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第二十九話 The Needle Lies



(ゆい)ちゃんはさ」

 暗い、(くら)い、薄闇色の紅茶の揺らめきは、玉響(たまゆら)安寧(あんねい)
 (うつ)ろに()ゆる沈黙を切り開いたのは、陽炎(かげろう)の如く踊る白糸(しらいと)を吹き消すように投げかけられた、自分の名を呼ぶ声だった。

「神様って、いると思うかい?」

 テーブルを挟んで向かいに座り、温雅(おんが)な笑顔で問うクロスの真意を測りかねて、結は顔を上げた。
 ティーカップから立ち昇る湯気が、呼気に乱れて攪拌(かくはん)される。くすんだ金色の瞳が、その向こうで言葉を促していた。

「……ヘイトの事では、なくて?」
「そ、彼とは違う、神様」

 再び紅茶に視線を落とせば、映り込んだ陰影を吐息が(ゆが)める。たったそれだけの事が、今ではひどい自嘲(じちょう)(はら)んだ背徳的な行為に思えて、目を逸らした。
 神。
 以前の結なら、信じなかっただろう。ポーズとして祈ることはあっても、その対象は()くまで自分だ。神という言葉自体を朧気(おぼろげ)に定義してはいたが、決して信じてはいなかった。
 だが、今まで信じてきたものたちは、確かだと思っていた地面は、崩れてしまった。
 己が己で無くなる恐怖を()て、自分すら信じられなくなったモノは、何に背を預けて生きていけばよいのだろう。そんな中に放り出されて、“神”なんて都合のいい虚構のほかに、何を信じればよいのだろう。

「そう……だね」

 呟いた自分の言葉があまりにか細く聞こえて、結は慌てて笑顔を作った。

「そう信じさせて欲しい、かな」
「なるほど」

 底の見えない彼の笑顔は、その瞳の色のように不透明ながら、どこか安堵(あんど)を誘う。少しだけ、螢一(けいいち)のことを思い出す表情だった。
 人間だった頃の結なら、突然こんな環境に置かれたら、不安と孤独の中で狂いそうになっていただろう。だが、壊れるはずの心の輪郭は、もう漆黒に()けてしまった。この“異常”とすら言える落ち着きは、人間という脆い輪郭を捨てたが故の結果だ。根拠はないが、結はそう理解していた。

 クロスは淹れたての紅茶を一口(すす)ると、一息ついて言葉を続ける。

「さて、これで何が(わか)るかと言うと」
「うん」
「あなたの寿命がわかります」
「マジで!?」

 あまりに予想外の言葉が飛んできたので、結は思わず立ち上がりかけ、咄嗟(とっさ)に抑える。根拠も()いてみたかったが、多分返ってくる答えはミドリガメとかなので訊かないことにした。
 向かいの彼は、楽しげな笑みを浮かべて、殆ど減っていない紅茶――やっぱりまだ熱かったんだろう――をソーサーに戻す。誰の趣味なのか未だに解らない、淡い花柄の瀟洒(しょうしゃ)なティーセットだ。

「意外といろんなネタ通じるよね、結ちゃん」
「あはは、鍛えられたんだよ……私としては、クロス達が色々知ってる方が意外なんだけど」

 聞くところによると、クロスはアメリカ、デューはスペインで産まれたらしい。そんな彼らがこんなに流暢(りゅうちょう)な日本語を話し、細かな文化を熟知しているのは、この小さな島国の一部地域しか知らなかった結にとって、敬意を表して(しか)るべき驚きだった。

「僕も鍛えられたクチかな、デューが好奇心の(おもむ)くままに歩いてっちゃうもんだから」

 そう言って笑いながら、クロスは肩を(すく)めてみせた。
 好奇心。ただそれだけを原動力として、ここまでの情報量を蓄積できるとは(にわか)には信じ(がた)かったが、デューという女性を間近で見た限りでは、その事実にも納得できてしまう。
 彼女は気(まぐ)れな猫のようにあちらこちらに興味を示し、楽しめそうなものがあったらとりあえず手を出す……と、そういう性格をしているようで、暇を見つけてはクロスを巻き込んで実践している。

