第八話 Over My Head, Better Off Dead
「う、わ……っ」
「口開くな、舌噛むぞ」
そう聞こえた次の瞬間、大きな衝撃が
安全運転はここまでだ……と、その台詞の意味がようやく判った。今までの対話から、魔法とは魔力というエネルギーを消耗して発現できる現象らしい。物を浮かせ続ける魔法についても、物理学の基本から考えればその時間に比例する量のエネルギーを消費するはずだ。
そして今、彼は魔力消費を極力抑えて行動している。今までは発動を維持していた飛行魔法を、ほんの一瞬だけの発動に留めているのだ。
後は慣性と自然落下に任せて、飛行する≠フではなく、空中を跳ね回る≠謔、に移動する。それで魔力の消費を節約しているらしい。
しかしこれは――安定性など何もない、乱暴すぎる飛行術だった。今までの飛行は安定した橋を渡っていたとするならば、今のそれはまるで
「おいすーお待たせ……え? ああ、深層同調の適性者で巻き込まれたっぽい娘さんが一人。何なら電話替わってやろうか、結構可愛い子だぜぇ」
「あの……私結構必死なので、脱線しないで早めに頼みます……」
相変わらず軽い調子で言うルシフェルに、聖はか細い声で訴えた。いや、か細い声に聞こえたのは周囲の凄まじい風音と圧力のせいで、本人としては普段よりずっと大きな声で言ったつもりである。
しかし、ルシフェルは少し電話の向こうに耳を傾けてから、
「あー、そういや聞いてないな、お嬢ちゃん名前は何と?」
「えっと、話聞いてました……?」
「まーまー、住所とかじゃないんだし、それくらいはいいじゃねーか」
「はあ……聖です、
諦めの宣言代わりに、聖は自分の名を告げた。するとルシフェルは、それを電話の相手に伝えに戻る。どうやら名を
「聖ちゃんだとさ、しかしお前が女の子に興味示すとは珍しいな、ぶっちゃけツッコミ待ちだったのに……え?」
何事かあったのか、ルシフェルはそこで言葉を止める。彼はそれから
「お、おう、何だかわからんが把握したぜ」
とだけ答え、通話を切った。
「本職の奴が今から来るみたいだ、さほど離れてないから数分で着くらしい」
「つまりは一定時間耐えろ系ミッションって事ですね……」
「そういうぶっちゃけすぎた事言うなよ」
「貴方はあまりはっちゃけすぎた事をしない方がいいと思います……」
いつしか、風は止んでいた。ルシフェル自身が解いたのだろう、最初から電話の時間稼ぎのために放った技であったらしい。こちらの攻撃ではどうやっても倒せない以上、下手にあんな大技を維持していては消耗が早くなるだけだろう。
「そういえば……」
聖はそう前置きして、再び姿を取り戻した亜存在を目で追いながら言う。
「さっきアストラルを通じて虚数空間に波を起こすとか言ってましたけど、それができれば倒せるんですか?」
「らしいがな、俺は専門家じゃないからアストラル体がどんな物なのか今一理解できねーんだ」
そう答えて、まるで空中に見えない足場があるかのように、ルシフェルは軽やかに空を駆けた。
「純粋な意識体……五感を司る神経から入力された感覚や、脳が処理した感情のデータをただ受け取るだけの存在だとさ」
「西洋魔術での認識とはちょっと違いますね……意識体ですか」
しかし不思議と、思考は明瞭だった。どうやら今まで風圧を感じなかったのは彼が抑えてくれていたかららしく、魔力の温存を優先している今では、動くほどに冷気を含んだ強風が容赦なく全身を覆う。しかしそれが幸いして、気分を沈静化させてくれているのだろう。
「ああ、結局はどんな感情も判断も物理的には電気信号と乱数処理だからなァ。ただ思考と意識ってのは別物で、意識体であるアストラルは何の判断もできねーし考えることも不可能。結局オート進行の人生を見てるだけって事だ」
「
哲学にはよくある話だ。聖は頷いた。
意識。自分が自分であると認識している自分自身。他人にそれが本当にあるのかどうかは判らない。ひょっとしたら、普段普通に接している誰かは、それどころか自分以外の全員は、脳が勝手に働いているだけで意識は無いかもしれない。彼はそれを、アストラルと表現しているのだろう。
ルシフェルは剣に付属した盾を使って亜存在を散らしてから、そんな聖を横目に見て、乱れた銀髪を手で梳いた。
「そうか、こっち≠カゃ亜人種がいねーから、そういう研究が進んでないんだな」
こっち、と言う言葉が何を指しているのか正確には判らなかったが、恐らく惑星か世界単位での距離なのだろう。亜人種――ファンタジーでよく聞く獣人や竜人、魔人などのことだろうか、そんなものの存在など、少なくとも現実の地球では聞いたことがない。異界の戦士、なんとも心の打ち震えるフレーズではある。
