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第八話 Over My Head, Better Off Dead



「う、わ……っ」
「口開くな、舌噛むぞ」

 そう聞こえた次の瞬間、大きな衝撃が(ひじり)を襲った。思わず目を(つぶ)ってしまい、それから恐る恐る開く。月夜の景色は、今は背後へと流れていた。

 安全運転はここまでだ……と、その台詞の意味がようやく判った。今までの対話から、魔法とは魔力というエネルギーを消耗して発現できる現象らしい。物を浮かせ続ける魔法についても、物理学の基本から考えればその時間に比例する量のエネルギーを消費するはずだ。
 そして今、彼は魔力消費を極力抑えて行動している。今までは発動を維持していた飛行魔法を、ほんの一瞬だけの発動に留めているのだ。
 後は慣性と自然落下に任せて、飛行する≠フではなく、空中を跳ね回る≠謔、に移動する。それで魔力の消費を節約しているらしい。
 しかしこれは――安定性など何もない、乱暴すぎる飛行術だった。今までの飛行は安定した橋を渡っていたとするならば、今のそれはまるで(まば)らに置かれたちくわブロックを渡るかのようだ。これだったらドッグファイト中の戦闘機の方がよほど安定しているだろう。

「おいすーお待たせ……え? ああ、深層同調の適性者で巻き込まれたっぽい娘さんが一人。何なら電話替わってやろうか、結構可愛い子だぜぇ」
「あの……私結構必死なので、脱線しないで早めに頼みます……」

 相変わらず軽い調子で言うルシフェルに、聖はか細い声で訴えた。いや、か細い声に聞こえたのは周囲の凄まじい風音と圧力のせいで、本人としては普段よりずっと大きな声で言ったつもりである。
 しかし、ルシフェルは少し電話の向こうに耳を傾けてから、

「あー、そういや聞いてないな、お嬢ちゃん名前は何と?」
「えっと、話聞いてました……?」
「まーまー、住所とかじゃないんだし、それくらいはいいじゃねーか」
「はあ……聖です、桜華(おうか) 聖。無駄にかっこいい名前ですけど中身は普通の人ですよ……」

 諦めの宣言代わりに、聖は自分の名を告げた。するとルシフェルは、それを電話の相手に伝えに戻る。どうやら名を()くように頼まれての事だったらしい。この非常時にもそんなやり取りができるのは頼もしいのか頼りないのか、聖にはどっちだか判らなかった。

「聖ちゃんだとさ、しかしお前が女の子に興味示すとは珍しいな、ぶっちゃけツッコミ待ちだったのに……え?」

 何事かあったのか、ルシフェルはそこで言葉を止める。彼はそれから(しばら)く黙っていたが、やがて少し不思議そうな顔をして、

「お、おう、何だかわからんが把握したぜ」

 とだけ答え、通話を切った。

「本職の奴が今から来るみたいだ、さほど離れてないから数分で着くらしい」
「つまりは一定時間耐えろ系ミッションって事ですね……」
「そういうぶっちゃけすぎた事言うなよ」
「貴方はあまりはっちゃけすぎた事をしない方がいいと思います……」

 いつしか、風は止んでいた。ルシフェル自身が解いたのだろう、最初から電話の時間稼ぎのために放った技であったらしい。こちらの攻撃ではどうやっても倒せない以上、下手にあんな大技を維持していては消耗が早くなるだけだろう。

「そういえば……」

 聖はそう前置きして、再び姿を取り戻した亜存在を目で追いながら言う。

「さっきアストラルを通じて虚数空間に波を起こすとか言ってましたけど、それができれば倒せるんですか?」
「らしいがな、俺は専門家じゃないからアストラル体がどんな物なのか今一理解できねーんだ」

 そう答えて、まるで空中に見えない足場があるかのように、ルシフェルは軽やかに空を駆けた。傍目(はため)にはアクロバティックな飛行に見えるだろうが、そのうち殆どは慣性に任せた動きであるため、あの落下時特有の意識が引き上げられる感覚が定期的に聖を襲い、先刻までよりも遙かに強い酔いが身体を揺さぶる。

