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第十七話 Sorrows



 (ひじり)は、未だ何が起こったのか把握できずにいた。

「救護班、急いでー! 三人とも後で精密検査が必要だよっ!」
「女の子はちょっと出血が酷いぞ、処理を優先しな!」
「だーから急いでってば! ……あーもう、Beeilen Sie sich, bitte! えっと、これで合ってんのかな……?」

 数え切れないほどの機械に囲まれた部屋で、同じ制服を着た人々が(せわ)しなく動き回る中、恐らく騒ぎの中心人物たる聖は、ただ呆然としてその場に座り込んでいた。
 一通り周囲を見渡しても、一体何が起こったものか全く理解できなかった。兇闇(まがつやみ)はここの職員と思しき人々と親しげに話しているし、ルシフェルときたら唐突に「あ〜超魔力減ったしっ」とか言いだしたと思いきや、その場に寝転んで寝息を立て始めたので、とりあえず安全は保証されている場所らしい。

 首だけ動かして辺りをよく観察してみると、それは部屋と言うよりも巨大な機械の一部のように感じた。形状は超巨大なジュースの空き缶とでも言えば丁度いいような縦長の円筒形で、所々に観察用らしき窓がついている。
 背後には、先程まで聖が足をついていた赤煉瓦(れんが)が、ボウルで型を取ったかのような半球状になって転がっている。聖は自分がこの部屋に現れた直後、バランスを崩した煉瓦の床を滑り台のようにしてここまで滑り落ちたことを思い出した。
 空間が、綺麗な円形に切り取られていた。瞬間移動(テレポーテーション)技術、そんなものが現代に()いて実現されているとは思っても見なかったが、事実、聖達は床ごと切り取られてここにいるのだ。信じないわけにはいかなかった。

「ふふ、このような大型機械は珍しいかね、お嬢さん」

 ざわついた空間の中で一際目立つ、低く落ち着いた声が、聖を振り向かせた。
 疲労のせいかぼやける視界は、その人影を一瞬だけあの黒衣の老人に見せた。だが、よく見ればそこに立っている男はまだ若く、多く見積もっても年齢は二十代半ばほどにしか見えない。同じなのは、脚部まで覆い隠すような漆黒のロングコートと、細やかな輝きを(たた)えた白髪だけだ。目深に被った帽子のせいで、その影に隠れた表情は窺い知れない。
 青年は、柔和(にゅうわ)微笑(ほほえ)みを血(まみ)れの聖に向けて、子供を宥めるような穏やかな声をかけた。

薔薇(ばら)十字団へようこそ……と言っても、私はあまり関係無いのだがね」

 その拍子に、暗く透き通った紅玉(ルビー)のような瞳が帽子の影にちらと見えた。アルビノかとも思ったが、よく見ると僅かに違う。アルビノによる赤眼は色素が欠乏して血管が透けて見えるタイプのものだが、それだとこうも濃い紅色にはならないはずだ。見たところ亜人種ではなさそうだが、こんな特徴を持つ人間は今まで見たことがなかった。
 対して、(かたわ)らに黙して立っている少女は、髪の色こそ同じ白色だったが、人形のような()めた瞳は黒く塗りつぶされ、どうにも近寄りがたい雰囲気を身に(まと)っている。ゴシック・ロリータ調の服装は少女然とした外見を強調していたが、その目から感じ取れるのは少女らしい快活さとは無縁のものばかりである。

「この長旅、どうやら想定の遙か外を行く結果に終わったようだね、兇闇よ」
「ああ、まあ結果論だが指令通りのことはこなせたぞ」
「ふむ、良くやったものだ、正直この事態は私としても予想外だったのだが……」

 男が兇闇と話し始めると、女の方が聖に小さく会釈を送った。どう反応していいものやら少しばかり迷ったものの、数秒遅れて聖が会釈を返すと、彼女は無言のまま少しだけ微笑んだ。
 何やら得体の知れない女性ではあるが、少なくとも悪人ではなさそうだった。

 次第に、白衣のような制服を着た人々が視界にちらほらと混ざり始めた。見たところ人間は一人もおらず、亜人種のみで構成されたチームのようだ。
 そのうち一人、鮮やかな赤い髪の女性が聖に近付いて、傷ついた肌にそっと触れた。

