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第三十二話 Master Of Puppets



 迅雷(じんらい)(ごと)く飛来したのは、疾駆(しっく)する(やいば)紫電(しでん)。ひとつ、ふたつ、(ひるがえ)るたびに、黒き異形(いぎょう)の獣は削れ、散ってゆく。
 啼聲(ていせい)は、割れ響く鐘のように、聞くものの肝胆(かんたん)を震わせる“振動”を、伝え――苦痛の二文字をのみ、叫声(きょうせい)に宿して、慟哭(どうこく)の鐘は鳴り渡る。

 ライトも、リミルも、死を覚悟するほどの余裕は無かった。
 この崩れた姿勢では追撃を避けられない、と、そう悟る暇もなく、彼らを取り巻く状況は進行していたからだ。

「フン、妙だな。こいつは――」

 細身の長剣を手に、飛び込んだ男は白髪(はくはつ)

(ひじり)! 同時だ、息を合わせろ」
「はい……先輩」

 そして、続く女もまた、白髪。どちらも、右の蟀谷(こめかみ)から天を()くような黒い尖角(つの)が伸びている。
 理解する間も無く、閃光。白く空気を裂いて、振り下ろされる刃。彼らが現れた時とも同様、その瞬間的な加速は、明らかに異質なもの。ただ力を込めて振るっただけではなく、恐らく魔法ですらない、異様な加速だった。

 二人の手にした剣が、全く同時に、獣の首筋を叩いた。(ゆが)んだ漆黒は内部から破裂するように弾け、首がちぎれ飛ぶ。切断された首は、表皮が剥落(はくらく)するように無数の(ちり)となって消えた。
 ――しかし。

「ま、まだだッ!」

 構えを解きかけた二人の注意を、ライトの叫びが引き戻した。これが先の“オルトロス”と同じものだとするなら、この程度で終わるはずがない。
 その声を受け、弾かれるように跳躍(ちょうやく)した二人に、影の触手が追い(すが)る。白髪の男は舌打ちを(こぼ)して、手にした刃を一閃、もう一閃……次は間に合わない。よろめきながら、ライトがそれを追い、腰の後ろの剣を抜いて、斬り潰す。

「リミルッ!」
「お……おっけー!」

 低気圧の道を辿り、リミルの(てのひら)から雷撃が(ほとばし)る。電離現象の連鎖は、ライトの背に迫った影を吹き飛ばした。
 ライトは勢いのままに前転し、手首をバネに飛び起き……ようとして、手が滑ってバランスを崩す。全体重を片手にかけるには、その地面は柔らかすぎたのだ。
 着地点がずれ、大きく横に転倒しかけた身体は、差し出された腕に受け止められた。その真横を掠める剣閃。最後の触手が散り散りになり、獣の低い唸り声が(こだま)する。

「ここは足場が悪い、大きな動きは危険だ」
「あ……ああ、助かった」

 自分を受け止めた白髪の男は、随分と老成した空気を身に(まと)っていたが、年齢はライトと然程(さほど)離れていないように見えた。
 ライトは、彼――兇闇(まがつやみ)たちが、今まさに相対している亜存在を狩るための存在だとは知らない。それでも、この瞬間、恐らく直感的に理解した。この二人もまた、あの怪物を知っていると。
 だが、詮索している暇など、彼には無い。体勢を立て直して、二人は反発する磁石のように、散り散りに跳躍する。直後、無数の黒槍が地面を穿(うが)つ。が、その攻撃速度は、オルトロスのそれよりも遅い。

「しかし、これは何だ。亜存在にしては……厚すぎる、異常だ」

 誰に()てたとも知れず、兇闇はそう呟いて、眼前に迫る首を斬り伏せた。
 その声に答えるように、彼の背後で(きら)めくのは、リミルの握ったナイフの刃。強い感情を乗せた閃きは、三つの影を正確に捕捉し、順々に引き裂いた。――やはり、遅い。
 彼女は油断なくナイフを前方に構えたまま、小さく息を()いて、背中合わせの彼に応じる。

「複合体とかなんとか言って、一回殺しても一回分しか死なない……って話、ぼくらにも詳しくは(わか)んないんだけど」
「複合体だと? 馬鹿な……奴らはあらゆるものとの合一を拒絶する。複合体など、自然に生まれるものではないぞ」

