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第三十一話 神の目の小さな塵



 窓の外には、震えるほどに森厳(しんげん)夜気(やき)が満ちていた。

 厚手の寝間着(ねまき)を身に(まと)い、冷気を掻き分けて闇を泳ぐ。
 月明かりすら届かぬ廊下も、猫のように光る()が隅々まで照らし出す。
 明らかにヒトのそれとは違う知覚。法則。

 漆黒の海底を、歌いながら泳ぐ(くじら)のように、誰にも聴こえぬ歌を口ずさみながら、(ゆい)は歩く。

 音も立てずにドアを開け、自分に()てがわれた部屋に滑り込み、歌を止める。視界はまた、(くら)く、(くら)く、塗り潰された。
 ――(いな)
 その闇色に、うっすらと見える輪郭(りんかく)があった。

「やあやあ、ウマくやってるみたいだネ、ユイちゃん」

 黒く(ゆが)んだ、恐らく人の形をした輪郭が発した振動は、上質な鈴を転がすような音。
 鈴の()は、まるで声のような波形に凝縮され、さも言語のように情報を持って響いた。

「歴史は加速する――ワタシ達の手に()って、事象は(はし)る。終焉(しゅうえん)に向けて、濫觴(らんしょう)に向けて、驀地(ましぐら)に駆ける」

 芝居めいた動作で大きく広げられ、振り乱された手の端から、真っ白な包帯が揺れる。
 暗闇の中で(あか)く揺らぐ、結の瞳。彼女の意思をそのまま写し込むように(きら)めく、化物じみた(まなこ)
 結の意思のみを映すはずのそれに、もう一人、楽しげに笑う彼女の姿が、映り込んでいた。

「さア――逃走を止め、闘争を始めよう。“彼ら”の為ではなく、“彼ら”の為でもなく、ただ(ひと)り、キミの為の闘争を」

 片方ずつ、人工的に白と黒に塗り分けられた瞳を、ひどく純粋に、純粋すぎる形に歪めて――名無子(ななこ)は、(わら)っていた。



第二幕

『Einherjar』

第五章 集いし雨滴は巡る月




 “黒き森(シュヴァルツヴァルト)”の名を体現するように、黒く針葉を広げて屹立(きつりつ)する(もみ)の木が、視界を覆い尽くしていた。
 そのうち、少なくない量の幾本かは既に枯死(こし)しており、雪混じりの景色に寂寥(せきりょう)の色を滲ませる。
 第二次大戦後、強烈な酸性雨の影響によって、一度この森は死にかけた。事態を重く見た各自治体によって環境問題への取り組みが()し進められ、ようやく森は息を吹き返しつつあるが、当時の傷跡は各所に見て取れる。

 北緯五〇度のドイツと言えど、この時期の都市部では、雪が降っても溶け残ることは(まれ)だ。
 もっと山を登れば、景色に占める白色の割合も多くなってゆくのだろうが、ライト達の立っているここも、森の中では低地に位置する。無論、都市と比べれば気温は低いのだろうが、少なくとも暗い遺跡の中よりはマシだった。

 黒い森林、白い残雪。
 そんな自然の調和の中に、“不自然”が一つ、影を落としていた。

 空間に染み渡る静寂の中、先導していたライトは足を止める。

「あれ……は」

 戸惑いの視線を、後続のリミルに送れば、彼女もまた同様の視線で答えた。

 二人の前に広がる空間のうち、直径にして一メートルほどの景色が、陽炎(かげろう)のように揺らぎ、歪んでいた。
 よく目を凝らさなければ確認できないであろう楕円(だえん)形の歪みは、うねるように耐えず境界面を蠕動(ぜんどう)させ、不気味に落ち(くぼ)んでいた。
 リミルが一歩前に出て、(いぶか)しげに目を細める。しかし、いくら()めつ(すが)めつ見たところで、そんな異常現象に理解が及ぶわけでもない。

「な、何、この歪み?」
「空間の歪曲(わいきょく)、としか言いようがねえよな。あーッと、虚数空間濃度の異常が起きてるって事はだ――」
重力子(グラビトン)の作用による可視光の湾曲(わんきょく)……って所かなあ」

 いくら推測を並べ立てた所で、確信は得られず。
 と言っても、この段階で確信を得る必要は元々無い。二人に課せられた任務は“怪しそうな物・場所があったら触れずに報告すること”であり、独力で対処することではないのだ。精細な位置さえ解れば、それでいい。

