第二十八話 A Fool's Paradise
事象の
遥か大海をその起源と呼ぶ事は
黎明、
物理学に
ならば、
過去――未来――そういったものは、寄せては返す
粒子の位置と運動量。
その数的変化が観測されることで、
それを
自己を定義するために。
曖昧な輪郭から、心が流れ出さないように。
第二幕
『Einherjar』
第四章 Soldier Side
「……皆は、もう行ったの?」
「
静寂に
彼の肩越しに見える扉からは、二人の
それでも彼らを行かせたのは、全て、ここに立つ男の
幽は渡された帽子を
「やっぱり……危険過ぎる、と思う」
「私もそう思うよ。今回の件は明らかに人為的な現象だ。現場で何が起きても不思議ではない……所詮は人間、その限界に囚われている以上、予測可能性によって照らし出せない空間では、私も策を立てられないからね。彼ら個々の対応能力に任せるしかないのさ」
淡々と語る彼は、恐らく
しかし、穏やかな声に秘められた冷たさは、
「君は解っているはずだ。私は決して全知ではないと」
「やめて」
遮って、手を握る。
体温を奪うような言葉は、体温を求める嘆きのように、揺れる湖面の虚像にも似た錯覚を映す。しかし、そう理解して尚、その
「壁に耳ありと言うでしょう。あなたが全知ではなくても、あなたは全知の象徴でなくてはならない」
そんな熱など必要ないのは、重々承知しているつもりだ。“分家”の娘である幽では、“本家”の当主である現には遠く及ばない。駒としての使い
「ふふッ……
皮肉めいた
人形のような黒い瞳が、暗い
「うーくん……苦しい、の?」
「さてね。私は私自身の苦痛すら覆い隠してしまったようだ。
そんなあからさまな
完璧な演技をしようと思えば、呼吸をするように行えるはずだ。彼はその事実を見抜かせることで“何かを伝えようとしている”のだろう。案ずるに、何がしかの事象に対する、
しかし、幽の興味は否応なしに現在に引き戻された。
現がコートのポケットから取り出したのは、半透明の容器に包まれた、
「それ……まさか“魔物”の」
「うむ、未来の破片さ。東アフリカで採れた
よく目を凝らせば、硬化した樹脂の中に
現は柔和な笑みを浮かべて、
「亜人種がどうやって、魔力――即ちエーテルエネルギーを意図的にコントロールしているか、答えられるか?」
受け取ったものを
答えに迷ったわけではない。この瞬間に、そんな問答を行う意味を思索してのことだった。
しかし、
「Smp-1-DNAによる、数種類の
「その通り。亜人に限らず、人間などの生命体全てが持っているSmp-0-DNAこそが、エーテルエネルギー制御を行うための塩基配列だ。これがなければ生命体でいられない」
一本調子に述べる声に混じって、彼の靴底が床を叩く硬質な音が、冷気張り詰める通路に
「対するSmp-1-DNAは、その機能を拡張する――魔法を使うためのスイッチと言っていい。我々人間には、その“スイッチ”が無いから魔法は使えない」
今更こうして口にする意義も無いような、儀礼じみた
“未来”の、破片――と、彼は言った。数十、数百万年もの時間をかけて重合化した環状炭化水素樹脂。その膨大な“過去”の
そして、この質問。幽の推測は、次第に確信へと移行する。無意識に押さえた胸の鼓動は、まるで脊髄の内側を反響するように、幾重にも連なった。
「……でも、その作用機序はまだ、研究段階のはず……
「うむ。だが、ここでは原理を問うのはやめにしよう。飛行機の飛ぶ原理は未だ解明されていないが、現に飛行機は飛んでいる。今は、それでいいのだよ」
幽は、自分の手の中で鈍い光沢を放つ
彼の発するあらゆる言葉が、ただ一つの事実を浮き彫りにしていた。即ち――
「やっぱり、この“魔物”の組織にも……」
「ああ。レイが一足先に“サンゲタル”にかけてくれた。案の定、見つかったよ。亜人にしか存在しないはずの遺伝子配列、Smp-1-DNAがね」
その結論を
幽は彼の背を追い、