 そこから、少し離れた木陰の奥。やけに緊張感のない歩き方で距離を取りながら、白髪の少女――聖は、漆黒の(かたまり)をぼんやりと眺め、首を(かし)げる。

 普通、こういう“戦う少女”には、もっとこう“あどけない中に只者(ただもの)ではないオーラ”みたいなものが見えたりするんじゃないかなあ……なんてリミルの思いもよそに、どう見ても一般人にしか見えない彼女は、周囲に注意を払おうともせずに、二人の下に走り寄った。

「先輩、先輩」

 呼びかけた声に、彼が答えるよりも早く、黒き獣が飛びかかる。
 すかさずリミルが手を(かざ)す――が、前に立った兇闇はそれを長剣の(みね)で制し、左手に握った円筒(えんとう)状の容器を親指で開け、内容物をぶち()けた。透明な液体の粒は、ぐるりと空中に薄い円を描き、獣の爪撃(そうげき)を防ぐ。

 アクアシールド。教科書にも載っているような、基礎的な防御魔法だ。
 防御魔法と言っても、面攻撃に対してこれを使う場合は液体密度の均一化が難しく、形成した盾は容易(たやす)く自壊してしまう。故に、点攻撃に対してのみ張るのが普通なのだが――今回の敵には“質量”が無い。
 物理的な運動エネルギーさえぶつけられなければ、これは“感情”を伝播(でんぱ)させる媒介(ばいかい)として非常に優秀だ。あの獣は、円形に広げられた水ではなく、そこに満たされた精神の盾に阻まれたのである。

 勢いのまま、水の盾に全身をぶつけた獣は、彼の腕が振るわれると共に、遠く、林立する針葉樹の向こうへ吹き飛ばされた。
 どこか異質な放物線を描き、土埃(つちぼこり)すら立てずに地面に落ちたそれを、聖は目を細めて眺め()る。その両手が構えるは、ケルト十字型の奇妙な剣、破魔剣(はまのつるぎ)アビスゲート。銀色の光沢が冷たく揺らめいた。

「今の、ホントです……数は、よくわかんないですけど……少なくとも単体じゃないです、あれ」
「そうか……どこまで()える?」
「層状の外殻――たぶん、()け合わずに重なった虚数構造体、と……中央、核のようなものが」

 その情報から何を思ったのか、表情からは窺い知れない。彼は長剣を両手で握り締め、肩の上に構える。

「狙えるか?」
「……やってみます」

 その宣言を合図として、二人は同時に重心を落とし、地を蹴った。刃に映る陽光が、彗星のように尾を引いて、流れる。

 光の帯が翻るたび、剥落する闇の衣。猛攻を浴びせながらも、兇闇は最小限の動作で全ての攻撃を(かわ)し、弾いていく。先程のライト達のように無闇に走りまわることはせず、ただただ、斬る。
 一方の聖はと言えば、常に一定の距離を維持し、大きく弧を描くように移動しながら、迫り来る影の触手を、やはり片端から斬り潰す。その速度たるや、まさに白銀の弾丸の如し。風圧操作による加速とは明らかに違うが、それ以外の如何(いか)なる魔法によるものかすら解らない、超物理的な加速。

 その光景は、(はた)から眺める二人の目には、常軌を逸した攻防に映っていた。
 身震いを隠しもせず、ライトは嘆息(たんそく)を漏らした。リミルも構えを解き、その隣に駆け寄る。もはやあの影き獣が、二人の囲いを突き破ってこちらまで来るとは、到底思えなかった。

「す、すげえ……何だ、あの二人」
(うつせ)の――えっと、ぼくのマスターの仲間、だと思う」

 控えめに言うリミルの視線に釣られ、ライトは再びその戦場に目を遣る。

「あんなんばっかか、お前んとこ」
「……わりと」

 かりかりと耳の後ろを掻きながら、リミルは視線を逸らした。

 十重二十重(とえはたえ)に巻き起こる剣風は、獣に生じた小さな隙を()じ開けるように、深く、(いびつ)(からだ)を削っていった。掻き裂かれた黒い肉が塞がるよりも先に、より深くへと、殺意の刃が突き入れられる。地鳴りにも似た、絶叫。
 (やが)て、感情の暴風に(かし)いだ純黒の躯は、ぐらりと一際大きく歪むように、膝をついた。驟雨(しゅうう)の如く続いていた黒き触手の攻撃が、決して(ふところ)への接近を許さなかったそれが――乱れる。