「そんな繰り返しで、好奇心のままに旅してもう十年……くらいになるのか、まーそりゃ色々ムダな知識もつくよね」

 (はた)迷惑な、と言わんばかりに苦笑を漏らす。それでも、彼が彼女の申し出を断る姿を、結は一度も見たことがなかった。いつもいつも、口では迷惑そうにしながら、楽しげに立ち上がるのだ。
 それは、明確な羨望(せんぼう)だった。十年間もの長期にわたり、そうやって旅を続けられるような仲間を、結は持っていなかった。
 ――持っていたが、離れてしまった。あまりに呆気(あっけ)無く、あまりにも無慈悲に。

 苦痛に歪む結の心中を()し量ってのことだろう、クロスは軽く溜息をつき、伏し目がちに呟いた。

「地獄への道は善意で舗装されている――と言うね。土に(かえ)れぬ土となっても、神の息吹(いぶき)は君を定義する。し続ける。それは事実だ。それでも君は歩くのかい?」

 やけに遠回しな、寓話(ぐうわ)じみた表現。彼の言葉は吹き渡る涼風のように、しかし乾きて重く、心に(おり)を積もらせる。こんな複雑な比喩(ひゆ)を何故自分が理解できるのかなんて、今やどうでもよかった。

「いいんだ、クロス。覚悟はしてる。もう、その門は潜ったから」
(なんじ)此処(ここ)に入る者、一切の望みを()てよ……か。希望のために希望を棄てるなんて、笑えない皮肉だよ」

 苦衷(くちゅう)を察してか、クロスは従容(しょうよう)(なだ)めるように言って、ほんの少しだけ冷めた紅茶を、口に含む。
 返事に迷って、結もそれに(なら)った。果物に似た、甘く清涼感のある香気が神経に染み渡るように、精神の(さざなみ)(しず)めてゆく。この身体に神経がまだあるのかどうかは解らないが、その香りも味も温かさも、確かに知覚できた。

 カップに張り詰めた薄闇は晴れ、揺れるのは透き通った琥珀色。
 水面に映る姿は、前にも増して朧気な陰影でしかない。だがその水色(すいしょく)は、どんな鏡よりも克明(こくめい)に、結という存在を映しているように思えた。

「私はさ、多分もう、頭がおかしいんだ。ただ亜存在化した人の中ではマシってだけでさ、頭って概念がまだあるのかどうかも解らないくらいだもん。おかしいんだよ」

 諦観(ていかん)の溜息は、空虚(くうきょ)な微笑に融けて、消える。
 言い終わってから、構って欲しそうな言葉だったなあ、なんて、情けない自己嫌悪を抱いてみた。今まで他人に頼られることで自己を(たも)ってきたものの、頼る必要がありそうな人間が周りにいないと、どうにも調子が狂ってしまう。
 薄く横たわった静寂に落ちる雫は、硬質な陶器の音を立てて、大気に溶け込んでいった。
 混濁した空間の中に響くクロスの声は、漂揺(ひょうよう)する音を平坦に鎮めるように、穏やかな微風となって心を撫でる。心理的なケアについて専門的な技術を修めていると言われれば、何の疑いもなく納得できる心地よさだった。

「友達だったんだろう?」
「そうだね、最高の友達だった」
「その友達は、今でも好き?」
「うん……好きだよ。大好きだったし、今もそう」

 答える声に、迷いはなかった。こんな事になってしまっても、その気持ちには、一欠片(かけら)の偽りも無かった。

「なら」
「でも」

 偽りは無かった――はずなのに、遮る自分の声は何故か、震えているように聞こえた。
 その事実が、何よりも自分の弱さを自覚させる。結は静かに深呼吸をして、熱くなりかけた喉奥を冷やした。

「――消えて無くなっちゃうんだ、この宇宙も、あの子たちも、みんな」

 残された限りの冷静さを、その声に乗せて搾り出す。
 その言葉すら否定するわけにはいかないのは解っていた。彼らも皆、同じ思いを抱いてここにいるのだから。

 宇宙は、消滅しようとしている。
 “堕天(フェーズ・ダウン)”という現象によって生じる、亜存在という“異常事象”。その連鎖的発生は、今や収まることを知らず、ヘイトによる管理も()したる意味はない。連鎖の末にあるものは、逃れ得ぬ終局、世界の破滅。
 結という“事象”もまた、宇宙の消滅を招く呼び水の一雫となる。
 できれば認めたくなかったが、目を逸らしている場合ではない事くらい、とうに理解していた。

