第十四話 逆光の新月
風は、透明な大河の如く
月無き空は底が抜けたように
飛翔する影は闇の中にあって尚、塗り込めたほどに黒くその輪郭を際立たせ、波に遊ばれる
追走。わずかな時と距離の中、
──聖には、その行く先が昭然と理解できた。言葉通り明らかに、視界の中央に飛び込む光の集積。事態の悪化を予感して、聖は、自分の頬が微かに青
「……駅の方に……!」
「エキ? ……駅か! あの、人を箱詰めして運ぶっちゅう……」
「え、ええ……はい! あ、あっちには、もっと人が……!」
「チッ……ヤクいなこりゃあ。アイツ相手に流れ弾まで考えてる余裕ねーぞ」
光翼は一筋に尾を引いて、夜の
その光の軌跡の先頭に、
眼前に生じた斥力により急速に減速した二人の鼻先を、高熱を孕んだ気圧の塊が、交差して過ぎ去っていく。
息つく間もなく、低空へと滑り落ちるように、加速。聖は、慣性に脳の血液を引っ張られるのを感じながら、背後から迫っていた追撃の風弾が、ぶつかり合って弾けるのを見た。
──いずれも、ほんの僅か遅れていれば、この脆い肉の器ごと生命の灯を吹き消されていたであろう、高速の攻防。
この素性も知れぬ男に、己の全存在を仮託せざるを得ない状況を、否応無く思い知る。
聖は、今、指先から身体の芯に至るまで震えていた。
自分の生命をも賭け金にした勝負を、ただ見ていることしかできないという、恐ろしいほどの不安。それは単なる恐怖でも、混乱でもない、身喰らう程の自責の重みと、膨大な無力感であった。
放たれては的を逸れていった気圧の弾が夜を貫き、眼下の塀が、屋根瓦が、舗装路が音を立てて砕け、めくれ上がる。何処からか、甲高い悲鳴が微かに聞こえた。
「──ま、しゃーないもんはしゃーねー! ちょっと街壊すと思うけど、いいよね!」
「え゛っ……い、いいよね、って……言われても……」
「いいよねッ!」
「……アッハイ」
いやに爽やかな笑顔に
見れば、彼の掌の先には、白く濁った霧の球体が形成され、僅かずつ肥大化していた。──今までに幾度と無く放たれていた気圧の弾とは、また様相の異なるものだ。先程から反撃の魔法を放っていないのは、これの形成に集中していたからだろうか。
「……どんだけ凄え奴でもよ、人が背負える生命は一度に二つが限界だ。
自分と、あとひとつ……それ以上を守りたきゃ、自分の生命から真っ先に投げ出すっきゃねえ」
──群青の瞳が、映り込む夜と混ざり合い、仄かに憂いの色を帯びる。
よく磨きこまれた瑠璃の
その視線に気付いてか、彼は、にっ、と笑みの
「いくら俺様がハイパー超絶カッコイイ最強無敵の大天使様だとしても、
「は、はぁ……」
過剰なまでの自信を込めた、
自覚と同時に、無力感がまた胸を刺した。
言ってしまえば、今のこの有様は、そんな聖の無力こそが原因の一端を担っているのだ。
こんな風に戦う力さえあれば──いや、知識や思考能力、人を癒せるような抱擁力だって、何か一つでもありさえすれば──彼は、
彼が全てを話してくれるほどの信頼を、前もって勝ち取れていれば、
何も成せない無力な身体を、しかし今もってどうすることもできず、聖は、静かに歯噛みした。
「っと!」
避けそこねた気圧弾を、そして続く漆黒の腕の
眼下には駅前に集う人々の喧騒。ロータリーを巡る乗用車の光と音。看板や電灯の鮮やかな自己主張。──恐らく数発の風弾が真下に抜けていったはずだが、どこかの地面を砕いたか、それとも着弾前に減衰してくれただろうか。距離が遠く、確かめるには至らない。
攻防の合間に、電気の消えたドーナツ・ショップ周辺に人集りができているのが見て取れた。警察によってテープが張られ、店員と思しき人物が何か証言をしているようだ。
しかし、聖がその景色に何事か物思うよりも先に、銀髪の魔法使いは素早く宙を旋回し、影から更に距離を取った。
