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第二十七話 Obscure



 薄霧(はくむ)の森は午睡(ごすい)微睡(まどろ)み、永遠(とわ)の錯覚。
 鳥たちに導かれ、穏やかな微風が針葉を撫でる。枯れ草の隙間を埋める雪白に、煌々(こうこう)と反射する陽光は、(さざなみ)にも似た白銀(しろがね)の輝き。
 そんな閑雅(かんが)な世界に、率爾(そつじ)。矢庭に響いた剣戟(けんげき)の響きが、ゆるやかに流れていた時間を斬り裂いた。

 時に打ち()てられた石造りの遺跡が、緩やかな斜面に(なか)埋没(まいぼつ)するような形で、風化し(ひび)割れた外壁を晒していた。
 屹立(きつりつ)する大樹の幹に崩された壁の隙間が、裂帛(れっぱく)の如く甲高い風音を立てる。
 その隙間から、更なる奥。(かび)の匂いが鼻腔(びくう)(くすぐ)る、静謐(せいひつ)な闇。
 死んだように冷たく凍るモノクロームの景色に、息衝(いきづ)く熱を持ち、ひらりと踊る三つの刃があった。

 (ひらめ)く剣光が虚空を裂き、奇怪な双頭獣の姿をした恐怖へと、もはや幾度目とも知れぬ破魔の(くさび)を打ち立てる。啼哭(ていこく)の叫びと共に、透き通った黒い飛沫(ひまつ)が視界を濡らした。
 その瞬間を好機と見るや、薄桃色の閃光が宙空を舞う。狂獣の喉笛へと一息に振り下ろされる光芒(こうぼう)。デューの手にした短剣の刃は、昆虫の薄羽よりも(なお)薄く、透き通った漆黒。息つく間もなく、閃光。

雷耀閃(リクスト・オスカ)!」

 リミルの放った雷撃は、低気圧の道を辿って(ほとばし)る。深く斬り込んだデューの背後、蛇のようにうねる漆黒の首を、まさに迅雷、蒸発させた。灼熱した大気が膨張し、びりびりと建物を揺るがす。

「そうそうっ、いい感じ!」

 はしゃいで跳ねる猫のような、場違いなほどに明るい声。デューは淡蒼(うすあお)い光翼を(ひるがえ)し、踊るように距離を取る。
 のたうつ影からは、一撃を加えるごとに蛇のような触手が増え、(たてがみ)のように二つの首を取り巻いていく。次第に秩序を失っていく輪郭(りんかく)は、自我を侵されてゆく狂人の精神を垣間見るかのようで、リミルは内心ぞっとしながら、ナイフの震えを握り潰した。

「にしても、まだ殺し切れないの?」
「試作品とは言え……いや、試作品だからかな。確かに、規模にしては“厚い”ね」

 細めた眼の中心で、(あか)い瞳孔が(きら)めいた。(かざ)した(てのひら)の上で、ひゅうっ、と風が鳴く。無数の風圧弾が絡み合って闇を裂き、這いずり回る獣に(すが)るかの如く飛来する。()ぜる影、響く叫号(きょうごう)

 感情――(すなわ)ち虚数領域の強い振動によってのみ断つことのできる、この妄念の傀儡(かいらい)には、一見、魔法など無意味なように思える。
 しかし、魔法もまた虚数領域の強い振動によって、その不可思議な物理現象を現実にあらしめるのだ。その法則を理解し、少しばかり応用を効かせれば、この通り。感情の矢は確実に届く。

玉葱(たまねぎ)の皮を一枚一枚剥いていくようなものだよ、きりがないようで、すぐに終わりは来る」
()(ほど)、俺達は玉葱(オニオン)について学びながら、自分の能力(オニオン)を知らねばならないって事かい」
「あははっ、なかなか上手いね。気に入ったよ」

 背後から撃たれて(たけ)る狂獣に、瞬刻、ライトが疾風(はやて)の如く猛進する。まさに烈風、彼は大気の電磁気力を操り、気圧の差を加速に利用しているのだ。そして一閃、手にした剣を()げば、腐肉に(たか)(はえ)を散らすかのように、細かな影が四散する。
 ライトは着地の際にも緩やかな風を(まと)い、足にかかる負担を軽減しているようだった。それも、埃の舞い方などから推測するに、体勢に合わせて足裏や背中などの数点に絞って発動し、消費を抑えている。駆ける横目にそれを捉えて、デューは一人嘆息(たんそく)した。