「大丈夫? ……ルーに何か変なコトされなかった?」
「え、えっと……」

 その視線を追って、ルー、と言う呼称が、横で寝息を立てているルシフェルに向けられたものだと気付く。

「……普通はされるんですか?」
「どうやらそれどころじゃなかったみたいね、運がいいやら悪いやらだわ」

 そんな気はしていたが、どうやら彼はそういうキャラらしい。聖はこれから被害に遭うことがないよう、深く心に刻み込んだ。
 ふと気付くと、彼女の触れていた腕の痛みは既に消えていた。アビスゲートから流れ込んだ記憶はもう殆ど覚えていないが、恐らくこれが回復魔法と言うものだろう。これは分子間相互干渉とは関係なく、魔力自体の持つ生命維持機能を応用させ、細胞の増殖や再生、活性化などを行うものだったと思う。これは重力操作魔法と同じく、ごく一部の適性を持つ者にしか使えない……らしい。
 その赤い髪の女性は、治癒を終えた肌から手を離し、聖をその胸に優しく抱え込んだ。

「とりあえず、もう安心していいからね」

 その穏やかな言葉に、強ばっていた体躯(たいく)弛緩(しかん)する。彼女からはとても柔らかい香りがして、その甘い霧が邪魔な思考を全て覆い隠してくれた。ずっとずっと幼い頃、まだ母に甘えることができた時以来、長らく忘れていた感覚である。
 ただ、抱きしめられていると否応なしに解ってしまうのだが、たぶん胸は聖より小さい。というか成人しててこれなら本当に希少価値でステータスになり得る。背丈はともかく、この童顔も合わせれば彼女には凄まじいポテンシャルがどうのこうの。
 ……とまあ、聖の思考が変な方向に進み始めたあたりで、部屋の外から一際目立つスリッパの音と、はしゃぐ子供のような声が聞こえた。

(うつせ)ぇーっ! なんかいろいろ帰ってきたってホントー!?」
「おや、レイか」

 慌てて道を空ける人々の中を、スリッパの低い摩擦係数を活かして華麗に滑走する白衣の女性が見えた。粗雑に巻き付けたバンダナから伸びる赤みがかった金髪に、青空を映し込んだような蒼い瞳。顔つきを見るに、欧米人とアジア系――喋っている言葉から推測すれば、後者は恐らく日本人との混血だろう。
 レイ、と呼ばれたその女性は、有り余った勢いを利用して華麗に跳躍、出入り口の扉枠を蹴り飛ばして方向転換し、そのままのスピードで兇闇に飛びついた。

「うっわーいお帰りィー、一年間も寂しかったよ兇闇くーん!」
「相変わらず喧しいな……本当に地位高いのか、博士」
「当ッたり前さー! 東京タワーよりもチョモランマよりも、全フロアが中央の一本だけになったジェンガ最終形態よりも高いさー!」
「ああもう怪我に響くッ、地位が高いのは解ったからテンションはもうちょい低くしてくれ!」

 およそ人間とは思えないような機動力で兇闇に纏わりつくレイ。兇闇は鬱陶(うっとう)しそうにツッコミを返していたが、反応を見る限りではそれほど嫌がっているようには見えなかった。
 なんとなく友達を取られたような気になり、聖は少しむっとして兇闇の袖を引き――すぐにそんな場合ではないと気付いて、慌てて開きかけていた口を(つぐ)んだ。そんな事よりも、()きたいことが幾つもあったはずだ。

「あ、あの……」
「疑問には私が答えよう」

 まず最初に何を訊いたものかと逡巡(しゅんじゅん)していると、それを先回りして、現と呼ばれていた黒装束の青年の声が響いた。どこか胡散臭い、芝居がかった声だ。

「まずここは何処か、ドイツ連邦共和国バイエルン州バンベルク、薔薇十字団ドイツ支部だ」
「ド、ドイツ……ですか」

 辺りを見回す。この部屋にいる人間を見ただけでも様々な人種が混ざり合っているようだが、確かに身長の高い者が多い。ドイツ人は長身だ、と言う知識もどこかで聞いただけで、実際に見たことは無かったのだが、そんなあやふやな知識でも、とりあえず軽い裏付けにはなった。
 ほんの少し前まで日本にいたはずの聖達が、今は経度にして百二十度は離れたヨーロッパにいるなんて(にわか)には信じがたい……が、実際に瞬間移動を体験した身としては信じるほかにない。
 現はそんな聖の反応を見て、ふと思い出したかのように言葉を付け足す。

