TOP文章サダメノハテ>第四十話

第四十話 血路を開け



「迸れ贖罪(しょくざい)()……(もたら)すは蝕災(しょくさい)()……」

 その瞬間、かすかに大気を震わせた詠唱(えいしょう)が、彼らにも聞こえていたか(いな)かは、定かではない。

閃熱魔法(フレイム・アロー)

 宙空に(ひらめ)いたのは、薄く伸びる、(かがよ)う光の帯。
 それは大気中の微粒子に衝突し、拡散する光と熱。しかし、その光線に込められたエネルギー密度は、この程度の距離で減衰し切るほど瑣少(さしょう)なものではない。
 (ほの)かな光が伸びゆく先には、四人組の兵士。光の速度で進むそれが、標的に視認されることは、絶対に有り得ない。

 この局面に()いて――
 風弾魔法(ゲイルバレット)は距離による威力の減衰率が高く、よほど魔法のレベルが高い者がやるのでなければ風圧の影響を多大に受けるため、狙いも正確にならない。その威力減衰をカバーしたものが水弾魔法(アクアバレット)なのだが、水がなければ使えない。電撃系魔法は……威力を上げるのも、狙った場所に飛ばすのも、原理上難しすぎて、使いものにならない。リミルは軽々と使いこなしていたが、あれは彼女が特別なだけだ。
 故に、高熱。
 収束させて指向性を持たせるために発動まで少々時間がかかるのがネックだが、“弱い力”の代替操作などでエネルギーを増幅するのが容易で、エネルギー密度さえ上げればそれだけ減衰率も低くなり、何より“光線”である以上、狙いからブレず、直線的に飛ぶ。それも光速で。
 あまり長くは照射できないが、それでもアルミ板くらい溶断する威力はあるはずだ。今は、それで充分だった。

「AAAARGH!」
「Hva!?」

 神経が痛みを認識して反射運動を起こすまでの、一秒。
 ほんの一秒程度、照射された熱線に頬を抜かれ、兵士のうち一人が顎を押さえて()()った。脳までは達していないだろうが、何の心の準備も無しに、我慢しきれる苦痛でも無かったらしい。当然――

「きゃうッ」

 その兵士に腕を(つか)まれ、再び立ち上がらせられようとしていた華鈴(かりん)の身体は、重力に従って地面に落とされ、ほんの一瞬ながら、隣に立つ兵士の銃口から逃れる。
 周りの兵士の反応は、予測していたより良くはない。外部から攻撃を受けたことを即座に理解し、外部を警戒したのは四人中たった一人。残りの二人は、反射的なものだろうが、負傷した彼に視線を()っている。
 いずれにせよ、この瞬間に取るべき行動は変わらない。だから、この光景を視認した時、彼は――兇闇(まがつやみ)は、既に行動を起こしていた。

 隠れていた建物の陰から姿勢を低くして飛び出し、“風”を(まと)って疾駆(しっく)する。その一歩目が踏み出された段階で、前方の兵士達はこちらの存在に気付くだろう。
 だが――互いの間に開いた距離は、既に五メートルも無い。彼らが華鈴にかまけている間に、路地裏を移動し、接近可能な限界まで近付いていたのだ。
 突然の魔法攻撃に続いて、至近距離に現れる、何の装備もしていない亜人の子供。
 その事実に、ほんの“一瞬”、彼らの反応が鈍る。
 銃口が跳ね上げられ、銃爪(ひきがね)に指がかけられ、引かれるまでの間に、“一瞬”の空隙(くうげき)が生まれる。その一瞬が、往々にして生死を分ける。
 まだその結果は出ていないが、一つ確かな事は、おかげで、兇闇は銃弾を防ぐほどの強固な輝光壁(シールド)を張る魔力を消費せずに済みそうだと言うことだ。