 彼女がこの戦いに乱入した時には、彼はまだ、そんな方法をとっていなかった。
 戦闘については全くの初心者だったはずの彼は、この戦闘の中でそれを思いつき、実戦に耐えうるレベルで実行してみせた。幾度かの試行の中で風圧を調整し、適切なタイミングで加速と減速を行えるまでに成長したのだ。
 連邦国軍の正規兵ですら、気圧をここまで扱えるようになるには、平均で三ヶ月程度の訓練を要する。それを、この少年は、僅か数分の攻防で極めつつあるのだ。
 無論、そういった正規の訓練を受けた者に較べて、彼の魔力操作はあまりにも荒削りで、不正確だ。しかし、傍から見れば、熟練の闘士と何ら遜色ない戦いを行なってのけているのもまた、事実だった。

「行ったぞ、リミルッ!」
「わっ、ととっ……おっけー了解っ!」

 ずるずると石壁を這い、天井に張り付いた漆黒の狙いに、最初に気付いたのはライトだった。
 リミルは二、三歩蹈鞴(たたら)を踏んで、天井の闇に紛れたオルトロスを()めつけたまま、弧を描くように疾駆(しっく)する――が、わずか数歩の跫音(きょうおん)すら響かぬうちに、絶叫。
 あの何十匹もの犬を一斉に()き潰したような(おぞ)ましい咆哮(ほうこう)と共に、闇が爆ぜた。
 驀地(ましぐら)に急襲する、その速度たるや、猛獣……(いや)(しか)と獲物に照準を定めて滑空する猛禽(もうきん)の如し。想定以上の速度に、リミルは小さく舌打ちを(こぼ)して、向かってくる獣の影に、真っ直ぐに突っ込んだ。

 急速な方向転換にバランスを崩しかけるも、彼女は身体を起こそうとはしなかった。刹那(せつな)、甲高い破裂音が響き、衝撃が白い圧縮大気の波となって広がる。
 リミルは最後に大きく地を蹴り、その波に身を委ねて地面すれすれを跳ねた。勢い任せに転がる彼女は、襲い来るオルトロスの真下を見事にすり抜ける。数匹の“蛇”がそれを追うが、追撃(あた)わず、(ことごと)く風圧弾に散らされる。

「ヒュウッ……あの子も、なかなかどうして」

 感嘆の意を口笛に表して、デューは楽しげに口角を上げた。
 確かに、敵の(ふところ)、攻撃の隙間へと飛び込んで抜けた方がリスクが少ない場合というものはある。今の攻撃はまさにそれだ。もし迎撃を試みていたり、反射的に横や背後に逃げていたなら、負傷は免れなかっただろう。
 しかも――あの衝撃波。魔法に造詣(ぞうけい)深い者なら理解できるだろう、今のはただの爆発によるものではない。
 “弱い力”の代替作用によって大気中の陽子と中性子を強制的にベータ崩壊させ、生じた陽電子と電子との対消滅反応によるガンマ線のエネルギーを、周辺分子の電磁気力操作を併せる事によって全て消費し、残らず熱エネルギーへと変換したのだ。
 瞬間的な熱膨張と、更なる気圧の操作。交互に層となって吹きつける、圧縮された高気圧と真空の波は、宛然(さながら)、透明な壁。(いま)(かす)かに(いとけな)さ香る少女を押し飛ばすには充分すぎる威力を持った、輪郭ある風。それと同時にシールドを張り、波に乗るようにダメージを軽減する。
 魔力の消費を抑え、極力小さな干渉で自然からエネルギーを捻出(ねんしゅつ)し、最大限の効果を引き出す。物理法則を正確に理解していなければ到底成し得ない行動だった。
 ライトとは全く違う、戦い慣れた気配。確かな経験に裏打ちされた技術。
 このリミルという少女の過去に何があったのかは知らないが、どうも(ろく)な環境に置かれていなかったらしい。両親の寵愛(ちょうあい)のもと、健全に育った女学生なら、何をどう育ったってこんな真似が出来るようにはならないだろう。
 ひょっとしたら、クロスあたりと戦っても、いい勝負になるかもしれない……とさえ思った。