 そう思い、ライトが(きびす)を返そうとした――瞬間、二人の背後から、不意に幼い声が投げかけられた。

「あれぇー、お客さん?」

 見えたのは、風に揺らぐ一輪の花。陽の光を受けて(きら)めく、細く(つや)やかな深緑(しんりょく)の髪に差された、薄桃(うすもも)(はな)
 微かな甘い香りが、ふわりと微風に乗って届く。雪混じりの森に佇む亜人の少女は、そのものが小さな花であるかのように、風に合わせて首を傾げた。

 その頭にぽんと手を乗せて、隣に立ったのは青年だった。(なび)く黒髪と、闇色のコート。痩躯(そうく)を覆う漆黒の中で息衝(いきづ)く二つの光は、奈落の底のように昏く、しかしどこか優しげな、赤色の瞳。
 よく見れば、左の側頭部から、角のようにも見える影が、はためく布のように音もなく揺らいでいた。彼もまた、亜人だ。

「想定内さ。ここまでの事象だ、付近の学者が気付いても不思議は無い」

 答える彼の声は、水面(みなも)に落ちた一粒の雨滴のように、穏やかな波紋となって空間中に広がる。
 それからライト達に向けられた表情は、邪気のない微笑だった。黒服に映える白い(かお)は、秀麗(しゅうれい)と言ってもいいだろう。

「君達も調査かい? この時期のこんな場所にハイキングとは思えないし」
「君達も、って事は……そちらも?」

 青年は目を細めて首肯(しゅこう)し、横の少女を手で(うなが)しながら、ライト達の背後――恐らくは、その先にある“歪み”に視線を()った。赤い瞳の奥底が、(かげ)る。

「肉眼で視認できるほど、歪みが拡大している、か……」
「マズいかな?」
「問題無い、とは思う……マヤ、一応解析を」
「りょーかいっ」

 マヤと呼ばれた少女は、快活に頷くと、両手にちょうど収まるほどの機械をポーチから取り出し、駆け足気味に“歪み”の方へと向かっていった。
 少なくとも電気屋では見たことのないそれが、何をするための機械なのかは、二人には知得できない。

 残された青年は、小さく溜息を()くと、再び微笑を浮かべた。
 表情の翳りはとうに消えており、その向こうに感情は見えない。そんな変化の正体も、今となっては解らなかった。ただ、そこには、穏やかな微笑があるばかりだ。

「小規模な重力レンズ効果さ。この程度の空間歪曲率なら、素手で触れても影響は無いよ。多少、力が掛かっているように感じるかも知れないけどね」

 彼は言いながら、湿った土を踏みしめた。双眸(そうぼう)はマヤを(とら)えたまま、動かそうとはしない。
 言動からして只者(ただもの)ではなさそうだが、彼がどういった人物であるのかは、今一つ推し量れなかった。こうして語っている姿だけを見るなら、どこにでもいる亜人の若者だ。

 重力レンズ効果――簡単に言えば、重力場に従って光が(正確には、光が通る時空間が)湾曲するため、強い重力場を挟んで向こう側にある物質が歪んで見えたり、やけに明るく見えたりする現象の事だ。
 本来は天体規模で観測される現象だが、地球上でも局所的に強い重力場があれば起こり得る。今、目の前で起きているこれが、つまるところ“そう”なのだろう。

 どちらからともなく、ライト達は顔を見合わせる。その目から読み取れるであろうものは、困惑に支配された感情。きっと自分も同じ表情をしているのだろうと容易(たやす)く理解できる、惶惑(こうわく)にすら近い色。
 そして、次に視線の向いた先――“歪み”は、さも昔からこの地の一部として根付いていたかのように、黙して動かず。今以上、境界を拡げることも、縮めることもない。

 横を通ろうとする青年に横目を向けながら、ライトは訝しげに、

「なんで、こんなものが?」

 と、小声で切り出した。
 その問いを予想していたのか、()して間も置かずに、彼は答えを返す。視線は相変わらず、小柄な少女を見据えたままだ。

「破れようとしているんだ」

 (つゆ)に濡れた草を踏みしめ、自身もまた、マヤの下へ向かう。
 足元を隠すコートの裾が、凝縮した闇のように、ぐらりと揺らいだ。風の程度にしては妙に大きく揺れ動いていたように見えたのは、きっと目の錯覚だろう。

