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第十三話 物言わぬ影絵の(つるぎ)




 糸に吊られて弄ばれる人形のように、小さな身体は縦横無尽に夜天に踊る。
 耳朶(みみたぶ)を切り裂く冷たい風の轟音に、(ひじり)は思わず奥歯を食いしばった。──正確に言うならば、それは風ではない。停滞する夜を乱暴に切り裂いているのは、聖たちの方だ。

 降下と上昇。加速と減速。攻撃と回避。不可思議に変転する重力の螺旋に、内臓器官が撹拌機にでもかけられたかのような錯覚に陥る。
 恐怖心を忘れたわけではないが、しかし叫声をあげるほどの余裕も無かった。
 そして見慣れた世界の地面を頭上に(すが)めれば、幾度目かも知れず、その行手を遮るように『影』が宙空へと躍り出た。恐らくは殺意の光を両眼(りょうがん)に灯して──まっすぐに爪を構え。

「──風爆魔法(ゲイルブラスト)ッ!」

 瞬間、四方八方から一点へと収束する無数の風圧弾が、『影』の輪郭を歪めて潰した。
 高圧化して中点から炸裂する颶風(かぜ)を全身で受け止め、聖を乗せた銀髪の男は、ひらりと宙返りをするように推進方向を逸らせて、上天へと飛翔する。風の反動を利用した急速な方向転換に、聖はまた脳を揺さぶられるような衝撃を覚えた。

「チッ……潰しても散らしてもダメかい。何なんだろーなーマジで」

 苦笑交じりに独り()ちながら、彼は、ずり落ちそうになっていた聖を、引っ張りあげて背中に乗せ直す。
 気圧の収束と炸裂に巻かれて散ったはずの『影』は、さして堪えた様子も無く、少し離れた位置に再生しつつあった。

「あ……あの……」
「お、何か気付いたか?」
「……は、吐きそう……」
「遠くの方を見て落ち着いて深呼吸してねッッ!」

 緊張感のない訴えをする聖に、男はやや(わざ)とらしく滑稽に慌てて見せた。
 ……勿論、なるべく耐える心算ではある。単純に危険という事もあるが……『初対面の男性に乗っかって吐く』なんて行為を看過すれば、もしこの場を生き残れたとしても女子としての死が訪れてしまうので、それはちょっと避けておきたいものだ。
 置かれている状況に対して、思考の優先順位がおかしいのも薄らと自覚している。きっと自分はひどく混乱しているのだろう。それと解らぬほどに強く。
 ともかく、彼に余裕があれば、もしかしたら無茶な軌道を抑えた動きをしてくれるかもしれない。余裕がなければ、その時はその時だ。

 元の姿形を取り戻した『影』は、しかし攻撃を受けて少しは怯んだのか、宙空を跳ね渡るように二人から距離を取った。
 純黒の輪郭が、薄れるように不安定に揺らぐ。気を抜けばすぐに、夜闇に紛れて見失ってしまいそうだ。

 こうして視点を同じくしているせいか、その銀髪の魔法使いが見せた一瞬の停滞の理由は、聖にも、なんとなく理解できた。
 即ち、『追撃』か『退避』か。
 恐らく戦い慣れた彼であっても──(いや)、戦い慣れていればこそか──進退の決断には、直感以上に理屈が絡む。戦士としての経験が、術師としての思考が、漠として掴めぬ眼前の敵の姿に、一刹那の迷いを見たのだ。
 不随意に(まぶた)が落ち、再び上がるまでにも満たない時間的空隙が、僅か、動き始めを遅らせる。
 深紅の双眸(そうぼう)は、地上近くから、その姿を正確に射止めていた。

「KYyyrrrRRrr──RRR!!」

 啼声(ていせい)
 脅嚇(きょうかく)とも怯臆(きょうおく)ともつかぬ悲鳴が、夜を裂き、闇を渡った。

 その叫喚に呼応するが如く、聖たちを取り巻いて、宙空に無数の『(ゆが)み』が現出する。より具象的に類推するならば、可視光を屈折させる何らかの現象が。

「な……にィッ!?」

 まさに瞬間
 卒然と発生した、局所的な『気圧差』の可視光歪曲を視認してから、状況を観察するほどの思考猶予は与えられなかった。

 彼が即座にその正体を見極め、また同時に、反射的に推進ベクトルを真横に逸らした動作が、そのまま回避行動へと繋げられたのは、僥倖と言うべきだろうか。
 ──少なくとも、聖たちは収束する無数の気圧弾に圧潰させられることなく、その中心部からわずかに離れた場所で、炸裂する暴風によって二人ばらばらに夜空に投げ出された。