だが、今はそのような細事に
「確か、魔物はすべて、亜人種の出現と共に姿を消した……んだよね」
「うむ。亜人種という存在は、元は人類の変異種だと言われているが、魔物について詳しいことは判明していない」
「魔物が、その時点で一斉に亜人種に変異したというのは?」
「有り得んな。数百種、数千種とも言われる様々な形態を持つ生命体が、一斉に我々のような人間型に進化することは不可能だ。現状、私の推測は、今までの学説と
そう、遺伝子情報の上でも、亜人は人類から派生した種であることは確認されている。それを把握していながら
その行動を考慮すれば、
「――魔物と、融合して、進化した?」
「融合と言う表現が
「
「そうだ。これは学説としては少々非論理的だがね。ダーウィニズムの補足として、
現は一旦言葉を区切り、幽の方へと向き直る。貼りつけたように変わらぬ微笑は、どこか楽しげに
「レトロウイルスとは、RNAウイルスのうち、RNA依存性DNAポリメラーゼ……通称、逆転写酵素という酵素を持つものの総称だ」
幽がそこまで生物学に明るくない事も、しっかり把握されてしまっているようで、現は普段よりやや緩やかな口調で解説を始める。
しかし、解説する必要があると判断されるのは、少し恥ずかしくもある。幽は、いつか時間を見つけて勉強する決心を固めながら、次の言葉を待った。
「ウイルスは偏性細胞内寄生性――つまり“単独では増殖できず、宿主細胞の力を借りて増殖する”という性質を持つ。だが、通常、ウイルスの核酸は宿主細胞のDNAとは性質的に異なる点が多く、宿主のDNA転写・複製酵素だけでは増殖できない。そのため、ウイルスは自分が増殖するのに必要な酵素、ポリメラーゼだけは持っている」
「……レトロウイルスにおけるそれが、逆転写酵素?」
「そう。DNAの情報からRNAを作る行程を“転写”と呼ぶのだが、逆にRNAからDNAを作るのが逆転写酵素だ。レトロウイルスの持つRNAは、宿主細胞に侵入後、その作用で一本鎖のDNAを作る。それを
考えるまでもなく、既に結論は出ていた。“分家”の人間では血筋の力も衰えるとは言え、幽の思考速度は一般的な人類の平均値を全面的に上回る。ここまで丁寧に言われれば、解らない道理はない。
「……宿主となった“魔物”のDNAを、“人類”に……」
「そう、ウィルスが運んだのだと思う。組み込まれた、Smp-1-DNAを」
「そして、Smp-1-DNAを、ヒトゲノムに転写した?」
「恐らくは。それが“人”と“亜人”を分けた、決定的な進化の分岐点だった。進化は自然淘汰によるものだという説を否定する気は無いが、少なくともこの瞬間、“例外”が起きたのだ」
窓の隙間から差し込んだ寒風が、黒いスカートの
いつもと変わらぬ微笑を貼りつけたまま、動かない現の顔を見上げ、幽は自分の顎を指でなぞる。
「でも、それなら何故――」
「――魔物の身体的特徴の一部までヒトに合成されてしまったのか。また、魔物は
幽の疑問は予測されていた――いや、彼にとっての疑問には幽も同様に思い至るだろうという、ある種の信用があったのだろう。
台詞を引き継いだ彼は、
「大きな疑問は、この二つだね。確かに、亜人達には“違う動物の器官”のようなものが、身体の一部についている事が多い。硬質な角や、動物のように細かな毛の生えた耳。明らかに類人猿のものとは違う尻尾や、飛べもしない小さな翼状器官など、それこそ枚挙に
細めた目線を肩越しに向け、現はどこか空虚な語調で言葉を続ける。彼自身も
「これは現在、“適応放散”と“収斂進化”という、一見
それは、幽も聞いたことがある。コウモリの翼のような器官を有する亜人がいても、コウモリの翼そのもののように“
「しかし、これには重大なミッシングリンクがある。“進化途中”の証拠が見つかっていないのだよ。首の短いキリンと、首の長いキリンの化石は見つかっているが、その中間のキリンが未だ発見されていないようにね」
