TOP文章サダメノハテ>第二十八話

第二十八話 A Fool's Paradise



 事象の黎明(れいめい)――その数も知れず降りしきる、雨滴の根源。

 遥か大海をその起源と呼ぶ事は容易(たやす)く、果てと呼ぶこともまた容易い。

 黎明、(すなわ)黄昏(たそがれ)、因果は巡る砂時計。
 畢竟(ひっきょう)、あらゆる事象に始原(はじまり)終焉(おわり)もありはしない。

 物理学に(いわ)く、あらゆる物質やエネルギーは、粒子と波動の二重性を持つと言う。
 ならば、(あまね)く粒子で構成される世界は、流動する波。
 過去――未来――そういったものは、寄せては返す波濤(はとう)、“現在(いま)”という事実の、一つの形状に過ぎない。

 粒子の位置と運動量。
 その数的変化が観測されることで、(もたら)される錯覚(さっかく)

 それを肯定(こうてい)して(なお)、人は追い求めるのだろう。
 自己を定義するために。
 (うつ)ろな波を、確かな粒子へ収斂(しゅうれん)させるために。
 曖昧な輪郭から、心が流れ出さないように。

 終局(そんなもの)は存在しないと理解し(なが)ら、膨大な不安の渇望を癒すため、永遠に辿りつけない“運命(さだめ)の果て”を求めて――。



第二幕

『Einherjar』

第四章 Soldier Side




「……皆は、もう行ったの?」
如何(いか)にも。早ければ百分以内に、彼らは邂逅(かいこう)するだろう」

 静寂に揺蕩(たゆた)う空気を、響く跫音(きょうおん)が押し広げる。
 (うつせ)は長い白髪を指で()きながら黒い帽子を取り、背後に立った(かくり)にそれを預けた。
 彼の肩越しに見える扉からは、二人の処刑者(エグゼキューショナー)が任務に赴いて(しば)し経つ。いずれも子供、片方は初陣(ういじん)。そして敵は“単体ではない”と観測されている。そして何より――不自然に過ぎる、現状。普通なら、熟練者をもう二人は連れて行くべき任務だ。
 それでも彼らを行かせたのは、全て、ここに立つ男の采配(さいはい)に他ならない。
 幽は渡された帽子を(しばら)く眺めていたが、僅かな逡巡(しゅんじゅん)の後、おずおずと唇を開いた。

「やっぱり……危険過ぎる、と思う」
「私もそう思うよ。今回の件は明らかに人為的な現象だ。現場で何が起きても不思議ではない……所詮は人間、その限界に囚われている以上、予測可能性によって照らし出せない空間では、私も策を立てられないからね。彼ら個々の対応能力に任せるしかないのさ」

 淡々と語る彼は、恐らく微笑(ほほえ)んでいたのだろう。
 しかし、穏やかな声に秘められた冷たさは、柔和(にゅうわ)な笑顔を覆い隠すように(くら)く、閉塞的な主観に影を落とす。

「君は解っているはずだ。私は決して全知ではないと」
「やめて」

 遮って、手を握る。
 体温を奪うような言葉は、体温を求める嘆きのように、揺れる湖面の虚像にも似た錯覚を映す。しかし、そう理解して尚、その行爲(おこない)を止める気は、何故(なぜ)か起こらなかった。

「壁に耳ありと言うでしょう。あなたが全知ではなくても、あなたは全知の象徴でなくてはならない」

 静々(しずしず)と紡ぎ出される大気の振動は、確かな熱を帯びていた。
 そんな熱など必要ないのは、重々承知しているつもりだ。“分家”の娘である幽では、“本家”の当主である現には遠く及ばない。駒としての使い(みち)はあっても、助けになってやれる事などありはしない。この血筋は、そういうものなのだ。

「ふふッ……無辜(むこ)の民とは()くも愚かなものか。一人の人間に国家が寄りかかって平和を気取るなど、笑止千万(しょうしせんばん)。彼らは気付かねばならないのだよ。安佚驕侈(あんいつきょうし)(まみ)れた宮殿が、ただの朽木の細枝一本で支えられていると」

 皮肉めいた嘲笑(ちょうしょう)。――恐らく、彼女以外には絶対に見せない表情。それはもしかしたら、自嘲の笑みだったのかもしれない。
 人形のような黒い瞳が、暗い紅玉(ルビー)色を映し込み、僅かに濁った。