「たとえば、ぴんと張ったビニールに水を溜めていくと、中央の一箇所に集まっていくだろう? それと同じさ、水は流れるべき所に流れる」

 低く甘やかな、しかし凛としてよく通る、凍てつく宵闇のような声。それは、(まご)うこと無く空気振動(おと)でありながら、ひどく静かな印象を与え、聴く者の安堵を誘う。
 ――この時、ライトが(うつせ)という人物についてよく知っていれば、この声が作為的なものだと気付けたかも知れない。彼がわざとらしく笑って話す時の声は、まさにこれと同質のものだった。

「水溜まりなんだよ、ここは。破れて流れる寸前の――ね」

 黒一色の後姿は、明らかな異常事態を眼前に捉えながらも、それを異常として認識していないらしく、平然と言葉を続ける。その態度こそ、まさに異常に思えた。
 普通ではない事象の肯定。それは彼も“普通”という領域にないと示唆(しさ)している。その領域に自ら干渉するということが如何(いか)に危険な行為か、理解していないわけではない。
 (しば)しの逡巡(しゅんじゅん)を終えて(のち)、リミルがおずおずと口を開く。

「何か、知ってるような口ぶり……ですね」
「知ってるさ。これを作ったのは僕達だからね」

 まさに流れる水がそうあるように、鷹揚(おうよう)と構えた彼は、さらりと軽く言ってのける。
 すべて物事に核心とそれ以外とがあるならば、その境界を踏み越えた瞬間が今、この時なのだろう。ぞくりと背筋を穿(うが)つのは、真実の(もたら)す興奮か、それとも本能の警告だろうか。
 いずれにせよ、時間は戻らず、“流れるべき所へ流れる”のだ。中途半端な覚悟を(つば)と一緒に飲み込んで、ライトは彼の背を注視し、続く台詞を待った。

「川が増水した時のために、水の逃げ道を作るのはよくある事だろう? これはその為の特異点。()わばフェイルセーフなんだよ」

 森厳な静寂に、染み渡る波紋。
 これら全てが咄嗟(とっさ)に吐いた嘘であるなら、彼の想像力には驚嘆(きょうたん)の意を禁じ得ない。だが、この荒唐無稽(こうとうむけい)な言葉を信じる以外に、眼前の事象を説明する方法は無い。それもまた、一つの事実。
 “歪み”の前で足を止めた彼は、それ以上何かを語る事は無かった。ほんの数刹那(せつな)、静けさの中に、(うれ)いが滲む。
 ざわつく胸を強く押さえ、ライトは表向きの平静を取り繕いながら、問う。境界の内側へ、もう一歩を、踏み込む。

「こ、これ……人為的な現象なのか?」

 問われた彼は振り向き、恐らく答えようとしたのだろう。しかし、開きかけた口は、真下から響いた幼い声に遮られた。

「はーい、解析完了ー! 現状で問題なさそーだよ、各領域(エリア)読み上げよっか?」
「いや、いい。問題の有無さえ解ればそれで充分だよ」

 楽しそうに両手を上げて――それでも、身長は隣の青年に届いていない――マヤは勢いをつけて立ち上がった。
 彼女の笑顔に、彼もまた優しい微笑で応じ、ぽんと頭に手を乗せる。その立ち居振る舞いからは、やはり邪気は見えず――なのに何故、自分がこんなにも緊張しているのか、何故、警戒を解くことができないのか、今のライトには理解できない。眼前に立つ存在を“看破”し、理解するだけの材料を、彼は持っていない。
 肩ほどまである黒髪を手櫛(てぐし)()きながら、青年は改めて振り向き、双眸を薄く歪めた。

「そう、問題は無いんだ。君達もそれだけ解ってくれればいい」

 問題は無い。
 そう言われたところで、目の前に広がる光景には、どう見ても問題しかなかった。
 かりかりと耳の裏を掻きながら、リミルは脱力したように息を吐く。

「う、うそだーぁ……」
「むっ、私の観測結果が信用できないと申すかっ!?」

 と、わざとらしく憤慨(ふんがい)した様子を見せて、マヤ。
 思わぬ所から返事がきたからか、リミルは喫驚(きっきょう)(あらわ)にして、小さく飛び上がった。
 青年はそれらを交互に見て、呆れたような苦笑を作る。ああ、またか、とでも言いたげな、こういった事態に慣れた者の目だ。

「まず人として信じられてないんじゃないかな。マヤ、どっか胡散(うさん)臭いし」
「えッ、そればっかはヘイト君に言われたくないよ!?」

 心底から意外そうな顔をして、オーバーリアクション気味に振り返るマヤ。
 あまり女の子らしくはない動作で、ずかずかと大股に、彼――ヘイトに接近したかと思えば、びしっ、と人差し指を突きつけ、続ける。