「ただし、君が今までいた世界の裏側のね。ブレーン宇宙論――膜世界の表裏については彼から聞いているかね?」
「はい、一応……簡単にですけど」
「充分だ」

 世界とは高次元な空間から見ると膜のような形状をしており、それには表裏が存在する……以前、まだ螢一(けいいち)≠セった頃の兇闇から聞いた言葉だった。

「次に、何が起こったのか。鏡面転送だ、擬似的な重力特異点を円周加速させて重力子の層を二つ形成し、双方のシュバルツシルト面を多重化させてから、ブレーン間ワームホールを安定させるためシュテルン・エンジンという原動機を用いて負のエネルギーを……」
「話難しくなってる」

 と、そこで彼の横に立っていた少女が、こつん、と手の甲でその背を軽く叩いた。確かにこのまま続けられても意味が分からないままだっただろうが、とりあえず兇闇の持っていた偏頗(へんぱ)な知識の理由も解った気がする。
 現は解説を一度中断して、コートのポケットから小さな機械のようなものを取り出すと、改めて口を開く。

「まあ、結論だけ言うと……こいつの周辺半径二メートルほどの空間と此処とを相互転移させたのだよ」

 黙ってそれを聞いている聖に、兇闇も自分の懐から同じものを取り出して見せた。
 相互転移。空間をそのまま入れ替えた、と、そういうことだろう。もしかしたら、世界の壁で隔てられた先の方が、同一面での転送よりも楽なのかも知れない。世界に穴を空けるのは難しいから、最初から空いている穴を利用するしかない……と、螢一はそう言っていたが、逆に言えば、最初から空いている穴が利用できるからこそ、このような瞬間的な転送が可能となったのだろう。
 現は再びその機械をポケットにしまい、視線で兇闇を指して言葉を続ける。

「現地時間で十時になったら転送するよう、彼に言われてな。急いで準備した」
「あ……()(ほど)

 幾つものピースが、聖の中で一つの形に繋がった。結との戦闘に入る直前に兇闇がそう連絡していたとするならば、全てが整合する。最初から幾つもの条件分岐に従った作戦を立てていたのか、或いはそこまで長引くようなら確実に逃げを打たねばならない時だと推測してのことかは解らないが、少なくとも聖の知る限りの彼は、不測の事態を視野に入れないような人では無かった。
 聖を逃がして一人にするのは逆に危険だと彼が言ったとき、ルシフェルが妙に驚いていたのも、当時は一般人だった聖をこの転移に巻き込む可能性を危惧してのことだったのだろう。その時には既に転送が計画されていた証拠である。

 聖がそこまで考えたところで、現は改めて聖に向き直り、右手を胸部に(あてが)って静かに頭を下げ、映画の中で西洋の執事がそうしていたように、礼儀正しくその名を告げる。

「そして三つ目に、私の名は黒神(くろがみ)現、横のこの子は黒神(かくり)。日本人であり人間だ。名も無い亜人の私兵集団兼おもしろコミュニティを道楽で率いている」
「そんな軽い立場じゃないでしょーに」

 貼り付けたような微笑を浮かべて言う彼に、レイが茶々を入れた。幽と言うらしい少女は、紹介されると同時に、無言のままスカートの端を持って僅かに膝を折り、まるで上流貴族のような挨拶で応じる。日本では馴染みのない仕草だったが、動作は洗練されていて不自然さは見受けられない。この二人、どちらも徒者(ただもの)ではなさそうだということはよく解った。
 聖が少し萎縮していると、不意に兇闇が隣に座り込み、いつものように無愛想な目を聖に向けて付け足した。

「一応、俺やルシフェルもそのおもしろコミュニティに所属してる。俺は薔薇十字団からの派遣勢力だけどな」

 最初にもそんな事を言っていたが、どうやら現と言う人間は薔薇十字団の一員と言うわけでは無いらしい。聖が考えてもどうしようもない事だが、単純な外部からの協力者と言うよりも、どこか深い関係を感じた。

「そして最後の回答に移行する前に、こちらからも一つ訊いておきたい」

 そんな聖の思考を知ってか知らずか、現はそう前置きして深紅の瞳をぎらりと煌めかせた。彼は何事でも無いかのように淡々と言っていたが、その裏に隠れた意識を聖は見逃していない。その問いは、彼らにとってよほど重要な意味を持つものなのだろう。聖は思わず左胸を押さえた。

