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第二十三話 モノクローム・ロマネスク



 深く、深く、暗澹(あんたん)とした泥濘(でいねい)の底から、どろりと粘性を持った闇を掻き分け、彼女の意識は次第に浮上していった。

 杳窕(ようちょう)に揺らぐ虚像は、ゆるやかな覚醒に従い、薄明に揺れる陰影を紡ぐ。
 地平線に隠れた旭日の、薄青い暁光。そんな色を反映する、きっと昼には真っ白な壁と天井。

 そんな、どこにでもあるような景色を、視覚野にぼんやりと映し出しながら、(ひじり)は目を覚ました。

 うう、と小さく唸り、冷え切った指先を毛布に(うず)める。うっすらと滲んでいた陽光は、尖角(つの)の先まで被った布団に遮られ、閉塞的な暗闇がすっぽりと彼女を包んだ。
 両肩を抱いて丸まりながら、ゆっくりと息を吐く。じわりと痺れるような感覚が、白い指を伝って、すぐに消えた。

 僅かに感覚の戻りかけた指先で、自分の右蟀谷(こめかみ)から生えた、黒く無骨な尖角をなぞる。かりかりと硬質的な感触を返すそれは、間違いなく聖の頭部に繋がっていた。
 透き通った白い髪と瞳、対照的に黒い尖角。昔の写真には一枚として写っていない、聖自身。そんな姿にも、そろそろ慣れてきた頃だ。

「……寒い、ですね」

 全身に感じる寒さを紛らわせるため、誰にともなく呟く。
 北欧の冬は、やはり日本よりも格段に寒い。窓ガラスが二重構造になっていなければ、聖のような細身すぎる者は、体温保持のために、一晩でエネルギーを燃焼し尽くしてしまうかもしれない。

 聖が薔薇(ばら)十字団に入ってから、既に一週間が過ぎていた。
 純人間から亜人種への変質はかなりのレアケースと言うことで、(しばら)くは各種検査に追われていたが、先日、それも一段落したところだ。
 よくわからない薬を飲まされたり、よくわからない機械にかけられたり、よくわからない質問に答えさせられたり、とにかくよくわからない一週間だった。
 ……誤解がないように付記すると、その薬や機械がどういうもので、それで何が解るのか、説明はされた。だが、最終的によくわからなかった。主に“語句の意味”と、“知って何になるのか”が、恐らく聖にだけ皆目わからなかった。

 この寒さの所以(ゆえん)には、精神的な不安感や孤独感もあるのだろう。
 最初の数日は、見知らぬ土地で聖が独りにならないよう、兇闇(まがつやみ)が側にいてくれた。彼はいつものように不機嫌そうな顔のまま、問いかけられれば丁寧に答え、袖を引けば隣りに座った。悪夢を見そうな夜は、今まではしてくれなかった添い寝までしてくれた。
 言葉すら解らない、知り合いのいない世界で、彼の存在は、聖の身勝手な依存心をすべて受け止めていた。二人の均衡は崩れてしまったが、そうでもしないと不安でどうにかなりそうだったのだ。

 ここまでの重圧は、彼にとっても重荷になるだろう。聖のことを考えて、“耐えて”くれているのだ。今までは、互いが互いの負担になる境界線を越えることは無かったのだが、今では聖が一方的に頼ってしまっている。
 寂しさなんて身勝手な理由で、身体の繋がりを求めなかっただけ、まだ良かったのかもしれない。求めれば、彼はきっと答えてしまう。その過保護ぶりは、聖が一番よく知っていた。
 ――よく知っていながら、それでも幾度かその選択を下しそうになった自分が、ひどく恥ずべきものに思えて、聖は枕に顔を埋めた。

「ううう、ちがうんです、私はそーゆー子じゃないです……」

 聖が俯せになって足をばたんばたんさせていると、白い部屋にノックの音が飛び込んだ。
 外を確認すれば、いつの間にか太陽は地平線を抜け、陽光に照らされた部屋はほんのりと暖まりつつある。
 聖はもそりと布団をどけて、(ほの)かに紅潮した顔を上げた。

