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第三十九話 亡びたる世の幽かな灯



 深く、暗く、冷たい闇の中で、少女は(ひと)り、眠っていた。


 確か以前、何かの断片に記述したはずだ。人の意識とは即ち“島”であると。
 海の上だけを見るならば、それは一つの個体に見える。しかし、それは深い部分に行くにつれて、個は消失し、全てが一つに交わってゆく。

 その集合的無意識の海の底で、遠い日々の残燭の様に、少女は揺れていた。
 もはや彼女が彼女であるという意識すら消失してしまっていたが、忘却の果てに歴史は(おり)となり、降り積もる。
 だから、少女は揺れていた。
 記憶と記録の狭間(はざま)に。
 忘却と抛却(ほうきゃく)境界(さかい)に。

 寄せては返し、返しては寄せ、絶え間なく世界を(どよ)もす時の波は、(やが)て少女の記憶も、形骸(かたち)も、全てを(さら)って(うつろ)へと還すだろう。
 古い小説の題名そのままに、百億の昼と千億の夜が巡る。
 その光と闇の輪転を見ることすらなく、記憶の水底、澱に(うず)もれた空っぽの身体は、少しずつ波に削られて消えていった。
 水圧は肺を浸し、虚無は心を浸し。
 ゆらゆらと肢体を撫でる時の流れは、ただ只管(ひたすら)に心地よく――そして、冷たかった。


 追憶は刹那(せつな)の残響。
 記憶も、感情も、何もかも失った抜け殻のような彼女は、暗く冷たい闇の中から身体(ぬけがら)だけを引きずり出されて、ここに居た。
 虚ろに揺蕩(たゆた)う意識は、坐礁(ざしょう)した(くじら)のように重く、思考を拒む。
 脳髄(のうずい)(もや)がかかったような、朦朧(もうろう)とした感覚。不思議と穏やかな心は、きっと空虚を所以(ゆえん)とする(なぎ)だろう。

 抜け殻に、小さな人影が近付く。恐らく少年の、無邪気な顔が。まるい瞳に、同じ形をした瞳が映る。
 彼は――まるで恋人にでもそうするかのように、優しい微笑(ほほえ)みを少女に向けて、両の手を取り――


「――おはよう」


 失ったはずの心の奥底に、かすかな温度が、灯った――。



第三幕

『因果の綴る追想録』

第二章 過去(とき)に消えた未来(とき)の幻像




 精神投影(ダイブ)完了を伝える振動は、衝撃吸収材越しに全身を揺らし、0と1で造られた空気を僅かに身体から追い出した。

 狭苦しいカプセルの中、真っ暗な視界は、まるで(ひつぎ)の中のようで、ひどく気分が悪い。
 ()き込みながら、とにかくここを出ようと保護カプセルの(ふた)を両手で押し――ニュートン力学の物理運動第三法則を(てのひら)全体で感じながら、微動だにしない金属の板を前に、数秒経過。

 ふっ。無機物ながら見上げた根性だ。今日はこれくらいにしておいてやろう。
 ……などと馬鹿な事を考えている場合ではない事は明白だった。

「あ……あれっ、あれっ?」

 思わず声に出しながら、華鈴(かりん)は両腕に力を込める。現実と全く区別のつかない、薄いクッションを通した金属の質感が両手の感覚神経に伝わった。
 そのまま背中が大きく沈み込むほど突っ張っても、やはり蓋が開く気配はない。不安定な姿勢もあるのか、握り拳を叩きつけても外界は(いま)だ見えず。

 予想外の事態に、焦りが加速する。神経に走る衝撃が収まったら精神投影完了の合図だから、“そっち側”のカプセルからは簡単に出られるはずだ――と言われたのに、出られない。
 言われた通りのことをしたのに、言われたようにならないのだ。
 特に理学に詳しいわけではない華鈴が最初に思い当たった可能性は、とにかく何らかの設定ミスか何かによって、蓋が歪んでしまっているのではないかという事だ。ここが電子的な世界であるのなら、いわゆるゲームのバグのようなものは生じ得るかも知れない。
 ……でもそれって、どうしようもないのでは。

「ちょっ……ま、まずいでしょう、これは」

 焦燥(しょうそう)のままに、華鈴は目の前の金属板を出鱈目(でたらめ)に叩き始めた。
 が、やはりいくら叩いても開く気配は無く、次第に息苦しくなる密室の中、背中を嫌な汗が濡らす。