「うーくん……苦しい、の?」
「さてね。私は私自身の苦痛すら覆い隠してしまったようだ。()の所在、とんと見当がつかぬ」

 飄々(ひょうひょう)と答える彼の微笑には、虚妄(こもう)の色が透けて見えた。
 そんなあからさまな虚飾(きょしょく)が彼らしいかと言われれば、(いな)。ではこの言動は彼らしくないのかと言われれば、それもまた、否。
 完璧な演技をしようと思えば、呼吸をするように行えるはずだ。彼はその事実を見抜かせることで“何かを伝えようとしている”のだろう。案ずるに、何がしかの事象に対する、警鐘(けいしょう)を。

 しかし、幽の興味は否応なしに現在に引き戻された。
 現がコートのポケットから取り出したのは、半透明の容器に包まれた、(いびつ)で半透明な鉱物だった。色はオレンジに近い黄色で、内部には細かな不純物が含まれているように見える。あまり質のいい宝石には見えないが、幽にはその正体が容易に推測できた。

「それ……まさか“魔物”の」
「うむ、未来の破片さ。東アフリカで採れた半化石樹脂(コーパル)だ。“魔物”の組織を一部取り込んでいる。レイには感謝せねばならんな」

 よく目を凝らせば、硬化した樹脂の中に一際(ひときわ)目立つ、動物の毛のような無数の繊維がうっすらと見えた。それが“魔物”の体毛か否かは瑣末(さまつ)な事だ。事実として、この小さな非晶質(アモルファス)が彼にとって重要な意味を持つことは示唆(しさ)されている。それで充分だった。
 現は柔和な笑みを浮かべて、(だいだい)色の飴のようなそれを幽に手渡した。袋越しの感触は宝石にしては柔らかく、爪を立てれば簡単に変形してしまいそうだ。

「亜人種がどうやって、魔力――即ちエーテルエネルギーを意図的にコントロールしているか、答えられるか?」

 受け取ったものを()めて見ていれば、やや唐突な問い。幽は顔を上げ、微かな躊躇(ちゅうちょ)を顔に浮かべた。
 答えに迷ったわけではない。この瞬間に、そんな問答を行う意味を思索してのことだった。
 しかし、思惟(しい)も時にして数刹那(せつな)。彼女は惑いをおくびにも出さず、淡々と答えを提示する。

「Smp-1-DNAによる、数種類の蛋白質(たんぱくしつ)の生成命令。その蛋白質が発する信号により、Smp-0-DNAを意図的に発現させる事が可能」
「その通り。亜人に限らず、人間などの生命体全てが持っているSmp-0-DNAこそが、エーテルエネルギー制御を行うための塩基配列だ。これがなければ生命体でいられない」

 一本調子に述べる声に混じって、彼の靴底が床を叩く硬質な音が、冷気張り詰める通路に(こだま)した。

「対するSmp-1-DNAは、その機能を拡張する――魔法を使うためのスイッチと言っていい。我々人間には、その“スイッチ”が無いから魔法は使えない」

 今更こうして口にする意義も無いような、儀礼じみた()り取り。しかし、現がそれを口にしたのなら、そうするだけの意味があるのだろう。
 “未来”の、破片――と、彼は言った。数十、数百万年もの時間をかけて重合化した環状炭化水素樹脂。その膨大な“過去”の累積(るいせき)を指して。
 そして、この質問。幽の推測は、次第に確信へと移行する。無意識に押さえた胸の鼓動は、まるで脊髄の内側を反響するように、幾重にも連なった。

「……でも、その作用機序はまだ、研究段階のはず……華鈴(かりん)を造ることで、実際に実数粒子(ターディオン)の制御だけで虚数領域に間接干渉することが可能だとは証明できたけど、その詳しい原理はほとんど解っていない……」
「うむ。だが、ここでは原理を問うのはやめにしよう。飛行機の飛ぶ原理は未だ解明されていないが、現に飛行機は飛んでいる。今は、それでいいのだよ」

 幽は、自分の手の中で鈍い光沢を放つ(かたまり)に、今一度、視線を落とした。
 彼の発するあらゆる言葉が、ただ一つの事実を浮き彫りにしていた。即ち――

「やっぱり、この“魔物”の組織にも……」
「ああ。レイが一足先に“サンゲタル”にかけてくれた。案の定、見つかったよ。亜人にしか存在しないはずの遺伝子配列、Smp-1-DNAがね」

 その結論を(あらかじ)め推測していたのは、僥倖(ぎょうこう)だったと言える。でなければ幽は、この瞬間、必死で平静を取り(つくろ)う必要があっただろう。隙だらけの動揺など、人前で(さら)け出すべき感情ではない。
 幽は彼の背を追い、(あか)い瞳を覗き込んだ。その色はただ眼前の事実のみを映し、緘黙(かんもく)して語らず。目は口程に何とやら、と言うが、中にはどうにも無口な目もいるらしい。
 だが、今はそのような細事に拘泥(こうでい)していても仕方なかった。彼女は穿鑿(せんさく)するように問いかける。