「端的に言おう、君をここまで導いた最たる原因は誰だ?」

 全てを見通しているかのような発言に、全身の皮膚が(あわ)立った。どうやら兇闇やレイも驚きを禁じ得なかったらしく、双方大きく目を見開いて現を見遣る。空気が緊張を帯びるのを肌で感じ、聖は汗で張り付く服をはがして、唇を開こうとした。
 が、刹那(せつな)

「うわあああ無限ジョグレスつええええええ」

 背後から響いたルシフェルの寝言が全てをぶち壊した。

「こんな時に無限大な夢見てんじゃないわよこのピノッキモンがッ!」
「わだこうじッ!」

 先程聖を治療してくれた赤毛の女性が全力で振り下ろしたオニイトマキエイに潰され、ルシフェルは珍奇な悲鳴を上げて爆発した。かと思いきや、彼は全くの無傷でエイの口から顔を出し、ほっと一息ついてから何事もなかったかのように爽やかな笑顔を浮かべる。

「この魚の中にはルト姫様はいなかったぜ……」
「やかましいわ」
「でもゼペットじいさんはいた」
「いたのかよ、詳しく調べて学会に発表しなさいよソレ」

 張り詰めていたはずの空気が何やらわけのわからないことになってきた所で、聖はふと我に返って質問の答えを探した。自分をここまで導いた最たる原因……とは、ここ最近で関わった全ての者がそうだと言えなくもないが、その中でも最も強く聖を導いた者と考えると、それは一人しか見つからない。

「え、えっと……貴方と同じ、白髪に黒ずくめの老人でした……」
「やはり、か」
「やはり、だね」

 現と幽が、互いに確認を取るように頷いた。それは即ち、彼らの推測と事実が一致していたと言うことに他ならない。
 聖は言い知れぬ恐怖に背筋を凍らせ、震える肩をぎゅっと抱いた。これは決して小さな偶然の流れが積み重なっているのではなく、より深くで渦巻く海流が水面に見せた片鱗に過ぎないのだろうか。聖には、何も解らなかった。
 その傍らで、兇闇が腕組みをして現に問いかける。いつになく真剣な顔だ、完全に想定外のことだったのだろう。

「どういう事だ、まさか聖を意図的に巻き込んだ犯人がいるってのか?」
「その通り、これは偶然などではない……よく考えれば解るだろう、普通なら彼女はここまで来ることなどできなかった」

 そう淡々と言い連ねる現の表情には、ほんの僅かな焦慮(しょうりょ)と、どこか愉悦(ゆえつ)のような色が混ざっていた。その真意は聖には理解できなかったが、どうやら彼の思考は言われても理解できそうにない。

「計画というものは多少狂うのが当然だが、ここまで乱されたのは久方ぶりだ」

 そう言って口角(こうかく)を上げる彼の姿に、聖はどこか不気味さを感じていた。その感情を言葉にすることは難しいが、敢えて言葉に(たと)えるなら畏怖(いふ)に近い奇妙≠セった。理解できない存在、理解できる限界を超えた存在、そういったものに出会った時に初めてこういう感覚が走るものなのだろうか。
 個人がそう感じただけ、取るに足らない細事ではある。が、聖はどうしても安心することができなかった。知らず心の(よりどころ)を、隣に座る兇闇に求めてしまっている。

「とりあえず話を戻そう、最後に、君の今後についてだが……今の答えで決定した」

 現はただ淡々と、言葉を並べ立てる作業に徹していた。その口調はまるで造花のように無機質で、只管(ひたすら)に不透明なもの。もしかしたら、彼には普通に話す≠アとができる相手すらあまりいないのかも知れない。高みに在るが故に普遍性を失う。完璧であるが故に壊れている。そんなシルエットは、どこかあのヘイトという男と被って見えた。

「私のパーティだけでなく、薔薇十字団にも処刑者(エグゼキューショナー)として入れたいと思う」

 そんな事を考えていたせいで、その台詞はすぐには頭に入ってこなかった。ただ呆けるように話を聞いている聖の横で、兇闇が慌てて立ち上がる。彼にしては珍しく、直線的な焦燥を表情に出していた。