「聖!」

 瞬間、彼女の握った十字剣の中央、黒い宝玉が呼応するように、(かす)かに(あか)く煌めいた。
 その煌めきを視認した者がいたとして、それから先の彼女の動きを追うことができた者は存在しないだろう。少なくとも、この“通常の時間の流れ”の中には。

 白銀の帯を引き――(いや)、その帯そのものとなって、聖は直線に“加速”する。
 異常加速する空間の前方、逃げ場を無くした大気が圧縮され、高熱の衝撃波となって、聖の視界を白く染め上げた。圧縮され、密度の上がった気体分子の運動エネルギーが、衝突によって熱エネルギーに変換され、高熱を生む。断熱圧縮と呼ばれる物理現象だ。
 超常的な加速の中で振るわれる剣先は、更なる高熱を帯び、周囲の大気層が放射する電磁波――輻射(ふくしゃ)加熱のエネルギーは、刃を赤い光に変える。

 数刹那(せつな)の間すら無く、閃光は、獣の“核”を貫いた。
 生じた衝撃波が虚空(こくう)を駆け抜ける頃、もはや漆黒の獣は動きを止め、微細な粒子の塊となって消滅しようとしていた。
 あるいは瓦解(がかい)する獣の姿を見て、あるいは剣を振り抜いた聖の姿を見て、その瞬間、何が起きたのか理解する者があったかもしれない。
 しかし――理解したとするなら、次の瞬間に起きた現象を理解することまでは出来なかっただろう。
 確かに、全個体の“結合”が解けたと、無数の希薄な粒子となって散っていくだろうと思われた獣が、再びその形骸(けいがい)を、輪郭(りんかく)を取り戻したのだから。

 安堵(あんど)して構えを解こうとしていた二人は、咄嗟(とっさ)に武器を握りなおして身構える――が、遅い。
 咆哮(ほうこう)と共に降り注いだ漆黒の、最初の一撃が聖の頬を掠め、次の一撃は、アビスゲート中央に展開された光の盾に散らされた。その時になって、ようやく聖は判断力を取り戻し、再び“加速”して離脱する。

「そんな……外した……!?」
「いや違う、確かに一度は……」

 迎撃し損ねた数発が、兇闇の白髪の一部を赤く染めていた。
 怯えや驚きのような感情が、一瞬でも殺意を上回ったのだろう。虚数の躯を斬り裂くはずの刃は、その虚数に()まれ、途中から消滅していた。

 いかなる法則に()ってのものか、あらゆるものを透過し、あらゆるものを喰らう――亜存在と戦う上で、一瞬でも殺意を失えば、突き入れた武器ごと食われてしまう。
 そんな基礎的な事を、知らないわけではなかった。特別、注意を払っていなかったわけでもなかった。……それでも、漆黒の触手が聖の頬を掠めた瞬間、彼の感情は揺らいでしまった。

 兇闇は舌打ち一つ零さずに長剣の残骸を投げ捨て、続く指先の一振りのもとに、簡素な気圧の刃を無数に形成し、放つ。飛び込んでくる黒塊(こっかい)は、一つ残らず散って消えた。
 たかが武器を一つ失う程度のこと、今まで(いく)度あったか数えてすらいない。風切り音の響きに合わせて、彼は小さく跳躍して距離を取り、腰のベルトから小振りの短刀を抜いた。

 しかし、彼らが今、明らかな異常事態の中にあるのは、容易に見て取れるだろう。
 (かたわ)らにライトが駆け寄って、兇闇のそれと同様の風圧波を漆黒の獣に放った。無数の刃を全身に受け、獣の輪郭は溶け崩れる。崩れて(なお)(うごめ)く。