「ミステリアスな女の魅力と言いなさい、魅力と! いっつぁちゃーむぽいんつ!」
「あはは、そうだね、魅力だね」
「赤子を見るような目ッ!」

 またもオーバーリアクション気味に打ち(ひし)がれた彼女は、わりと濡れている地面に躊躇(ちゅうちょ)なく膝をついた。土が膝に付着し、スカートの裾を濡らしても全く気にしていない様子で、がっくりと項垂(うなだ)れている。
 これで普段通りなのだろうか、ヘイトも特にツッコむこともせず、微笑を絶やすことはない。

「僕がいくら美味しいご飯作っても、さっぱり成長しないもんねぇ、身長も胸も」
「ゲッタートマホ――クッ!」
「まとすッ」

 投擲(とうてき)された片刃の斧が、大気に鮮やかな金属光沢の直線を引いて、ヘイトの肩に突き刺さる。
 それと同じほどの勢いで、逆向きの放物線を描くのは、深紅(しんく)の血飛沫(しぶき)。ああ、酸化してない血ってこんなに鮮やかだったっけなあ、なんて思う間もなく、黒い森(シュヴァルツヴァルト)がちょっとだけ赤い森(ロートヴァルト)に変わっていった。
 ほとんど瀕死のヘイトは、ふらりと倒れる寸前の身を踏みとどめ、ギリギリな笑顔を作りながら、優しくマヤを(たしな)める。こんな状況下にあっても、まだ笑顔を崩さずにいられるとは、その根性は驚嘆に値する。……多分。

「い、いくらツッコミでも、斧を投げるのは危ないと思うな……」
「うっさいー! キミがこういう風に“作った”んでしょー! 趣味かッ、そういう趣味の人か!」
「えっ、マヤ昔から幼児体型だったじゃ」
「ダブルトマホ――クッ!」
「えどぅッ」

 今度は二本、両刃の斧がヘイトの胸部を直撃した。
 先程と全く同じ構図で、先程のおおよそ二倍ぐらいの血飛沫が空を朱に染め、黒い森はさらにもうちょっと赤い森(プルプルロートヴァルト)に変わった。もうなんか、ここだけ見るなら“赤黒い森”でいいんじゃねえのってくらいに。

「な、なんか思ってたのと違うな、この二人」
「マジ刺さりしてるけど大丈夫なの、アレ?」

 一歩引いたところで、やけに冷静な()でそれを見つめるのは、ライトとリミルの二人組。と言っても、冷静そうに見えるのは、単に状況が異常すぎて、どうしたらいいかわからないだけである。
 ヘイトはそれに気付くと、血をダラダラ流しながら、爽やかな笑顔を向けた。ただし、顔面は蒼白そのもので。

「ははは、お見苦しい所をお見せして申し訳ない」
「はあ、あの……体中のいろんな所から血が出てますけど」
「お気になさらず、この程度の流血、マッポーの世ではチャメシ・インシデントさ」
「ロリっ娘が日常的にゲッタートマホーク投げてくるとか末法(まっぽう)の世にも程があるだろ」

 ライトが視線を遣ると、マヤはちょっぴり気恥ずかしげに両(てのひら)を重ねて、俯きがちに釈明を始めた。

「いや、だってデューが“イマドキの娘は手斧くらい正確に投擲できないと女子力下がる”って言うから……」
「えっ今のシャウトを伴う無慈悲な殺戮(さつりく)って女子力を意識しての行為だったの?」
「だから私も頑張って女子力溜めて女子力発電に貢献しないと……」
「何その新機軸のエネルギー」

 よくもまあ、この重症で逐一ツッコミを入れられるものだ。そう嘆息しながらも、二人は、最初にマヤが言った言葉――正確には、その中の人名に、意識を奪われていた。
 不安と驚きを(はら)んだ視線が、交差した。瞳に映り込んだライトの代わりに、リミルは当惑しつつも問いかける。

「デュー……って、さっきの?」
「会ったのかい? じゃあまさか君達も“あれ”と戦ったのか?」

 微かに――ほんの微かに、驚いたような表情を浮かべ、ヘイトは問いを返した。
 “あれ”と呼ばれたものの正体については、考える間もなく解る。二人が無言のまま首肯すると、彼は途端に目を細め、深く沈思する素振(そぶ)りを見せた。まだ体中が血まみれではあるが、いつの間にやら出血は止まっている。

「――マヤ、帰るよ。幾つか調べたい事が出来た。彼女とは後で合流しよう」
「えーっ、まだ野生のソーセージ見つけてないのに!」
「加工食品が野に生きてるわけないよね!?」