「純粋な意識体……五感を司る神経から入力された感覚や、脳が処理した感情のデータをただ受け取るだけの存在だとさ」
「西洋魔術での認識とはちょっと違いますね……意識体ですか」

 しかし不思議と、思考は明瞭だった。どうやら今まで風圧を感じなかったのは彼が抑えてくれていたかららしく、魔力の温存を優先している今では、動くほどに冷気を含んだ強風が容赦なく全身を覆う。しかしそれが幸いして、気分を沈静化させてくれているのだろう。

「ああ、結局はどんな感情も判断も物理的には電気信号と乱数処理だからなァ。ただ思考と意識ってのは別物で、意識体であるアストラルは何の判断もできねーし考えることも不可能。結局オート進行の人生を見てるだけって事だ」
()(ほど)……」

 哲学にはよくある話だ。聖は頷いた。
 意識。自分が自分であると認識している自分自身。他人にそれが本当にあるのかどうかは判らない。ひょっとしたら、普段普通に接している誰かは、それどころか自分以外の全員は、脳が勝手に働いているだけで意識は無いかもしれない。彼はそれを、アストラルと表現しているのだろう。
 ルシフェルは剣に付属した盾を使って亜存在を散らしてから、そんな聖を横目に見て、乱れた銀髪を手で梳いた。

「そうか、こっち≠カゃ亜人種がいねーから、そういう研究が進んでないんだな」

 こっち、と言う言葉が何を指しているのか正確には判らなかったが、恐らく惑星か世界単位での距離なのだろう。亜人種――ファンタジーでよく聞く獣人や竜人、魔人などのことだろうか、そんなものの存在など、少なくとも現実の地球では聞いたことがない。異界の戦士、なんとも心の打ち震えるフレーズではある。
 ルシフェルが殆ど地面と身体を平行にして飛ぶので、聖はしっかりと掴まっているのに必死だった。どんどん高くなる高度に思わず目を瞑ってしまいそうだったが、亜存在を目で追うために真横、正確には真下の街に浮かぶ亜存在を睥睨(へいげい)し続けた。
 瞬間、世界がぐるりと回転した。今度は真上に地面がある。背中にどっと冷や汗が走り、握り合った両手に思わず力が込められる。まるで天井についた足を踏み切って跳躍するように、ルシフェルはそのまま地面に向かって加速した。直後、亜存在の攻撃が虚空を撃ち抜く。

「理論的には、魔法とほぼ同じ(はず)なんだ……俺達亜人種′ナ有のDNAの塩基配列が生成する特殊な蛋白(たんぱく)質を鍵として、エーテルが生成する魔力を虚数空間内で操作し――肉体外の実数空間に現出させる!」

 ルシフェルが手を(かざ)すと、風の啼声(ていせい)にも似た一瞬の轟音が響いて、亜存在の体躯(たいく)が粉々に散った。今までにも幾度か見せられた、これが魔法。今更、その存在を疑う気は無い。
 彼は、自分を亜人種だと言った。イメージとは少々違ったようだが――聖は亜人と聞いて、服を着て二足歩行する生物学的におかしい獣の姿を想像していた――確かに彼が自分と同じ人間であると言われるよりも納得がいく。これだけの真似をしているのだから、人間でなくたって、(いや)、人間で無いと言われた方が自然なのだ。

「魔力は分子間相互干渉の代替(だいたい)品となり、そこから(もたら)される連鎖反応が異質な物理現象を生む……今のは大気中の分子同士の電磁気力を操作して分子に局所的な疎密を作り、その気圧差を風の刃にしたってワケだ」
「そうですね、電荷操作によって引力や斥力(せきりょく)を生み出すことができれば圧力が生まれるのは道理……手で押した物が動くのだって、微細な視点で見れば構成分子の電荷同士が反発しているからですし」
「人間の割には物分かりがいいな、ボーナス十点だ」

