第三十二話 Master Of Puppets
ライトも、リミルも、死を覚悟するほどの余裕は無かった。
この崩れた姿勢では追撃を避けられない、と、そう悟る暇もなく、彼らを取り巻く状況は進行していたからだ。
「フン、妙だな。こいつは――」
細身の長剣を手に、飛び込んだ男は
「
「はい……先輩」
そして、続く女もまた、白髪。どちらも、右の
理解する間も無く、閃光。白く空気を裂いて、振り下ろされる刃。彼らが現れた時とも同様、その瞬間的な加速は、明らかに異質なもの。ただ力を込めて振るっただけではなく、恐らく魔法ですらない、異様な加速だった。
二人の手にした剣が、全く同時に、獣の首筋を叩いた。
――しかし。
「ま、まだだッ!」
構えを解きかけた二人の注意を、ライトの叫びが引き戻した。これが先の“オルトロス”と同じものだとするなら、この程度で終わるはずがない。
その声を受け、弾かれるように
「リミルッ!」
「お……おっけー!」
低気圧の道を辿り、リミルの
ライトは勢いのままに前転し、手首をバネに飛び起き……ようとして、手が滑ってバランスを崩す。全体重を片手にかけるには、その地面は柔らかすぎたのだ。
着地点がずれ、大きく横に転倒しかけた身体は、差し出された腕に受け止められた。その真横を掠める剣閃。最後の触手が散り散りになり、獣の低い唸り声が
「ここは足場が悪い、大きな動きは危険だ」
「あ……ああ、助かった」
自分を受け止めた白髪の男は、随分と老成した空気を身に
ライトは、彼――
だが、詮索している暇など、彼には無い。体勢を立て直して、二人は反発する磁石のように、散り散りに跳躍する。直後、無数の黒槍が地面を
「しかし、これは何だ。亜存在にしては……厚すぎる、異常だ」
誰に
その声に答えるように、彼の背後で
彼女は油断なくナイフを前方に構えたまま、小さく息を
「複合体とかなんとか言って、一回殺しても一回分しか死なない……って話、ぼくらにも詳しくは
「複合体だと? 馬鹿な……奴らはあらゆるものとの合一を拒絶する。複合体など、自然に生まれるものではないぞ」
そこから、少し離れた木陰の奥。やけに緊張感のない歩き方で距離を取りながら、白髪の少女――聖は、漆黒の
普通、こういう“戦う少女”には、もっとこう“あどけない中に
「先輩、先輩」
呼びかけた声に、彼が答えるよりも早く、黒き獣が飛びかかる。
すかさずリミルが手を
アクアシールド。教科書にも載っているような、基礎的な防御魔法だ。
防御魔法と言っても、面攻撃に対してこれを使う場合は液体密度の均一化が難しく、形成した盾は
物理的な運動エネルギーさえぶつけられなければ、これは“感情”を
勢いのまま、水の盾に全身をぶつけた獣は、彼の腕が振るわれると共に、遠く、林立する針葉樹の向こうへ吹き飛ばされた。
どこか異質な放物線を描き、
「今の、ホントです……数は、よくわかんないですけど……少なくとも単体じゃないです、あれ」
「そうか……どこまで
「層状の外殻――たぶん、
その情報から何を思ったのか、表情からは窺い知れない。彼は長剣を両手で握り締め、肩の上に構える。
「狙えるか?」
「……やってみます」
その宣言を合図として、二人は同時に重心を落とし、地を蹴った。刃に映る陽光が、彗星のように尾を引いて、流れる。
光の帯が翻るたび、剥落する闇の衣。猛攻を浴びせながらも、兇闇は最小限の動作で全ての攻撃を
一方の聖はと言えば、常に一定の距離を維持し、大きく弧を描くように移動しながら、迫り来る影の触手を、やはり片端から斬り潰す。その速度たるや、まさに白銀の弾丸の如し。風圧操作による加速とは明らかに違うが、それ以外の
その光景は、
身震いを隠しもせず、ライトは
「す、すげえ……何だ、あの二人」
「
控えめに言うリミルの視線に釣られ、ライトは再びその戦場に目を遣る。
「あんなんばっかか、お前んとこ」
「……わりと」
かりかりと耳の後ろを掻きながら、リミルは視線を逸らした。
「聖!」
瞬間、彼女の握った十字剣の中央、黒い宝玉が呼応するように、