「確か、魔物はすべて、亜人種の出現と共に姿を消した……んだよね」
「うむ。亜人種という存在は、元は人類の変異種だと言われているが、魔物について詳しいことは判明していない」
「魔物が、その時点で一斉に亜人種に変異したというのは?」
「有り得んな。数百種、数千種とも言われる様々な形態を持つ生命体が、一斉に我々のような人間型に進化することは不可能だ。現状、私の推測は、今までの学説と粗方(あらかた)同じものだよ。人類は突然変異を起こして、亜人に分化していったのだろう」

 そう、遺伝子情報の上でも、亜人は人類から派生した種であることは確認されている。それを把握していながら()いたのは、そうでもなければ、彼が今更“魔物”の遺伝子を解析した理由が――そして、解析して得られた結果そのものが、とても説明できなかったからだ。
 その行動を考慮すれば、荒唐無稽(こうとうむけい)な説ばかりが思いつく。人の変異体が亜人であることに間違いはなく、しかし亜人にしかないはずの塩基配列が“魔物”の遺伝子にもあったとするならば。

「――魔物と、融合して、進化した?」
「融合と言う表現が剴切(がいせつ)かどうかはさて置き、私はそう考えている。君は、ウイルス進化論という説を知っているかね?」
今西(いまにし)進化論の補説として現れた主張だったと記憶してる。ダーウィンの自然淘汰による進化を否定して、進化とはウイルスによる一種の伝染病であるとした説だったっけ?」
「そうだ。これは学説としては少々非論理的だがね。ダーウィニズムの補足として、遺伝子の水平伝播(HGT)が進化に影響を及ぼすという論説は、それ以前――レトロウイルスの逆転写酵素が発見された時から存在する」

 現は一旦言葉を区切り、幽の方へと向き直る。貼りつけたように変わらぬ微笑は、どこか楽しげに(ゆが)んで見えた。

「レトロウイルスとは、RNAウイルスのうち、RNA依存性DNAポリメラーゼ……通称、逆転写酵素という酵素を持つものの総称だ」

 幽がそこまで生物学に明るくない事も、しっかり把握されてしまっているようで、現は普段よりやや緩やかな口調で解説を始める。
 しかし、解説する必要があると判断されるのは、少し恥ずかしくもある。幽は、いつか時間を見つけて勉強する決心を固めながら、次の言葉を待った。

「ウイルスは偏性細胞内寄生性――つまり“単独では増殖できず、宿主細胞の力を借りて増殖する”という性質を持つ。だが、通常、ウイルスの核酸は宿主細胞のDNAとは性質的に異なる点が多く、宿主のDNA転写・複製酵素だけでは増殖できない。そのため、ウイルスは自分が増殖するのに必要な酵素、ポリメラーゼだけは持っている」
「……レトロウイルスにおけるそれが、逆転写酵素?」
「そう。DNAの情報からRNAを作る行程を“転写”と呼ぶのだが、逆にRNAからDNAを作るのが逆転写酵素だ。レトロウイルスの持つRNAは、宿主細胞に侵入後、その作用で一本鎖のDNAを作る。それを鋳型(いがた)にもう一本のDNAが合成され、二本鎖のDNAが完成する。そして完成したウイルスDNAは宿主細胞のDNAに組み込まれ、宿主のDNA複製機構を利用し、増殖して出ていく……これが何を意味するか、解るかい?」

 考えるまでもなく、既に結論は出ていた。“分家”の人間では血筋の力も衰えるとは言え、幽の思考速度は一般的な人類の平均値を全面的に上回る。ここまで丁寧に言われれば、解らない道理はない。

「……宿主となった“魔物”のDNAを、“人類”に……」
「そう、ウィルスが運んだのだと思う。組み込まれた、Smp-1-DNAを」
「そして、Smp-1-DNAを、ヒトゲノムに転写した?」
「恐らくは。それが“人”と“亜人”を分けた、決定的な進化の分岐点だった。進化は自然淘汰によるものだという説を否定する気は無いが、少なくともこの瞬間、“例外”が起きたのだ」

 窓の隙間から差し込んだ寒風が、黒いスカートの(すそ)を揺らす。ちりちりと膝裏を掠める、棘のような感覚は、未知への不安によく似ていた。
 いつもと変わらぬ微笑を貼りつけたまま、動かない現の顔を見上げ、幽は自分の顎を指でなぞる。