 ルシフェルは口角(こうかく)を上げて、加速度を殺す衝撃を和らげるためか、ジェットコースターのように空中で大きく円を描いてから再び複雑な軌道を描く飛行を始めた。どうやら一瞬亜存在を見失っていたようだったが、台詞の途中だったので、聖は左斜め上にいる亜存在をまっすぐ指で示した。ルシフェルもすぐにそれに気付き、影から目を離さないように見据えながら緩やかに旋回する。高度は地面から数メートルの位置まで一気に落ちていたので、高さに対する恐怖はもう感じない。

「魔法については問題ねえ、さっきの神曲≠ネんて世界でも使える奴が百人いるかいないかって代物だ……しかし亜存在相手となるとそうもいかん、虚数物質であるアストラルを介して、感情を波にしてぶつければいいらしいんだけどよ」

 感情を相手にぶつける。話を聞く限り、それは漠然とした概念や精神的な問題ではなく、飽くまでも物理的な話であるらしい。魔法の原理などから言って、彼らの故郷では、魂だとか精神を物理的に解析することに成功しているのだろう。義務教育などにも組み込まれているのだろうか。それならば、至極一般的な地球人である聖が聞いたところで理解できよう(はず)が無かった。
 ――のだが、何故だか彼の言葉には不思議な既視感(きしかん)があった。
 虚数物質や空間だとか魔力だとか、そう言った語句の一つ一つに覚えは無いが、その理論そのものを聖は知っている気がしたのだ。

 聖の記憶に、数々の台詞がフラッシュバックする。

 生命はその機能を維持するためにある種のエネルギーを消費する。脂肪の燃焼によるエネルギーではなく、あらゆる行動に際し必要とされる、生命維持のための特殊なエネルギーだ。
 魂には二種類がある。生命維持のためエネルギーを生み出す電源≠ニ、身体で感じた感覚を受け取るプレイヤー■差詰め肉体とはゲームのキャラクターか。
 この世に存在するあらゆる物質は、実数の質量を持っている。複雑な概念だが、虚数の質量を持つ物質と言うものがあったとしても、この実数空間の物理法則では確認できないのだろう。完全な二層構造になるわけだ。同じ世界を共有する別の空間と言ってもいいかも知れないな。
 意識、と言うものは海から突き出た小島みたいなものだ。一つ一つ別々に見えるが、海の底では互いに繋がっている。海底を通って、何かしら相手に伝わることもある。不思議と行動がシンクロしたり、何故かその人が落ち込んでると判ったりな。
 不思議だね、で済ませてはならない。全ては物理現象なんだ。説明できないイコール存在しないのではない、説明できるだけの要素が発見されていないだけなのだ。
 ――以上、俺の作り話。こんな作り話も、話として楽しむ分には役立つだろう?

「……そうだ、先輩が言ってた! 感情は意識の海に波を起こす……!」
「その通りだ」

 響いた声に、はっとして下を見る。闇を払うには弱々しい月明かりに照らされ、暗く染まった道路に微かな白色が見えた。聖がその姿に奇妙な違和感を覚えたのも束の間、金属質な抜刀音を立てて一瞬閃いた白銀が、触れてもいない亜存在の腕を飛ばした。

「脳で処理された感情を受け取るのは無論アストラル体だが、実数の質量を持つ脳から虚数の質量を持つアストラルへと情報が伝播(でんぱ)する際に、ある種の波紋が生じる」

 遙か上空にいる筈の亜存在を刻み、白髪の少年は述べ立てる。その最後の一撃は亜存在の頭部を掠め、漆黒の影は逃げるように空へと向かい、そのまま雲散霧消した。少年は日本刀に似た作りをした細身の片刃剣を鞘にしまうと、黒いコートを揺らしながら腕組みをして、上空の聖たちに目を遣った。

