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第三十六話 (やが)(かたむ)く陽も()だ高く



 窓から差し込む初陽の光が、薄いカーテンに散らされて、揺らめいていた。
 純白のシーツと、薄手のタオルケットに描き出される、淡い光の紋様。穏やかな風に合わせて、まるで波打ち際の水面(みなも)のように、寄せては返し、返しては寄せ。

 こと、と硬質な音をたてて、その部屋の中央に鎮座する大きめのテーブルに、チーズトーストを乗せた平たい皿が置かれた。続いて、ベーコンエッグ、冷製の野菜スープ。皿が全て配置されると、美味しそうな気配に反応してのことか、タオルケットがもぞりと動く。
 時刻は朝六時を回った頃。軽い朝食の支度を終えた兇闇(まがつやみ)は、エプロンを付けたままの姿で伸びをした。

 部屋の隅に置かれたベッドに、彼は改めて目を遣った。
 タオルケットの下で寝息を立てているのは、案の定と言うべきか、処刑者(エグゼキューショナー)としての後輩である桜花(ひじり)その人だ。転移からおよそ半年が過ぎ、こちら側での生活にも慣れてきたのだろう。ぎこちなさと共に、すっかり遠慮も消え、またこうして兇闇の部屋に泊まり込む日が増えてきた。

 ……こちらはと言えば、さっぱり慣れない。
 そもそも以前、彼女との間に壁を作っていられた理由は、住む世界が違う以上、いずれ避け得ない別離の時が来るという、明確にして覆りようのない事実があったからだ。
 ところがどっこい、覆ってしまった。意外と簡単に。
 さて、こうなると話は違ってくる。何せ、望めば一緒にいられるのだから。
 以前なら“それでは彼女のためにならない、彼女の普通な人生を奪うことになってしまう”なんて偽善めいた言い訳が通用したところを、この馬鹿は自分で自分の人生を投げ捨てやがったのだ。

 となると、困った。感情を(とど)める建前を失ってしまった今、目の前で無防備に眠る少女は、もはや“好きでいてはいけない存在”では、ない。
 それで何を困ることがあるのか、なんて、ライトあたりには言われるかも知れない。というか、普通、これこそ望むところなのだろう。
 だが、困るのだ。
 薔薇(ばら)十字団という特殊な施設で、最初から一流の処刑者となるよう育てられた、この兇闇という男。仕事に使う程度の交流能力は充分にあるが、それ以外の、プライベートな人付き合いに関しては、まるで知識を仕入れていない。
 ……簡単に言うと、変な事をして嫌われないかどうかが怖いのである。情けないことに。

 友達程度なら、まあ、わかる。組織内にもそれと似た関係の人間はいたし、円滑なコミュニケーションを図っていれば勝手に仲良くなれるものだ。()くまでも友達として聖達と接していた頃は、苦労はしなかった。
 だが、彼女を一人の女の子として見るとなると、応用力でどうにかなる範疇(はんちゅう)を超えている。どの程度までやっていいのか、まるで判別がつかない。

「……聖」

 兇闇は小さく呟くように名前を呼び、屈みこんで、彼女の細やかな髪を撫でた。起こすつもりでのことではない。朝に弱い聖がこれくらいでは起きないことは、とうに知っている。
 髪は少しだけ、寝汗を吸って湿っていた。あまり汗をかかない彼女にしては珍しい。たぶん朝一でシャワーを浴びたいと言い出すだろう。
 落ち着いたワイン色のパジャマは、いつも平服のまま寝ようとする彼女のために買い与えたものだ。相も変わらず家では極端にだらしない彼女は、暑いからと言って、いつも第三ボタンくらいまで開けたまま寝ている。寝相の変化に従って若干はだけた白い胸に、下着は着けられていない。
 ……こいつ、ひょっとしてわざとやってるんじゃあなかろうか。
 沈痛な面持ちで、兇闇はその衣服の乱れを丁寧に整えた。