「あ……鍵は開いてます、入っていいですよ……」
「無用心だな、いくら本部の中だからって施錠はしておけと言ったろう」
「気付いたら、次からそうします……」

 開いたドアの先に現れたのは、やはりと言うべきか、兇闇だった。
 薔薇十字団内でも、彼以外による聖への接触はなるべく禁止されているようで、検査の際も、実際に呼びに来るのは彼だった。アビスゲートによる存在改変を受けた聖は、外見こそ純粋な亜人であるものの、未だ不確定要素が多いため、外部との安易な接触は危険であるとのことだ。
 (うつせ)という人間は、それに加えて“君の精神状態を見ても、接触者は、我々の誰よりも彼のほうがよいだろう”と言っていた。

「体調や食欲、睡眠時間に変化はないか?」

 言いながら、兇闇は聖の隣に腰掛けた。事務的な台詞だが、聖はその口調に隠れた優しさを知っている。
 聖が上体を起こして頷くと、彼は「そうか」と呟き、姿勢を崩して口元を緩めた。

「検査の結果、暫定だが、どうやら抗体や寿命、その他生体機能に異常は無さそうだ。遺伝的な情報は全て亜人種のものに変わっているが、それ意外は特に問題ない」
「そう……ですか、少し安心です」

 どの検査によってどの項目が解ったのか、聖にはまるで見当がつかなかったが、ひとまずのところ、言われたことは信じることにした。
 オーパーツの一種である鐫界器(せんかいき)は、まだ詳細な動作原理が解っていない。その影響を受けて亜人化した聖には、抗原抗体反応が正常に働かなくなっている可能性があるとか、細胞寿命が伸びたり縮んだりしている可能性があるとか、未知の病原を有している可能性があるとか……とにかく、およそ考えつく限りの懸念を警戒すべきだと言われていた。
 聖としては、そんなことより、いきなりドイツにほっぽり出された不安の方が大きかったのだが、とりあえず大半の懸念は消えたらしいので、そこは安心しておくことにする。

「せんぱい……あの、これから、どうなるんでしょう、私……」

 そんな安堵感がそうさせたのだろう、残っていた不安の種を、彼へ素直にぶつけてみる。
 答えはもう、幾度か聞いた。それを忘れていたわけでもない。だが、泥澱(どろおり)のように心底を覆う不安の闇は、幾ら払拭(ふっしょく)しても再び降り積もり、増幅し続ける。
 誰かの口から答えを聞かなければ、その言葉に依存しなければ、立つべき地すらも見えなかった。聖自身が導き出せる道標の光では、この闇は到底払えないのだ。

 それを恐らく理解しているから、彼は表情一つ変えず、低く落ち着いた声色で、さも当然が如く明晰に語る。

「アビスゲートは君を選んだ、その総合戦闘力は既に評価されている。恐らく日本の支部に処刑者(エクゼキューショナー)として配属されるだろう」

 兇闇は一旦そこで言葉を切り、僅かな憂愁(ゆうしゅう)の色が滲む瞳に、同じ色をした聖の姿を映し込んだ。彼はそのまま何事か逡巡しているようだったが、ややあって、寝癖でくしゃくしゃな聖の髪をさらりと撫でた。
 触れた(てのひら)は不自然なほどに温かく、聖の前庭神経を狂わせる。座る地面が急に形を失ったかのような錯覚と眩暈(めまい)が、彼女の視界を歪めた。

「だがな、戦闘が嫌なら、途中で辞めても構わないんだぞ。なんなら一緒に暮らしても……」
「あ、あの……無理は、しないで……私、甘えてしまいます、から」

 微かな、搾り出すような声で、聖は言葉を遮る。
 己が心の揺らぎには、判然たる自覚があった。いけないことだと解っていながら、逃げ出してしまいそうになる。自分の意志を(もっ)てして、わざと道を踏み外したというのに、立ち向かうことを辞めてしまいそうになる。

 兇闇がそれきり口を(かん)して語らないのは、やはり無理をしていたからなのだろう。いくら彼が老成していても、人間一人を背負う負担はあまりに大きい。そのまま行けば、やがて崩れる。それが理解できていたから、きっと彼は押し黙っているのだ。
 それから聖に触れた手は、普段と同じく暖かかったが、震えを抑えるかのように強く抱かれた肩は、少しだけ痛かった。

 ほんの一瞬だけ見えた彼の顔には、苦渋の色が浮かんでいた。
 見間違いかも知れない。だが、再び顔を上げて確認する勇気は、無かった。今、聖は何を求めていたのだろうかと自問する。無理をしないで欲しいといいながら、心底では、無理をしてでも手を取ってくれることを期待していたと言うのか?
 ――最低だ。結局、彼を(いたずら)に翻弄していただけではないか。自己嫌悪に押し潰されて滲む涙を(こら)え、黒く淀んだ感情を押し込めるように、聖は俯いた。