その煌めきを視認した者がいたとして、それから先の彼女の動きを追うことができた者は存在しないだろう。少なくとも、この“通常の時間の流れ”の中には。
白銀の帯を引き――
異常加速する空間の前方、逃げ場を無くした大気が圧縮され、高熱の衝撃波となって、聖の視界を白く染め上げた。圧縮され、密度の上がった気体分子の運動エネルギーが、衝突によって熱エネルギーに変換され、高熱を生む。断熱圧縮と呼ばれる物理現象だ。
超常的な加速の中で振るわれる剣先は、更なる高熱を帯び、周囲の大気層が放射する電磁波――
数
生じた衝撃波が
あるいは
しかし――理解したとするなら、次の瞬間に起きた現象を理解することまでは出来なかっただろう。
確かに、全個体の“結合”が解けたと、無数の希薄な粒子となって散っていくだろうと思われた獣が、再びその
「そんな……外した……!?」
「いや違う、確かに一度は……」
迎撃し損ねた数発が、兇闇の白髪の一部を赤く染めていた。
怯えや驚きのような感情が、一瞬でも殺意を上回ったのだろう。虚数の躯を斬り裂くはずの刃は、その虚数に
いかなる法則に
そんな基礎的な事を、知らないわけではなかった。特別、注意を払っていなかったわけでもなかった。……それでも、漆黒の触手が聖の頬を掠めた瞬間、彼の感情は揺らいでしまった。
兇闇は舌打ち一つ零さずに長剣の残骸を投げ捨て、続く指先の一振りのもとに、簡素な気圧の刃を無数に形成し、放つ。飛び込んでくる
たかが武器を一つ失う程度のこと、今まで
しかし、彼らが今、明らかな異常事態の中にあるのは、容易に見て取れるだろう。
「おい、どーした、今ので倒したんじゃないのか!?」
「解らん。とにかく危険だ。お前達は早く逃げろ」
直後、液体のように波打つ身体をしならせ、漆黒の獣が跳ねた。飛びかかる勢いは目で追えないほどではないが、身を躱すには間に合わない。
迎撃――
しかし、二つの刃先が振るわれるよりも先に、その背後から光が飛んだ。
陽光を乱反射し、ぐにゃりと形を変えるそれが、透明な液体――水であると理解した瞬間、彼らは跳躍した。正面ではなく、向かってくる獣の側面へ回り込むように。
ぴんと張られた水の
「支えろッ!」
「そ……そうかッ」
密度の均衡を失い、水の盾が崩壊する直前、青白い余剰魔力の光が周囲を包んだ。
咄嗟に腕を翳した兇闇と、数瞬遅れてライトによって展開された、局所的な気圧の壁が、分解されようとしていた水の盾を包んだ。
気圧のような“見えないもの”を、強力な感情を伝播させるための媒介物質として利用することは熟練者にも難しい。だから、兇闇も“風”で攻撃こそすれど、防御に使いはしなかった。
それに、掌の全域に同じ力をかけることが難しいように、電磁気力操作による気圧の制御では、全く均一に力をかけることは不可能と言っていいだろう。風圧でアクアシールドの補助を試みるのは、本来逆効果だ。
だが――今、この場合のみは、違う。
質量の無いそれを押し返す分には、アクアシールドに本来必要な“硬度”の維持が必要ない。術者の感情が、殺意だけが、その牙を押し留める。
故に、この瞬間だけ、それは盾の形を維持せず、柔らかな水の膜として、獣の前面に張り付き、“
「このまま……押し返せェッ!」
兇闇の
立ち上がって、小さく安堵の息を
「見様見真似だけど、結構できるもんだね」
それに続いて、遠く蠢く獣を眺め遣ったまま、聖がふらふらと歩いてくる。こうしている姿は、やはり普通の少女――いや、普通の少女よりもずっとぼんやりとしていて、この状況下にあって緊張も警戒もしていないようにすら見える。
彼女は兇闇の袖をくいと引き、ゆっくりと視線を直した。
「……実態が解りました。核が二つ、重なってるんです……同時に潰さないと、新たにもう一つ……」
「
そんな二人の遣り取りを横で聞きながら、ライトは深く思案していた。
彼らの
よくわからない敵と共闘してくれたから。
では、そんな懸念を抱いてしまった今、あらためて彼女の協力を
ライトは面倒な思考を振り払い、遺跡の扉に目を遣った。随分離れてしまったが、少し走ればすぐに着く距離だ。
それに、万一の事があっても――できるだけ使いたくはないが――自分には、切り札がある。
