。その、たった四文字の数列には、華鈴を再び驚愕せしめるに充分な情報が含まれていた。

「にせん……ひゃっ……せ、西暦二一一八年……!?」
「幾つかの書籍を確認したが、西暦二一二〇年が最新の年号らしいな。建物の状態から見て、住民が避難して一年はまず経過していないだろう。時代はそれくらいで間違いなさそうだ」

 兇闇は幾つかのペーパーバックを広げながら、事も無げに言ってのける。
 西暦、にせんひゃくにじゅーねん。現代のほぼ百年後である。
 “異常”を探すという漠然とした命令なら、これまでにもう何度達成できただろう。もはや華鈴にとって、この世界ではどこまでが正常で、どこからが異常なのか、その線引き自体が既に難関だった。

「う、あ、あの……私、もーなんか、いろいろ衝撃的すぎて、ついていけないんです、けど」
「うむ、済まんが俺もだ。想定を上回る事態に少々混乱し、慌てている……」
「え、メッチャ真顔なんですけどそれって慌ててるんですか?」
「…………ヒョエー一体何が起きているんだオロオロこいつはマジにっちもさっちもだぜ」
「そんな無理して慌ててる感出さなくてもいいですごめんなさい! 表情なんも変わってないですし!」

 まさしく冷静そのもの、とでも言うべき声音で、(いま)(かつ)て見たことのない珍妙な慌て方をする兇闇。
 恐らく、華鈴の緊張を(ほぐ)すため、気を(つか)ってくれているのだろう。元々これくらいノリは良かった気がするが、華鈴はとりあえず好意的に解釈しておいた。

 冷たい床に腰を下ろし、ふう、と()いた溜息は、意図せずと二つ重なった。
 ずらした視線の先に転がるは、光沢の無いマットブラックの銃身。その無機的な質感が、眼前に広がる仮想現実の寒々しさを強調する。
 少なくとも、この空間はもはや“旅行気分”で訪れられる段階に無い事だけは確かだ。もし、観光旅行の行き先がこういう場所だと若干十二歳の小娘が言ったなら、何の関係も無い空港の人にすら止められそうな気がする。

 そんな厭々(えんえん)とした華鈴の視線が示すものに気付いたのか、兇闇は床に置かれた銃を顎で指しながら、隣に腰を下ろした。慣れない状況だからか、その挙動だけで華鈴はびくりと身構える。

「華鈴、銃の扱い方は解るか?」
「わ、わかると思います……?」
「いや。だったら驚きのショックで俺は死ぬかも知れん」
「死なせなくてよかった唯一の生命線!」

 無論、平和ボケした現代日本人であるところの華鈴は、そのような局地的に便利な能力は持ち合わせていない。先刻の銃撃だって、頭部を狙って撃ったわけではない。慌てて身体の中心を狙ったら、想像以上に銃爪(ひきがね)が重く、銃口が上を向いた結果だ。
 直後、反動で転倒するところを視認してすらいた彼が、そこを承知していなかったとは考え難い。となれば、今、この質問――いや、確認をする意味は限られてくる。
 そして予想の通りに、彼は、華鈴に僅かな迷いの間を与えることなく、再び唇を開いた。

「最低限だが、市街戦の基礎だけでも教えておこう。何もしないよりはマシなはずだ」

 それは、“彼さえいれば守ってもらえる”なんて甘えた考えを一発で棄却(ききゃく)し、華鈴を戦闘の渦中(かちゅう)へと(いざな)う言葉だった。

 “戦わなければ生き残れない!”なんて、どこかで聞いたキャッチコピーを、まさか自らが実践することになるとは思いも――いや、あの学校にいれば近いうちにこういう事になるんじゃないかと薄々思ってはいたけど。
 それでも今までは、いざという時には誰かが側にいて、なんだかんだで守って貰――えてないけど。むしろその状況を利用していじめられたりしてたけど。

「……ねえ兇闇さん」
「なんだ」
「なんで私こうなる前にどっか行かなかったんでしょうね」
「全くもって同感だが、残念ながら手遅れだ。さあ、まずは構え方から簡単に行くぞ」