少しずつ形作っていた霧の球体を正面に掲げ、右手に握りしめた剣を、まっすぐに敵へと向けながら──凛とよく通る声で、詠唱を開始する。
「──
飛来する風圧弾を巧みに
その白く濁った霧の正体は、空気中の炭素と酸素、また水蒸気の水素を電気的に分解合成して作られた
より分子構造の単純なアセチレンガス等を用いる火炎系魔法に比べると、精密な分子合成と反応制御のため、発動準備に時間がかかるのが難点だが──気圧と温度の操作によって
その気圧弾の投擲自体を避けられた事など、ほんの些細なことだ。戦闘の空隙の中でその正体を見極められなければ、結局、無防備な背後から光の洗礼を受けることになるのだから。
「──
ごく小さな大気中の火花放電を呼び水に、反応の連鎖が始まった。
人の目に見えるものは、空一面に広がって弾け飛ぶ光。
爆心地──駅のほぼ真上のあたりに散布された霧は、高熱によって
びりびりと身体を揺るがす振動と衝撃に、周辺の窓ガラスが残らず破砕され、送電線は融解して切断されていく。
刹那のうちに弾けた灼熱の、目眩むほどの光の中、『影』は、暖炉に
そして直後、ほとんど真空となった爆心地付近に、渦を巻いて気体が吹き戻った。その高熱故に天へと立ち上る火焔の揺らぎは、この空気流によって更に上へと押し出され、キノコ型の爆炎を形成する。
同時に、新鮮な酸素が供給され、高熱化した建材などが一斉に燃え始めた。戦を伝える狼煙のように、黒煙を上げながら、
「う、わ……っ!」
「逃げてくれよなッ……さすがに野次馬まで面倒見きれねーぜ……!」
空気流のバリアに守られながら、聖は、空間そのものを揺るがすかのような衝撃の余韻に身体を震わせていた。
彼は、この爆発を起こしながら、自分たちや眼下の人々に向かう凄まじい衝撃圧と、反応によって生じた高濃度の一酸化炭素とを防いでいたのである。
『自由空間蒸気雲爆発』──都市ガスの爆発事故現場などで見られる現象である。
気体相燃料による爆発は、固体爆薬よりも一点の破壊力は低いが、散布範囲内すべてが爆心となるため威力減衰がなく、広範に高熱と爆風を渡らせる。建造物を倒壊させるような破壊力には乏しいが、こと生命体に対しては、熱、衝撃波、そして急激な気圧変化による内臓破裂や、低酸素
日常を裂いて、
その
「さて、再生位置は──ッとォ!?」
「ひゃっ……」
間近で炸裂した衝撃は、敵ではなく、この銀髪の男自身によるものだ。
反動によって瞬間的に大きく身を反らし、まっすぐに二人を刺し貫こうと飛来した漆黒の指先を、
「ぐッ……思ったより早ェな! 読み違えたかよ……!?」
血の雫が風に乗り、炎の色に煌めいて夜を舞う。苦しげに歯噛みした彼は、聖を片腕でぎゅっと押さえて、宙返りをするように弧を描いて距離を取った。
服越しに感じる高い体温が、ぬめる血糊の感触を伴って、いやに生々しく肌に伝わる。
「
二人を目掛けて飛来した風圧弾が、撃ちだされた弾と互いに衝突し、圧潰する。
高密の気体が弾ける乾いた音が響き──直後、再び応酬が始まった。
灼熱の火勢と、
『影』の繰り出す風圧弾は、こちらの放つものよりも大きく、威力も高い。せいぜい拳銃弾程度の威力にしかならない小さな弾に対して、それは幾つもの施設の壁や天井を容易に粉砕せしめた。
駅前を歩いていた人々は、皆、最初の爆発によって蜘蛛の子を散らすように逃げていったはずだったが、不意に視界に入る地上の光景には、呑気な顔をした野次馬もまた集まってきていた。
──その中には、流れ弾にでも打たれたか、それとも剥落した瓦礫にやられたのか、倒れたきり、動かなくなっているものもいる。
「KYYYy──eeEeRRrRrrr!!」