燦爛(さんらん)たる(けい)(しるべ)よ――!」

 短い詠唱と共に、一人、アサルトライフルを構えるのが早かった者の方へ、一気に距離を詰める。こういった移動技術を、近年では“縮地法”などと呼ぶ向きもあるらしいが――さておき、向けられていた銃の照準器が兇闇の身体を(とら)えることは、遂に無かった。
 乾いた銃声が連続して響き、銃弾の一つが脇腹を掠める。しかし、その銃撃の途中で、銃身を支える左腕を兇闇が掴んだため、(ほとん)どの弾は明後日の方向に飛んでいった。
 兇闇はそのまま、彼の腕を後方に回して捻り上げる。他の三人に対して、盾にするような形だ。
 一息()く暇は、恐らく無いだろう。
 この程度では、数的不利は覆らない。無傷の二人に左右から攻められれば、武器の一つも持たない兇闇ではどうにもなるまい。残りの一人も重症だが、死んではいない。その上、向こうには華鈴がいるのだ。同様に人質に取られて、現状が更に悪化するのは是非とも忌避(きひ)したい。
 だから、今掴んでいるこれは、“盾”ではなく、“武器”。
 一瞬の間も与えはしない。全員が銃を構え、こちらを見ている、この瞬間を逃す気は無い。

閃光魔法(ブライト・ライト)ッ!」

 伸ばした指先から、(まばゆ)い光が迸った。
 それは、指向性を持たせず、圧縮もせず、ただ強い光を発生させるだけの、最も初歩的な(たぐい)の魔法である。懐中電灯代わりにでもするのが一般的な使い方だが、このように、瞬間的にエネルギーを集中させれば、八十万から百万カンデラにも及ぶ光量を発することすら可能だ。

 この兵士たちの保護ゴーグルが特に対閃光仕様でない事は、先程、華鈴に対してスタングレネードを使用した時の動き方を見て気付いていた。だから、こんなにも至近距離で浴びる光は、きっと強烈だろう。
 そして、盾として用済みになった兵士の右腰に()かれたホルスターの(フラップ)()ね開け、途端に銃口の狙いが定まらなくなった一人に向けて蹴りつける。狼狽(ろうばい)に彩られた悲鳴と、銃声。覆い被さった兵士の背中から、血飛沫が散って、曇天(どんてん)(あけ)に染めた。……致命傷と言うには充分だ。
 右手に残されたハンドガンは、見知らぬ種類だが、セーフティーにもデコッキング・レバーにも指が掛からないと言う事は、恐らくダブル・アクション・オンリーの銃だ。
 だが、その使い勝手を確かめている時間は無い。兇闇が地面を蹴って転がれば、出鱈目(でたらめ)な射撃が地面を穿(うが)った。もう一人の銃撃である。

 ――通常、戦場に於いてハンドガンが装備される例こそあれど、使用される事はと言うと、ほぼ皆無と言っていい。
 拠点突入時や塹壕(ざんごう)戦など、限定的な空間での戦闘や、敵兵の処刑、あるいは自決用……などなど、()わば武器としては飾りのようなものだ。
 威力は低く、射程も短い。特に今握っているようなダブル・アクション・オンリーの銃は反動も大きく、狙いがぶれやすい。
 特殊部隊などによる近距離白兵戦(CQB)では多く使用されるのだが、今回のこれもしっかりと(フラップ)を閉じられ、咄嗟(とっさ)に抜くことすらできない状態だった。下手をしたら薬室(チャンバー)に初弾も装填(そうてん)されていないのではないだろうか。

 さて、では問題だ。
 今、視力をある程度奪った敵兵が、後退(ずさ)りながらアサルトライフルを乱射しようとしている。この場合、右手にある拳銃で不安定な姿勢からの射撃を試みるべきか? それとも一旦立ち止まって、安定な射撃姿勢を取るべきか? なお、敵はこの一人だけでは無いとする――。
 答えは無論、否である。
 武器を手にしたとて、その武器があらゆる局面に於いて格闘よりも頼れるとは限らないのだ。