「お、おい現、何言ってるんだ!?」
「報告メールは私も幾つか見ているよ、彼女は深層同調の適性者で、魔術師であり、さらに今回の件で最高位の鐫界器(せんかいき)に選ばれたと見える……人材としては最適だと思うが、どうかね」

 至極当然のことのように、静かに述べ立てる現。処刑者と言うものが何をする者なのか、聖には(おおむ)ね見当がついていたが……確かに、理屈で言うなら聖はそこにいるべきなのだろう。聖自身、そう思っていた。感情論は時に美しいかも知れないが、理屈が通らなかったら世界はどうすれば成り立つと言うのか。なまじ理解していたからこそ、聖はそれを否定しなかった。

「そりゃ解るが……聖はまだ十四歳だぞ、それに日本は平和な国だった、いきなり戦争やらせるのは酷だろう」
「では逆に……放置しておけば彼女が元の日常に戻れると思っているのかね?」

 言葉に詰まり、兇闇は苦々しげな表情を浮かべてたじろぐ。
 もう元のように穏やかな暮らしはできないのだと、改めて知らされた。物事は往々にして失われてから価値を知ることができると言うが、聖にとって今この瞬間も例外ではなかった。

「こうなってしまった以上、今の内に戦闘というものを身につけなければならないのだ。いつか必ず、力が必要になる時が来る」

 何の感慨も無しにそう続ける現を訴えるように()め付けて、兇闇はまるで盾にするかように自らの半身を聖に重ね、問いかける。

「現……まさか、巻き込まれただけの彼女まで駒にしようってのか?」

 そして去り際の彼は、無慈悲にも感じられる微笑を浮かべながらこう返した。

「駒とは本来人を模したものだろう、人を駒に喩えるのは本末転倒だよ」

 ぞくりと寒気が背筋を穿(うが)ち、軽い眩暈(めまい)がした。その言葉の向こうに、どこまでも黒い本質が見える。ただの野心や残酷さから来る、塗りつぶされた漆黒ではない。彼の深淵にあるのは、底の抜けた虚無だった。全ての色を混ぜ合わせた有の極点≠スる黒ではなく、全ての色を失った無の極点≠ナある黒。それがこの男を支配するのではなく、この男はそれを支配している。
 黒神――兇闇の偽名と同じ姓。彼はそう名乗ったはずだった。もしかしたらそれは名などではなく、ある種の符号なのかも知れない。直感的にだが、聖はそう感じた。亜人種への改変に伴って、脳内での情報統合能力や判断力が上昇しているのだろうか。

 現は漆黒のロングコートを(ひるがえ)して聖に背を向け、最後に

「よく考えなさい、君を動かすのは君自身の答えだ」

 と、そう言って去っていった。
 何も言えずに見送る聖達を、現の背後に付き従っていた幽が不意に振り返る。相変わらずの無表情だが、そこに冷たさは見えない。流れる水のような無機質な優しさが、朧気(おぼろげ)に見て取れた。

「ああいう言い方ではあるけど、彼も貴方達を心配してる。あまり怖がらないで」

 残された言葉はそれだけだった。
 一縷(いちる)余韻(よいん)が雑音の中に残り、辺りはまだ多くの人が聞き慣れない言語を交わして彷徨(うろつ)いていると言うのに、まるで凍り付いた水面のように静謐(せいひつ)な空気が周囲を覆い尽くしていた。
 そのざわついた静寂を、最初に破ったのは兇闇だった。彼は先刻までのような焦燥の表情をすっかり隠して、小さな溜息をついてから独り言のように呟き始める。

「帰ってきた途端に難題だな、休む時間くらい欲しいところだが……どうする、聖?」

 彼自身は反対していたものの、飽くまでも聖の意見を尊重する気でいるらしく、兇闇はそう訪ねた。
 こちらの世界――いや、正しく言うならば世界のこちら側≠フことは何も知らない聖では、すぐに答えを出せる問題では無さそうだった。だが、後々のことを考えると、選択の余地は無いのではないかと思う。
 亜人となってしまった聖は、もう誰とも繋がりを持っていない。ただそこにいるというだけの、本来存在するはずのない存在なのだ。
 聖は少し(おど)けたように肩を(すく)め、形だけの力無い微笑を作って答える。

