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暁、或いは黄昏



 それはきっと、どこにでもあるような景色だった。

 暇でしょうがない午前二時前。湿気の少ない真冬の夜気は、歩みに従って全身をさらさらと流れ、指先を冷やす。吐息の温もりでは、役者不足と言ったところ。
 そんなコンビニ帰りの少女の後ろに、『死』は今日もついてきた。
 お誂え向きの黒服を纏って、草も切れやしない格好ばかりの鎌を背負って、その青年は楽しげに微笑みながら、モノクロームの世界に埋没していた。

 少女はごそごそと、白いビニール袋を漁る。取り出したのは、さっき買ったばかりのチョコレート菓子。
 包装されたままのそれを、ぶっきらぼうに差し出す。青年は驚いた様子でそれを見て、相変わらず楽しそうに首を傾げた。
 どうやら言葉を促しているようなので、面倒臭そうに少女は言う。

「食べなよ」
「いいよ、君が食べなよ」
「好意は受け取るもんだよ」
「そっか、ならありがとう」

 青年は満面の笑顔でそれを受け取り、その場で包装を破いて齧り付いた。
 それを確認すると、少女は自分も同じ物を取り出し、溜息混じりに一口。咀嚼音が頭蓋に響く。
 ややあって、一言。

「あのさ」

 これから会話を始めようとする時に使われる、ありふれた切り出し文句。
 後ろを歩いていた青年は、再び目を丸くして首を傾げる。

「毒も何も入ってないんだけど」
「入ってるわけないじゃん、コンビニ疑い過ぎだよ」

 いつもと何ら変わり映えのない笑顔を浮かべて、青年は当たり前であるかのように言う。
 しかし少女はどうにも納得がいかないようで、二度目の「あのさ」を声に出した。これまた同様に、青年もまた首を傾げる。

「貴方は、ええと、私の死なんだよね」
「うん、そう。僕は、君の死」
「いわゆる、もう死は目前に見える?」
「まあ、見えるよね」
「いわゆる、死の足音が聞こえる?」
「聞こえてたなら」

 幾度か交わした遣り取りを、ここでもう一度。その返答も、概ね同じものだった。
 何が問題なのか、さっぱり解っていないような、そんな風を装って『死』は甘やかに微笑みかける。

 少し逡巡してから、少女は再び口を開こうとする。
 瞬間。オレンジ色のサーチライトが二人の影を薙ぎ払い、無機質な悲鳴が夜気を揺らした。
 何が起きたのか、これから何が起きるのか、それを理解するより先に、車道を外れたトラックが二人の視界に突っ込んだ。
 摩擦するタイヤとアスファルトが、熱を帯びながら鳴き声を上げる。
 鉄塊は雑草を引き裂いて、コンクリートの塀を砕き、光の残滓を少女の網膜に焼き付けて、静寂と騒音の狭間に落ち込んで止まった。

 青年は相変わらずにこにこと、無邪気な笑みを浮かべて少女を見ていた。
 真横を高速のトラックが通り過ぎたため、少女の長めの黒髪がはらはらと舞う。あと数センチメートル、その差が無ければ、きっと少女はもうこの姿をしていなかっただろう。

「いや、だから今の、どう考えても死ぬところでしょ」
「死んでないじゃん」
「死んでないねえ、不思議なことに」
「当たってもいないのに死んでた方が不思議だよ」

 全くその通りなのだが、どうにも調子が狂う。少女は溜息を一つついて、ビニール袋の中からもう一つ、菓子を取り出した。
 それを口に放り込もうとした瞬間、仔犬さながらに走り寄ってきた青年がそれをひょい、と摘み上げて、一口に頬張った。

「いただきっ」
「あ、こら、一個あげたからって調子に乗るなよ」

 少女が呆れ半分にそう諌めると、青年は途端に真顔になって、腕を組んで感慨深げに頷きはじめた。
 何かと思ってそれを眺めていると、青年の口元から、つ、と赤い筋が伸びる。

「ごめん、コンビニって結構疑っていいわ」
「え、どういう意味?」
「毒入ってた」
「いやいやいやお前が食っちゃったのかよ、大丈夫?」
「大丈夫、死そのものは死なないから!」

 彼は口から血を垂れ流しながら、親指を立ててウィンクを一つ。
 最初から大丈夫でないとは思っていなかったが、少女は安堵の息をつくと、ポケットから白いハンカチを取り出して、乱暴に投げつけた。

「拭いときな、血吐いちゃってるから」
「いいよ、色残っちゃうよ、白いと」
「好意は受け取るもんだよ」
「そっか、ならありがとう」

 時刻は午前二時を回って少し。
 退屈そうに白いビニール袋を振り回しながら歩く少女と、その後をついて歩く、少女の『死』。
 さっきトラックが突っ込んでいった方から、サイレンの何重奏かが響く。それを耳の端で捉えながら、少女はぼんやりと呟いた。

