第三十七話 かつて世は死の縄目に掛り
「“クロニクル”について説明するには、
広大な雲海を泳ぐ、金属製の
飾り気の無い部屋の中に、
それを最初に見て取ったリミルが、率先して口を開く。
「仮想……空間?」
「うむ。惑星規模の仮想空間だ。大量に並列接続された大型コンピューターを用いて、物理的な条件を地球と
「えっ……と、そうだね。単純な情報工学の技術実験だけでなく、生物の進化が様々な条件下でシミュレートできるとなると、分子生物学、比較分類学にとっても高い価値を得られる。それに大規模かつ精密なモデルケースは統計学者にとっても興味深いと思う。株価とか、人口変動、環境汚染に、戦争に勝つためのシミュレート……考えれば考えるほど思いつくよ」
「うむ、充分だ」
指先で自分の膝を一つ叩いて、現は続けた。
「では次に。君の印象でよい、この計画の問題点は何かね?」
「聞かれなくても言おうと思ってたところだよ。現実世界のデータを完璧にシミュレートすることは、理論上は可能でも現実的に不可能であること。物質の量子構造から個人の感情の機微、この地球上に存在する
リミルはすらすらと、言葉選びに詰まる様子すら無く言い切った。それを聞いた現も満足気に微笑み、まるで生徒が難問を解いた時の教師のように、説明を引き継ぐ。
「
確かに、こういった大規模な研究は、資金源が最たる
だが、先程リミルが言った通り、この“題材”自体には、針を指すに足る魅力がある。成功の見通しがあるのなら、という但し書きがつくのだが、現の台詞からすると、実行されたのは事実なのだろう。
がたり、と音を立てて、簡素な机に座っていたライトが立ち上がり、リミルの
「じゃあ、その問題は解決された?」
「
「だが?」
そう台詞を
重さで数センチほど椅子に沈み込んだ彼女は、
「……滞りなく進んだのは最初の一年程度だ。ある日突然、研究員の一人によって残りの――少なくとも当時現場にいた研究者全員が殺害されるという事件が発生したのだよ。その犯人も間もなくして変死、状況的に自殺と断定された。アゲートのデータは大部分が消失。研究は凍結。これが
わりと
現在も続いているなら一度くらい状況を耳にしてもいい内容だっただけに、研究が途絶していることは容易に予測がついたが、それにしても思いも寄らぬ物騒な結末に、二人は面食らう。
「う、うわ……そいつは、なんともまた……」
リミルが頬を掻きながら呟いた台詞は、背後から飛んできた短い言葉に遮られた。
「実際は?」
「え?」
言葉の主は、白壁に背を預けた
彼は、振り返った一同を
「今のは
その言葉を期待していたかのように、現は満足気な笑みを
「我々が、破壊した」
「あれは危険な研究だった。正確に言うなら、そのたった一人の研究者によって危険に“させられていた”のだが……故に、我々が破壊した。外側からではなく、その世界の内側に入り込んでね」
「そ、そんに゙ゃっ」
架空の世界に入り込み、データ側から根本を破壊する――その
台詞を中断してすぐさま振り返った彼女は、驚いて半笑いのライトのもみあげを
「あ痛たたたごめんごめんごめんて」
「どうしてくれんのよ貴重なシリアスシーンの緊張感!」
「いやお前が状況考えずに突然前に出るから!」
「ごめん!」
「許す!」
勢いばかりの
「そんな事、不可能なはずだよ……そんな技術が現代にあるわけない……」
「そうだね、リミル。そんな事ができるとしたらフィクションの世界だけだ。“サンゲタル”を用いれば、こちらの世界の人物の分子構造をスキャンして、仮想現実空間に“よくできた
「じゃあ、どうやって“入り込む”なんて真似……」
リミルの思索を打ち切ったのは、また別の方向から響いた声。今まで頬杖をつき
「別人に行動だけ投影したんじゃないの?」
向けられる視線に