 最後にわけのわからない概念(がいねん)を残して、二人は足早に開けた場所へと向かう。その足元で(ほの)かに(きら)めく、青白い魔力の光――重力魔法の発動を見て取り、リミルは慌ててそれを追いかける。一瞬、呼び止めるのを躊躇(ちゅうちょ)したライトを追い越し、彼女は声を張り上げた。

「ちょっ……ま、待って! あなた達は、ていうかさっきのは一体――」

 台詞を制したのは、突き出された人差し指。ヘイトの赤い双眸の中間で、白い指先が、揺れる。

「僕の予想が正しければ、いずれ知る事になるさ。間違いなら、そもそも知る必要は無いんだ」

 そう言って向けられた、ただの――何の威圧感も無いはずの、柔和(にゅうわ)な笑みに気圧(けお)されて、二人はそれ以上、追求することはできなかった。
 ざわりと森が()き、青年と少女は青白い光に包まれる。余剰(よじょう)魔力の放散によって起こる、淡い光エネルギーの放射。
 そして、重力子の制御によって、空間が局所的に歪曲し、それが確認できた次の瞬間には、彼らは天高く飛翔していた。一瞬のうちに、それは視界中の微小な粒子となり、見えなくなった。

 後に残された二人は、ただただ唖然(あぜん)とする以外には無かった。
 彼ら二人に驚かされた事は数多いが――何より、最後の一瞬で感じた、全身に汪溢(おういつ)した凄まじい存在感。まるで幾百もの生命がそこに重合して立っているかのような、膨大な威圧感。
 ただそれだけが恐ろしいのではない。その瞬間に至るまで、強大な魔力を隠していたことが、何より恐ろしい。その一瞬の後、飛翔魔法を発動した直後には、彼は“ただの”亜人に戻っていたのだ。

「な、何なんだろ、今の人たち……すごい魔力だったけど」
「気付いたか、リミルも」

 今更、自分に鳥肌が立っていた事に気付き、ライトは答えながら腕を(さす)った。
 恐らく、ライトの身体は、脳髄(のうずい)の弾き出す本能は、最初から恐怖していたのだろう。ヘイトの言葉と、纏っていた空気に()まれ、感情を(ほとん)掌握(しょうあく)されていた。ある程度の安堵を認識し続けるよう、誘導されていたのだ。
 リミルもそれを今になって自覚したのだろう、顎に手を当て、深刻な表情でライトに寄り添った。

「いや、だってあのトマホークの傷一瞬で治してたよ、しかも話しながら……」
「ああ、うん、まァそういうのは大抵登場人物が触れちゃいけない事なんだけどな?」

 着眼点が微妙に違った。
 リミルは、そんな恐怖など知覚していなかったのだろうか。
 と知れば、途端に自信が持てなくなる。そう思ってみれば、気のせいかも知れない。考えすぎかも知れない。
 迷走を始めた思考を一旦停止させるため、ライトは軽く頭を振って、もう随分離れてしまった遺跡を指さした。

「と、ともかく、報告しねえと。一旦ルナの所に――」

 そこまで言って、ようやく脳が理解した。
 さっき頭を振った時、揺らぐ視界の端を(かす)めた、見間違いにしては大きすぎるような、半透明な黒い影。
 この世に住まう、いずれかの生物に似ているような、しかし、いずれの生物とも違う、冒涜(ぼうとく)的な畸形(きけい)の獣。

 ちりちりと首筋を(あぶ)る殺意の炎に気付くよりは、反射的に視線を巡らせる方が早かった。
 草木の陰に“それ”を確認した瞬間、ライトはその後の事を考慮に入れず、衝動的に大地を蹴りつける。湿った地面がぬめる感覚ごと押し潰し、跳躍(ちょうやく)。リミルを乱暴に突き飛ばし、自身も地面に転がった。
 そして――見た。今度は正確に、しっかりと視認した。さっきまで自分がいた地面を、漆黒の獣が(えぐ)り取った瞬間を。

「な……っ」
「二体目ぇ!?」

 慌てて構えを取る二人の、上空――無数の針葉樹の陰となる場所で、強風に靡く髪や服を押さえもせずに、彼は、少女を片腕に抱き、佇んでいた。
 大地を見下ろすのは、奈落の底のように昏く、赤い瞳。

「――確かめてみようじゃないか、君達が、この盤上へ立つに足る者か否か――」

 血紅(あか)の翼が空を叩き、青年と少女は蒼穹(そうきゅう)()けて、消えた。



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