「その波紋を指向性に変えるには、感情を単に自分自身に内在するもので終わらせず、相手の魂を見極め、それに向けた明確な意思と殺意を持つことだ」

 ルシフェルと共に地面に降り、正面からその姿を見た時、聖の想像は確信に変わる。髪は脱色でもしたのか真っ白だったが、その姿は(まご)う事なく黒神(くろがみ)螢一(けいいち)その人だった。ほんの一日離れていただけなのに、聖の胸に懐かしさがこみ上げる。何せ、もう二度と会えないかも知れないと思っていたのだ。再会の嬉しさも一入(ひとしお)である。
 螢一は相変わらずいつもの調子で怖い顔をしていたが、そんな聖の姿を見て、不意に口元を緩ませた。

「当時の語句は比喩(ひゆ)的なものだったが、ギリギリだったにしろ思い出せたようだな。さらに十点やろう」
「ダブルアップお願いします」
「この状況に置かれていきなりボケとは順応性高すぎるぞ……」

 呆れ顔の螢一を見て、聖は緊張感もなく弛緩(しかん)した笑顔を見せた。今見せた技と言い、腰に下げた二本の剣と言い、彼こそがさっき電話していたルシフェルの仲間なのだろう。だが、その中身は何ら変わっていない、今まで接してきた螢一のままだった。
 彼の事情は全く持って聖の知るところでは無いのだが、しかし彼の妙な大人っぽさや知識、思考能力などについてはこれで符号する。確かに少々驚きはしたが、信じられないと言うわけではなく、最終的には全てに納得がいく形だった。

 その一方でルシフェルは、煌めく薄布を無意味にぐるぐる振り回しながら、亜存在が消えていった空の先を見ていた。いつの間にか雲の消えた夜空はひどく閑散としていて、星一つ見えない暗闇に小さな満月が寂しげに浮いているだけだ。

「ちっ、亜存在が逃げを打つとは珍しいな……んで何だよ、知り合いなのかよお前ら」
「こっちでの同級生だ……ったく、こんな家屋密集地帯で神曲なんぞ使いよって、学校で目撃証言聞いたときから予測はしていたが、やっぱりアンタか」

 螢一は、先刻聖に向けていたのと同じ呆れたような目線をルシフェルに向けて、溜息混じりに答えた。今までとそう大して変わらない対応を見るに、別に聖たちに対してだけ演技をしていたわけではないらしい。聖の口から僅かに安堵の息が漏れた。

「で、でも何で先輩、が……先、輩が……?」

 訪ねる途中で、聖は気付いた。今までは周りが暗かったためよく見えなかったのだが、今こうして自分から視線を外されたことで角度が変わり、螢一の右蟀谷(こめかみ)から天に向かって突き出ている、黒く無骨な尖角(つの)がはっきりと見えたのだ。聖は思わず後退りして、その漆黒の塊をまじまじと見つめた。

「……なんですか、その角……それに髪も、色変わってますし……」

 そんな遅すぎる疑問をぶつけられた螢一は、答えようとした口を一旦閉じて、どこか哀れむような瞳を聖に向ける。嫌な予感がして、聖は左手で胸のリボンをぎゅっと掴んだ。

「亜存在掃討組織、薔薇十字団所属、第一級処刑者(エグゼキューショナー)、コードネーム兇闇(まがつやみ)=c…今の俺が本来の俺だ、残念ながら君とは最初から種族も境遇も住む世界すらも違う」

 その冷たい物言いに、聖の喉はごくりと音を鳴らした。言葉に込められた拒絶の感情、それは自分でも驚くほど明確に聖の心臓を抉り、二人の間に大きな断層を作る。彼を信じる気持ちが揺らぐわけではないが、それが却って不安を助長していた。
 人が平和を(たっと)ぶのは、それがいつか壊れると判っているからだ。そして、平和を愛していればいるほど、それが壊れたときのショックは大きくなる。

「ククッ、もうあの冗談みたいな格好は止めたのかい?」
「こっちには亜人がいなかったからな……しかし酷い言い(ぐさ)だな、一応理論を提供したのは君の連れだぞ」

 気怠(けだる)げに話す螢一……いや、兇闇は、聖から目を逸らすように背を向けていた。何か言おうにも聖には声を出す勇気が無く、それに声が出たとしても何を言えばいいのか判らない。幾許(いくばく)かの間を空けて、聖は話す言葉の整理もつかないまま、おずおずと唇を開いた。