 兇闇は地面を数回転した後、姿勢を低く(たも)ったまま、その兵士に突進した。
 流石(さすが)に気配を悟られ、銃口が兇闇の方向を捉える。……が、よほど慌てていたのだろう、銃床(ストック)が正確に肩付けできていなかった。肩付けが甘ければ、強力なライフル弾の反動によって、自動小銃の銃身は身体から上向きに吹き飛び、正確な射撃ができなくなる。射撃姿勢の基礎である。
 そして案の定、その予測は現実となる。新兵か何かだろうか、彼が四人の中で最も戦闘経験が足りていないようだ。
 ()れた照準が戻される頃には、当然そこに兇闇は居ない。逆側から至近距離にまで肉薄し、銃爪に掛けられていた腕を強く(やく)し、一息に引くと同時に右手のハンドガンをボディアーマーに引っ掛け、肩を支点にその躯体(くたい)を放り上げた。
 宙に浮いた身体は、左手の引きによって即座に地面へ叩きつけられる。ちょうど、互いの右腕が交差するような体勢である。
 兇闇は()めた()をして、(うめ)く男の頭部に向け、微塵(みじん)躊躇(ちゅうちょ)も無く右手の銃爪を引いた。
 乾いた破裂音と共に、鮮血の(はな)が咲く。
 どうやら、ちゃんと弾だけは装填されていたようだ。市街戦では、拳銃の使用機会は比較的多い方だからだろう。

 そして、死体の首元を掴んで持ち上げようとした所で――気付く。視界の端の、照準器の(きら)めきに。

 しまった――と、兇闇は内心で歯噛みする。そこに立っていたのは、最初にフレイムアローで頬を焼いた兵士だった。最初に負傷させたが故に、ひどく目を(しか)めるか、傷口ごと手で覆うかしていたのだろう。あの閃光を直視せずに済んだ分、視力の回復が早かったのだ。ライフルの銃弾を受け止めきれる強度の輝光壁(シールド)は――間に合わない。
 そう悟るが早いか、兇闇は兵士の死体を抱えたまま真横へと跳躍した。その姿を、自動小銃のフルオート射撃が追いかける。
 前に突き出した死体のボディアーマーが、幾つかの銃弾を受け、穿たれた。しかしその頃には既に、兇闇は右手の拳銃を相手に向けて投擲(とうてき)し、死体が持っていたアサルトライフルを強引に掴んで、座射(ざしゃ)の姿勢に構えていた。危険は承知の上で、相手より先に正確な狙いをつけるためだ。
 真っ直ぐに飛んだ拳銃を、咄嗟に打ち払ってでもくれれば(おん)の字だったが、そう上手くは事が運ばない。男は最小限の動きで銃を(かわ)し、銃撃を継続する。

「ぐッ……!」

 左肩と上腕に衝撃、そして激痛が走る。
 盾にした兵士のボディアーマーを貫通した銃弾が二発、回転しながら肉を(えぐ)り、突き抜けていったのだ。
 しかし、銃弾はそれ以上、兇闇に向けて降り注ぐことはなかった。
 数瞬の攻防の後、(むな)しく響く装薬の破裂音。空に向かって銃爪を引き続けながら、胸部を()がれるように穿たれた兵士は、地に倒れ、事切れたのである。肢体の痙攣(けいれん)と共に、一際大きな、赤い模様が地面に広がった。

 痛みを(こら)えながら視線をずらせば、先程、兵士を放り投げて動きを封じた最後の一人が、ようやく立ち上がり、銃をこちらに向けていた。予想よりも数瞬、立ち直りが早い。小さく舌打ちを(こぼ)し、兇闇も銃を、肉の盾ごと向け直す。
 だが、兇闇の人差し指に力が込められる前に、もう一つの銃爪は無慈悲にかちりと音を立てた。

 銃声。
 ――そして、僅かばかりの、静寂。

 ごぶ、と口から深紅の帯を垂らして、男はそのまま倒れ伏す。
 その背後には、先程兇闇が投擲したハンドガンを両手でしっかりと持ち、その反動でひっくり返ったらしい華鈴の姿があった。

「あ……あ、あ……当たっ……」

 華鈴は(いま)だ自分のした事が信じられないのか、まさに歯の根が合わないと言った様子で、怯えるように言葉を漏洩(ろうえい)させていた。
 無我夢中だったのだろう。正直、兇闇も信じられない。あの重いトリガープルの拳銃をたった十二歳の彼女が撃ち――そのトリガープルの重さのため、狙いが上に逸れたが故の偶然だとしても――弾を見事、後頭部に命中させたという事実は勿論のことだが……それよりも何よりも、電子世界の中とは言え、彼女がこんな――殺人なんて過激な行動に出るとは思わなかった。
 感嘆(かんたん)安堵(あんど)とを()()ぜにして溜息に込め、鈍く熱を持つ左肩を押さえながら立ち上がる。敵は掃討したとは言え、長居できる環境ではないことは確かだ。
 転がる四つの肉体が、本当に死んでいるかどうか確認し……その時に、彼らがまだ比較的若い事に、初めて気付いた。いわゆる少年兵と言う奴だろうか。
 兇闇はその安らかとは言えない死に顔から目を背け、ぎこちない笑顔を作って華鈴に向き直る。

