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第十六話 Vampiregirl



 (ひじり)はアビスゲートを持ち替えて、深紅に(まみ)れた左腕の傷口を乱暴に(つか)むと、笑みとも苦しみともつかぬ形に口許(くちもと)を歪める。その有様は、周囲の目にはさも戦闘狂のように映っていたことだろう。まだ人間だった頃の、内気な少女の面影はすっかり鳴りを潜めていた。
 濡れた(てのひら)を、ゆっくりと引き剥がす。それに従って、ずるり、と、その傷口から血液が引きずり出された。傷から血が出る、至って当然のことだったが、その血液が一つの形骸(けいがい)を維持していたことは明らかな異常である。聖は自分の血で形成された剣を引き抜き、狂気じみた微笑を浮かべた。

指囘紅術(しかいこうじゅつ)――ビースト・オブ・ブラッド▲

 聖が振るった血の剣が不気味に揺らめき、一つの意思を持った怪物のように空中のヘイトへと襲いかかった。全体の体積は変わらないため、刀身は次第に細くなってゆく。この暗闇の中では、肉眼で視認することすら難しいほどに。

 指囘紅術。端的に言えば、血液を自在に操る魔法の一種である。
 魔力と言うものは生命維持のために絶えず生み出され、絶えず消費されるエネルギー。歩行や跳躍、会話や呼吸にだって魔力は消費される。無論、心臓の鼓動にも。これは生命体が皆持っているDNAが生成する蛋白(たんぱく)質の働きであり、日々当然のように行われている筋肉の動きや脳内命令などに使われる電気信号も、原理的には亜人種の行う電磁気力操作と何ら変わらないのである。
 この指囘紅術と言うものは、心臓の鼓動による魔力使用の残滓(ざんし)を利用して、触れている血液を操作する特殊な魔法だ。通常の魔法とはサイクルが異なり、電磁気力や重力の操作で結合させているわけではない。飽くまでも血液自体≠操作しているのである。
 これは、指囘紅術専用の特殊なDNAによる働きだ。もとは突然変異で生まれたそれは極端な劣性遺伝子であり、それが発現する個体など五十年に一人いるかいないか、という程度のものである。しかし、聖にはそんなことは関係ない。最初からそうだった事にした≠フだから、遺伝がどうとかは全く関係無いのだ。

 そんな異質な術を使ってくるとはヘイトも予想の外だったのか、避け損ねた血の糸が腕に絡みつく。本当は首を狙ったのだが、覚醒したばかりで練習もしていない聖ではこんなものだろう。
 術者に接触していなければ血を操作し続けることはできないとは知っていたらしく、ヘイトは先刻と同じように窒素の結晶を用いて糸を切断しようとした……が、電磁気力操作による分子結合に頼らず操作されている柔らかなままの血液は、ぐにゃりと(しな)るばかりだった。その冷気に血の一部が凍り付いたが、魔力の残滓が残っている限り、操作が解けることはない。

 しかし、それを見たヘイトは、絡みついた血の周囲を一斉に窒素の結晶で覆い尽くした。糸状になった血液は一瞬で熱を伝導し、余す部分なく凍り付く。
 聖は思わず舌打ちを零した。このまま腕を切断しようと思っていたものの、凍結して弾性を失ってしまうと単なる(かせ)にしかならない。無理な力をかければ砕けて操作の手を放れてしまうだけだ。低温火傷くらいはしただろうが、手首を切断されるよりは遙かにマシだろう。
 捕縛から切断まで、その僅か一瞬の間に対策を模索し、実行して見せるとは、やはりこのヘイトと言う男は、聖などが敵うはずのない強敵らしい。その事実が余計に、身体を昂らせる。

「月下の夜想曲=I」

 空中、血の糸を蜘蛛の巣のように張り巡らせて、聖はヘイトの枷を解いた。次の瞬間、闇夜を彩る鮮血の糸が月明かりに交叉し、一斉にヘイトへと襲いかかる。彼は魔力によるシールドを全方位に張って攻撃を防いでいたが、輝光壁と呼ばれるその障壁は本来指向性のものだ。全方位に展開させているように見えていても、それは連続したものではない。
 上下左右、そして前後……自身を完全に覆い尽くすほどの大きさの障壁を展開できたとしても、その六面全てをカバーする事などまず不可能だ。二つの魔法を同時に行うだけでも、両手で全く異なる絵を描くほどの操作精度が必要となる。それを同時に六つとなると、両手の指先に計六つのペンを縛り付けてそれぞれ異なったものを描くようなものだ。
 つまり、全方位展開に見えるそれは高速で現出方向を変え続けている≠ノ過ぎないのだろう。嵐のような攻撃を延々と継続すれば、その隙間に攻撃を撃ち込めるのは道理である。そして推測の通り、無数の赤糸は次第に輝光壁を越えてヘイトの身を刻み始めた。