ルシフェルが殆ど地面と身体を平行にして飛ぶので、聖はしっかりと掴まっているのに必死だった。どんどん高くなる高度に思わず目を瞑ってしまいそうだったが、亜存在を目で追うために真横、正確には真下の街に浮かぶ亜存在を
瞬間、世界がぐるりと回転した。今度は真上に地面がある。背中にどっと冷や汗が走り、握り合った両手に思わず力が込められる。まるで天井についた足を踏み切って跳躍するように、ルシフェルはそのまま地面に向かって加速した。直後、亜存在の攻撃が虚空を撃ち抜く。
「理論的には、魔法とほぼ同じ
ルシフェルが手を
彼は、自分を亜人種だと言った。イメージとは少々違ったようだが――聖は亜人と聞いて、服を着て二足歩行する生物学的におかしい獣の姿を想像していた――確かに彼が自分と同じ人間であると言われるよりも納得がいく。これだけの真似をしているのだから、人間でなくたって、
「魔力は分子間相互干渉の
「そうですね、電荷操作によって引力や
「人間の割には物分かりがいいな、ボーナス十点だ」
ルシフェルは
「魔法については問題ねえ、さっきの神曲≠ネんて世界でも使える奴が百人いるかいないかって代物だ……しかし亜存在相手となるとそうもいかん、虚数物質であるアストラルを介して、感情を波にしてぶつければいいらしいんだけどよ」
感情を相手にぶつける。話を聞く限り、それは漠然とした概念や精神的な問題ではなく、飽くまでも物理的な話であるらしい。魔法の原理などから言って、彼らの故郷では、魂だとか精神を物理的に解析することに成功しているのだろう。義務教育などにも組み込まれているのだろうか。それならば、至極一般的な地球人である聖が聞いたところで理解できよう
――のだが、何故だか彼の言葉には不思議な
虚数物質や空間だとか魔力だとか、そう言った語句の一つ一つに覚えは無いが、その理論そのものを聖は知っている気がしたのだ。
聖の記憶に、数々の台詞がフラッシュバックする。
生命はその機能を維持するためにある種のエネルギーを消費する。脂肪の燃焼によるエネルギーではなく、あらゆる行動に際し必要とされる、生命維持のための特殊なエネルギーだ。
魂には二種類がある。生命維持のためエネルギーを生み出す電源≠ニ、身体で感じた感覚を受け取るプレイヤー■差詰め肉体とはゲームのキャラクターか。
この世に存在するあらゆる物質は、実数の質量を持っている。複雑な概念だが、虚数の質量を持つ物質と言うものがあったとしても、この実数空間の物理法則では確認できないのだろう。完全な二層構造になるわけだ。同じ世界を共有する別の空間と言ってもいいかも知れないな。
意識、と言うものは海から突き出た小島みたいなものだ。一つ一つ別々に見えるが、海の底では互いに繋がっている。海底を通って、何かしら相手に伝わることもある。不思議と行動がシンクロしたり、何故かその人が落ち込んでると判ったりな。
不思議だね、で済ませてはならない。全ては物理現象なんだ。説明できないイコール存在しないのではない、説明できるだけの要素が発見されていないだけなのだ。
――以上、俺の作り話。こんな作り話も、話として楽しむ分には役立つだろう?
「……そうだ、先輩が言ってた! 感情は意識の海に波を起こす……!」
「その通りだ」
響いた声に、はっとして下を見る。闇を払うには弱々しい月明かりに照らされ、暗く染まった道路に微かな白色が見えた。聖がその姿に奇妙な違和感を覚えたのも束の間、金属質な抜刀音を立てて一瞬閃いた白銀が、触れてもいない亜存在の腕を飛ばした。
「脳で処理された感情を受け取るのは無論アストラル体だが、実数の質量を持つ脳から虚数の質量を持つアストラルへと情報が
遙か上空にいる筈の亜存在を刻み、白髪の少年は述べ立てる。その最後の一撃は亜存在の頭部を掠め、漆黒の影は逃げるように空へと向かい、そのまま雲散霧消した。少年は日本刀に似た作りをした細身の片刃剣を鞘にしまうと、黒いコートを揺らしながら腕組みをして、上空の聖たちに目を遣った。
「その波紋を指向性に変えるには、感情を単に自分自身に内在するもので終わらせず、相手の魂を見極め、それに向けた明確な意思と殺意を持つことだ」
ルシフェルと共に地面に降り、正面からその姿を見た時、聖の想像は確信に変わる。髪は脱色でもしたのか真っ白だったが、その姿は
螢一は相変わらずいつもの調子で怖い顔をしていたが、そんな聖の姿を見て、不意に口元を緩ませた。
「当時の語句は
「ダブルアップお願いします」
「この状況に置かれていきなりボケとは順応性高すぎるぞ……」
呆れ顔の螢一を見て、聖は緊張感もなく