 最初、デューはこの二人を、たまたま巻き込まれてしまった、一風変わったデート中か何かの二人組だと思っていた。冷静に考えれば、そんな訳がない。彼らの外見が幼かったが故に――他人のことは言えないが――誤謬(ごびゅう)を起こし、思考を停止させてしまった。
 今となっては、その認識は改めざるを得ない。彼らは何らかの“特別な目的”を持ってここに来ている。

 今や、オルトロスは満身創痍(まんしんそうい)の様相を呈していた。
 ライトは戦闘を楽しむが如く、大胆かつ実験的に動き、リミルは熟練の戦士を思わせる適切かつ正確なアルゴリズムで戦う。デューは二人の動きを観察しながら、彼らの捕捉できなかった攻撃を潰していく。
 そう。こんな未完成の試作複合体など、デューにかかれば一瞬で消し潰せるのだ。わざわざ引き剥がさずとも、全ての皮膜を突き破り、“核個体(コア)”を消し飛ばせばオルトロスは霧散するだろう。……眼前で戦う、興味深い亜人たちの実力を観察する機会ごと。

「……でもまあ、潮時かな?」

 呟きは白い息吹。冷え切った大気に()け、誰の耳にも届かずに消える。
 瞬間。デューの双眸(そうぼう)に宿る、(おき)のように紅い瞳孔――多重領域知覚センサーが赫灼(かくしゃく)と煌めき、継ぎ()ぎだらけの不恰好な鎧に覆われた“(コア)”を映し出した。かつての“戦争”当時、テストケースとしてデューに搭載された、虚数領域の事象を視覚的に認識する事ができる、唯一無二の“魔眼”。

「ワンちゃんに服着せるの、あんま好きじゃないんだよねっ」

 口角(こうかく)を笑みの形に(ゆが)め、紫電(しでん)一閃の光芒が如く、一進一退の攻防を繰り広げるライト達の前に躍り出る。
 もはや無数と言うほかない蛇の鬣が彼女を迎え撃つ。が、順手に構えた漆黒の短剣“黒剛剣ダークムーア”の一翻(ひとひ)らの下に、蠢爾(しゅんじ)も同然。さも(ほのお)に迷い込んだ枯葉が炎塵(えんじん)と化すように、灰よりも(はかな)く、無となって消え散る。

忘却(オブリビオン)(とびら)は、(やが)(きた)忿怒(いかり)の日まで、黙示(もくし)の影に緘口(かんこう)する……ってね!」

 影の奥深くへと黒刃が突き入れられた、瞬間。
 ぱちん、と風船を割るように、狂える黒き巨躯(きょく)は、完全に消失した。
 断末魔の足掻(あが)きもなく、未練がましく尾を引く悲鳴もなく、まるで悪夢が覚醒によって突然終わりを告げるように、たった一欠片の残滓(ざんし)すら残さず、消えた。
 後には(しば)しの静寂が、場を支配していた。

「お、終わった……のか?」

 膝に手をつき、肩で息をしながら、ライトが注意深く周囲を見回す。
 リミルはそれに応じようとして、ちらとデューの方を見た。が、剣を収めた彼女を見れば、答えを聞くまでも無い。自分もナイフを(さや)に収め、ライトの方へと向き直る。

「みたい、だね……本当に、跡形もなく消えちゃったんだ」

 瞬間。

「――あ、交戦終了したみたい。今から合流するねっ」

 部屋の奥、壁の影になった部分から、少々間延びした、緊張感のない声が、静寂に割って入った。
 部屋中の視線が集中する先に、揺れる桃色の髪。ライトと同じ、無機質に伸びた耳。無線通信機器を手にした少女が、ひょこりと顔を出す。