他のいかなる生物とも形容し難い、金切り声の咆哮。
『影』は卒然と戦場を抜け、跳ね渡るように一直線に、地上の野次馬たちに向けて飛来した。
「チィッ……!」
舌打ちを零し、男は身を翻して後を追った。されど追走は刹那、咄嗟に放たれた風弾も『影』の片腕を吹き飛ばすのみに終わる。
次の瞬間には、悠々と携帯端末のカメラを火事に向けていた男女二人組は、腰から下だけを残した無惨な姿になって転がっていた。
──いや、それだけではない。確かに今、弾き飛ばしたはずの片腕が、瞬間的に再生していた。得体の知れぬ怖気が、聖の背筋をぞくりと穿つ。
「まさかっ……!?」
「食ったのかッ……『
『影』の迎撃の一撃を、彼は、勢いを殺せぬままに光壁の防御で受ける。
更なる追撃は上空に翔んで躱し、再び大きく距離を取って、荒れ果てた駅前広場に着地した。
「がふっ……!」
──が、その着地の衝撃によってか、彼は苦しげに顔を歪め、血の塊を吐き出した。
聖がぎょっとして彼を見遣れば、無理矢理に笑みを形作って歪められた口の端から、新たに鮮血が垂れている。
「だっ……大丈夫、なんですか……?」
「ああ、やっぱ肋骨はやられてやがる……無茶な動きはできねーな」
光翼を煌めかせ、再びの飛翔。透き通った帯が七色に煌めき、聖の身体を浮遊感が包む。
しかし、加速が不十分なうちに、『影』は数発の気圧弾を放ち──同時に、
「あっ……路地に……!」
「ッ……紛れ込む気か! 逃がさねえッ!」
低空から地を蹴り、壁を蹴って、加速。掲げた剣先に展開された光壁が、更に立て続けに放たれた風弾を逸らす。
風を切って翔け抜けた先の、その小さな路地は、停電のせいもあってか妙に暗く、故に、二人が『影』の所在を悟るまでには、ほんの数瞬の時間を要した。──即ち、追っていたはずの『影』の姿が見えないという事実に。
「う……後ろっ!」
「やっべ……ッ」
肩にしがみついていた聖の視界は、いち早く、その姿を捉えた。後背の虚を突き、上空から襲い来る『影』の姿を。
それはきっと、逃げて紛れるつもりでも、他の人間に狙いを切り替えたわけでもなかった。初めから、死角から迎撃するつもりで、視界の効かない狭い空間に誘い込んだのだ。
転瞬、振り下ろされる漆黒の鞭と、身体を捻って剣の円環をまっすぐに掲げた彼との間に──数発の光弾が、割り込むように飛来した。
炸裂して散る、光。身を穿たれて揺らぐ、影。
予想だにし得なかった突然の攻撃に聖が息を呑めば、その間にも、一つの人影が地を蹴って、暗闇の中から躍り出た。右手に握られた一振りの刃は、微かに閃く軌跡を残して、『影』の伸ばされた腕を根元から両断する。
一瞬──ほんの一瞬、戦場に空隙が生まれた。
銀髪の魔法使いが体勢を立て直すには充分なほどの、瞬間。
その腕に守られた少女の瞳が、遥か上空で揺らぐ火焔に照らされて、『彼』の横顔を映し込んだ、瞬間。
突然の
「虚数領域振動! 『感情』だっ! 合わせるぞ!」
「ッ……オッケェイ!」
銀髪の男は即座に応じて、弾かれるように反転し、右手の中の剣を構えた。
迎撃の隙も、回避の猶予も与えぬうちに、すり抜けざまに振り抜かれる二筋の閃光。
その鋭い刃の煌めきに身を断たれた『影』は、それ以上再生することなく、ゆっくりと薄らいで、消えていった。
後にはただ、二つの靴裏が地を噛む音だけが、ちいさな残響を伴って、廃墟のような路地に響き渡った。
「きっ……消え……た?」
重く粘性を持つ静寂を押し広げるように、聖が地面に降りながら、おずおずと呟く。身体の震えは止まず、足にもろくに力が入らないが、膝に手をつき、どうにか身体を支えながら。
その問いに、敢えて言葉を返すものは居なかったが、乱入者の少年が剣を鞘に納める音が、言葉に代わって肯定の証左となった。