「なんか、どーしてもゲーム的な考え方になっちゃうんだけどさ。デバッグ用のキャラクターみたいなものに、精神ってゆーか、こっちからの命令さえ投影できれば、間接的に仮想現実の中を動けるんじゃないかな。ほら、バーチャル・リアリティとかいうやつ」
「ほう。さすがに、
語られた説は相も変わらず荒唐無稽なものだったが、それだけに、現が
何せ、リミルが“そんな技術が現代にあるわけがない”と言ったのは、その可能性も含めての事だったのだ。電脳空間への
もしかしたら、試作くらいはされているのかも知れない。だが、専用のインターフェースが――簡単に考えてもデバイスとドライバが必要なはずだ。例えばゲーム機の後ろ側にコントローラーを
リミルは
「うむ……正確にはバーチャルではなくシミュレーテッド・リアリティだ。現実と全く区別の付かないレベルで
「シミュレーテッド・リアリティ……そんな技術まで完成してたんだ」
「未だ途上ではあるがね。
また一つ、指先で膝を叩く。
「実行したのは君たちもよく知るヒスイや、ルシフェル、ラファエルと、他三人の亜人達だ。他の研究員を殺し、研究結果を悪用しようとしていた一人の研究員の
アゲートに関するひと通りの説明が終わり、殺風景な部屋に沈黙が
その沈黙を再び破ったのは、ライトだった。耳裏の硬質な鱗をかりかりと指で掻きながら、確認するように問いかける。
「……“クロニクル”って言うのは、その時の実験の名残……って事か?」
「うむ。こちらはより小規模なものでな。実験がより進んでから比較に役立つはずだったのだが、それに至らなかったため危険性は認められず、破壊ではなく回収にとどめ、解析を進めてきた」
「それが、今になって変化が見られた?」
「
笑顔を崩さずに、現は部屋に集っている一行を見渡した。見る限り、それは不安に駆られて
“大胆な賭けも一興やも知れん”なんて言っていたから、
何せ、この件に関してヤバそーな事は既にだいたい片付いているのである。他ならぬ、ヒスイ達の手によって。
危険性で言えば、この未だ実用段階にない“精神投影”という技術の精度実験という、それ自体の方が高いのではないだろうか。
いや――だが
リミルもまた、ライトと同じ不安を瞳に滲ませて、現の視線を後から辿るように、白い部屋を眺めやる。その視線が確認できる亜人は、合計して六人。
リミルは、一応、同い年の亜人種と比較すれば、全体的な知識量や戦闘力はわりと上位に位置する自信はある。とは言え専門技能という程でもなく、正直その“クロニクル”とやらに生じた異常が何なのか見当もつかない。
ライトやルナも、学者の助手をやっていたものの、結局は
兇闇と聖に関しては、“亜存在退治の専門家”という普通とは言えない立場を持つが……今回の件は
そして――
「あ、あのぉ……ひ、ひとつ、いーですか」
最後の一人、
「な、なんで私までここにいるんでしょう……その、私なんかにできる事なんて、何も……」
「なに、一緒に遊んでいたのだろう? その延長だ、旅行気分で行ってくるといい」
駄目押しの一言に、ライトは腕組みをしてふうと溜息を
華鈴は経歴こそやや特殊とは言え、能力的にはその辺の小学生と何ら変わらない。そんな彼女すら同じ任に就かせようとは如何なる心積りかと思っていたが、ここまで来ればもはや自明だ。
今回必要とされているのは何らかの専門能力ではなく、単純な“人数”なのである。
「旅行気分、か……本当に難しい任務じゃなさそうだな」
「うむ。ヒスイに頼もうと思っていた事と大差は無いのだが、人数が増えたものでな」
予想は的中。しかし、それから現が僅かに目元を
「とは言っても、危険が全く無いわけではない。いくら仮想現実とは言え、感覚は神経を通じて脳にフィードバックされる。有り体に言えば、死ぬようなショックを受ければ、実際に死ぬ危険があるということだ。まあ、現実と同じだな」
びくり、と、その場にいる多くの者の肩が震えた。ある者は恐怖に、ある者は喫驚に。
