第二十九話 The Needle Lies
「
暗い、
「神様って、いると思うかい?」
テーブルを挟んで向かいに座り、
ティーカップから立ち昇る湯気が、呼気に乱れて
「……ヘイトの事では、なくて?」
「そ、彼とは違う、神様」
再び紅茶に視線を落とせば、映り込んだ陰影を吐息が
神。
以前の結なら、信じなかっただろう。ポーズとして祈ることはあっても、その対象は
だが、今まで信じてきたものたちは、確かだと思っていた地面は、崩れてしまった。
己が己で無くなる恐怖を
「そう……だね」
呟いた自分の言葉があまりにか細く聞こえて、結は慌てて笑顔を作った。
「そう信じさせて欲しい、かな」
「なるほど」
底の見えない彼の笑顔は、その瞳の色のように不透明ながら、どこか
人間だった頃の結なら、突然こんな環境に置かれたら、不安と孤独の中で狂いそうになっていただろう。だが、壊れるはずの心の輪郭は、もう漆黒に
クロスは淹れたての紅茶を一口
「さて、これで何が
「うん」
「あなたの寿命がわかります」
「マジで!?」
あまりに予想外の言葉が飛んできたので、結は思わず立ち上がりかけ、
向かいの彼は、楽しげな笑みを浮かべて、殆ど減っていない紅茶――やっぱりまだ熱かったんだろう――をソーサーに戻す。誰の趣味なのか未だに解らない、淡い花柄の
「意外といろんなネタ通じるよね、結ちゃん」
「あはは、鍛えられたんだよ……私としては、クロス達が色々知ってる方が意外なんだけど」
聞くところによると、クロスはアメリカ、デューはスペインで産まれたらしい。そんな彼らがこんなに
「僕も鍛えられたクチかな、デューが好奇心の
そう言って笑いながら、クロスは肩を
好奇心。ただそれだけを原動力として、ここまでの情報量を蓄積できるとは
彼女は気
「そんな繰り返しで、好奇心のままに旅してもう十年……くらいになるのか、まーそりゃ色々ムダな知識もつくよね」
それは、明確な
――持っていたが、離れてしまった。あまりに
苦痛に歪む結の心中を
「地獄への道は善意で舗装されている――と言うね。土に
やけに遠回しな、
「いいんだ、クロス。覚悟はしてる。もう、その門は潜ったから」
「
返事に迷って、結もそれに
カップに張り詰めた薄闇は晴れ、揺れるのは透き通った琥珀色。
水面に映る姿は、前にも増して朧気な陰影でしかない。だがその
「私はさ、多分もう、頭がおかしいんだ。ただ亜存在化した人の中ではマシってだけでさ、頭って概念がまだあるのかどうかも解らないくらいだもん。おかしいんだよ」
言い終わってから、構って欲しそうな言葉だったなあ、なんて、情けない自己嫌悪を抱いてみた。今まで他人に頼られることで自己を
薄く横たわった静寂に落ちる雫は、硬質な陶器の音を立てて、大気に溶け込んでいった。
混濁した空間の中に響くクロスの声は、
「友達だったんだろう?」
「そうだね、最高の友達だった」
「その友達は、今でも好き?」
「うん……好きだよ。大好きだったし、今もそう」
答える声に、迷いはなかった。こんな事になってしまっても、その気持ちには、一
「なら」
「でも」
偽りは無かった――はずなのに、遮る自分の声は何故か、震えているように聞こえた。
その事実が、何よりも自分の弱さを自覚させる。結は静かに深呼吸をして、熱くなりかけた喉奥を冷やした。
「――消えて無くなっちゃうんだ、この宇宙も、あの子たちも、みんな」
残された限りの冷静さを、その声に乗せて搾り出す。
その言葉すら否定するわけにはいかないのは解っていた。彼らも皆、同じ思いを抱いてここにいるのだから。
宇宙は、消滅しようとしている。
“
結という“事象”もまた、宇宙の消滅を招く呼び水の一雫となる。
できれば認めたくなかったが、目を逸らしている場合ではない事くらい、とうに理解していた。
「だから、そうなる前に“再生”を――急がなきゃいけない」
テーブルの下で握りしめた手は、漆黒に歪んで揺れる。
力の暴走を抑える
あの後、明確な意識を取り戻して
殺すつもりは、最初から無かった。ただ最後に声が聞きたくて、姿を目に焼き付けておきたくて、会いに行った。
すぐ怖くなって逃げ出して、でも追ってきてくれたことが嬉しくて、足を止めた。少し話した後、目眩ましをして、さっさと消えるつもりだった。――彼女が、既に“逸脱”しすぎていることに気付いたのは、その直後だ。
諦めさせなければいけなかった。自分の入り込んでいい領域ではないと、教えなければならなかった。でなければ、きっと彼女は、本当に排除しなければならない対象になるだろうと確信できた。
結果はと言えば、教えられたのはこっちの方だった。
平穏を棄てることになると、彼女自身も理解していた
結が思っていたよりずっと、聖は強かった。
――だから、早く。
また、この手で彼女を、彼を、傷付けるような事にならないうちに、“再生”を行わなければ。
「僕も、デューも……多分マヤも、君が頼ることくらいできる相手だと思う。無理はしないでね、結ちゃん」
結論を急いでいることを、恐らく結の表情から見て取ったのだろう。クロスはどこか悲しげな表情で、
「君を“こう”してしまった責任も僕らにある。本来君は保護対象であって、こうして手伝ってもらっている時点で――」
「ありがと……でも、あんまり気にしないで」
手伝っている、と言っても、“再生”に直接関連する仕事は、結の実力ではどうにもならない。こんな化物に成り果てた結に出来ることは、ちょっぴりイリーガルな資金稼ぎくらいのものだった。……狙うのは主観的に見て“悪い子”だけにしているので、たぶん秩序に貢献しているんじゃないかなー、と無理矢理納得している。
実際、それは彼らにとって意外と必要な人員だったらしく、感謝されてこそいるものの、なんか自分だけ役立たず感は拭えない。
結は、あらゆる懸念を押し込めるように、照れくさそうに笑って、多少の
「あんま大きな声じゃ言えないけどさ、好きな人傷付けたり傷付けられたりって、結構気持ちよかったりしたんだよねー」
「あはは……君にはそういう方向に育ってほしくないなあ」
「でも、なんか言ってみたらやっぱし恥ずかしかったんで、内緒ね」
「わかってる」
言われたクロスもどこか恥ずかしそうに笑って、もう充分に冷めた紅茶を
溜息は、
「それに、最後の時には――」
その瞬間に
長毛種の猫のような、ふわふわの癖毛を
映り込んだ結の陰影が、
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