 しかしヘイトの方も、一方的に切り刻まれるばかりの状況をただ見ていたわけではない。どうやら防御しながらも詠唱をこなしていたらしく、唐突に巻き起こった爆発により、血で作られた蜘蛛の巣に大きな穴が生じた。
 盾にぽっかり空いた大穴から猛然と飛来するヘイトの姿を見て、聖は慌てて血を集め、再び剣状に固める。その(かたわ)ら、左手に持ったアビスゲートを掲げるのと、ヘイトの手刀が振り下ろされたのは全くの同時だった。
 光の盾が、魔力を纏ったヘイトの一撃を受け止める。二人は互いに睨み合いながら、僅かに口許を吊り上げた。

「正直、予想以上のさらに上だ……こちらも全力で行かせて貰うよ」
「願ってもないことです……攻撃に全力を尽くしてくれれば、周囲が見えなくなる……」

 聖はそう言い返して、血の剣を地面に突き立てる。そこには、まだ聖が人間だった頃に撒き散らした、大量の血溜まりがあった。腹部大動脈は人間の身体の中で最も太い血管で、これが破られるとまず命はない。当然、そこから溢れ出ていた血液の量は相当なものである。
 そして今、聖の手は自分の血で作られた剣に触れ、その剣はおよそ人間一人分にも匹敵する量の血溜まりに突き立てられた――これが何を意味しているのか、ヘイトは一瞬で理解したようだった。

「まさか――!?」
「これで終わりです……! 指囘紅術奥義、虚無の中での遊戯<b!」

 一瞬にして血溜まりが六芒星の陣を形作った。アルファベットのNを反転させて重ねたような、西洋魔術で度々用いられるクロウリーの六芒星である。
 ヘイトは慌てて離脱しようとするも、遅い。正確に言うならば、決して遅くはなかったが、遅くさせられた≠フだ。アビスゲートの宝珠が煌めき、彼の姿は、よくテレビ番組などで見る職人技や自然現象の検証動画のように、非常に緩やかな動作で聖の目に映っていた。
 聖は既に悟っていた。この男を倒すには、最初から全力で大技をぶつけまくるしかない、と。油断は即、死に繋がる。聖は唇をぎゅっと結ぶと、右手の剣を血の池に押し込み、掌まで埋め込んだ。

 赤黒い血の色をした竜巻が、ヘイトを巻き込んで遙か上空へと消した。
 常人ならこの一撃で四肢を引き裂かれて肉片になろうものの、やはりそう簡単に殺されてはくれないらしい。神曲を放たれた際、兇闇(まがつやみ)が聖にかけていたものと同じ、輝光壁を変質させて身に(まと)う防御術によって耐えたのである。この魔法は輝光壁と違って完全な防護膜にはならないものの、面攻撃によって受けるダメージは充分に軽減される。
 身も蓋もない言い方をすれば、両者の違いはマホカンタとマジックバリアみたいなものだ。

 荒れ狂う血の奔流は、ヘイトを包み込むようにして攻撃を繰り返す。流石に防御能力も高く、辛うじて形は保っているようだが、恐らくもはや骨は砕け、内臓の幾つかは破裂していることだろう。精神力切れで防護膜を失い、粉々になるのも時間の問題と思われた。
 聖は駄目押しとばかりに右掌を天に(かざ)し、血の球体でヘイトを閉じこめる。

「……(バロック)

 広げた掌をぎゅっと閉じると、血の球体は(ひしゃ)げて潰れた。聖の固有アストラルが血を覆っているため、血液自体に作用する魔法は意味を為さない。固体窒素を生成する時間も無く、仮令(たとえ)それができたとしても、糸状でもない大量の血液を一瞬で全て凍結させるのは不可能である。
 チェックメイト後の、キャスリングすら認められない勝利。破裂した血塊が豪雨のように散り敷き、聖の真っ白な長髪を深紅に染め上げていった。その中にヘイトの姿は見当たらない。当然のことだ、あの球体の中にいた者は点のようになるまで潰され、圧縮される。後には死体すらも残りはしないのである。