「よくやった、華鈴。おかげで受ける弾が二、三発少なく済んだかも知れん」
「ひっ……」

 手を差し伸べると、華鈴はひどく憔悴(しょうすい)した顔を見せて、息を()んだ。
 他ならぬ彼女を助けるためだったとは言え、流石に刺激が強すぎただろうか。確かに、今の兇闇は、彼女の目には“恐怖の虐殺者”として映っていても不思議はない。これは少々憂慮(ゆうりょ)を欠いたか――と、差し伸べた手を引っ込めると、華鈴ははっと我に返るかのように身動(みじろ)ぎ、握っていた銃を捨てて兇闇に飛びついた。

「あっ……う、うぁっ、うわぁああんっ! こ、怖かっ……私っ、あぅ、兇闇さんっ、う、撃たれっ……手、それ、血がっ……」

 (なか)ばパニック状態に陥った華鈴は、涙をぼろぼろと零しながら、まともな文章にならない断片的な言葉を羅列し続けた。
 兇闇はそんな彼女の髪を撫でようとして、両手が血(まみ)れになっている事に気付いて止めた。恐らく盾にしていた兵士の血だろう。頭を撃ち抜いた後に首元を掴み、更に身体越しにそいつのアサルトライフルを掴んだりしたものだから、べっとりと血糊が付着している。
 仕方なく、右腕のあまり汚れてなさそうな部分を彼女の背中に回して、軽く抱きしめる。――ごめん、(ひじり)。これは彼女を落ち着かせるためであって、他意は無いので許して頂きたい。

「華鈴、安心しろ。俺は問題無い。弾は抜けているし、こうなると然程(さほど)痛くもないからな」
「で、でもっ……それ、血、出て、穴が……」
「大丈夫だ、どうせデータだからな。だから落ち着け。それより、今はここを離れる方が先決だ。恐らく戦闘が始まる前に、本部に連絡が行っている」

 少々無慈悲なようだが、急いでいる様子を()えて顕著に出しながらそう言うと、華鈴は再び息を呑みながら、びくりと体を震わせた。
 無論、痛くないと言うのは嘘だ。いくら実戦経験が豊富であっても、銃で撃たれる激痛や、“身体に穴が開いている”という事実に対する吐き気がするほどの不快感には、到底慣れる事ができるものではない。
 だからこそ、こんな状態で増援ともう一戦やらかそうなんて、言語道断(ごんごどうだん)だ。
 状況を理解したのか、華鈴はおどおどと周囲の様子を伺い、震えながらも兇闇から離れた。

「で、でも……でも、離れるって、どこに……ていうか、まずここどこなんですか……? 他の、みなさんは……」
「ここに来る前に目星はつけてある。話は後だ、急ぐぞ」
「は、はいっ」

 無論、これも嘘である。適当に逃げる途中で場所を探すつもりだ。楽観はできないが、途中で他の皆とも出会えるかも知れない。
 背後から刺さる、華鈴の「わぁさすが兇闇さん頼りになるなあ」みたいなキラキラした視線がちょっと罪悪感を刺激するが、こんな所で悠長に質疑応答している時間は無いのだ。

「……っと、その前に」

 兇闇は小さく呟いて、先刻華鈴が取り落としたハンドガンを拾い上げ、周囲に視線を巡らせた。その先に()まるのは、四人分の兵士の死体。華鈴と話している間にも、常に視界の隅に入れていたが、もはや動く気配は微塵も無い。
 それに向かって歩く度に、左腕に幾千本もの針を差し込まれたかのような痛みが走り、思わず奥歯に力が込もる。だが、そんな事に(かかずら)ってはいられない。
 ついでに、歩きながらポケットから止血用のハンカチを取り出し、上着を脱ぐ。これは止血帯の上に被せるためだ。しっかり止血する暇は無さそうだが、かと言って、逃亡時に付着した血痕を追われるような失態を犯しては元も子もない。