「でも、それなら何故――」
「――魔物の身体的特徴の一部までヒトに合成されてしまったのか。また、魔物は何処(どこ)に行ったのか」

 幽の疑問は予測されていた――いや、彼にとっての疑問には幽も同様に思い至るだろうという、ある種の信用があったのだろう。
 台詞を引き継いだ彼は、後方手(しりえで)に回した腕を組み、再び廊下を歩き始める。その歩調は緩徐(かんじょ)だが、歩幅が大きいためか、不思議と緩慢には感じない。

「大きな疑問は、この二つだね。確かに、亜人達には“違う動物の器官”のようなものが、身体の一部についている事が多い。硬質な角や、動物のように細かな毛の生えた耳。明らかに類人猿のものとは違う尻尾や、飛べもしない小さな翼状器官など、それこそ枚挙に(いとま)がない」

 細めた目線を肩越しに向け、現はどこか空虚な語調で言葉を続ける。彼自身も懐疑的(かいぎてき)に見ている事を語るときの癖だと、以前、本人から聞いた。

「これは現在、“適応放散”と“収斂進化”という、一見相反(あいはん)する二つの現象によって一応の説明がつけられている。同じような例を挙げると、オーストラリアでは有袋類(ゆうたいるい)が分化した後、真獣類に分化する前に大陸が切り離されたため、有袋類だけが進化していった。その結果、フクロネコ、フクロアリクイ、フクロモモンガなど、他の地域でもよく見られる動物に酷似(こくじ)した、別の種族が生まれたのだ。無論、いずれもネコ、アリクイ、モモンガの仲間ではない。ただ、別々の地域で全く同じように進化したというだけだ。各種亜人たちも似たようなもの、という事だな。他の動物に似ているパーツがあっても、決して相同(そうどう)器官とは限らず、類縁種ではない」

 それは、幽も聞いたことがある。コウモリの翼のような器官を有する亜人がいても、コウモリの翼そのもののように“前肢(ぜんし)”の変化したものではなく、全く異なる骨格構造をしている――比較的有名な話だ。

「しかし、これには重大なミッシングリンクがある。“進化途中”の証拠が見つかっていないのだよ。首の短いキリンと、首の長いキリンの化石は見つかっているが、その中間のキリンが未だ発見されていないようにね」

 そう。ただ“そう言われている”というだけで、確証に足る材料は無きに等しい。
 以前は、亜人は地球上の様々な動物たちから、猿がそうしたのと同様に、二足歩行の人間型に進化していった結果たる生物だと思われていた。十九世紀に入ってからの比較発生学の隆盛(りゅうせい)により、ようやくそれが誤りであると解ったのだ。
 以降、亜人種の形態と進化については玉石混淆(ぎょくせきこんこう)、未だ決定的な説には至っていない。

「亜人種の存在が初めて記述されたのは、紀元前二五〇〇年頃。シュメール人により、人類最初の文字である楔形(くさびがた)文字が発明されて以来、およそ千年間“記述すらされていない”のだ。まるで――その時になって、唐突に歴史に現れたかのように。丁度その頃、“魔物”も姿を消している」
「……疑問は、もう一つある」
「む?」

 はたと止まって、彼は静かに振り返る。人工的な(しろ)い光を映し込んだ瞳が、(はと)の血のように紅く(またた)いた。
 幽の呼気が微かな曇りを帯びて、紅色に掛かった霞みが揺れては消える。静寂の(おり)に浸透してゆく、白。

「“あちら側”には、亜人がいない……でしょう?」
「そうか……そうだね、確かにそうだ」

 言ったきり、深く沈思する現。
 このように、彼にも思い至らぬ事はある。所詮は取るに足らない一人の人間なのだから、当然のことだ。この現という人間の能力は確かに優秀だが、()くまでも人間の域は出ない。
 それでも彼が優れているとされる所以(ゆえん)は、その欠落を覆い隠す虚飾。失敗を、その進行以上の速度で埋め合わせる作戦再構築能力。無数の失敗を経ていても、犠牲となった(かばね)の上、結果として(はな)が咲くなら、それは成功なのだ。
 そこに、人は“全知”の虚像を()る。華の養分となった死者はもはや物言えず、生者は自分も“そう”なるまで気付けない。全てを救う全知など存在し得ないというのに、人は自ら()すことを放棄したがるという、困った性質を持つらしい。