「おい、どーした、今ので倒したんじゃないのか!?」
「解らん。とにかく危険だ。お前達は早く逃げろ」

 直後、液体のように波打つ身体をしならせ、漆黒の獣が跳ねた。飛びかかる勢いは目で追えないほどではないが、身を躱すには間に合わない。
 迎撃――(いな)、危険を覚悟で、接触面を削りながらすり抜けるしか無い。二人は前傾気味に構え、軸足に力を込めた。
 しかし、二つの刃先が振るわれるよりも先に、その背後から光が飛んだ。
 陽光を乱反射し、ぐにゃりと形を変えるそれが、透明な液体――水であると理解した瞬間、彼らは跳躍した。正面ではなく、向かってくる獣の側面へ回り込むように。

 ぴんと張られた水の薄膜(はくまく)は、黒き獣の猛進を(さえぎ)り、止める。先刻の兇闇のように完璧に遮断することはできず、牙や爪と思しき幾つかの部位が、中途半端に飛び出ていたが、()したる問題は無い。ほんの数秒、その躯体(くたい)を停止させることができれば充分だった。

「支えろッ!」
「そ……そうかッ」

 密度の均衡を失い、水の盾が崩壊する直前、青白い余剰魔力の光が周囲を包んだ。
 咄嗟に腕を翳した兇闇と、数瞬遅れてライトによって展開された、局所的な気圧の壁が、分解されようとしていた水の盾を包んだ。

 気圧のような“見えないもの”を、強力な感情を伝播させるための媒介物質として利用することは熟練者にも難しい。だから、兇闇も“風”で攻撃こそすれど、防御に使いはしなかった。
 それに、掌の全域に同じ力をかけることが難しいように、電磁気力操作による気圧の制御では、全く均一に力をかけることは不可能と言っていいだろう。風圧でアクアシールドの補助を試みるのは、本来逆効果だ。
 だが――今、この場合のみは、違う。
 質量の無いそれを押し返す分には、アクアシールドに本来必要な“硬度”の維持が必要ない。術者の感情が、殺意だけが、その牙を押し留める。
 故に、この瞬間だけ、それは盾の形を維持せず、柔らかな水の膜として、獣の前面に張り付き、“(おお)う”。

「このまま……押し返せェッ!」

 兇闇の()えるが如き吶喊(とっかん)を合図として、獣は掬い上げられるように水膜に押し戻され、吹き飛ばされて、遠くの地面に叩きつけられた。やはり土埃は(ほとん)ど上がらず、その黒い体躯(たいく)に接触した地面は、奇妙な形に(えぐ)り取られる。
 立ち上がって、小さく安堵の息を()く二人に、簡素な水筒の(ふた)を締めながら、リミルが小走りに近付いた。

「見様見真似だけど、結構できるもんだね」

 それに続いて、遠く蠢く獣を眺め遣ったまま、聖がふらふらと歩いてくる。こうしている姿は、やはり普通の少女――いや、普通の少女よりもずっとぼんやりとしていて、この状況下にあって緊張も警戒もしていないようにすら見える。
 彼女は兇闇の袖をくいと引き、ゆっくりと視線を直した。

「……実態が解りました。核が二つ、重なってるんです……同時に潰さないと、新たにもう一つ……」
成程(なるほど)、実質不死身か。参ったものだな」

 そんな二人の遣り取りを横で聞きながら、ライトは深く思案していた。
 彼らの台詞(せりふ)について曲解が無ければ、こうして考えなしに叩いているだけでは、あの黒い塊を殺しきることは出来ないという事なのだろう。思ってみれば、先刻の“オルトロス”の時も、とどめを刺したのはデューだった。自分たちの攻撃も有効なダメージを与えていたとばかり思っていたが、それはただ、彼女にそう言われたから思い込んでいただけに過ぎない。実際の所は、解らないのだ。
 よくわからない敵と共闘してくれたから。(ルナ)に回復魔法をかけてくれたから。そんな幾つかの行動をのみ見て、あのデューという女性に対する警戒を解いてしまったのは、果たして正しかったのか? 彼女の言った事を、信じてよかったのか?
 では、そんな懸念を抱いてしまった今、あらためて彼女の協力を()うのは、()か、非か?