 そうして、逃げると言っておきながら、死体の側でしゃがみ込んだ兇闇を、華鈴は疑問の眼差しで見つめながら、小さく首を傾げる。

「な、何……するんです?」
「銃を奪う」

 最低限の言葉で明瞭に答えると、華鈴は納得した様子で頷き、ひょこひょこと歩いて兇闇の後に続いた。あまり死体がよく見えない距離まで、だが。
 彼女がちゃんと靴に血を付着させないよう注意して歩いていることがわかると、兇闇はその姿から視線を外す。

 しかし、このアサルトライフルも、兇闇が見たことのない種類だ。主要国家の軍隊に制式採用されているものは一通り覚えているのだが、やはりここは仮想現実と言うだけあって、現実世界とは異なる兵器が制作されているのかも知れない。――“HK”の刻印は、なんだかとっても見覚えがあるが。
 あまり大量に持って行っても使い道が無いので、とりあえずアサルトライフルを二丁、肩紐(スリング)を死体の肩から取り、拳銃は所持しやすくするためホルスターごと、そして予備弾倉の入ったマガジンポーチを幾つか外して頂戴する。
 それと同時に、服の上からハンカチを上腕に巻いて止血し、上着を巻きつける。後は、少しは安全な場所に移動してからだ。

「あの……なんか、その銃、発信機とか、ついてないんでしょうか?」
「む……現実ではあまり見られんが、有り得なくは無いな」

 華鈴の言葉を受けて、兇闇は集めた銃を一旦地面に置き、手を(かざ)して見せた。
 だが、それだけだった。翳した手からは光も、音も、風すらも出ず、銃自体にも何も起こらない。華鈴は更に深く首を傾げながら、兇闇に問いかける。

「え、っと……何を、してるんです、これ?」
「電磁場だ。局所的に強力な磁場を発生させて機械類を狂わせた。発信機は電磁気を発生させるものだから、対電磁気防御コーティングなどはしていないだろう。俺は空気を絶縁破壊するほどの電撃は扱えないが、これくらいならな」

 素っ気なく答えながら、彼はアサルトライフル二丁を肩に掛け、拳銃の入ったホルスターを一つ手に取って、立ち上がる。挙動の一つ一つに、かすかに顔を顰めながら。

「華鈴、残りは持ってくれるか」
「えっ、あ、わっ、わかりましたっ」
「そのハンドガン、安全装置が無いからトリガー引いたら弾出るぞ。気をつけてな」
「うひゃあッ危ないことこの上ない!?」

 今いる場所が仮想現実空間であることを思い出してきたが故か、それとも単に打撲の痛みが抜けてきたからだろうか、華鈴に表情の豊かさが戻ってきていた。

 もし、これが現実世界であったなら、例えそれが戦場であっても、彼女は、人間一人を射殺しておいて、こうもすぐに立ち直れはしないだろう。


 だから兇闇は、一つ、抱いている懸念を、疑念を口に出さずにいた。

 ――ズボンのポケットに入っている、くしゃくしゃに丸められた一枚の紙。
 それは、何の変哲もないレシートだった。ベーコンや卵のパック、各種野菜など、昨日の朝食の材料が記された、近所のスーパーマーケットのレシートである。
 元の世界で疑念に駆られ、何も持っていないフリをして入れておいた、ポケットの中の紙片。
 この世界に構築された“各々を模倣しただけの素体”が、所持しているはずのない――そこにいた誰も、内容を知っている理由など無いはずの、紙片。

 だが、その理由をあれこれ詮索するのは後だ。この(いとけな)い少女に、余計な重荷は背負わせるべきではない。


「行くぞ――」

 言い聞かせたのは、彼女にか、それとも己に向けてだろうか。
 答えの如何(いかん)に関わらず、二つの影は、灰色の街に跫音(きょうおん)を刻む。敵の気配から離れるように、西へ、西へ。



BackNext




inserted by FC2 system