迷いは終わりだ。決意を瞳に宿して、ライトは白髪の二人組に、
「と、とにかく、ちょっとだけ持ちこたえてくれ! 向こうに協力者がいるんだ、今呼んで――」
「いえ」
この聖という少女の性格、行動を、僅かにでも見ていたのなら、その声、その行動に対して、強い違和感を覚えるのは、きっと自然なことだろう。ライトも、リミルも、兇闇でさえも、例外ではなかった。
アビスゲートを両手で握り締め、彼女は構えを変える。今までと特に変わらず隙だらけだが、全身に油断ならない気配を
その背中越しに、漆黒の影が揺らめくように立ち上がり、咆哮をあげた。
「総員、直接援護をお願いします」
「え……?」
どこか眠たげな、
それは、彼女の手にした十字剣の中央、黒い
回避、迎撃の姿勢を取る三人をよそに、聖は
「あ、お、おい聖!」
兇闇の制止も聞かず、聖は駆ける。
愚直に特攻を仕掛けた彼女に、弾丸の如く漆黒の触手が伸び、四方八方から不規則な軌道を描いて襲いかかった。掲げられる十字の剣。赫い煌めき。銀の閃光。彼女の姿は刹那の
空中で身を
がしゃん、と無機質な音を立てて、アビスゲートの
「時空間相転移砲――」
小さな呟きを掻き消すように、
だが、その牙は彼女まで届かない。立て続けに放たれたリミルの電撃が、獣を空中で吹き飛ばし、進路を
次いで、弾かれたように飛び出したのは兇闇だった。右手には小振りの短刀、左手には、先刻アクアシールドに使ったのと同じ、円筒状の容器。彼はそれを親指で跳ね開け、走りながら振り撒いた。
そうして彼の周囲を取り巻いたのは、
兇闇が左腕を振るえば、それらが一斉に飛来しては、その着弾点を中心に、ぱちん、ぱちんと弾けるように、無数の風穴が開いていく。体勢を崩した所に、研ぎ澄まされた短刀の一撃。一際大きく、漆黒の
だが、それでも獣は動く。一切の問題なく、一切の
弓状になったアビスゲートを両手で構え、弧を描くように駆ける聖に、またも無数の触手が降り注ぐ。先の攻撃よりも更に
瞬間、彼女の眼前の地面が盛り上がったかと思えば、突然に爆ぜた。
巻き起こる
“オルトロス”との戦いでリミルがやっていた爆破魔法の応用である。大地に両掌を突いたまま、ライトは
しかし、無数の破片を用いた遠隔攻撃では、敵の攻撃を“散らす”ことはできても、虚数振動の伝播が難しく、
聖は地面に飛び込むようにしてそれを回避し、そのまま倒れ込む。だが、その動きを見て、兇闇は顔色を変えた。
「いかんッ、聖!」
響いた声に、はっとして振り向けば、細い針葉樹の幹に反射するように、軌道を変えた漆黒の獣が、再び眼前に迫っていた。
忘れていた訳ではない。それが、自分たちと同じ領域に存在しているものではないと。
重力も、慣性も、作用反作用、時間や空間の
“それが、そう思い込んだのなら、そう思ったように動く”なんて、ひどく不明瞭な法則に従って動いている彼らと戦うのなら、ほんの一瞬でも油断してはならないと――魔術師である聖が、その程度の事を忘れるはずがない。
こうなることは、最初からわかっていた。
自らの死。かつて一度経験した、怖ろしく、耐え
このまま待っているだけで、またあれを味わうことになる。死ぬことになる。そんなのは御免だ。御免だが……“もし”、やってみたとしたならば、自分はどんなふうになってしまうのだろう。
しかし、聖は実行しない。実行することはできない。それをどこか残念に思う自分は、少しおかしいのだろうと自覚してもいる。
だから、代わりに、与えよう。この両手で、この意志で、聖のよく知っている快楽と興奮を、与えてあげようじゃないか。
まだ日は高かったが、周囲の景色は、ほんの少しだけ薄暗く、夕焼けのように赤みがかって見えていた。
当然の事だ。目に入ってくる光の量が少なくなれば、暗く見える。光の波長が相対的に長くなるから、赤く見える。
ほとんど停止して見えるほど
「――アブソルート・ヴァイス」
周囲一帯、天も地も揺るがす激震と共に、純白に輝く光の柱が
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