 しかし聖には、自分から彼の側を離れることはできそうにない。この体温を()いて、他に寄り掛かれるものは無いのだ。理性と感情はどこまでも相反するものなのだと、今更になって思い知る。
 それでも、今だけは、許してもらいたい。
 聖はそっと兇闇の背に手を伸ばし、静かに身体を引き寄せた。押し当てた耳に血潮の流れを感じながら、夢へ逃げ込むように(まぶた)を閉じて身を委ねる。初めは当惑した様子を見せていた兇闇も、そんな聖の様子を見ると、両手を回して包みこんだ――その、瞬間。

「ふふふ、若いね」

 穏やかだが、どこか楽しそうな声が、二人の背後から唐突に響いた。

「うわ!?」

 弾けるように離れた二人が振り返れば、そこには満面の笑顔を湛えた黒衣の青年が立っていた。
 さしもの兇闇も驚愕を隠し切れない様子で、冷や汗が頬を伝っている。聖はといえば、声すら出せずにその場で硬直していた。

「う、現……いつからそこに……」
「たった今さ。君達が振り返り、私を確認した。その瞬間より、私はここに存在している。少なくとも君達にとっては」

 相変わらず、答えているのかいないのか、それすら区別できないような表現で、現は朗々と答弁する。ただ、今回は貼り付けたような贋物(がんぶつ)の笑みではなく、本当に笑っているように見えた。

「ふむ、邪魔をして済まないな。来るタイミングを熟慮するべきだったか」
「えー、あー、待て現、恐らく何らかの誤解が生じている」
「まあ、その続きは少しお預けされた方が燃えるだろうということで、だな」
「聞けよ」

 珍しく焦った様子を見せる兇闇を、莞爾(かんじ)とした笑みを浮かべたまま軽くあしらう現。その遣り取りを視界の端に捉えながら、聖は今更になって自分の顔が紅潮してきていることを自覚していた。
 やはり、駄目だ。彼の掌には何らかの超自然的な力があるようで、聖はきっとそれによって正気を失っていたに違いない。一度(ひとたび)離れれば、何故自分があんな恥ずかしい行動に出たのか、何一つ解らなかった。どうやら、今の聖が彼に触れるのは、とても危険な行為であるようだ。

 その一方で、兇闇は長い溜息を一つ吐き、姿勢を改め、腕組みをした。その表情からは、あからさまな呆れや諦観の情が読み取れる。これ以上の言い訳は諦めたらしい。

「で、わざわざ来たからには用があるんだろう。悪いドラゴンがお姫様でも(さら)ったか?」
「それくらい面白い事件が起きていればよかったのだが、残念ながらそこまでの期待には応えられん」

 飄々(ひょうひょう)とした調子で言いながら、現は二人を交互に眺めた。
 その視線が自分を向いた瞬間、何故かひどく後ろめたい気持ちになって、聖は反射的に目を逸らす。

「ふむ……さて、いいニュースと悪いニュースがあるのだが――」
「またベタなパターンで来たな」
「そんなニュースとは特に関係なく、亜存在について聖に軽く説明しておこうと思ってな」
「せめてどっちか言えよ」

 そのツッコミすら意に介さない様子で、現は聖の顔をそっと覗き込む。冷たく透き通った、紅玉(ルビー)にも似た瞳は、まるで聖の全てを見透かすかのように、穏やかに陽光を反射した。

「アビスゲートから受け取った情報は、残留しているのかね?」
「え、えっと……その、もう、ほとんど。戦い方くらいは、少しだけ、身体に残っているみたいですけど……」

 兇闇が彼を警戒する最たる理由は、何よりこの瞳だと言った。静かに揺らめく炎のようなそれは、どれだけ聖が心を(くら)ませても、(たちま)ち照らし出してしまうだろう。それでいて、その透明な紅色をいくら覗き込んだって、そこには不自然に澄んだ水が茫漠として広がるばかり。何の不純物も見えないそこからは、何物も(つか)み取れはしない。
 到底、二十歳(はたち)そこらの青年に可能な芸当だとは思えなかった。あらゆる感情の機微をも見せず、無意識的な挙動を一切排除した立ち居振る舞い。恐らく、全て自然に見せることもできるのだろう。だがこの男は、敢えて演技と解るように演じ続けている。