「よく考えたら、私ってこっちじゃ戸籍も無いんですよね……選択肢無いんじゃないですか、最初から」
「聖……」

 緩慢な動作で立ち上がるも、くらりと視界が暗転しかけて危うく転びそうになり、聖は膝に手をついた。べとついた血が(ぬめ)り、視界に揺らめきが走る。
 当然と言えば当然のことだが、どうやら治癒の魔法では、外傷は治せても失われた血は戻らないらしい。

 立ち眩みが落ち着いたので、聖はようやく上体を起こした。ずっと前屈みになっていたので、久々に伸ばした腰が痛い。
 そんな当たり前の感覚に身体が(ほぐ)れ、疲労感がどっと押し寄せてきた。

「とりあえず……凄く疲れました、魔力って少なくなると眠くなるんですね……」
「そうだな。答えを出す前に、まずは少し休もう。どうせ数日は精密検査やら報告やらで身動き取れないしな」

 兇闇はそう言って、聖のためか遅い歩調で部屋から出ていこうとする。しかしそれでも、彼と聖との間隙(かんげき)は開くばかりだった。やがて、いつまでも歩こうとしない聖に気付いたのか、兇闇がゆっくりと振り返る。

「……聖?」

 室内のざわめきが遠くなる。世界から切り離されたかのような、奇妙な錯覚だった。
 ようやく、一歩。血塗れの微笑を湛えた聖が、踏み出す。

「兇闇さん、私、これで完全に一人になっちゃいました……」

 また、一歩。兇闇はどう声を掛けていいのか迷っているらしく、苦い顔をしている。そんな顔もすぐに、笑おうとして細めた瞳のせいでぼやけて滲んだ。

「ツノなんて生やして、まるで本当の化物みたいで……でも、これでお揃いです」

 そして手が触れる距離まで来た時、聖はとうとう堪えきれず兇闇に抱きついた。いつもなら彼は照れを隠しつつ鬱陶しそうに払いのけるところだが、今はその手も触れてこない。

 ――苦しかったのは、傷の痛みではない。悲しかったのは、自らの変質ではない。(つぶさ)に離れていった人の温もりと、友の拒絶。それだけだった。
 孤独を恐れるように失った物を探し続け、ついた汚れも、痛みも、訪れかけた死でさえも、ただそれ自体を欲したが故の産物なのかも知れない。道を見出すなんて(ただ)の言い訳だ。ただ寂寥(せきりょう)と絶望の果て、死に場所を求めて彷徨(さまよ)っていたに過ぎなかった。
 それでも僅かに残った一縷の希望を()てきれず、結局、聖はまだここにいる。満身創痍(まんしんそうい)ながらも、生き残ったのだ。今まで持っていたものは全て喪失の水面(みなも)に消え去り、代わりに戦う力が小さな(てのひら)に残った。

「私……私、殺し屋にでも処刑者にでも、何でもなります」

 今更、死ぬかもしれない事なんて怖くない。本当に怖いのは、(まぶた)を閉じた向こう側に、深い深い漆黒しか見えなくなることだ。自分という存在すらも造り変わってしまった今、聖は何処にいても孤独でしかない。
 もう、聖がこうして寄りかかれる人は、彼を残して他にいなくなっていた。

「だから、だからもう一度……いつもみたいに、先輩って呼ばせて下さい……」

 力無く震える、か細い声と(からだ)。それは、深く暗い深淵(しんえん)へと至る絶壁に残された、最後の足掛かり。一度は拒絶された身だが、今なら解って貰えるだろうか。その身の安全が保証されなくなることなんかよりも、やっと繋がれた、この最後の手を突き放される方が余程辛いのだと言うことを。
 酸化して赤黒く変色した血が、冷たい涙に押し流される。この上なく不吉で、醜い化粧だった。
 それでも、彼はその汚れた身体をそっと受け止めるように抱いて、小さく呟いた。

「そうだな、これで俺はまた君の先輩だ」

 思わず見上げた先の彼は優しく微笑んでいて、しかし、片目からほんの一粒だけ涙を流していた。
 ただそれだけのことが嬉しくて、聖もまた彼の胸に顔を埋め、人目も(はばか)らずに声を上げて泣いた。

 嗚呼、それでもまた夜は来る。
 しかし、隣に友がいるのなら、暗闇も怖くなどない。

 ――血塗れの頬を伝う、どこか暖かい涙は、生きろ、と、自らにそう言っているような気がした。



 [To be Continued.]



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