「あの、先輩……?」
「俺はもう君の先輩じゃない」

 振り向いた横顔に、上げかけた聖の指が凍る。ぴしゃりと扉を閉めるような、綺麗な拒絶だった。

「悲しいな、もう少し綺麗に別れられたら良かったんだが……こうして邂逅(かいこう)してしまった以上は隠匿(いんとく)もできまい」

 瞳には哀れみを、声色には悲しみを乗せて、兇闇は淡々と語る。そうして告げられた言葉の指すものが久遠(くおん)の別れだと、聖は遅れて理解した。聖は言葉も出せず、ただ立ち尽くす。とうに体温を失っていた自分の指が、ひどく冷たく感じた。

「おいコラ、自分の都合で女を捨てる気か!? これだからリア充は他人の辛さが理解できないんじゃオロローくわばらくわばら!」
「人聞きの悪いことを言うなこのアホ堕天使! 何キャラなんだよそれはッ!」

 兇闇はルシフェルを一頻(ひとしき)りハリセンで叩き放題叩きまくり、台詞の終了と共にそれを投げつけた。投擲(とうてき)されたハリセンがヒットしたルシフェルは何故か真上に吹き飛び、アスファルトの地面に叩き付けられて綺麗な人型の凹みを作り、そこに沈み込んだ。
 大きな溜息を一つついて、兇闇は暫くそのままじっと立っていた。そのうち、聖に背を向けたまま、彼は静かに呟き始める。

「聖、一つ教えておいてやる……俺達が今まで殺してきた亜存在と言う化物は、罪無き人間の成れの果てだ」
「え……」

 一転して穏やかな彼の声に、聖は思わず声を上げた。同時に、振り向いた兇闇と目が合う。一点の邪気もない、ただ悲しげな色だけを持った瞳だった。彼は静かに(まぶた)を閉じ、どこか諦観(ていかん)を含めたような口調で言う。

「人殺しの(けが)れた手を握るには、君の手は白すぎる」

 それを最後に、兇闇はコートを(ひるがえ)して歩き始めた。聖は自分の白い――今は赤く(かじか)んでいる両手に目を落として呆然としていたが、ふと気付いて再び視線を上げる。
 平和はいつか終わるものだとしても、こんな終わり方があるものか。理屈では理解していても、それを黙って受け止めたくはない。まるで自分一人だけが日常に置いて行かれるかのような、そんな優しさ≠認めたくはない。
 覚悟があったのかどうかは判らない。だが、聖には深層同調と言う力があるらしい事は確かだ。先刻の例もある、役に立たない事は無いだろう。どんなに危険な道であっても、一人だけ残されるよりはマシだった。

「ま……待って下さい、先輩!」

 聖は、身を乗り出して精一杯に叫んだ。
 しかし、

「断る。失せろ、人間」

 それが最後だった。
 台詞と共に兇闇の向けたそれは、明らかな殺意。本物の殺し屋が放つそれは全身が総毛立つほどのもので、聖は思わず息を呑んだ。
 先刻までは見え隠れしていた哀れみや悲しみの情など、視線のどこにも込められてはいない。彼はただ冷たく聖を睥睨していた。

 ああ、そうか。
 もう螢一≠ニ聖≠ニの別れは済んだのだ。
 もはや聖は、亜人の殺し屋である兇闇≠ニは何の関係もない、巻き込まれただけの一般人に過ぎないのだ。

 足早に去っていく兇闇を見つめて、聖は呆然と立ち尽くしていた。僅かに零れ落ちた涙が頬を濡らしていたが、上げる声も出なかった。
 寂しげに浮かぶ満月に照らされて、()けかけた新雪の残る道路にただ独り、じっと虚空を見つめたまま、魂の抜けた人形のような瞳で。


 ――その背後、黒衣を棚引かせた老人が薄い笑みを浮かべていた事に気付けるものは、そこには居ない。



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