 遠い目をした華鈴の肩をぽんと叩き、彼は無感情に床の銃を拾った。

 兇闇の講義は、簡易的だが、要点をうまく捉えたものだった。本人曰く、(ひじり)に教えるために散々試行錯誤した結果、コツを掴んだと言う。

 まず教えられたのは射撃姿勢で、特に銃床(ストック)をしっかりと肩の内側、胸の上あたりに付け、右頬を密着させて固定することだけは何度も強調された。これが甘いと銃自体が跳ね上がってしまい、また肩そのものに当てていると反動で脱臼してしまうとか。
 フィクション作品などでは銃の反動で人が吹っ飛ぶような場面がよく描かれていたし、実際にそれほどの反動があることは先刻撃ってみて実感したが、姿勢さえ正確であれば、体重や筋力、骨格などに然程(さほど)関係なく、強力な銃を扱うことができるらしい。
 とは言え、非力な華鈴の体躯(たいく)では、アサルトライフルの反動に耐えながら正確な狙いをつけるのは難しい。かと言って、扱いやすそうなハンドガンは、実際の戦場だとほぼ使いものにならないとの事だ。
 故に、地面に寝そべって撃つ“伏射”姿勢を中心に、胡座(あぐら)をかいた両膝に両肘を乗せて安定させる“座射”という姿勢(彼曰く、「使えるのに、あんまりカッコよくないから映画等に使われないせいで一番マイナーな撃ち方」だとか)を主に使えるように教えられた。

 また、ドラマや映画では、警戒時に銃口を上に向けているシーンが多々あるが、あれは咄嗟(とっさ)の場合に対応が遅れるので本来やってはいけないとか。あまりに見慣れた姿勢だったため、思わずやってしまいそうだったので、華鈴はその戒めを深く心に刻み込んだ。フィクションも業が深い。
 他にも、銃爪は一気に引くのではなく、霜が降りるようにゆっくり絞らなければ狙いが想像以上にブレるとか、銃爪に指を掛けていない時は、人差し指を銃爪から外すだけではなく、銃身に沿わせておかなければ暴発する危険があるとか……華鈴が思わずやってしまいそうな事ばかりを先読みして忠告していくのは、多分、初心者がやりがちなミスは、ある程度共通しているからなのだろう。

 その次に教えられたのは、移動する際の立ち回り方である。
 姿勢を低くして投影面積を少なくする事、安全だと思っても窓や破孔などには頭部を晒さない事など、常に意識すべき注意点に始まり、壁際の移動法や、遮蔽物から身体を出さずに通路の状況を確認する方法、周囲と狙撃手に対する警戒……それから、言葉を出さず意思疎通を図るための簡単な手信号を幾つか。これらの移動法は、本棚を使って、簡単に練習をした。
 本当は、基本だけでも教えておきたい事はこの十倍以上ある――と、兇闇は言う。それでも、とても時間に余裕があるとは言えない現状において、華鈴が覚えきれる情報はわずかだ。故に、“基本を学びきる”事は出来ない。可能な限り瑣少(さしょう)な情報で、“それなりに支援ができる”程度にならなければならないのだ。

 そしてこの時、華鈴は初めて、戦場での機動は最低限二人、できれば三人はいなければ、殆ど成り立たないことを悟る。兇闇の口から幾度と無く飛び出す“相互支援”と言う言葉が、それを自覚させた。一人が動く時には、必ずもう一人がバックアップ射撃を行うというのは、基礎中の基礎だと言う。
 危険を(はら)んでまで、素人の華鈴に銃を持たせなければならなかった理由を、今になってようやく理解した。さっき、彼が四人相手に大立ち回りを演じてみせたのも、兇闇が言うには「意識的ではなかったにしろ、最初に華鈴が囮となり敵を引きつけたのが勝利に至る最大の決め手」だったらしい。

 最後に、戦闘時の動き方。これについては、あまり多くの事を教えては貰えなかった。“柔軟な対応”を目指すよりも、ある程度戦法を絞った方が、今の華鈴には向いていると判断したのだろう。
 その戦法も、“片方が牽制(けんせい)射撃で相手の動きを封じ、もう片方が回り込み攻撃”だとか、“片方が隠れた場所付近に、もう片方が誘い込む”だとか、拍子抜けするくらい単純なものばかりだったが……こういった基礎的な歩兵戦術を軽んじてはいけない。何よりも優先して覚える必要があるからこそ、それは基礎なのだ……との事である。
 最大の注意点は、“攻撃を焦らないこと”らしい。一人倒せる、と思って、充分な準備が整う前に攻撃してしまうと、即座に場所を悟られ、一転して不利になる。これは新兵が多くやりがちなミスなんだとか。