「暑っ苦しいなあ、ここ……んー、出られないのかな。おーい、出してくださいよー。ねぇー」

 もうなんか、あんまりにも開かないので、逆に冷静になって、以前ライトが観せてくれたΖ(ゼータ)ガンダムの最終回ごっこに興じてみたり。
 だが、ここにはダメになったカミーユを介抱してくれる幼馴染は居ない。て言うかまず華鈴はカミーユじゃない。
 とすると、この状況を打破するために、まず名前をカミーユに変える必要がある。とりあえず改名手続きを踏むため家庭裁判所に書類の申請を――

「……って、えっ、わっ」

 どんどん思考が迷子になっていく中、微かな環境の変化が華鈴を正気に引き戻した。
 具体的に言うと、重力の方向が次第に移動しているのだ。確かに背中に感じていた重力が、ぐらりと(かし)ぎ、頭の方へ。
 今までの混乱もあって、一瞬、華鈴は何が起きているのか理解できなかった。頭の中が真っ白になり、無意味に周囲を引っ掻いて――
 そして、自分が徐々に後ろ向きに傾いているのだと彼女がようやく理解できた頃、今度はニュートン力学の物理運動第一法則を全身で味わう事になった。

 浮遊感に続き、振動。驚きのあまり声を上げていたため、着地時にがちんと歯が鳴り、(あご)の痛みに涙が(にじ)む。
 ……今度から、衝撃が来そうな時は事前に歯を食いしばろう。

 そして落下の衝撃で、いとも簡単に金属の蓋が開き、逆さまになった華鈴の身体が、中途半端に(まろ)び出た。逆立ちの状態から思いっきり脱力して、脚を投げ出したような――とにかく、客観的に見て、ものすごく情けない格好だった。下着も丸見えだし、この姿を目撃した者が誰もいないであろう事を感謝しながら、そのままごろんと後転するように体勢を立て直す。

 ついでに、もう用のないヘッドギアを脱いで、ぺたりと地面に座るような形で、きょろきょろと周囲を見回してみた。
 欧州風の町並みに、人の気配は無かった。遠い太陽は曇天(どんてん)に阻まれ、辺りは少し薄暗い。看板にはアルファベットが並んでいるが、華鈴の知識では、それが一体何語であるのかまでは判別できない。
 景観は先進的な印象を受けるが、人が全く居ないせいか、ひどく(さび)れているように見えた。

 上を見上げると、民家と思われる建物の壁に、人間一人分よりやや大きい程度の穴が穿(うが)たれていた。どうやら、今まではあそこに突き刺さっていたから蓋が開かず、中の華鈴が暴れた振動でようやく抜けたらしい。
 ……なんであんな初期位置に配置したんだろう。いじめかな。

 外観的な印象に続いて、華鈴が感じたものは、とにかく厳しい寒さだった。
 何せ、今の彼女が着ているのは、真夏の現実世界で着ていたものと同じ、学生服なのだ。
 何故ヒスイがこの、ヴァルハラ高校のものではなく、コスプレ用の制服各種を常備していたのかは、今は置いておくとして――現環境において、この決して長くはないスカートは適さない。

 “可能な限り各素体を形態模倣(メタファライズ)して、投影用の身体を構築する”とは言っていたが、服装くらいは環境に合わせたものに変えておいてくれてもいいだろうに。それとも、こういった部分の融通の効きにくさが、未だ不完全な技術たる証左(しょうさ)なのだろうか。

 (あわ)立った脚の皮膚を両手で摩擦しながら立ち上がり、華鈴は灰色の道の、更に遠くまでを見渡した。
 思ってみれば、恐らく近辺にいるであろう皆が、全く見当たらない。
 建築物の壁面に突き刺さっての任務開始と言い、これは流石(さすが)に何らかの異常が発生しているのではないだろうか――と、華鈴が懸念を(いだ)くには、充分な状況である。

「え、えーっと……」

 ――この時、彼女がもう少し注意深ければ、少しは周囲の探索をして、現状を正確に把握しようと試みたかもしれない。
 だが、結論から言えば、若干十二歳の少女にそのような判断力を期待するのは酷と言うものだった。
 華鈴は、少なくとも現在は視界内に存在しない仲間が“近くにいればいいな”と言う、何の保証も無い希望的観測に従い、大声で人を呼んだのである。

「だ、誰かーっ、皆さん、いないんですかーっ! おーいっ!」

 不安を色濃く反映した少女の声は、蕭然(しょうぜん)とした冷気を押し広げながら、灰色の町に反響していった。

 (しば)し待てども、返事はない。恐らく、この町に住人は存在していないのだろう。適当に見渡したところ、民家どころか、何かの店舗らしき建物にも人の姿は見えない。
 確か、今回は“この世界に生じている異変”を調査しろと言われていたはずだ。とすると、よく考えてみれば、現在置かれている状況は(まご)うことなき異変である。
 生じている“異変”とやらが一体いくつあるのかも不明だが、この推察が正しければ、早くもそのうち一つを発見したことになる。