 “慣れ”とはこれだから恐ろしい。最初は遠慮してできなかったことでも、一度許可してしまったが最後。前例がある以上、二度目を断る理由もなく、三度目に続く頃には、もはやそれが当たり前のようになってしまう。この繰り返しで物事はエスカレートしていくのだ。
 いかに戦闘慣れしたこの身とて、こうして聖からかけられる全方位攻撃を(かわ)し続けられる自信には、ちょっと乏しい。
 表情と寝息と体温と香気。視覚と聴覚と触覚と嗅覚。なんと感覚神経のうち五分の四が、こいつが隣で寝てるだけで攻撃を受け続けるのだ。眠気で判断力の鈍った頭が果たしていつまで耐えられるのか、正直言ってわかったものではない。

「はあー……」

 いつもより深い溜息を()いて、改めて立ち上がる。悩みの種の呑気な寝顔は、きっと兇闇を信頼しきっているからこそのものだ。その信頼に答えないという選択は、最初から彼には無い。
 なので、とりあえずその幸福そうな寝姿を転がして、ベッドの下に落とすだけで許してやることにした。

「ほぁうっ!?」

 上半身が落下する直前、平衡(へいこう)感覚の異常を察知したのか、聖はびくっと身体を震わせて、慌てて上体を起こそうとする。
 しかし、結局寝ぼけた頭では状況を完全には飲み込めなかったのだろう。反射的に(つか)んだタオルケットごと、彼女は変な声をあげて床に激突した。

「おはよう聖、朝食ができているぞ」
「うー……せ、先輩、もうちょっと優しく起こしてください……」
「最大限の譲歩をした結果だ」
「ど、どんなヒドい起こし方する気だったんですか、最初は……?」

 (まぶた)(なか)ば以上閉じたまま、聖はベッドにしがみつくようにして、ふらふらと起き上がった。

「むーぅ……先輩、まだ六時じゃないですか、なんかすごく変な夢見たんですけど、シャワー浴びたいです」
「整理してから喋れよ」

 呆れ顔をした兇闇の手を借りて、聖は緩慢(かんまん)に床を這い、テーブルに向かう……が、五秒で力尽き、へにゃりと全身から脱力して(くずお)れる。
 亜人ではなく、こういう軟体生物か何かだと言った方が得心(とくしん)がいきそうな、活力の欠片も感じられない姿だ。その状態でも何事か喋っているようだが、漏洩(ろうえい)するようなそれはもはや言語の(てい)を成していない。
 兇闇はもう一つ溜息をついて、彼女の後ろから両肩を掴んで、上体を起こさせた。

「ほら、起きろ聖。昨日寝たの結構早かっただろ。寝過ぎは身体に良くないぞ」
「うー……もー食べられませ……」
「またベタな寝言を」
「これ以上食べさせたら、魂喰(たまぐ)らいは破裂して……今までに食らった人々の苦痛と絶望は世界中にばら撒かれ……母は死に、父は冷凍刑……俺はウサギを追いしかの山だ……」
「うむ、前言撤回」

 元より貧血気味の聖が、この程度で覚醒しきらないのは全くもって想定内だ。ここで諦めるのは容易(たやす)いが、やや乱暴な手段でよければ、こんなにも無防備な彼女を起こす方法は多くある。日頃の鬱憤(うっぷん)晴らしも兼ねられるとくれば、そいつはなんと素敵な提案だろう。兇闇は、自己に去来した悪戯(いたずら)心を大いに肯定(こうてい)した。
 ふにゃふにゃと骨を抜かれたような身体を、背後から抱き(すく)めて、薄く汗で湿った首筋に顔を(うず)め、舌先で肌に触れる。

「汗、かいてるな」
「――っ!」

 両腕の束縛を解いて、聖は弾け飛ぶように振り向き、勢い余って床に転がる。だが、今度はすぐに自ら起き上がり、慌てた様子で髪を整えた。

「なっ、なっ、なん……」
「改めておはよう、聖。起きたようだな」
「お、起きっ……だ、誰だって起きますよ、あんな事されたら……」

 しれっとして言う兇闇に、耳まで紅潮させて口(ごも)る聖。自分が何かをするのはよくても、自分が何かされるのは全く慣れていないらしい。いや、他ならぬ兇闇すら何もしていないのだから、慣れているはずがないのだが。
 ともかく、珍しく普通の女の子のようなリアクションを見せてくれた彼女に満足した兇闇は、ぽん、と軽く聖の頭を撫でてから、テーブルの向かい側に移動した。