 そして、支援射撃の重要性について彼が語っていた途中――異変は、卒然と現れた。
 いや――華鈴は最初、それを異変であると認識してはいなかった。ただ、言葉を切った兇闇の表情を見て、初めて“何かが起きている”のだと気付いたに過ぎない。微かに聞こえるだけのその“音”の正体が、一体いかなる事態に相関しているのかは、見当もつかなかった。

 兇闇は、苦笑するように口角(こうかく)(ゆが)め、静かに、窓の横へと歩み寄った。

「おい、何だこれは。何の冗談だ……?」

 ブラインドの隙間越しに空を眺め、兇闇は驚愕の色に顔を染めていた。
 否、単に“驚愕”と言うよりも、それは狐疑(こぎ)怪訝(かいが)の意思を強く反映した、“疑念”の眼差し。何か状況が悪くなるような事が起きたというだけではなく、彼にとって“信じがたい何らかの事態”が、今、惹起(じゃっき)されたのだ。
 そして、その正体は、華鈴もすぐに知ることとなる。彼に手招きされるまま、華鈴もブラインドの隙間から、恐る恐る両の目を覗かせた。

「へ……へり、こぷた?」
「らしい。何というか、いろんな意味で状況が変わった」

 先程から次第に大きくなりつつある音の正体は、日照量の少ない空を舞う一つの“ゆらぎ”であった。
 恐らくは、不完全な光学迷彩の類だろう。プロペラの駆動音も、消音装置でも積んでいるのか、日常的に聞いていたそれとは大幅に違う。だが、その“揺らぎ”の形状は、充分に肉眼で視認できるほどに大きくなっていた。
 しかし、それを視認して尚、華鈴には兇闇があんな表情を見せた理由が解らず、上空を見上げたまま小声で問いかける。

「な、何か、変……なんですか?」
「ああ。普通、戦闘用の攻撃ヘリは市街地では使わん。対地戦用であることは確かだが、遮蔽物が豊富な地域では隠れた人間を見つけづらく、また対空ミサイルの(たぐい)を地上から撃ち込まれると一方的に撃破されるリスクがある……それを飛ばすなら相応の理由があるはずだ。しかも編隊すら組まないとは……一体何を考えている……?」

 ()(ほど)、確かに華鈴が搭乗者であったなら、あんな上空から、地上のどこかに隠れた人間を正確に索敵できる自信は無い。反面、遮蔽物の無い上空において、ゆっくりと滞空して敵を探すヘリコプターはただの的にしかならない。通常は運用されないと言うのも頷ける。
 しかし、状況が悪化したことに変わりはない。
 何せ、その弱点である“対空ミサイル”とやらを、華鈴も兇闇も持っていないのだから。いくらアサルトライフルの威力がサブマシンガンの比にならないと言えども、遥か上空のヘリコプターを墜とすには流石に役者不足である。付け焼刃の歩兵戦術では、空軍支援の前では無力に過ぎる。素人の華鈴にとっても、それは明白な事実だった。

「気になるといえば、もう一つ奇妙に思っていた事がある。君に対してスタングレネードを使用したのは何の意図がある? 敵と認識したなら遠くから射殺すればよいものを、何の装備もしていない子供一人にそこまでの警戒を見せ、捕らえようとした理由は何だ? 何か関連があるのか……?」

 兇闇は顎に手を当て、深く思惟(しゆい)し始めた。
 戦地における常識をまず知らない自分にとって、もはや口出しできる内容ではなさそうだなあ……などと思いながら、華鈴はぼんやりとその立ち姿を眺める。
 だが、その沈黙も時にして数瞬の事。閉じられていた兇闇の(まぶた)が、かっと開いた。

「……っ、ヤバいぞ華鈴、壁際から離れろ!」
「えっ、えっ!?」

 矢庭(やにわ)に飛ばされた鋭い命令に、華鈴は思わず立ち(すく)む。刹那(せつな)と呼ぶべき間隙(かんげき)すらもなく、硬直した華鈴の身体を片腕で抱えて、兇闇は跳躍した。華鈴の頭部を(かば)うよう、床に打ち付けられた肩の包帯に血が滲む。
 噛み殺された呻き声は、直後に響く轟音の濁流に押し流された。先刻まで外を眺めていた窓は粉々に割れ砕け、壁に、床に、天井に無数の弾痕が穿(うが)たれ、一部が崩落する。バリケードも何も関係ない。ヘリコプターに搭載された大口径の機関砲が、この書店を一直線に()ぎ払ったのだ。



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