 (いな)――否。是非に及ばず。
 ライトは面倒な思考を振り払い、遺跡の扉に目を遣った。随分離れてしまったが、少し走ればすぐに着く距離だ。
 それに、万一の事があっても――できるだけ使いたくはないが――自分には、切り札がある。
 迷いは終わりだ。決意を瞳に宿して、ライトは白髪の二人組に、(まく)し立てるように告げる。

「と、とにかく、ちょっとだけ持ちこたえてくれ! 向こうに協力者がいるんだ、今呼んで――」
「いえ」

 (りん)、と、はっきりと通る声が、彼の台詞を遮った。
 この聖という少女の性格、行動を、僅かにでも見ていたのなら、その声、その行動に対して、強い違和感を覚えるのは、きっと自然なことだろう。ライトも、リミルも、兇闇でさえも、例外ではなかった。
 アビスゲートを両手で握り締め、彼女は構えを変える。今までと特に変わらず隙だらけだが、全身に油断ならない気配を汪溢(おういつ)させた、どこか威圧的な立ち姿。
 その背中越しに、漆黒の影が揺らめくように立ち上がり、咆哮をあげた。

「総員、直接援護をお願いします」
「え……?」

 どこか眠たげな、(うつ)ろな(まなこ)の奥底に、冷徹な殺気が宿る。純粋で、ひどく(いや)な、(くら)く透き通った瞳孔(どうこう)の闇。
 それは、彼女の手にした十字剣の中央、黒い宝珠(ほうしゅ)の煌めきに、どこか似た光だった。

 ()ぜるように輪郭を歪めて、啼聲(ていせい)と共に、漆黒は跳んだ。(もた)げられた鎌首は、眼前の四人すべての首を刈り取るべく振り抜かれるだろう。
 回避、迎撃の姿勢を取る三人をよそに、聖は()()ぐに、その獣に向かって疾駆した。

「あ、お、おい聖!」

 兇闇の制止も聞かず、聖は駆ける。
 愚直に特攻を仕掛けた彼女に、弾丸の如く漆黒の触手が伸び、四方八方から不規則な軌道を描いて襲いかかった。掲げられる十字の剣。赫い煌めき。銀の閃光。彼女の姿は刹那の光輝(こうき)と消え、黒くくねった弾丸は大地に無数の穴を穿つ。
 空中で身を(ひね)り、大きく歪んでいた漆黒は再び獣の形を取って地に降りた。ゆらゆらと蠢く半透明な黒い体躯に、眼球にも似た(つい)の光点が宿る。対峙する聖は身動ぎもせず、まっすぐに剣を構えた。
 がしゃん、と無機質な音を立てて、アビスゲートの円環(えんかん)が開き、両翼に展開する。その形は、まるで(つるぎ)という矢を(つが)えた巨大な弓。

「時空間相転移砲――」

 小さな呟きを掻き消すように、恐嚇(きょうかく)の叫びを上げて、獣は跳躍する。
 だが、その牙は彼女まで届かない。立て続けに放たれたリミルの電撃が、獣を空中で吹き飛ばし、進路を()らしたからだ。高熱による大気の急激な膨張音が、森厳(しんげん)な森に谺した。

 次いで、弾かれたように飛び出したのは兇闇だった。右手には小振りの短刀、左手には、先刻アクアシールドに使ったのと同じ、円筒状の容器。彼はそれを親指で跳ね開け、走りながら振り撒いた。
 そうして彼の周囲を取り巻いたのは、幾許(いくばく)かの、ゴルフボール大の水弾――アクアバレット。やはり初歩的な、攻撃用の水魔法だ。
 兇闇が左腕を振るえば、それらが一斉に飛来しては、その着弾点を中心に、ぱちん、ぱちんと弾けるように、無数の風穴が開いていく。体勢を崩した所に、研ぎ澄まされた短刀の一撃。一際大きく、漆黒の(はな)がばっと咲いた。

 だが、それでも獣は動く。一切の問題なく、一切の躊躇(ちゅうちょ)なく、ほとんど輪郭を失った形骸のまま、“あれがなにをしようとしているのか知っているかのように”、高く高く虚空を蹴って、跳舞する。
 弓状になったアビスゲートを両手で構え、弧を描くように駆ける聖に、またも無数の触手が降り注ぐ。先の攻撃よりも更に広範(こうはん)へ、更に数多く。聖は思わず立ち止まり、迎撃態勢を取ろうとする――が、間に合わない。歪められた口許(くちもと)から、噛み締められた白い歯が覗く。