彼は深い溜息と共に、油断ない足取りで二人に近付き、未だふらつく聖の肩に手を添える。
「馬鹿野郎ルッシーお前、人口密集地域であんなハデな魔法をぶっ放す奴があるか」
彼は──いつもと変わらぬ──粗野ながら、どこか優しさを孕んだ語調で、呆れ半分にそう言った。
対する、ルッシーと呼ばれていた銀髪の彼は、肩で息をつきながらも口許の血を拭って、妙に嬉しそうな笑顔で言葉を返す。
「しゃーねーだろ、せめてハデな魔法で一般人に逃げてもらうのが最善だったんだよッ。あとルッシー言うな、美しき大天使ルシフェル様とお呼び!」
「む、ちゃんと考えていたのか……。なら許す。やるじゃないかルッシー」
「お前俺を何だと思ってんだよチクショウ」
痛みのせいか荒い呼吸を、天を仰いで落ち着けながら、彼は戯けるように苦笑して見せた。
少年もまた、小さく零すような笑みを浮かべて、それに応じる。
二人はどちらからともなく、拳を付き合わせていた。
「……久々だな。こっちに来てしまったのか」
「ホントだよッ、デカくなりやがって。そっちだと何年ぶりだよ」
「確か……二年と少しだ」
──その短い遣り取りに、聖は心のざわめきを感じていた。
今や、彼女の胸中は一言に表せるほど単純な色をしていない。
あまりにも多くの事が、この一日に起こりすぎたせいだろうか。
混乱のあまり、嬉しいと笑えばいいのか、理不尽を怒ればいいのか、それとも泣けばいいのだろうか──自分の事のはずなのに、最初にどう感情を発露すればいいのか、全く判断がつかないのである。
ただ──怖い。
それだけは、考えるよりも前に、強く感じていた。
声をかけるのが怖い。目の前にいる、真っ白い髪と瞳を持つ、螢一のようで今までの螢一ではない誰かに、その言葉をかけるのが、怖いのだ。
再会を待ち侘びた筈なのに。そのために追いかけてきた筈なのに。──しかし、右側頭部から天を
「──せん、ぱ……い……?」
乾燥した喉に一度は
変容を見せた姿ではなく、今も肩に置かれた手のひらの暖かさを信じて。
白い髪の『彼』は、どこかばつが悪そうに頭を掻いて、少しの逡巡の後、聖の震える
「ん……全く、完全に裏目に出てしまったな。済まん、怖かっただろう」
「あ、……う」
不随意に、涙が溢れ出た。
張り詰めた意思も、凍りついた
恐怖とはまた違う、胸の内側から湧き上がるような震えを隠すために、聖もまた、彼の身体をきつく抱きしめた。
言いたいことも聞きたいことも沢山あったはずなのに、それ以上、言葉は出なかった。
「え、何。知り合いなん、この子?」
「ああ。何の因果か、な。……守ってくれた事、感謝する」
驚いた様子のルシフェルに、螢一は聖の髪を撫でながら、
ルシフェルはその様子をまじまじと観察して、ははあ、と得心したように顎に手を当てた。
「見たとこアレか? 身の安全を思って置いてきたら、普通に追ってきちゃって去りそこねた的な」
「……まあ、そうなるな」
「うぅわかっこ悪ッ!」
「くっ……」
渾身のウザい笑顔を披露するルシフェルに対し、螢一は
──が、胸元から見上げる聖の視線に気付いたのか、彼は照れくさそうな溜息と共に、すぐに指を離した。
「と、ともかく! ……こうなった以上、家まで戻る。運んでくれないか」
「えェー、俺ケッコー重症なんだけどォー……美少女なら喜んでだけど、野郎を抱っこすんのはなー……」
「言ってる場合かッ、誰のせいで電車使えなくなったんだよ! 抱っこしなくてもいいだろ別に!」
「いやでもどうせなら抱っこしたいじゃん!?」
「ああもう何なんだお前は! 何がしたいんだよッ!」
螢一はやっぱり聖のよく知る螢一だった──それは確かなのだが、彼の中にもまだまだ知られざる一面があるらしい。
聖の記憶には
遥か遠く、サイレンの音が響いていた。