「ルナ! 無事だったか!」
「そ、そっちこそ怪我とか無いかなっ、お兄ちゃん、リミルさん……と、誰かわかんないけど!」

 互いの姿を確認するや(いな)や、駆け寄り、抱擁(ほうよう)を交わす兄妹(きょうだい)を、リミルはやはり最初に抱いた違和感を(ぬぐ)い切れず、複雑な面持(おもも)ちで見つめる。
 確かに、身体能力に自信が無ければ、自分は身を隠してレイに連絡を取るのが最適な行動選択だろう。接触を避け、状況を報告し、もしもの時には一人残されても無事に帰還する。実に合理的で、その冷静さは賞賛されて(しか)るべきだとも思う。
 しかし、冷静すぎる。それが違和感の正体だった。
 兄妹とは思えないほど親密な二人。しかし、妹が土砂に潰されかけても平静を保っていた兄。そして兄が怪物に襲われているのを黙って観察していた妹。
 彼らの言動は、ただの“学者の助手”として考えるには、あまりに不統一だ。

「……ん、どうした、リミル?」
「あっ……いや、なんでもないよ。ルナちゃんと同じく、怪我とかしてないかって思ってさ」

 訝しげに見返され、リミルは一気に紅潮した頬を隠しもせず、慌てて作り笑顔を返す。

「ルナ……?」

 だが、後に続けようと思っていた言葉は、その呟きに遮られた。
 振り向けば、燠火(おきび)のように揺らめく瞳の紅色を、真っ直ぐに二人の兄妹へと向けるデューの姿。
 この僅かな時間しか見ていない彼女ですら、違和感を覚えたのだろうか。どこか怪訝(けげん)な表情をして、こつり、と一歩踏み出した。

「ルナって言うの、キミは?」

 互いに顔を見合わせ、ルナとライトは(ほとん)ど同じ顔をして頷いた。自己紹介を始めるにしては奇妙な空気に、しんと静寂の(とばり)が下りる。こつり。二度目の乾いた足音が鳴った。
 ――吐息。
 それが尋常ならざるものだと、僅かに遅れて気付く。
 まるで肺の残気を残らず絞り出すかのように、苦痛に(あえ)ぐ声を上げて、ルナは背を丸めて(くずお)れる。ライトがそれを慌てて支え、腕の中に寝かせると、彼女は両手で頭を押さえて低く呻いた。

「なっ……どうした、ルナっ! 痛むのか!?」
「だ、大丈夫、ルナちゃん!? ……や、やっぱ、頭打ってたのかなぁ」

 狼狽(ろうばい)気味に駆け寄るリミルを、ルナは手で制して、上体を起こす。呼吸は既に幾許(いくばく)かの安定を取り戻しており、ライトに支えられながらも、彼女は従容(しょうよう)として見えた。
 こつり。徒広(だだびろ)い空間に、いやに響く三度目の跫音。視線は音へと収束する。デューは喫驚(きっきょう)を顔に浮かべて、ルナを見下ろしていた。

「あなた……は」

 痛みを抑えるように強く眉を(ひそ)め、ルナは呻くように()う。理由もなく伸ばした手が、震えて空を(つか)む。
 デューは答えず、(かたわ)らに座り込んでその手を取り、淡青の光を纏ったもう片方の手を、彼女の額に翳した。(ほの)白い幽光が、ルナの全身を包む。

「か、回復魔法……っ!?」
「凄っ、本当に何でもできるみたい……!」

 回復魔法は、重力魔法にも()して使い手を選ぶ上級魔法体系である。
 分子間相互干渉とは関係なく、魔力の持つ生命活動促進機能を応用することにより、正常な細胞の増殖や、免疫細胞の活性化、形質転換した細胞を人為的に死滅させることすら可能とすると言う。
 ただの努力では、絶対に身につけることができない、種族としての適性が必要となる魔法がそれだった。
 このデューという少女は、その両方を、非常に高度なレベルで完成させているのだ。
 思ってみれば、亜人種はその身体的、能力的特徴から様々な形態分類が()されているが、彼女と類型の亜人は今まで見たことがなかった。

「……うん、大丈夫、この子は任せてよ」

 ライトの腕からルナを預かり、小さな胸に優しく抱きながら、デューは猫のようなあどけない笑みを浮かべる。言って指差す先には、古びた扉。

「君たち、調査か何かでしょ? そこから外に出られると思うんだけど」
「え……」

 さも当然のように言ってのける彼女に、思わず反問の声を上げる。当然、調査をしに来ているなんて、彼女には誰も言っていない。
 (うつせ)やレイが、後から彼女を送ったとも考えにくかった。名乗らないことによるメリットが無い以上、そうならそうと名乗っているはずだ。