娯楽小説の設定としては、確かにありがちな話だ。そう簡単に被験体の数が集められないのもそれなら頷ける。
にしても、である。ネズミの海馬に十秒間ほど電気的な刺激を与えて脳細胞活動を再現することで記憶を書き込む、という実験が行われたのは、まだかなり最近の話だったはずだ。それが今では、脳に電極を挿すようなことをしなくてもそこまでの情報通信ができるとは、近頃の技術の躍進には
“死ぬ危険がある”なんて言われながらも、理系なリミルは知的好奇心の形作った笑顔を浮かべながら、現に確認の言葉を投げる。
「そっ、そんな高度な技術なの? 話から推測するけど、
「ん、その通りだ。高度になりきれんが故、と言ったところだな。現状では、民間に展開するには危険性が大きすぎる」
反面、“死”という言葉そのものに怖がってしまっている聖が、その後ろに居た。普段通り無表情の兇闇が、胸に
「よしよし、大丈夫大丈夫」
「こわい」
「現実世界で死と隣合わせないつもの任務の方が怖いと思うが……」
相変わらず、どうにもほのぼのした“
緊迫したと思ったら、一瞬で不思議に
「で、調査っていうのは、具体的に何を調べればいいんだ? その異常って、一体何なんだよ?」
「うむ、それなのだが……“クロニクル”内部において、記録の上では何の原因も無しに、一個の巨大な生命体と
言って、現は
「君達がやらなければならないことは、単純明快。“歩き回って、変なものを探す”。それだけだ。核心へ至るためには、
「また漠然としてんなあ」
「針の置き場は後から決めるさ。いずれ羅針盤は一つの事象を指し示すだろう」
「それまでは、指すべき方位を探すのみ……か」
案の定、天井のスピーカーから、
『皆、もうすぐアメリカ合衆国、カリフォルニア州上空に入る……よければモニターに映すから、見たいならブリッジに来て……』
その言葉に反応して、ルナが椅子を跳ね上げながら勢い良く立ち上がり、駆ける。
「うっそ、もう!? 見たい見たい! 自由の女神とか見たい!」
そして、跳ねあげた椅子の音にびっくりしたらしい聖を再び撫でながら、兇闇が無表情にその姿を目で追った。
「ルナ、自由の女神は反対側だ」
「なんとぉッ!?」
がびーん、みたいな音をどこかから発生させながら(風系の魔法だろうか)、オーバーリアクション気味に振り返るルナ。
呆れた様子の兇闇もまた、自分も見たいは見たいのか、聖の背に
そう、“船”――即ち、現
この黒神現という、たったの二十五年しか生きていない人間に、規格外の権力があるのだと、こういう時にリミルは実感する。全長二五〇メートル以上もある重武装した
――いや、一応ドイツ政府から借り受けているという扱いなのだったか。どちらにしても、今は彼の一存で動かせるのは確かなのだから同じ事だろう。
ちなみに、法的には一部の先進国以外に対処していないので、もし渡航中に見つかったら結構大変な事になる。スケールが巨大過ぎてピンと来ないが、いわゆる密航である。なので、国防の目すらもすり抜ける高度な
しかし、今回は事前に向こうの国に話が通っているので、船籍確認さえ済めば彼らは見て見ぬふりをしてくれるどころか、空港の使用許可すら出ている。先述した“一部の先進国家”の元へと渡る時は、だいたいこんな感じだった。
リミルはすっかり人口密度の半減した部屋の中、ゆっくりと深呼吸をして、呟く。
「アメリカか……久しぶりだなあ」
といっても、リミルが現にくっついて米国を訪れたのは、一、二年ほど以前の事だ。
思ってみれば、アゲート・プロジェクトを潰したと言っていたのは、その時なのかも知れない。
机上の端に開かれたままの地図に目を遣れば、現在付近にいるであろう海岸線から東にずれた辺りに、赤い印が付けられていた。
カリフォルニア州リバモアの一点。
物理学に情報工学にエネルギー研究、その他
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