「だから、そうなる前に“再生”を――急がなきゃいけない」

 テーブルの下で握りしめた手は、漆黒に歪んで揺れる。
 力の暴走を抑える(すべ)はヘイトに教えられたが、暴走しきっていた頃の記憶は殆ど残っていない。朧気に、(ひじり)に会いに行こうとしていた事だけ、覚えていた。

 あの後、明確な意識を取り戻して(なお)、聖の前に姿を表したのは、結の独断だった。
 殺すつもりは、最初から無かった。ただ最後に声が聞きたくて、姿を目に焼き付けておきたくて、会いに行った。
 すぐ怖くなって逃げ出して、でも追ってきてくれたことが嬉しくて、足を止めた。少し話した後、目眩ましをして、さっさと消えるつもりだった。――彼女が、既に“逸脱”しすぎていることに気付いたのは、その直後だ。

 諦めさせなければいけなかった。自分の入り込んでいい領域ではないと、教えなければならなかった。でなければ、きっと彼女は、本当に排除しなければならない対象になるだろうと確信できた。
 結果はと言えば、教えられたのはこっちの方だった。
 平穏を棄てることになると、彼女自身も理解していた(はず)だ。覚悟が、それを上回った。力を(もっ)て、それを()した。――自分の意志で、結に刃を向けてみせた。
 結が思っていたよりずっと、聖は強かった。

 ――だから、早く。
 また、この手で彼女を、彼を、傷付けるような事にならないうちに、“再生”を行わなければ。

「僕も、デューも……多分マヤも、君が頼ることくらいできる相手だと思う。無理はしないでね、結ちゃん」

 結論を急いでいることを、恐らく結の表情から見て取ったのだろう。クロスはどこか悲しげな表情で、(うつむ)き加減に言葉を続ける。

「君を“こう”してしまった責任も僕らにある。本来君は保護対象であって、こうして手伝ってもらっている時点で――」
「ありがと……でも、あんまり気にしないで」

 手伝っている、と言っても、“再生”に直接関連する仕事は、結の実力ではどうにもならない。こんな化物に成り果てた結に出来ることは、ちょっぴりイリーガルな資金稼ぎくらいのものだった。……狙うのは主観的に見て“悪い子”だけにしているので、たぶん秩序に貢献しているんじゃないかなー、と無理矢理納得している。
 実際、それは彼らにとって意外と必要な人員だったらしく、感謝されてこそいるものの、なんか自分だけ役立たず感は拭えない。

 結は、あらゆる懸念を押し込めるように、照れくさそうに笑って、多少の躊躇(ちゅうちょ)の後に台詞を続ける。

「あんま大きな声じゃ言えないけどさ、好きな人傷付けたり傷付けられたりって、結構気持ちよかったりしたんだよねー」
「あはは……君にはそういう方向に育ってほしくないなあ」
「でも、なんか言ってみたらやっぱし恥ずかしかったんで、内緒ね」
「わかってる」

 言われたクロスもどこか恥ずかしそうに笑って、もう充分に冷めた紅茶を(あお)った。
 溜息は、微睡(まどろ)みに射ち込む麻酔針。煩瑣(はんさ)な事象の全てを、闇の水面(みなも)に返して消える。結は殆ど無意識のうちに、薄く(はかな)い微笑を浮かべていた。

「それに、最後の時には――」

 その瞬間に相応(ふさわ)しい“最後の手段”は、常に考えている。

 長毛種の猫のような、ふわふわの癖毛を()で付けて、結は、カップに湛えられた琥珀色に目を()った。
 映り込んだ結の陰影が、嘆息(たんそく)を受けた水面と同様に歪み、揺れた。
 揺蕩(たゆた)う波紋が止んだ後も、紅茶の中の輪郭は、微かに、揺れているような気がした。



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