 瞬間、彼女の眼前の地面が盛り上がったかと思えば、突然に爆ぜた。
 巻き起こる粉塵(ふんじん)、爆炎。垂直に立ち(のぼ)る急激な気流は、破片と共にそれらを舞い上げ、自身もまた真空の刃となって、聖に迫った触手を全て()き尽くす盾となる。息吐く間もなく、閃光。リミルの放った電離連鎖の矢が、空中の獣を撃ち落とす。そして落ちた獣を包んだのもまた、地面から巻き起こる爆炎。大地の組成原子を反応爆発させ、放射される電磁波のエネルギーを、破片と気圧の操作に用いているのだ。
 “オルトロス”との戦いでリミルがやっていた爆破魔法の応用である。大地に両掌を突いたまま、ライトは疲弊(ひへい)した表情で口角(こうかく)を上げた。

 しかし、無数の破片を用いた遠隔攻撃では、敵の攻撃を“散らす”ことはできても、虚数振動の伝播が難しく、希薄(きはく)になるため、ダメージは期待できない。当のライトも、それには薄々感付いていた。
 然程(さほど)の間もなく、爆炎を割って、漆黒の獣は再び聖に向かって跳んだ。
 聖は地面に飛び込むようにしてそれを回避し、そのまま倒れ込む。だが、その動きを見て、兇闇は顔色を変えた。

「いかんッ、聖!」

 響いた声に、はっとして振り向けば、細い針葉樹の幹に反射するように、軌道を変えた漆黒の獣が、再び眼前に迫っていた。

 忘れていた訳ではない。それが、自分たちと同じ領域に存在しているものではないと。
 重力も、慣性も、作用反作用、時間や空間の概念(がいねん)でさえ、意識領域の認識が描き出す曖昧な知覚――亜存在(かれら)にとっては、模倣(もほう)に過ぎないのだと。
 “それが、そう思い込んだのなら、そう思ったように動く”なんて、ひどく不明瞭な法則に従って動いている彼らと戦うのなら、ほんの一瞬でも油断してはならないと――魔術師である聖が、その程度の事を忘れるはずがない。
 こうなることは、最初からわかっていた。

 無様(ぶざま)にも地面に転がった聖に、大口を開けて襲いかかる獣。数瞬の(のち)に迫った死。その顔を、聖は冷徹に見据える。
 (いや)――冷徹を装って、と表現した方が剴切(がいせつ)だろう。
 自らの死。かつて一度経験した、怖ろしく、耐え(がた)い痛み。裂かれた身体の、熱さと、冷たさ。異常事態の混乱に、大量に分泌された脳内物質の(もたら)す興奮。全身の神経を灼くような――快楽。
 このまま待っているだけで、またあれを味わうことになる。死ぬことになる。そんなのは御免だ。御免だが……“もし”、やってみたとしたならば、自分はどんなふうになってしまうのだろう。
 被虐(ひぎゃく)的な妄想は、あの時と似た快感を聖に自覚させ、身体の奥底から震えが湧き起こる。今夜にでも禁忌(きんき)を破ろうと計画する子供が抱くような、ぞくりと湧き上がる興奮。

 しかし、聖は実行しない。実行することはできない。それをどこか残念に思う自分は、少しおかしいのだろうと自覚してもいる。
 だから、代わりに、与えよう。この両手で、この意志で、聖のよく知っている快楽と興奮を、与えてあげようじゃないか。

 鬱屈(うっくつ)した思考の森を抜け、聖は再びそれを見た。黒く歪んだ獣の顔。それが聖に接触するまで、あと一メートルも無い。

 まだ日は高かったが、周囲の景色は、ほんの少しだけ薄暗く、夕焼けのように赤みがかって見えていた。
 当然の事だ。目に入ってくる光の量が少なくなれば、暗く見える。光の波長が相対的に長くなるから、赤く見える。


 ほとんど停止して見えるほど緩慢(かんまん)に進む時間の中で、地面に寝転がりながら、聖はゆっくりと、獣の“核”にアビスゲートを向けて――くす、と、笑った。

「――アブソルート・ヴァイス」

 周囲一帯、天も地も揺るがす激震と共に、純白に輝く光の柱が蒼穹(そうきゅう)を貫いた。



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