()ててあげるから、行ってきなよ。虚数領域密度の異常なら、まだ解けてない」

 立て続けに走る喫驚は、(こう)じて震駭(しんがい)へと変わる。運動の後で仄かに紅潮していたはずの頬が、さっと青()めるのを感じた。同時に、背筋を薄寒い気配がなぞり、冷たい汗の粒が服を吸いつける。
 リミルは思わず後退(じさ)りながら、上ずった声で問いかけた。

「デュー、さんだっけ……あ、貴女、どこまで知って……?」
「知ってたんじゃないよ、考えただけ。キミ達みたいなのがここにいる理由なんて、それしか思いつかないもん」

 と、得意げに破顔する。言われてみれば如何(いか)にも、納得できそうな理由はおさおさ他に思い当たらない。
 魔法治療を受けているルナも、薄紙を()ぐように顔色が良くなっていくのが見て取れた。まだ万全とは言えそうも無いが、浮かべる笑顔は自然なものだった。

「うん、私なら大丈夫だから……任務優先だよっ、頑張って、お兄ちゃんっ!」
「っしゃあ頑張るっきゃない!」
「早ッ!?」

 妹による笑顔の声援を受けた兄は、生気汪溢(おういつ)、何やら不思議な力によりHPが完全回復されたようで、ものすごい勢いで重い鉄扉を押し開けにかかった。
 慣れぬ戦闘に疲弊(ひへい)し、気息奄々(きそくえんえん)と言った有様であった(はず)の彼は、一瞬にして泡影(ほうえい)の彼方に消え去っていた。
 リミルはすっかり脱力して、人差し指でかりかり耳を掻きながら後を追い、おずおずと問いかける。

「あの、ライト、ひょっとしてきみ、相当なシスコン……?」
「ハハハ、何だリミル、気付いてなかったのか?」
「開き直りもここまでくると清々しいよ」

 ――やがて、零落(れいらく)して尚森厳(しんげん)さを残す重厚な扉は開き、冷たい白雪の乾いた香りと引換えに、二人は外へと向かっていった。
 去り際にちらと眺めた心配そうな顔にも、ルナは屈託無く笑ってみせた。兄はそれで一定の安堵を得たようで、最後に軽く手を振ると、扉の向こうに隠れてしまった。

 実のところ、痛みも苦しみも、とうに抜け去っていた。回復魔法を受ける必要など、もはやどこにもない。
 しかし、一瞬とは言え、彼女の紅い瞳孔を見た瞬間、途轍(とてつ)もない激痛が脳髄(のうずい)の奥深くを掻き回したのは確かだった。
 ルナは、その痛みを知っている。痛みの意味を、理解している。

 デューは驚き半分、嬉しさ半分といった様子で、回復の魔力を止め、そのままルナの髪を撫でた。兄にされるのとは違う、女性ならではの、優しい手付き。

「全っ然、外見違うからびっくりしたよ。ルナ、生きてたんだ」
「生きてた、とも言えないかなぁ」

 自嘲(じちょう)気味に笑って、答える。その一言で全てを察したようで、デューの表情に(かげ)りが差した。

「……成る程、道理だね」
「ご、ごめん……でも、さっきの頭痛はきっと傍証(ぼうしょう)だ」

 頭を撫で続ける手を、ぎゅっと握り返す。その理由が解ってしまうからこそ、瞳に映る悲嘆の色を見ていられなくて、視線を逸した。
 映っていた悲嘆は、桃色の髪を肩口で切り揃えた亜人の姿をしていた。瞳いっぱいに映ったそれは、きっと涙に融けて流れてはくれない。
 デュー。聞き覚えのない名前をした、見覚えのない女性の手。ルナを覚えている彼女の。どこかルナに似ている彼女の、手。

「――知ってるんだね、あなたは、昔の私を」

 自分の膝に身を委ねた、記憶喪失の少女に、“兵器”は微笑(ほほえ)み、頷いてみせた。



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