 聖はくるりと振り向いて、血を失いすぎてふらつく身体を支えながら兇闇たちの方に足を向けた。

「終わりましたよ……兇闇さん、ルシフェルさん」
「……みたい、だな」

 兇闇は血混じりの唾を吐き捨て、ゆっくりと立ち上がった。口の中を切りでもしたのだろう、とりあえず大事では無さそうだ。流石に受け身を取れる程度の訓練は受けているのだろう、服は少々擦り切れているものの、目立った外傷は無い。
 その傍らで、ルシフェルが寝転がったまま頬杖を突いて血溜まりを見つめる。気圧を操って衝撃を和らげていたのか、兇闇よりも更に傷は少ない。魔力残量は殆どゼロなのだろうが、一見しただけでは()だ充分戦えそうなものだ。

「これが指囘紅術か、すげーなァ……ほとんど何もさせずに勝っちまった」

 感嘆の声を上げるルシフェルに、聖は照れた笑顔で返した。
 ようやく実感が沸いてきた。聖は今や無力な人間ではなく、数日前には雲の上の生命体のように感じていたルシフェルに、こうして実力を認められるほどになったのだ。それどころか、聖が足を引っ張ったせいとは言え、兇闇とルシフェルが二人掛かりでも勝てなかった化け物のような敵にさえ、圧勝してみせた。

 しかし同時に、今まで忘れていた恐怖や、亜存在と化した結への思い、そして今まで生きてきた人間の世界に別れを告げなければならない事実が聖の心に伸し掛かる。

 女生徒二人、行方不明。きっと世間的にはそう扱われるのだろう。そして、この公園でおよそ人間一人分の血液が発見される。DNA鑑定の結果、聖のものと一致、死亡したものとされるが、遺体の行方は不明なまま……なんて、容易に想像がつく話だ。ちょっとした都市伝説くらいにはなるかもしれない。
 まさか「人間じゃなくなりました」なんて誰にも説明できまい。
 聖としてはそういうのも孤独なヒーローみたいで格好いいとは思うが、いきなり自分がその役に回るとなると話は別である。せめてもうちょっとくらい準備期間が欲しいと思う。

 少なくとも、亜人化してしまった以上は今まで通りに平然と生きているわけにもいかず、兇闇たちについていくしかない。
 いや、平然と生きていてもいいのかも知れないが、多分一週間も経たないうちにNASAまたはそれに準ずる組織に連れてかれて実験台にされると思う。そういうベタなエロマンガみたいな展開は、個人的には御免(こうむ)りたい。

「えっと、兇闇さん……」

 言いかけて、気付いた。先刻、ヘイトの罠に()められて聖が突っ込みすぎた時のように、アビスゲートが震えているのだ。(いや)、実際に振動しているわけではなく、その剣と同調している聖の感覚神経が、聖の脳に揺さぶりを掛けている。聖は咄嗟(とっさ)に時間の進みを緩めて、素早く周囲を見回した。
 背後には、何もない。左右を見渡しても、どこまでも暗くひっそりとした夜が広がるばかりだ。そして最後に上空へと目を遣り、驚愕した。

 何か≠ェ、今まさに聖たちへと迫っていた。それが何なのかはよく解らない。だが、とてつもなく巨大なそれは、あと数秒の猶予もなく公園ごと三人を押し潰そうとしている。

「……っ!」

 聖はアビスゲートを天高く掲げ、漆黒の盾を展開した。破れた時間の狭間から真空のエネルギーが光線となって照射され、その巨大な何かを穿(うが)って消える。アビスゲートによって齎された知識によれば、この真空エネルギー砲は全力で放てば並の航宙艦の重力子シールドをも突き破って消滅させる£度の威力があると言う。
 航宙艦なんて代物が実在しない現代に()いてどうやって得られたデータなのかは解らないが、少なくとも眼前に迫っていた驚異は完全に消滅させることができたらしい。