「────ッ!」

 反射的に両腕を交差させて顔を覆えば、渦巻いて四散する真空の刃が、冬服の分厚い生地を裂き、白い肌を(あけ)に濡らす。
 不可視の刃と化した烈風と、岩のように圧縮された空気の波濤(はとう)が交互に層を成して、聖の無防備な身体に襲いかかったのだ。

 灼熱する痛みが全身を強張らせ、噛み殺された悲鳴を轟音が掻き消した。
 地に落とされたのか、天に打ち上げられたのか──あまりに凄まじい加速に、それすらも判然としない。慣性に内臓が掻き回され、全身の骨が軋みをあげる。

 直後、聖を受け止めた衝撃は、地に打ち付けられたにしては柔らかなものだった。
 爆ぜるような硬質な破砕音と共に、水を切る石のように、身体が大きく跳ね上がる。
 同様の小さな衝撃が立て続けに響いて、噛み締めた歯の根を軋ませながら、吹き飛ばされた勢いを僅かずつ殺し──ようやく、止まる。

 重力は、普段の真逆を向いていた。どうやら聖は、今まさに頭から地面に叩きつけられようとしていたのだと、反転した視界が裏付ける。また、既の所で抱きとめられて助かったのだということも、同様に。
 不安定な体勢の中、冷たい汗が背筋を濡らした。

「──ッづぁあ……骨折してねーだろーな、治すの面倒いんだぞチクショウ……」

 血混じりの唾を吐き捨て、逆さまの聖を抱え上げた彼は、悪態をつきながら苦笑して見せた。
 恐らく聖を抱き止めるため、既に剣を捨てていたのだろう。彼は一息に聖を横抱きにして、再び上空へと飛翔する。
 直後、数発の風圧弾がアスファルトを穿ち、ブロック塀を砕いた。次いで更なる追撃の連弾が、空へと逃れた二人を追う。

「こいつッ……!」

 銀髪の男が()め付けた先、宙空に展開された淡い光膜が、歪みの球を弾いて掻き消した。
 『影』は遠くから、ただ佇んで深紅の光点をこちらへと向けている。

「想像の万倍厄介じゃねーのォ!? いやマジでこんなのいるなんて聞いてねェぞ、『戦争以外そこそこ平和』なんじゃ無かったのかよ……!」

 頬に一筋、汗の軌跡を作りながら、彼は大きく弧を描くように夜を翔けた。
 強く抱きかかえられた聖の目には、事態の進行に伴ってただ拡がりゆく、荒廃の夜が映り込む。確かな『日常』だったものが、割れて砕け、崩れていく。

 瞳の景色を瞬きで拭えば、その間にも飛来していた気圧弾が、光の壁に阻まれて渦巻く熱風となり四散する。──恐らく光壁に僅かな角度をつけ、余波も外側に受け流しているのだろう。高温化した気流に、聖の身体が晒されることはなかった。
 しかし間近で見ればやはり、それは先程から彼が使っていた気圧弾と相違ない。聖は僅かな戦場の間隙に、冷えきった白い指先で彼の胸元を掴んだ。

「わ、技を……模倣(コピー)された、って事……ですか?」
「それもあるが、それだけじゃねえ。そもそも魔法を使えるたァ思わなかったぜ……」
「……魔法……」
「随意的な虚数領域干渉の事だ。遺伝子関係だから、使える奴ぁ限られるはずなんだが……嬢ちゃん、こう聞いてもマジで心当たり無い?」

 聖は黙して首を振る。あのような化物も、空を飛ぶ人間も、『虚数領域干渉』なんて言葉にも、一貫して覚えはない。
 ──いや、正確には一人だけ、似たような現象を起こしていた人物を知っている。だが、未確定な情報であるうえ、自分でも理解していないことをこの場で説明できる自信もなかった。

「……ッてぇと、そうだな……ちと考えるか」

 風鳴きの音を残して、天に(ひるがえ)る。足元を掠めて抜ける風圧弾には目もくれず、(つど)颶風(ぐふう)を蹴りつけて跳躍するかのように、更なる加速。矢の如く一筋、飛来した先の民家の壁を駆けては、再び跳び上がる。
 同時に、眼前に躍り出た純黒の蹴撃を身を捻って(かわ)し、勢いのままに直下、二人は、荒れ果てた地面へと降着した。

 地に降りて蹌踉(よろ)めく身体をなんとか抑え、聖は膝に手をつきながら、震えの残る唇から息を()く。
 その姿を背後に隠すように、彼は、再び拾い上げた剣を、遠く着地した『影』に向けた。