そう。ただ“そう言われている”というだけで、確証に足る材料は無きに等しい。
以前は、亜人は地球上の様々な動物たちから、猿がそうしたのと同様に、二足歩行の人間型に進化していった結果たる生物だと思われていた。十九世紀に入ってからの比較発生学の
以降、亜人種の形態と進化については
「亜人種の存在が初めて記述されたのは、紀元前二五〇〇年頃。シュメール人により、人類最初の文字である
「……疑問は、もう一つある」
「む?」
はたと止まって、彼は静かに振り返る。人工的な
幽の呼気が微かな曇りを帯びて、紅色に掛かった霞みが揺れては消える。静寂の
「“あちら側”には、亜人がいない……でしょう?」
「そうか……そうだね、確かにそうだ」
言ったきり、深く沈思する現。
このように、彼にも思い至らぬ事はある。所詮は取るに足らない一人の人間なのだから、当然のことだ。この現という人間の能力は確かに優秀だが、
それでも彼が優れているとされる
そこに、人は“全知”の虚像を
ややあって、現は壁に背を預け、
「鏡面世界の表裏は、奇妙なほどに似通っている。しかし全く同じではなく、常に“微妙に違う”世界だ。向こう側には魔物も亜人種も存在した形跡がない……が、大きな歴史の展開はほぼ同じ。一部の偉人の名前などは一致してさえいる。この現象は、カオス理論に大きく反してしまう」
こつり、と、硬質な跫音がまた一つ、張り詰めた冷気を小さく揺らした。現のものでも、幽のものでもない、もっと小さな、靴音。
肩で揃えられた茶髪が揺れ、その合間に、丸い獣耳がちらと見えた。亜人だ。その体躯は幽よりも二回りほど小さく、
「まるで“アカシック・レコード”の実在を示唆しているかのようだ――って、昔キミは言っていたね、現」
常にどこか楽しげな、しかし
亜人の中には、このように成長ペースが違う種がいくつか見られる。彼女が見た目通りの年齢であったなら、こんな場所に
「なんか面白そうな話してるね。私も混ぜてよ」
「おや、来たか、ラスティ。意外と早かったね」
「移動距離と移動時間が、必ずしも一定の相関関係にあるとは思っちゃいけないんじゃない?」
「ふふふ、
その小さな亜人――ラスティは、その外見に違和感すら覚える大人びた笑みを浮かべて、改めて軽く会釈をした。
彼女は、特定の機関には所属せず、現から直接の依頼を受けて、単独で活動している亜人である。こう見えて数多く歴史の暗部を背負っており、その実力も折り紙付きだ。
確か、今日はラファエルの言っていた“
現はそんな彼女の小さな頭にぽんと手を乗せ、一
「しかし、あまりのんびり話をしている時間もなさそうだ。既に説明してある通り、“彼ら”が合流したと連絡があったら、君には私達を送ってもらいたいのでね」
「うん、わかってる……けど、一つ訊いていい?」
ラスティは訪ねながら、三日月型の刃を先端に持つ、金色に輝く“武器”を、
その“武器”は、槍にしては短いが、杖と言うには少々長い。奇妙な形のものだった。ただ、先端部分の三日月が、その存在を誇示するが如く、静かな光を返していた。
「どうして“行き”だけなの? どうせなら帰りも私がここまで送った方がラクじゃないかな」
問われた言葉に、現は緘黙して目を細めた。刃の金色に反射して、細められた
何処からとも知れず吹き込んだ風が、高く、
「今はまだ、君を彼らに会わせるわけにはいかないのだよ。役者が舞台に上るにも、時は選ばねばならない」
全く要領を得ない回答だったが、ラスティはそれでも満足したらしく、小さく
無言のまま
その瞬間、現が彼女にだけ聞こえるほどの声で呟いた言葉が、一体誰に向けて放たれたものなのか、結局、幽には
「
歩き出してもいないのに揺れるスカートの裾がまた、小さな棘のように、幽の膝裏をちりちりと掠めた。
だが、ほんの僅かな風すらも、そこには、吹いていなかった。
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