 その遮蔽物を払拭した一瞬の閃光に続いて、聖の視界を覆った赤い月夜には、全くの無傷で空に浮かぶヘイトの姿があった。
 彼は鎧を纏っていた。まるで玩具のような深緑と純白のコントラストが、不釣り合いな金属光沢を強調する。その翼は今までのような真紅の翼膜ではなく、草葉のような羽毛のような、奇妙な質感を持った鵬翼(ほうよく)だった。羽搏(はばた)きもせずに滞空していられるところを見ると飾りのようなものらしいが、少なくとも今までのヘイトでは無いことだけは理解できる。

「月は無慈悲な夜の女王……か、質量兵器とは単純だが非常に面白い発想だね」

 そのヘイトの台詞には聞き覚えがある。ロバート・A・ハインラインの(あらわ)したSF小説だ。地球に対する月世界の独立戦争を描いた長編作品で、確か物質移送用のリニア・カタパルトを用いて大質量の物質を地球の特定ポイントに落下させると言う攻撃方法が登場したはずである。これ以降、後続のSF作品にも質量兵器が多々見られるようになり、某コロニー落としの元ネタなんかにもなったりしている。

「おいおい、んな馬鹿な……質量兵器なんてそう簡単に用意できて、そう簡単に撃てるモンなのかよ」

 苦笑を漏らしつつ、ルシフェルが唸る。
 質量兵器。今のが、そうだったと言うのだろうか。正解だが、根本は恐らく違う。それは同じ経験をした聖だからこそ理解できる現象だった。

 最初からそこにあったことにした■
 別に面倒なプロセスを経て何処かから射出したわけでもなく、また複雑な魔法のロジックを組んであれだけのものを生成したわけでもなかった。質量保存だとかエネルギー保存だとか、そんな法則は関係無い。無かったから生成する≠フではなく、あった事にする≠フだから。

 それは決して、物理法則に従った魔法によるものではない。そんな真似ができるのは、既存の物理法則の外にある存在――即ち、亜存在か鐫界器(せんかいき)だけ。そこにいるのが亜存在では無いのならば、消去法により答えは限られる。

「まさか、鐫界器……!?」

 それは、その名の通り世界≠鐫≠驥道具≠ナある。俗にオーパーツと呼ばれるものの一種であり、その形状は様々なものがある。
 魔法が起こす現象を超常現象≠ニするならば、この鐫界器が起こす現象は超物理現象■(すなわ)ち、飽くまでも異常な物理現象を起こすだけに留まる魔法に対して、鐫界器とは物理法則でさえ無視した現象を起こすことが可能となるのだ。
 使用者の意思と魔力を以てして、プログラムに従った命令を世界に直接鐫り込む……いつかの科学者が、鐫界器の引き起こす現象をそう表現したのが、その命名の由来だと言う。

 覚醒したばかりの亜人種、レベル一≠ナある聖は、鐫界器である破魔剣(はまのつるぎ)・アビスゲートを手にすることでヘイトと対等に戦える程の力を持つことができたのだ。
 ――ならば、そのヘイトまでもが鐫界器を手にすると言うことがどういうことか、それが理解できない者は恐らくここにいまい。

「……聖」

 兇闇が、囁くように呟いた。呼びかけていながら視線は自分の右腕にあり、どうやらそこに着けている腕時計をじっと見ているらしい。

「一つ。あと約一分半だ、あいつに攻撃させるな。二つ。合図はする、一分半経った瞬間には俺のすぐ近くにいろ」

 必要最低限の言葉だけで構成された、謂わば即席のミッションだった。何かを()き返す暇もなく、彼ら二人は散り散りに駆け出していく。
 取り残された聖は、一拍遅れてアビスゲートを再び弓状に変形させ、上空のヘイトに狙いを定めた。
 力を手に入れたはいいが、やはり振るうのにはまだ慣れないらしい。放たれた光の矢は見当違いの方向に飛んで、分厚い雲を一つ貫いた。聖は今一度狙いを直そうとしたが、そこで初めて己の異変に気付く。

 奇妙だ。足首に力が入らない。手が震えてしまい、うまく狙いをつけることができずにいる。次いで、強烈な眠気が襲ってきた。全身の力が抜けていく、次第に身体を支えることすら出来ないほどに――……。