彼の事情は全く持って聖の知るところでは無いのだが、しかし彼の妙な大人っぽさや知識、思考能力などについてはこれで符号する。確かに少々驚きはしたが、信じられないと言うわけではなく、最終的には全てに納得がいく形だった。
その一方でルシフェルは、煌めく薄布を無意味にぐるぐる振り回しながら、亜存在が消えていった空の先を見ていた。いつの間にか雲の消えた夜空はひどく閑散としていて、星一つ見えない暗闇に小さな満月が寂しげに浮いているだけだ。
「ちっ、亜存在が逃げを打つとは珍しいな……んで何だよ、知り合いなのかよお前ら」
「こっちでの同級生だ……ったく、こんな家屋密集地帯で神曲なんぞ使いよって、学校で目撃証言聞いたときから予測はしていたが、やっぱりアンタか」
螢一は、先刻聖に向けていたのと同じ呆れたような目線をルシフェルに向けて、溜息混じりに答えた。今までとそう大して変わらない対応を見るに、別に聖たちに対してだけ演技をしていたわけではないらしい。聖の口から僅かに安堵の息が漏れた。
「で、でも何で先輩、が……先、輩が……?」
訪ねる途中で、聖は気付いた。今までは周りが暗かったためよく見えなかったのだが、今こうして自分から視線を外されたことで角度が変わり、螢一の右
「……なんですか、その角……それに髪も、色変わってますし……」
そんな遅すぎる疑問をぶつけられた螢一は、答えようとした口を一旦閉じて、どこか哀れむような瞳を聖に向ける。嫌な予感がして、聖は左手で胸のリボンをぎゅっと掴んだ。
「亜存在掃討組織、薔薇十字団所属、第一級
その冷たい物言いに、聖の喉はごくりと音を鳴らした。言葉に込められた拒絶の感情、それは自分でも驚くほど明確に聖の心臓を抉り、二人の間に大きな断層を作る。彼を信じる気持ちが揺らぐわけではないが、それが却って不安を助長していた。
人が平和を
「ククッ、もうあの冗談みたいな格好は止めたのかい?」
「こっちには亜人がいなかったからな……しかし酷い言い
「あの、先輩……?」
「俺はもう君の先輩じゃない」
振り向いた横顔に、上げかけた聖の指が凍る。ぴしゃりと扉を閉めるような、綺麗な拒絶だった。
「悲しいな、もう少し綺麗に別れられたら良かったんだが……こうして
瞳には哀れみを、声色には悲しみを乗せて、兇闇は淡々と語る。そうして告げられた言葉の指すものが
「おいコラ、自分の都合で女を捨てる気か!? これだからリア充は他人の辛さが理解できないんじゃオロローくわばらくわばら!」
「人聞きの悪いことを言うなこのアホ堕天使! 何キャラなんだよそれはッ!」
兇闇はルシフェルを
大きな溜息を一つついて、兇闇は暫くそのままじっと立っていた。そのうち、聖に背を向けたまま、彼は静かに呟き始める。
「聖、一つ教えておいてやる……俺達が今まで殺してきた亜存在と言う化物は、罪無き人間の成れの果てだ」
「え……」
一転して穏やかな彼の声に、聖は思わず声を上げた。同時に、振り向いた兇闇と目が合う。一点の邪気もない、ただ悲しげな色だけを持った瞳だった。彼は静かに
「人殺しの
それを最後に、兇闇はコートを
平和はいつか終わるものだとしても、こんな終わり方があるものか。理屈では理解していても、それを黙って受け止めたくはない。まるで自分一人だけが日常に置いて行かれるかのような、そんな優しさ≠認めたくはない。
覚悟があったのかどうかは判らない。だが、聖には深層同調と言う力があるらしい事は確かだ。先刻の例もある、役に立たない事は無いだろう。どんなに危険な道であっても、一人だけ残されるよりはマシだった。
「ま……待って下さい、先輩!」
聖は、身を乗り出して精一杯に叫んだ。
しかし、
「断る。失せろ、人間」
それが最後だった。
台詞と共に兇闇の向けたそれは、明らかな殺意。本物の殺し屋が放つそれは全身が総毛立つほどのもので、聖は思わず息を呑んだ。
先刻までは見え隠れしていた哀れみや悲しみの情など、視線のどこにも込められてはいない。彼はただ冷たく聖を睥睨していた。
ああ、そうか。
もう螢一≠ニ聖≠ニの別れは済んだのだ。
もはや聖は、亜人の殺し屋である兇闇≠ニは何の関係もない、巻き込まれただけの一般人に過ぎないのだ。
足早に去っていく兇闇を見つめて、聖は呆然と立ち尽くしていた。僅かに零れ落ちた涙が頬を濡らしていたが、上げる声も出なかった。
寂しげに浮かぶ満月に照らされて、
――その背後、黒衣を棚引かせた老人が薄い笑みを浮かべていた事に気付けるものは、そこには居ない。
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