 ややあって、現は壁に背を預け、訥々(とつとつ)と語り始めた。彼の思考の森は深く、可能性の枝葉は無数に伸びて上天を覆い尽くしている。時折、常人より思考に時間を要するのはそのせいだ。

「鏡面世界の表裏は、奇妙なほどに似通っている。しかし全く同じではなく、常に“微妙に違う”世界だ。向こう側には魔物も亜人種も存在した形跡がない……が、大きな歴史の展開はほぼ同じ。一部の偉人の名前などは一致してさえいる。この現象は、カオス理論に大きく反してしまう」

 こつり、と、硬質な跫音がまた一つ、張り詰めた冷気を小さく揺らした。現のものでも、幽のものでもない、もっと小さな、靴音。
 肩で揃えられた茶髪が揺れ、その合間に、丸い獣耳がちらと見えた。亜人だ。その体躯は幽よりも二回りほど小さく、傍目(はため)には(いとけな)い童女のようにも映る。

「まるで“アカシック・レコード”の実在を示唆しているかのようだ――って、昔キミは言っていたね、現」

 常にどこか楽しげな、しかし隠微(いんび)な憂いを(はら)んだ、見た目相応に幼い声。
 亜人の中には、このように成長ペースが違う種がいくつか見られる。彼女が見た目通りの年齢であったなら、こんな場所に易々(やすやす)と出入りできるはずがないのは自明だった。

「なんか面白そうな話してるね。私も混ぜてよ」
「おや、来たか、ラスティ。意外と早かったね」
「移動距離と移動時間が、必ずしも一定の相関関係にあるとは思っちゃいけないんじゃない?」
「ふふふ、(もっと)もだ。特に君の場合は」

 その小さな亜人――ラスティは、その外見に違和感すら覚える大人びた笑みを浮かべて、改めて軽く会釈をした。

 彼女は、特定の機関には所属せず、現から直接の依頼を受けて、単独で活動している亜人である。こう見えて数多く歴史の暗部を背負っており、その実力も折り紙付きだ。
 確か、今日はラファエルの言っていた“幽体動力機(エーテルジェネレータ)”の研究用物資の運搬を(ことづ)かっていたはずだったので、任務ついでに顔を出したのだろう。

 現はそんな彼女の小さな頭にぽんと手を乗せ、一()でしながら笑いかけた。さほど歳が離れているわけではないが、その姿だけなら、傍目には親子と見紛(みまご)うことだろう。そんな光景を、父を持たない幽は、少し羨ましく思った。

「しかし、あまりのんびり話をしている時間もなさそうだ。既に説明してある通り、“彼ら”が合流したと連絡があったら、君には私達を送ってもらいたいのでね」
「うん、わかってる……けど、一つ訊いていい?」

 ラスティは訪ねながら、三日月型の刃を先端に持つ、金色に輝く“武器”を、(てのひら)の上でくるりと回転させた。
 その“武器”は、槍にしては短いが、杖と言うには少々長い。奇妙な形のものだった。ただ、先端部分の三日月が、その存在を誇示するが如く、静かな光を返していた。

「どうして“行き”だけなの? どうせなら帰りも私がここまで送った方がラクじゃないかな」

 問われた言葉に、現は緘黙して目を細めた。刃の金色に反射して、細められた(くれない)が、歪む。
 何処からとも知れず吹き込んだ風が、高く、(ほの)かな音を立てて、揺蕩う沈黙を(さら)って消えた。彼はまた、あの――貼りつけたような、贋物(がんぶつ)の微笑を浮かべて、白い掌でラスティの頬をなぞる。

「今はまだ、君を彼らに会わせるわけにはいかないのだよ。役者が舞台に上るにも、時は選ばねばならない」

 全く要領を得ない回答だったが、ラスティはそれでも満足したらしく、小さく口角(こうかく)を上げて吐息を漏らした。恐らく彼女は、現を本当に信用しているのだろう。彼が言わないのなら、言わないだけの理由がある。言う必要があるなら、既に言っている。それが解っているのだ。
 無言のまま(きびす)を返し、恐らく現の私室へと向かう彼女を追いかけようと、幽は大きく一歩踏み出そうとした。
 その瞬間、現が彼女にだけ聞こえるほどの声で呟いた言葉が、一体誰に向けて放たれたものなのか、結局、幽には推断(すいだん)できなかった。

(じき)に時は来る……時が、全てを理解させるだろう」

 歩き出してもいないのに揺れるスカートの裾がまた、小さな棘のように、幽の膝裏をちりちりと掠めた。
 だが、ほんの僅かな風すらも、そこには、吹いていなかった。



BackNext




inserted by FC2 system