「──清澄(せいちょう)(くさ)()したる封縛(ふうばく)緘黙(かんもく)(もっ)(めい)せよ──」

 詠唱の文句と共に、青白く澄んだ光の(たま)が散る。
 それがいかなる意味を持つのかは、聖の想像の及ぶところではない。しかし確実に、その光の放散は、これまでに見たものよりも強く確かなものだった。
 陽炎(かげろう)が如く、黒耀の身体を(かし)ぎ、(あか)く揺らめく(ほむら)()は凛冽な宵に軌跡を描く。
 波紋の様に、円を描いて広がる風が、かすかな砂塵を巻き上げた。

「──凍結魔法(コールドブレス)!」

 掲げられた剣先から、直線に伸びる仄かな光条。
 ──否、光ではない。星明かりを浴びて(きら)めく薄霧(はくむ)の白が、そのように錯覚させていた。
 凛と凍てつく冷気の帯が、乾燥した冬の大気に僅かに残った水蒸気をも昇華させ、氷晶と化して降らせているのだ。『氷霧(ひょうむ)』と呼ばれる自然現象と同様のものである。
 通常、大気中の水蒸気は冷やされても過冷却状態となるため、余程の極低温でなければ凍結には至らない。──故に、その薄霧の帯は、恐らく人の身で晒されれば、体内まで凍結して壊死してしまうほどの凍気。

 しかし『影』は、白く冷えきった煌めきに、些かの影響も受けず揺らめきながら、一つ歩を進めた。
 その身を凍らせることもなく、怯む素振りも見せずに、闇に(くゆ)熾火(おきび)にも似た緋色を瞬かせ。

「や、やっぱり駄目……ッ」

 思わず後退る聖の声を、彼は空いた左手で制し──その一方、掌の中でくるりと剣を回して、先端を地面に突き立てた。

爆裂魔法(サンドマイン)ッ!」

 火花散り、炸裂。剣先から地走りする光の彼方、乾いた破裂音と土煙を上げて、小さな爆発が巻き起こる。先程とは逆の向きに、きな臭い風が吹いた。
 (かすみ)が強風に吹き消されるように、『影』は衝撃に千切れ飛び、爆煙に呑まれてゆく。
 しかし、残った頭部は不気味に蠢いて、再生を始め──それを上回る速度で、立て続けに撃ち抜かれた。小さく凝集された幾つもの風圧弾が、揺蕩(たゆた)う土埃を穿ち、純黒の輪郭を削る。

「どーだ、案の定ッ……! 物質の分子運動量を低下させる『凍結魔法(コールドブレス)』に一切の影響を受けない、即ちあの姿は特定の気体や液体じゃねえ、そう見えるだけの幻影みてえなもんだッ」
「え──そんな、でも……っ」
「打撃に物理的影響を受けていたのは確かだが、その影響も一定じゃなかった……体内に『核』を持つってわけでもねーな。となれば、正体も読めてくるッてわけよ」

 頬に流れる血を拭い、彼は小さく口角を上げた。
 ──仔細な法則を理解しているわけではないが、聖の目にも、確かな『結果』の差が見えた。その爆裂の魔法に呑まれた『影』は、確実に、今までよりも大きくその身を削られている。そして──再生速度が、目に見えて遅くなっている。
 だが、それでも致命の一撃には至らない。漆黒の人型はまだ(からだ)の再生も終えぬうちに、上天高く跳躍した。

「あ、逃げ……」
「ッと、ドヤッてる場合じゃねーな! 追っかけるぜッ!」
「え、ちょっ」

 ひょい、とばかりに軽々と、聖の身体を片腕で抱え上げ、銀髪の男は天を仰いで光翼を広げた。重力が吊り合って薄らぎ、身体が軽くなったような感覚を覚える。
 いつの間に現れたのか、虹色に輝く羽衣のような、不可思議な質感を持つ透明の布が舞う。──何らかの超常の力が働いているのか、それは二人を包み込むように夜を泳ぎ、静止した。
 聖の抱いた困惑と疑問を、恐らくこの魔法使いはとうに見通しているのだろう。しがみつく小さな身体の背に、彼はぽんと軽く手を添えて、笑う。

「あれが他に居ないとも限らん。守ったるから安心しろいッ」
「は……はい……」

 確かに、この場に取り残されたところで、もしまた同じような影に襲われたら、その時こそ一巻の終わりだろう。
 聖は小さく震えて頷き、ぎゅっと指先に力を込めた。
 ……一体、この地に何が起こっているのだろうか。今更、そんな疑問が脳裏を(よぎ)る。
 荒れた岩床(がんしょう)に雨滴の染み入るように、(いや)な想像ばかりが心の隙間に入り込み、脳髄を凍えさせる。余計なことを考えてはいけないと理屈で解ってはいても、わずかな精神の揺らめきが、それを許さないのだ。

 飛翔。
 頬に打ち付ける風の勢いは、僅かな時間だけ、麻酔のように憂懼(ゆうく)を忘れさせた。







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