「聖よ」
「むうぅ……なんです?」
「今やってみて自覚したのだが、俺はだんだんお前の匂いが嗅ぎ分けられるようになってきたぞ」
「っ……も、もーやめてくださいっ、起きました、起きましたから……!」

 がたん、と大きく跳ね上がるように、聖は両手をまっすぐに(かざ)して――直接口を押さえようとして、結局届かなかったのだろう――兇闇の台詞を制した。
 兇闇が口を閉じてからも、聖はなにか言いたげなジト目を彼に向けたまま、無言で自身を緩く抱いていた。やがて心が落ち着いたのか、程なくして彼女は溜息と共に項垂(うなだ)れ、細い声を喉から絞り出す。

「……ごはん食べたら、シャワー浴びます」
「うむ、好きにしろ」
「なんか……香水とか、つけた方がいいですか、私……?」
「俺はそのままでいいと思うぞ」

 今まであまり見られなかった反応は、恐らく含羞(がんしゅう)(よし)とするものだろう。環境の変化によるものか、それとも単純な時間経過かはともかく、彼女も少しずつ成長しているのだ。
 世話を焼くのが好きな兇闇にとって、それが歓迎できる事態なのか(いな)かはさて置き、彼は“娘の成長を実感する父親”のような心持ちで、(もっと)もらしく腕組みをして頷いた。

「……なに変な感慨抱いてるんですか、せんぱい……」
「いや何、思えばお前も大きくなったなぁと思ってな。子供の頃はこんなに小さかったのに」

 言いながら、兇闇は片手の指でコの字を作る。大きさの指標のつもりだ。

「私の記憶が確かなら、先輩と会ってから今までそのサイズだった事は無いです……」

 返して、聖は曖昧に笑う。
 その隣で、突如として低い振動音を発する(かたまり)があった。兇闇の携帯電話だ。
 聖は何かを言われる前にそれを拾って、本来の持ち主に渡す。メールの差出人欄はちらと見えたが、それが誰かは分からなかった。
 しかし、受け取った兇闇はと言うと、当然のように差出人の名を口に出した。

「む、なんだ、ライトか」
「……あの、差出人欄に『馬鹿』って書いてあったんですけど」
「まあ、そう登録してあるからな」
「あんまりでは」
「馬鹿は馬鹿で充分だ」

 短く言葉を交わしながら、兇闇がメールの内容を確認すると、“たぶん昼から面白い事するから予定空けとくように、答えは聞いてない”というような事が手短に、しかし若干の茶目っ気を含んで書かれていた。

 率直に言って、嫌な予感しかしない。
 特にこの、何をするのか言わないところと、あと主に茶目っ気の部分から嫌な予感がひしひしと読み取れる。
 そんな兇闇の遠い目から、同様の危惧を感じ取ったのか、聖が不安げに画面を覗き込んだ。

「……なんか、あれですか、ナチスの残党や暗黒半魚人の軍勢と戦う事になったりするんですか」
「そんな“B級映画でありがちなこと”みたいな流れにならないよう願いたいが、たぶん十中八九そんなかんじだ」

 兇闇は頭を抱えて、殊更(ことさら)に深い溜息をついた。
 ああ、せっかく今日は一日聖とゆっくりできると思ったものを、油断をするとすぐにこれだ。神様に嫌われる心当たりは沢山あるが、ちょっと露骨過ぎやしないだろうか。少しくらい安息の日々をくれてもいいだろうに。


 ちなみに、ナチスの残党や暗黒半魚人の群れと戦ったのは、一週間ほど前の事である。
 あの時は生臭くて大変だったなあ、なんて感想しか出てこなくなっている自分が、若干恐ろしくもあり、情けなくもあり。



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