 それは例えるなら、ゲームの上手な大人が、子供と対戦する際に、ハンディキャップをつけるようなものだろうか。
 繰り出す技の癖や対処法を、対戦相手にわざわざアドバイスするかのように、彼は“自分のこれは演技なので、深く戒心したまえ”と、わざわざ忠告しているのだ。
 彼の一挙一動に付随する奇妙な違和感は、きっとそこに起因するものなのだろう。

 ――そんな思考の一つ一つを、聖の不安げな瞳から読み取ったのだろうか。現はどこか満足気に微笑(ほほえ)み、ベッドの端に腰掛けて淡々と語り始めた。

「亜存在と言う呼称は……読んで字の如く、“存在に準ずる概念”を指す。あれらはターディオン粒子で構成されるこの世界、実数領域に“存在”してはいない。故に、我々のような実数物質では触れることができず、光すら素通りしてしまうため光学的な視認はできん。……幾つかの見地はあるが、由来、発生時期、原理など、詳細は不明なままだ。虚数領域に存在しているらしい振る舞いをするが、彼方(あちら)から此方(こちら)への物理干渉だけが時折有効な理由も解らぬ」

 専門知識の無い聖に理解させるためか、ゆっくりと言葉を選びながら、赤子にでも語り聞かせるかのように静かに、正確に発音する。
 ターディオン粒子とは、確か実数の静止質量を持つ粒子全般を指す。一般的な分子や原子など、我々に知覚できる物質は全てこれだ。そもそも虚数物質――タキオン粒子と言うものが特殊な存在であるからして、その対であるターディオンという呼称が用いられることは、あまり多くない。そのため馴染みが薄い言葉なのだが……なるほど、言われたら思い出せる程度には、アビスゲートの情報は脳の奥底に残っているようだ。

「しかし、虚数領域濃度の高い場所では、視覚野がその概念を感知する。V1野やV4野に強く影響しているようだが……アストラル体を介した情報の逆転送という見地が有力だな。有効な攻撃も恐らく知っての通り、アストラル体から虚数領域を通した、殺意――もとい、強い指向性を持つ感情の伝播(でんぱ)だ」

 その話を改めて聞かされ、ぼろぼろに傷ついた結の姿が、聖の脳裏に蘇った。
 亜存在を傷つけるのは、鋭い刃や銃弾ではない。――殺意。あの時、彼女が傷ついたのは、親友である彼女に対して聖が抱いた、明確な殺意による。
 集団心理とは、これだから恐ろしい。今になって思えば、あのまま自分の手で彼女を殺していたら、聖はきっと自責の檻に囚われていたに違いない。もう一度、彼女と相対したなら、今の聖では戦えないだろう。また、平気で戦えるような人間でもありたくなかった。

 ヘイトは、結のことを“見逃してくれないか”と言っていた。あの後、彼女がどうなったのかは解らないが、その言葉から推測するなら、まだ生きているのだと思う。
 だが現は、聖の思いを恐らく推察していながら、静かに、しかしはっきりと断言する。

「聖よ、あれらはこの世界に在ってはならないものだ。何故こんなものが現れたのかは解らないが、奴らの情報質量はあまりに大きすぎる。生きた人間を取り込んで今も増殖を続けており、その果てに待つものは世界の崩壊だけだ」

 最後に聞こえた不穏な言葉に、聖はぴくりと身体を震わせた。
 亜存在についての説明は、今までも兇闇から断片的に聞いていたが、その(もたら)す結果まで()こうとはしていなかった。強い力を持ち、人を襲う。それだけで脅威と呼ぶには充分に過ぎるからだ。
 だから聖は、その聞き慣れない言語を、鸚鵡(おうむ)返しに口に出した。

「世界の、崩壊……?」
「ああ。先刻も述べたように、奴らの情報質量は大きすぎるのだ。亜存在周辺の空間歪曲(わいきょく)率から算出できた推測だが、この地球上という狭い空間に亜存在が増え続ければ、やがて、一つの特異点に全宇宙の質量と時空が集中し、跡形もなく蒸発する――そう、言われている」

 事も無げに語る現を後目(しりめ)に、聖は戦慄に背筋を穿(うが)たれていた。
 観測によれば、宇宙に存在する総エネルギーは臨界質量密度に近いが決して超えず、ビッグクランチが起きることはなく、宇宙は永遠に膨張し続ける――そういった結論が下されていたはずだ。
 それが真実なら、亜存在とは、相対性理論すら覆すほどのイレギュラーな“モノ”だと言うことになる。確かに、こんなものが存在していていいはずがない。そう言われるのにも、納得出来る。