「私は結局、いつ死ねるのかな」
「えー、あともうちょっとじゃない?」
「曖昧だなあ」
「曖昧じゃないことなんて無い、後は度合いの問題だよ」
「そういうもんかね」
「そういうもんさ」

 ビニール袋を振り回すのを止めて、少女はくるりと振り返る。
 不思議そうに首を傾げる青年に対して、少女は悪戯っぽく笑うと、新しい遊びを考えついた子供のような弾んだ声で、言い放つ。

「じゃあ、さ。こういうのはどう?」

 その背後には、汚れてくすんだ黒と黄色のコントラストが降りてきていた。
 駆け出す足音は、無機質に反復する警報音が掻き消していく。
 明滅するLEDの赤色が、いやに誇張されて網膜を突き刺す。

「さ、来なよ」

 彼に向けて両腕を広げた少女の姿は、けたたましいブレーキの音に押し潰されて、消えた。

「あ――」

 声の続きは、聞こえなかった。



 響くサイレンと、警報機、そして軋むブレーキの音。
 耳の奥で反響し、混ざり合う高音も、全て混ざれば結局は、目覚まし時計のベルの音。
 窓から染みこむ焼けそうな暁の中、寝ぼけ眼を擦りながら、少女はゆっくりと起き上がり、奇妙な夢の内容を思い出そうと頭を掻いた。

「――やあやあ、引き続き、よろしくね」

 そして、背中合わせに誰かが座って、そんな言葉を言った時、全てを思い出して苦笑した。
 それもきっと、どこにでもあるような景色だった。




 『意識』

 死は生なくしては死たり得ず、また生も死なくしては生たり得ない。
 生とは即ち、非常に長い時間をかけて進行する死そのものであり、死とは生の流動に於ける単なる尺度、度合いに過ぎない。

 我々の生は、産まれた瞬間から始まる。
 それは、多くの人間が直感的に認識している事実である。
 人は誰に教えられるまでもなく、己の由来を自覚しているものだ。

 多くは母の(はら)を通して、人はこの世に生を享ける。
 しかし、胎内に於いて自分は、どの時点で意識が形成されていたのか、それを理解している人間はまず居ないだろう。
 誕生とは、無から有を生成する儀式ではない。川に支流が生まれるように、細胞分裂の結果、母体から分断されることによって独立した個体が産まれるという、世界にとって当然の物理現象なのだ。
 それは連続した事象である。
 誰もの想像の外であった原初生命から、たった一度の継ぎ目を挟むことなく、我々は『生き』続けている。

 記憶。
 ――それは、脳で処理された情報の集合体である。
 感情、性格。
 ――それは、弱電気パルスによる信号の塊である。

 では、この『意識』は、一体どこから来たのだろうか。
 脳が物理的に独立している以上、記憶や性格などは、意識の由来に関係なく決定するのだろう。
 傍目から見て、活動している人間に、意識があるか否かを判断することは理論上不可能である。(精神哲学の分野では、ここで言う意識の一面は“感覚質”などと呼ばれ、それの存在しない人間を“哲学的ゾンビ”と言う)
 だが、この文章を見ている読者の中には、脳で処理された情報を受け取る『意識』を、持っている人間がいることだろうと――根拠もなしに、あるいは願望として――私は推測している。

 物質的な意味での『生と死』とは、前述した通りのもので間違いないだろう。
 そして精神的な意味での『生と死』とは、即ち、この意識の生成と消失であると私は思う。

 前者の“相変化”に比べて、後者は非常に頻繁に、日常的に行われている。
 たとえば、睡眠を行う時、意識は一時的に消えてしまう。しばらく脳内で夢を見て、再び現実に帰ってくる。
 ――記憶が物質的側面によって維持されている以上、そうして失われた意識が、明日も“同じもの”であるという保証はない。
 そう、一日ごとに違う意識が、その都度霧散しては形成され直して、身体を支配しているとしても、脳に溜め込まれている記憶は何も変わらないのだから。

 例えば、今まで十何年も生きてきたつもりになっている君は、ひょっとしたら今朝産まれたばかりで、今夜死ぬ運命なのかもしれない。
 時間軸すら繋がらない、生と死の無限回廊。
 その魂の繰り返しは、この物質的な身体にも知覚できる、近いものがある。


 それは、夢からの目覚め。 ←/→ 或いは、夢路への旅立ち。


 ――さて、こんな尤もらしい冗談はさておき、彼女は果たして“どちら”に一つ駒を進めたのだろうね?



運命(せかい)は続く、螺旋みたいに」

 『死』は、――そして『生』は――きっと、笑っていた。



/end



2011/11/2


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