 ――魔力切れ。

 最悪の想像が、聖の頭を支配した。後先を考えずに、強力な大魔法を連発したせいだ。鐫界器の能力を発現するのも、並の魔法とは比べものにならないほどの魔力を消費する。ここに来て、遂に聖の魔力は底を尽きようとしていた。
 魔力とは生命維持のためのエネルギー。心臓を動かす筋肉も、神経回路を伝う電気信号も、全てこの魔力によって動かされている。これが完全に尽きてしまえば、死が待つだけだ。普通はその前に身体が睡眠と言うストッパーをかけるが、この状況下で無防備となるのは非常に良くない。

「死んで、たまるか……っ」

 聖は再びアビスゲートを左手に持ち替え、左腕の傷口に掌を宛った。これ以上血を失っては危険だと解ってはいるが、魔力を殆ど消費しない攻撃行動はと言うと、正式な魔法ではなく鐫界器を用いてもいない指囘紅術(これ)しかない。聖は自分の左腕から、再び剣を引きずり出した。
 重度の貧血に眩暈がして、聖は地面に膝をつく。血圧が一気に低下し、脳に酸素が殆ど送られていないらしい。だが、ここで意識を失うわけにはいかなかった。
 聖は歯を食いしばると、気合いを込めた絶叫と共に、血液の剣をヘイトに向けた。

「わぁあああああぁぁ――ッ!!」

 幾つもの糸が、さながら彼岸花のように放射状に伸び、絡み合ってヘイトへと襲いかかる。
 だが、先刻のようにその全てが攻撃の(かなめ)となるようなことはなかった。血で織られた網は睨まれただけでいとも簡単に弾け飛び、消失する。(ことごと)く最初から無かったことにされている≠フである。
 それは、あまりにも強力な能力だった。アビスゲート自体が最上位の鐫界器であるはずなのだが、恐らくヘイトの纏っているあの鎧型鐫界器はそのさらに上を行っている。
 先刻は相手が素手だったからこそ勝てていたようなものの、使い手と武器、その両方で負けていたら、もはや勝てる道理は無かった。

 兇闇が何か策を講じている以上、それに頼るより他はない。今の聖にできることは、ヘイトを防御に専念させ、反撃の機会を与えないことだけである。

「聖、あと十五秒だ、走れッ!」

 その声にはっとして、周囲を見渡した。兇闇が大きく手を振っている。どうやら夢中で攻撃しているうちに一分ほど経ってしまっていたらしい。
 戦いの最初、聖が結の攻撃を受けたときに紐が千切れて落としたらしい鞄や、放り捨てられていた武器類も集められて近くに置いてある。何かこの状況から離脱する策でもあるのだろうか、聖は朦朧(もうろう)とする頭で駆け出そうとした。

「あ……っ」

 だが、それはできなかった。
 魔力と血液を失った聖の身体は、全く思うように動いてくれなかった。身体を押し出すため地面に打ち込んだ脚は力を失ってバランスを崩し、突然立ち上がったせいで脳に血が回らず、頭の中が暗く沈んでいく。片足を踏み込んだきり次の足が出せずに、聖は地面に倒れ込んだ。

「兇闇、魔力貸しやがれェッ!」
「よし、急げ!」

 だが、その身体はいつまでも煉瓦(れんが)に接触することはなかった。
 空気がふわりと柔らかな形骸を持ったかのように聖の身体を包み込み、地面すれすれの低空を飛行させて運んだのだ。然程(さほど)の間もなく聖は二人と合流し、乱暴な運転に投げ出された身体を兇闇が抱き留めた。

「おかえり」
「……ただいまです」

 二人は暢気(のんき)な言葉を交わして、その勢いを殺しきれずに地面に倒れ込む。
 だがその瞬間、聖は今まで幾度も危機を報せてきたアビスゲートの震えを感じて、その体勢のまま慌てて振り向いた。

「いけない、逃げなきゃ……っ!」

 その時、何が迫っているのかも確認できなかった。
 ヘイトの放った漆黒の光線が地面を薙ぎ払い、三人がそれまで立っていた場所をも飲み込んだ。その公園にあった全てのものを一瞬にして破壊し尽くし、それでも尚、そのどこまでも暗い光は止まず、煉瓦の地面を穿っていった。

 そこに残る者はなく、上空に揺れるヘイトだけが静寂に影を落としていた。
 その結末を、もはやそこに存在しない聖たちは知る由もない。



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