 聖が身震いしつつ唾を飲み込むと、現は微笑しながら彼女の頭にぽんと手を置いて、そのままゆらりと立ち上がった。瞠目(どうもく)したその横顔から、僅かに読み取れる情報は――感傷、だろうか。少なくとも聖の瞳には、それはどこか悲しげに映っていた。
 ……聖にそう思わせることで、何らかの結論に至らせようとしている。兇闇なら、そう類推するのだろうが。

「現在、地球の支配者は我々人類だ」

 二人に背を向けたまま、現は唐突にそう切り出し、口角(こうかく)を上げて振り返る。その鋭い眼光は、揺るぎない自信で汪溢(おういつ)しているのが見て取れた。

「我々は、三八億の歴史を持つ繁栄ゲームの参加者として、侵略者より覇者の座を死守せねばならん。相手が生命であれ、隕石や天災であれ、正体不明の化物であれ、同じことだ。そして明日は恒星系を、明後日には銀河系を、やがては全宇宙を、人はこの手中に収めよう――覇者で在り続けるために」

 言い切ると同時に、彼は、虚空へと伸ばした掌をぐっと握りしめた。その声は穏やかだが力強く、聖は瞬きを忘れたまま息を呑む。
 僅か数刹那(せつな)の、静寂。
 一転、現は柔らかく相好(そうごう)を崩し、結んだ掌を広げて、萎縮する聖と、隣の兇闇の髪を撫でた。澄んだ笑顔に威圧感は無く、先刻までの眼光も何処(どこ)へやら、すっかり隠れてしまった。

「なんて、そこまで言うと言い過ぎになるだろうかな。ともかく我々は、そして我々が支配すべき場所は、ここで滅びるわけにはいかんのだよ」

 成程(なるほど)、この変わり様には、確かに薄ら寒いものを覚える。兇闇のように彼を警戒するわけではないが、“少なくとも徒者(ただもの)ではない”程度の言葉で形容できる人物でもなさそうだ。
 そう思われていることも自覚しているのだろう。現は相変わらず赤子を相手にするかのように、穏やかな微笑を湛えたまま身を屈めて、聖に目線を合わせた。

「以上を踏まえた上で――さて、早速だが聖よ、実戦テストと行こうか」
「……はい?」

 鷹揚(おうよう)として微笑む彼から、唐突に告げられた言葉の意味が一瞬理解できず、首を傾げる。
 今まで時を刻んでいた無機質な針の音が、その瞬間を境に停止したように思えた。それきり笑顔の現も、ぽかんと口を開けたままの聖も、動かない。
 ただ一人、兇闇だけが、(いささ)か信じ(がた)いほど大掛かりな罠が、今まさに自分の足元にあると気付いてしまった時のように、歪んだ(しか)め笑いを浮かべて「まさか」と呟いた。

「シュバルツバルト奥部に虚数領域の異常増幅が検知されており、レイの助手たちが調査に向かっているのだがな。あの場所、そろそろ亜存在が出るぞ」

 そして、現の口からそんな台詞が出ると、動かないままの聖に揃って、兇闇までも真っ白に凍りついた。

「というわけで、だ。薔薇十字団第一級処刑者“兇闇(ベースヴィリッヒ・ドゥンケル)”並びに処刑者見習い“血塗れの白薔薇(バルトフラクト・ヴァイスローゼ)”に緊急指令。丁度近所なものでな、ちょいと森まで散歩がてら化物退治に行ってきておくれ」

 すっかり閉め切られたはずの部屋に、枯れた北風が吹きすさぶ。
 聖達が凍てついた時の牢獄から抜け出し、兇闇が吹っ切れたような笑顔で次の言葉を発するまでには、数分の時間を要した。

「現」
「なにかな」
「今度から、悪いニュースがある時は最初に言え」

 ああ、人って、こんなに穏やかな笑顔から、こんなに不穏なオーラを放つことができるんだ。
 見た目だけ笑顔に溢れた部屋で、聖は寝癖もそのままに、昇る太陽の目から逃れるように視線を逸らして、ベッドの上で縮こまった。

 ちなみに、後でいいニュースの方は何だったのか訊いてみると、近所のヨハンナおばさん(47)宅のワンちゃんが元気な五つ子を出産したらしい。
 心の底からどうでもよかった。



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