 華鈴はぼんやりとそんな事を考えながら、吹き抜ける風の冷たさに、もう一度身震いをした。

 返事は未だ無く、人影も見えない。
 仕方ない、あまりこの場を離れるのは得策では無さそうだが、今度はこの地点を中心に一定範囲を歩きながら呼んでみよう――と、そんな事を華鈴が考えた矢先であった。
 視界の端を掠めて、小さな何かが飛び込んできた。
 華鈴は当然、それを目で追いかける。何の警戒も、正体の予測も無しに。そして彼女は、視界の中央に認めた“黒い円筒状の物体”が何であるのか、理解することもできなかった。

 刹那、閃光が(まなこ)()き、爆音が鼓膜を(つんざ)いた。

 投擲(とうてき)者の腕ゆえか、そのスタン・グレネードが比較的離れた位置で炸裂した事は、ひょっとしたら幸いと呼べるのかも知れない。一発で気絶しなかったのは、それこそ僥倖(ぎょうこう)だろう。
 しかし、直感的に目を逸らす事すら出来ず、無防備に光を浴びてしまった彼女には、そんな事にいちいち気付いて感謝していられる余裕は無かった。

 一時的にとは言え、視覚と聴覚を完全に奪われた華鈴は、パニック状態に陥って脚を(もつ)れさせ、背中から地面に倒れ込む。
 無意識に叫び声くらい上げていたのかも知れないが、今の彼女の耳は、自分の声さえまともに拾ってはくれなかった。

 何秒間、何十秒間ほどそのまま地面に這っていたのかは、もはや解らない。
 ただ、彼女がふと気付いた時には、周囲に複数人の気配があった。
 焼き付いた光の残像と、麻痺した鼓膜の残響。
 どちらの感覚が先に回復し始めたのかも曖昧で、未だに周囲の状況がまともに判断できる状態ではない。ただ、うっすらと、周りの者達が何かを話しているらしいことだけは理解できた。内容までは聞き取れないが、少なくとも“倒れていた女の子を介抱する”ような優しい雰囲気ではない事だけは確実である。
 何か言った方がいいのかも知れないが、もはや事態は華鈴の理解を超える状況にあり、向こうの言葉すら聞こえない以上、言葉に詰まる以外になかった。

 そのうち、華鈴は服の(えり)(つか)まれ、無理矢理に立ち上がらせられた。
 乱暴な動作に、彼女は本能的な怯えを覚えて息を()み、咄嗟(とっさ)にその腕を振り(ほど)こうとする。
 それは(ほとん)ど、反射的な運動だった。同年代の子供達に同じ事をすれば、大多数が同じように動くだろう。それが、どれだけ粗忽(そこつ)な行為であるのかも気付かずに。
 首元の拘束は、予想に反して呆気なく外された。突然自由にされた華鈴は、勢い余って転びそうになる身体を慌ててとどめ、蹈鞴(たたら)を踏む。
 瞬間、背中の肩甲骨のあたりに、鈍い衝撃が走った。
 何か硬いもので殴打されたのだと気付くより先に、前のめりになった彼女の腹部へと、強固なニーパッドに覆われた膝の一撃が突き刺さる。

「かっ……ぁ……!」

 逆流する胃液が喉を焼き、華鈴は呼吸を忘れてその場に(うずくま)る。初めて知った。腹部にこの程度の打撃を貰うだけで、本当に人間はこんな風に立つことすらできなくなってしまうんだ。
 もはや抵抗する余力も気力もなくなった彼女の頭部に、一切の容赦も油断もなく、何か冷たい(かたまり)が押し当てられる。
 視覚は、聴覚は、次第に戻りつつあった。
 おかげで、周りの男たちが話している言葉が華鈴には理解できない外国語であり、ついでに、頭に押し当てられたそれが本物のサブマシンガンか何かの銃身であることは、()したる苦もなく理解できた。

「けほっ……は、ぅ……」

 (あえ)ぐように酸素を取り入れ、冷えた地面に頬を擦りつけながら、完全に麻痺してしまった頭でやっと絞り出せたのは、なんとも緊張感のない、たった四文字のシンプルな言葉。

「た……タスケテー……」


 ――遅ればせながら、この時になってようやく華鈴は、自分の招いた事態が“最悪”と呼べる類のものであろうことを自覚した。



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